老人の淋しさ
淋しさは、老人にとって共通の運命であり、最大の苦痛であろう。皮肉なことに、老いてなお、
子供が独立していなかったり、金銭の苦労があったりする人は、この淋しさという苦しみを免徐
されている。淋しさは一応老人に課された、必然的なものかも知れない。
生活の淋しさは、誰にも救えない。自分で解決しようとする時に、手助けをしてくれる人はい
るだろうか、根本は、もちろんあくまで自分で自分を救済するほかないのだろう。
他人に話し相手をしてもらい、どこかへ連れて行ってもらうことによって、それを一時的に解
決しようとする老人がいる。
どんな老人でも、目標を決めねばならない。生きる楽しみや生きている証を見つけるのは、自
分自身で発見するほかはない。
子供を二人とも失った婦人がいた。天涯孤独だった。彼女は陶器づくりに熱をいれていた。
「生きている間にどれだけいいものが焼けるかと思うと、忙しくて大変なんです」
それを聞いた友人の婦人が言った。
「あの方は子供をなくしたあと、よく陶器なんかに興味の対象をすり替えられたと思う」
子供を陶器にすり替えたのでない。生きている子供を、土のかけらに置き換えられるもので
はない。ただ、子供を育てることだけが人間の生きる道ではなく、そうではないさまざまなも
のへ雑多な気持ちもまた、人間を支えるのである。