60代 スッキリ行こう🐦

還暦過ぎた!
これからも、心の向くままケセラセラ。

連絡とれた!

2011-03-21 16:51:05 | 震災後の日々
今日、仙台空港近くに住んでる友達に連絡がとれた。

ご家族全員無事だった。
地域は、津波ですごい状態で、知人、友人で亡くなった方や、まだ見つからない方も多数。。とか。。。

・・・
無事でよかった!!
とにかく生き抜いて、また逢いましょう!!!と返信した。


「メールありがとうございました。
 とってもうれしかった。

 この状態はすぐには変わらないだろうけど
 生きてる有難さを感じました
 頑張ります」

との返信があった。


今どこにいるかも聞かなかったけど、
とにかく生き残った私達は、生き抜いて、生き抜いて
また、笑顔で笑いあえる日を迎えたい。

宮城の沿岸に住む人達の顔を思いうかべながら
その様変わりした景色をテレビで見るたびに

目をそむけたくなる気持ちに
負けてはいけないなと思う私なのでした。





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支えあい

2011-03-20 19:13:02 | 震災後の日々
今日は、ちょっと疲れが出て、一日ゴロゴロしていることにした。
代わりにインフルエンザから立ち直った旦那や、息子が買い物や、水汲みしてくれた。

こういう時には、元気な大人四人の我が家は、人手があって良い・・ということになる。
子供が小さい時は、母親も思うように動けず、大人の人手が足りなくなる。
増して、一人暮らしではとっても心細いと思う。
この住宅地では、一人暮らしの方はいないそうだけど。


家に被害のなかったこの辺では、被害のあった地域からお父さん、お母さんや親戚などが一時的に避難してきている家も多いよう。
一気に人が膨れ上がった家では、食料調達、水汲みに一層大変みたい。


こういう時には、一人では何もできない。
みんなで手分けして助け合うということが本当に大切で、
自然とみんな、そういう感じで隣近所でも、
並んだ列の前後でも、声かけあって助け合っている。


津波で家が流された娘の旦那の実家あたりでは、
残された人達の団結心が一層固くなっているようで、
自治・・の機能が働いているようだ。
人って強いねえ。。


暖かい人の心にたくさん触れ合えて、
それが人の支えになっているんだと強く感じる毎日です。

それぞれの家の中では、疲れのせいでつい心がぶつかりあったりすることもあるかもしれない。


それでも、みんな
一人では生きていけないってことが嫌でもわかったのが
この地震なのかもしれないです。




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水汲みの日々

2011-03-19 19:26:18 | 震災後の日々
今日は、午前中はポカポカ陽気でした。
なので、水汲みをがんばった!!

他にポリタンクも。
プールの水ポリタンクで何往復も。。。。


地震の日から三日目の14日に、玄関チャイムの音と共に、ピンポ~ンと電気が復旧して、とびあがって喜んだ。
闇の世界は、やっぱり怖かった。
夕方になると、速く、速くと気がせいて、
暗くなってからは、静かに過ごしていた三日間。

そして、16日夜だっけ。。。NTTの固定回線が復旧し、インターネットが復旧した。
本当に、一日、一日、良くなってきた一週間。

水道だけは月末になるそうで、
毎日生活用水として、学校のプールの水汲み。飲料水として給水に並ぶ。

電気もそうだけど、水も一日で驚くほど使っていたことに気付く。
今でも、どこかの国では、毎日水汲みして生活している人がいるだろうなあ。。。なんてこと思ったりする。

とにかく、生きていく為には、毎日水がいるのだ。

あたりまえと思っていたことが、奇跡的な事と思えてくる。
私の周りのことだけでもそうだし、
たぶん、日本中の人が今はそう思っているに違いない。



原発の放射能をみんな恐れている。
原発さえ治まってくれたら、全然状況は変わるのに。

新潟の時もそうだったけど、地震と原発の危機はいつも隣り合わせだったんだ。。
原発のことは、何度聞いてもよくわからない。
だから、最悪どうなのよ!!

と、言いたくなる。。



さっきも大きな地震があった。

ここ何日かの天気はとっても異常。
地震の後、急に雪が降ったり、冷え込んだり、ポカポカ陽気になったかと思うと、
今は強風が吹いている。。


地球は生きている・・ということを忘れていたなあ。。



ただ、今日は水汲みに疲れて、もうすぐ寝ちゃうもんね!!




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震災について

2011-03-18 08:15:57 | 震災後の日々
阪神・淡路大震災で実家を失った西宮市の議員さんのブログです。
13日と14日の記事を読むことが重要と思いました。

私は、阪神・淡路大震災の時に北大阪の豊中にいました。
その年の三月に仙台に移り住むことが決まっていて、住んでいたマンションも売却先が決まっており、
三月に明け渡すだけでした。
なので、本当の被災地の実態は知らないのです。
1月17日の阪神・淡路大震災。私のマンションは大きく揺れましたが、ライフラインは保てました。

あの日の朝、テレビに映し出された神戸の町。
涙が止まらなかったし、もうその後どうしたのかも覚えてないくらいです。

仙台に移り、16年。
親戚も友達もいなかった所だけど、いろんな知り合いはたくさんできました。
そして、またこの震災。
安否の確認をとれた人達は皆、とっても元気。がんばろうと言ってます。
まだ多くの知り合いが今、どうしているのかわからないけど、
静かに戦っているのだと思います。
静かに耐えているのです。



私の生活の不便はあの時と比べ物にならないくらいだけど、
またしても、被災地のど真ん中ではありませんでした。
不便だけど、家や家族を失った人達からは部外者になります。

今回の震災では、直後に生きてる高速道路は、プロ限定になり、一般車は走れません。
そのことは、阪神・淡路を教訓とされていることがわかります。

今回の津波の被災地は、普段からでも交通が不便でなかなか行けない所が多いです。
今でも物資が届きにくいのはそういう理由からと思います。

でも、阪神・淡路の時よりも、本当に救援の訓練がされてきた事を感じます。
阪神・淡路の時から、たくさんの地震への対応のシュミレーションが繰り返されてきたけど、
それを上回る地震が起こり、原発の危機も抱えている。
誰を責める訳にもいかない大自然の脅威です。


私のできることは、
自分の目の前のことだけで、
全ての現実をやんわりと受け止めることだけです。

いつになったら前と一緒の生活が・・・・なんてことは思うべくもない状況なのは
関東も含め、日本の今の現状なのだということなのです。

被災地のど真ん中の人達の心は、本当には私にはわからないのだと思っています。

昨日は雪が降りしきり、お店の前の行列で冷え切りました。
被災地の体育館には、お年寄りがいっぱい。

地震自体と、地震以後に亡くなる方は、半々だと聞きました。

全てを受け入れなければなりません。
私にできることは、とりあえず自分の家族の為に、今日も食料を買いに
行列に並ぶだけ。給水車に並ぶだけ。

それぞれの人の心の中には、本当には入っていけないけれど、
起こるすべての事は、静かに受け入れなければと
思うだけです。


今日は晴れています。
明日、あさっては少し暖かくなるとのこと。
暖かいということは、
人にとって、とっても大きな恩恵なのだと思い知ります。

お日様が少しでも長く出ていてくれますようにと祈ります。







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地震当日

2011-03-17 16:10:08 | 震災後の日々
昨夜、NTTの電話回線が復旧し、パソコンのインターネットが生き返りました。
水道は今月末になりそうとのことですが、
復旧の速さに驚きました。
各地から、いち早く駆けつけてくださった方々の力で
ライフラインが生き返っています。。。
不眠不休の仕事をしている方々に本当に感謝し、敬意を表します。



地震当日、私は仙台、八乙女の研修先にいました。
自宅から車で15分くらいのところです。
もうすぐ三時という時、グラグラ地震が来て、
治まりそうにないので、テーブルの下にもぐりました。
でも、地震は治まるどころかどんどん強くなります。

そのうち、電気がパッと消え、部屋全体でいろんなものが倒れる音が。
もぐっていたテーブルに、椅子の後ろにあったロッカーがどんどん迫ってきます。
すぐに「息子は・・どこ・・・」と思いました。

部活中で運動場か、帰り道の自転車か・・・
携帯で電話しようとしてもできません。
完全にロッカーとテーブルにはさまれ、「ああ、生き埋めってこのこと・・か・・」と思ったころ、
ようやく治まりました。

どうやって、その下から出たか覚えていませんが、
テーブルの上においたままのメガネケースとかをかばんに入れたりしたのを思い出します。

もう誰もそこにはいなくて、部屋と廊下のパーテーションも倒れていて、どこがどこだかわかりません。
もうもうと、埃がたつ中、誰かが階下に行くドアを開けてくれていて、急いでドアをすりぬけました。

下の駐車場に多くの人が集まっていて、安否確認をしました。
研修中の私達は、すぐに帰らせてもらえることになり、車で家を目指したのです。

途中では、マンションから、会社から多くの人が外に出てきていていたり、電線が垂れている所もあります。
とにかく、家族の安否が気になるのですが、途中誰の携帯にもつながりません。
信号はほとんど消えている中、道は橋になっているところは、全部15センチぐらいの段差ができていたり、
道がうねったりしています。

急いで、急いで帰らないと、車の渋滞で動けなくなるという頭がありました。
猛ダッシュで家にたどりつき、
家の前に息子の自転車を見た時の安堵は言葉になりません。

旦那は家の裏にいて無事。
母は老人会の集まりで、会館にいて、地震と同時に会館を飛び出し、
柱にみんなでつかまっていたとか。。。

息子は、広い道を自転車で登っていて、車もみんな脇にとめた地震の中、
自転車乗ってたと言ってました。
・・・

家自体には一見目につく被害はないものの、台所にはガラスの食器がたくさん壊れていて、
足元があぶなくなっています。とりあえずはガラスだけは念入りに片づけました。
本だの、何だの落ちてきていますが、
大きな家具自体はつっぱり棒で固定していた為か、倒れていませんでした。

その時点では水道がでていて、電気は止まってましたので、
急いで旦那に近くのスーパーに行ってもらったら、もう店は閉めていて店頭でロウソクとかボンベを配ってくれたのです

すぐに暗くなると思い、何を作ったか覚えてないのだけど簡単な夕食をカセットコンロで作り、
念の為にお風呂とポリタンクに水を貯めました。

ろうそくの明かりの中、シュラフにくるまり、ラジオを聞いていた。

・・・
その日の事は、こんな感じです。

大きな地震とは思いましたが、
こんなひどいことになっているとは、その時はまだわかっていませんでした。









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