元インドネシア代表監督、スリランカ代表監督(野中寿人- 66番の部屋)

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日大三高野球部史 三高野球の父 鎌田彦一先生

2011年10月12日 20時08分11秒 | 日大三高校野球部 小球史
日大三高野球部を語るにあたって、
まず最初にご紹介しなければならないお方が・・・

「鎌田彦一先生」です


鎌田彦一先生は、大学野球や職業野球には見事なまでに無関心で、
日大三高の野球だけを愛し、育て続けた「三高野球の父」であられます

明治19年1月21日、弘前市在府町にて出生
津軽藩士の家にお生まれになった鎌田彦一先生は、祖母から厳しいしつけを受けられ
古武士の痛覚をお持ちの方でした

そして一面では純粋で天真爛漫な性格
しかし、勝負に対する「勝つか負けるか」と言う気迫はもの凄かったお方です

偉大な鎌田彦一先生について、これ以上、自分がものを言うような資格はありません。

その鎌田彦一先生の「忘れえぬお言葉」として
大先輩である関根潤三先輩が次のようなお話をされていらっしゃいます・・・

「昭和18年頃から大東亜戦争も日一日と激しさを加え、5年生になった時には全国野球大会も中止になってしまった
最大の目的を失って呆然となっている我々に例年通り合宿練習をさせてくれたのは我が日大三中だけで
他校は敵性スポーツと言うことと用具不足で殆ど解散をしていた
その合宿練習の時の鎌田先生の訓示が今でも忘れなれないのである

{全国大会がなくなったが合宿練習はやらせる
甲子園に出場するのが野球部の1つの目的ではあるけれども、ただそれだけではない!
大目的は野球を通じて人間を造ることにある
勉強の延長として諸君はこの暑い真夏のグランドで心身を鍛えてもらいたい
そして、この合宿練習を最後として野球部は一時休部するが、これは決して解散ではない!
できるようになればただちに復活させる
いいか!解散じゃないぞ!我が日大三中野球部に解散はない。間違うな!}

野球をやるも者を国賊扱いしていたあの頃
この訓示は心から野球を愛しつづけた鎌田彦一先生の面目躍如たるものがあった」



選手諸子よ毎回の試合に無念無想
全力を傾注し玉砕的三高精神を発揮し
最後の五分間まで検討せよ
(昭和27年3月末日 鎌田彦一/甲子園にて)

そして
三高野球の父である鎌田彦一先生の野球に対する情熱と教育の一環としての野球理念を
理解され鎌田イズムとしてとらえ継承された

長年にわたって野球部長として部の運営と選手の育成にあたられたのが「桑野卓先生」です

この方も三高野球の球史の中でお忘れすることは出来ません
三高野球の母と位置つけられているお方です

明治35年、久留米市出身。



「三高野球部よ 永遠に栄光あれ」
(桑野卓)


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