先日、クエーカー教徒の友人と共に新聞売り場に歩いて行き、彼は新聞を買い、新聞販売人に丁寧に礼を言った。新聞売りはそれを受け止めもせず返礼もしなかった。「不機嫌な人だね」と私はコメントした。 「ああ、彼は毎晩そうですよ」と私の友人は肩をすくめて言った。 「それでは、なぜ彼にそう礼儀正しくあり続けるの?」と私は尋ねた。 「どうしてかって?」と友達は言った。 「どうして私がどう行動するかを彼に決めさせなければならないのでしょうか?」
後にこの件について考えたとき、重要な言葉は「行動」であると私は思った。私の友人は自分から人々に向かって行動するのだ。私たちのほとんどは他の人々の態度・言動に反応する。彼は私たちのほとんどに欠けている内なるバランスの感覚を持っているのだ。彼は自分が誰であるか、何をするのか、どのように振る舞うべきかを知っているのだ。相手の行動を統御ができなかったので、不作法を受けたとしても不作法で返すことを拒否したのだ。 永久に故意に快く反応しないほど不幸な人はいない。 彼の感情面での重心は、自分の中心にあるのではなく、彼の外の世界に根ざしてる。
人の体温は、自分の周りの社会的風土によって常に上下し、これらの要素に翻弄される単なる生き物に過ぎない。 私たちが自身の言動をマスターするまで、平静さ、沈着さは達成できない。
私たちが無礼であるか優雅であるか、意気軒高か、落ち込んでいるかを別の人が判断できるようになることは、自分自身の性癖の自己制御を放棄することである。 唯一の真の所有とは自分自身を持っているということである。
—シドニー・J・ハリス
シドニー・J・ハリス(1917-1986)は、シカゴ・デイリー・ニュース紙、後にシカゴ・サン・タイムス紙でジャーナリストとして活躍し、11冊の著書の作者でもあり、また週日刊行紙のコラムも担当したアメリカ合衆国のジャーナリストである。
他人の性格や考え方によって、自分が教育
されてしまうことは、
愚かなことでした。
クエーカー教徒は、平和主義者で知られていますが、簡単に考えて、相手のペースに巻き込まれて望んではいない気持ちになるのは、つまらないことだし、時間の無駄でもありますね。野のユリを見よ、というわけです。親切は自分から、という言葉、実はたいした意味のあることだと感じています。