9代目 萩原宏久監督
昭和43年―昭和46年
日大三高現役時代、田口周監督のセンバツ準優勝時のサードを守っていたのが萩原宏久先輩です
「田口周三高野球」を継承し、日大三高野球部史上初センバツ制覇を成し遂げた監督なのです
昭和43年に日大三高のコーチに就任され翌年の昭和44年に第9代監督に就任
勝負感を非常に大切にされた監督です
日大三高監督を退任された後は、スポーツトレーナーの修行をされ
近鉄バッファローズへ、3年後に読売ジャイアンツへ移られチーフトレーナーとして選手の身体ケアーをされました
昭和46年センバツ優勝時の主将だった岩沢健一先輩が語る萩原宏久監督
{萩原監督は相手のベンチの動き、サイン等はほとんど見抜いた上で自分にサインを出してくれたお陰でピンチを免れることが出来
優勝につながったと思う
捕手の自分としては監督の指示とおりに動いていればピンチも何とかなると言う信頼があった}
昭和47年センバツ準優勝時の2年生捕手だった小杉治先輩が語る萩原宏久監督
{あの鋭い指摘は未だに驚きである
確かにこっちが高校生であった訳だがあの落ち着きは20代後半のものとは思えない
自分的に言えば人生の恩人の一人である
その後のご活躍も「やっぱりな!」という感じである}
~全国制覇の瞬間 昭和46年4月6日 入学式の模様~
入学式で甲子園経過放送・・・
{4回を終わって「2-0」で三高がリードしています}
この日
日大三高は中学と合同の入学式を迎えていた
丁度、午後1時、甲子園の決勝戦と同時に式が始まった
式の途中では校内放送が流れ、決勝戦の途中経過がアナウンスされる奇妙な入学式となり
いつもは2時間かかる入学式も1時間で終わってしまった
各クラスでの記念写真撮影に参列する校長先生はラジオを持参で記念撮影に収まっていた””
次回は幻の・・・「日大三高 江川卓投手誕生」に触れてみます
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昭和43年―昭和46年
日大三高現役時代、田口周監督のセンバツ準優勝時のサードを守っていたのが萩原宏久先輩です
「田口周三高野球」を継承し、日大三高野球部史上初センバツ制覇を成し遂げた監督なのです
昭和43年に日大三高のコーチに就任され翌年の昭和44年に第9代監督に就任
勝負感を非常に大切にされた監督です
日大三高監督を退任された後は、スポーツトレーナーの修行をされ
近鉄バッファローズへ、3年後に読売ジャイアンツへ移られチーフトレーナーとして選手の身体ケアーをされました
昭和46年センバツ優勝時の主将だった岩沢健一先輩が語る萩原宏久監督
{萩原監督は相手のベンチの動き、サイン等はほとんど見抜いた上で自分にサインを出してくれたお陰でピンチを免れることが出来
優勝につながったと思う
捕手の自分としては監督の指示とおりに動いていればピンチも何とかなると言う信頼があった}
昭和47年センバツ準優勝時の2年生捕手だった小杉治先輩が語る萩原宏久監督
{あの鋭い指摘は未だに驚きである
確かにこっちが高校生であった訳だがあの落ち着きは20代後半のものとは思えない
自分的に言えば人生の恩人の一人である
その後のご活躍も「やっぱりな!」という感じである}
~全国制覇の瞬間 昭和46年4月6日 入学式の模様~
入学式で甲子園経過放送・・・
{4回を終わって「2-0」で三高がリードしています}
この日
日大三高は中学と合同の入学式を迎えていた
丁度、午後1時、甲子園の決勝戦と同時に式が始まった
式の途中では校内放送が流れ、決勝戦の途中経過がアナウンスされる奇妙な入学式となり
いつもは2時間かかる入学式も1時間で終わってしまった
各クラスでの記念写真撮影に参列する校長先生はラジオを持参で記念撮影に収まっていた””
次回は幻の・・・「日大三高 江川卓投手誕生」に触れてみます
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