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1945年、強制収容所に14歳の少年がいました。彼は背が高く、細い体つきでしたが、明るい笑顔をしていました。毎日、フェンスの向こう側に若い女の子がやってきました。彼女はその少年に気付いて、彼がポーランド語を話せるかどうか尋ねると、彼は話せると言いました。彼女はこの少年が空腹そうに見えたと言い、彼はそうだと言いました。彼女は自分のポケットに手を入れてリンゴを取り出し、少年に渡しました。彼は彼女に感謝し、そして彼女は彼女のもと来た道に戻りました。翌日、彼女はまたリンゴを持ってきて、彼に渡しました。毎日、彼女は彼に会うことを望んでフェンスの外側を歩き、会えると、会話と引き換えに彼に喜んでリンゴを渡しました。
ある日、少年は、ここにもう来ないようにと彼女に言いました。彼は別の強制収容所に送られるのだ、と彼女に言いました。彼は頬に涙を流しつつ、そこを去り、あの女の子にいつまた会えるのだろうかと思いました。彼がフェンスを越えて見た唯一の親切な魂が彼女でした。
彼は強制収容所から出ることができ、その後アメリカに移住しました。 1957年に、彼の友人たちは彼にブラインド・デートを企てました。彼はその女性が誰なのか見当もつきませんでした。彼は彼女を迎えに行き、夕食をしている間にポーランドと強制収容所の話を始めました。彼女は当時ポーランドにいたと言いました。彼女は、ある少年と話をするのが常で、毎日彼にりんごを与えたものだ、と言いました。彼はその少年が背が高くて細かったかどうか、そして彼がそこから去るのでもう来てはいけないと彼女に言ったかどうか尋ねました。彼女はええ、と言いました。
毎日やってきてリンゴを少年にあげたのは彼女でした。 あれから12年後、戦争は終わり、そして別の国で…彼らは再び出会ったのでした。こんな確率あるのでしょうか? 彼はその夜彼女にプロポーズをして、二度と彼女を手放さないと彼女に言いました。彼らは今日もまだ幸せに結婚しています。
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たとえどんな障害が二人の間にあっても、当人たちが本当に結びつく運命にあるなら、二つの磁石が吸い寄せられるごとく、添い遂げるだろうと、私はそう息子たちや娘たちに話してきたし、今でも思う。だから東京で生まれた私はアリゾナで生まれた夫と結婚しているのだろう。そして子供たちもそうである。ある人がある人と結ばれるのは、意味されてきていると思うのだ。「赤い糸」というのは満更絵空事ではなく、本当に結びつく運命ならば、どんな障害や障壁があっても、いつか結びつくのではないだろうか。
おまけにChristina PerriのA Thousand YearsをThe Piano Guysのピアノとチェロで。