ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

家族に光を

2018-12-16 | 人間性

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ブログを始めた当初は、500 days of summer(2009年のアメリカのラブ・コメディ・ドラマ映画)を気取って、500日に達したら、すっぱり辞めるつもりであった。その500日目は6日前にやってきて、過ぎていった。ブログを続けるか否かは、愛想をつかしての結果ではなく、本業と副業的な系図調査活動が立て込んでいる故である。続けるとしても、とても連日で行えるかどうか疑問であるが、できるなら続けたい。500日持ったのだからできるだろうという気持ちがあるし、500日もしたのだから、もうよいか、という気持ちもある。独り言で書いているので、そんな戯言も読んでくださったり、登録してくださる方々がいらして、驚くばかりで、そして感謝の念に堪えない。

 

さて、今日12月16日から22日までの一週間のクリスマスのカレンダーでは、「家族への光」がテーマである。どのようなことをするのかと言うと;

 

  • 両親や祖父母に(メールでなく)電話をする
  • 当てはまれば、家族で祈る
  • 子供たち一人一人を親と二人きり(両親と三人で)活動をする
  • 夕食時に家族一人一人に、その人(子)が愛されている理由を伝える
  • 両親の家事を家族と一緒に手伝う

などである。

 

そんな「家族に光を」の週を始めるにあたって、ある家族の話を。


これは祖母にとって、祖父のいない最初のクリスマスで、私たちは祖父が亡くなる前に彼に、私たちは祖母のために今までで一番素敵なクリスマスにすると約束したのでした。両親と三人の姉妹たちと私がノースカロライナ州のブルーリッジ山脈にある祖母の小さな家に到着したとき、祖母が私たちがテキサスから到着するのを徹夜で待っていたことが分かりました。抱擁しあった後、姉妹たちと私は家にかけこみました。家の中は祖父がいなくて少しガランとしているように見えました。このクリスマスを特別なものにするのは私たちの責任でした。


 

祖父は、クリスマスツリーが最も重要な装飾品であると常に言っていました。そこで、すぐに祖父のクローゼットに保管されていた美しい人工の木を組み立てることにしました。人工ではありますが、私が今まで見た中で最も本物に近いダグラスファー(米松)でした。


 

そのクローゼットには、見事な装飾品がたくさんしまってありました。その多くは父親の幼い頃のものでした。私たちがひとつひとつを取り出すと、祖母はそれに沿った話をしました。私の母は明るい白いライトと赤いボタンがつながったガーランドを木に巻き付けていきました。姉妹たちと私は慎重に木に飾りをつけていきました。ついに父親は木を点灯するという栄誉を与えられました。


 

私たちは飾り終えた木を賞賛するために二、三歩後ずさりました。私たちにとって、それはロックフェラーセンターのクリスマスツリーのように美しく見えました。しかし何かが欠けていました。「星はどこにあるの?」と私は尋ねました。


 

星は私の祖母の木の好きな部分でした。それは東方の賢者たちを生まれたばかりのイエスに導いたベツレヘムの星を表していたからです。


 

「あら、どこかにあるはずよ」と祖母は言いながら、箱をもう一度見直し始めました。 「おじいさんは、クリスマスツリーをしまう時には、いつも丁寧に飾りを包んで詰め込んでいたものよ。」


私たちは次から次へと箱を開けてみたのですが、あの星が見つからないので、祖母の目は涙でいっぱいになっていきました。これはそこらへんにある普通の装飾品ではなく、色の宝石と点滅する青い電球で覆われた精巧な金色の星でした。さらに、祖父はおよそ50年前の初めて祖母と迎えたクリスマスにその星を祖母にあげたのでした。祖父のいない最初のクリスマスの今、あの星もなくなったのです。「おばあちゃん、心配しないで。」と私は祖母を安心させたくて言いました。「私たちが、それを見つけるから。」


 

姉妹と私は探索隊を結成しました。
「飾りがあったクローゼットから始めましょうよ」とドナは言いました。 「たぶんその箱が落ちただけかもしれないわ。」
そういうこともあるかもしれないと、私たちは椅子に上って、祖父の丈のあるクローゼットを探し始めました。父親の卒業アルバムやら、親戚の写真、年を経たクリスマスカード類、パーティードレスやジュエリーボックスを見つけましたが、星は見つかりませんでした。
あらゆる可能性が尽きるまで、私たちはベッドの下や棚の上などあらゆるものの内外を捜しました。祖母は失望を見せまいとしていましたが、私たちにはわかりました。


 

クリスティは、「新しい星を買ってもいいんじゃないかしら」と言いました。
「画用紙で、作れると思うわ。」とカレンは口を開きました。
「いいえ」と祖母が言いました。 「今年は星はないのよ。」


こうしている間に、外は暗くなり、サンタがすぐにそこまで来ているのでした。ベッドに横たわっていると、外に降る雪片の音を聞くことができるかのように静かでした。


 

翌朝、うちのクリスマス当日の習慣で姉妹たちと私は早起きしましたー最初にサンタがクリスマスツリーの下に残していったものを見て、次にクリスマススターを見ようと空を見上げました。


 

我が家の伝統的なリンゴの入ったパンケーキの朝食の後、家族は一緒に座ってプレゼントを開きました。サンタは、私が望んでいたEasy Bake Oven(玩具の電球を使ったオーブン)と、ダナには、Chatty Cathy人形(お話人形)がありました。カレンは欲しかった人形のための乳母車を得て興奮し、クリスティは陶器のティーセットを手に入れました。父はプレゼントを渡す役目で、皆が同時にプレゼントを開けました。


 

「最後の贈り物は、おじいちゃんからおばあちゃんへ。」と、困惑げな声で父は言いました。「誰からですって?」祖母の声には驚きがありました。
「クリスマスツリーをおとうさんのクローゼットから出した時、この贈り物を見つけたんですよ」と母は説明しました。 「すでに包装されて、クリスマスツリーの下に置くようなっていたんです。てっきり、おかあさんからの贈り物のひとつだと思ったんです。」
「早く開けてみましょうよ」とカレンは興奮して言いました。祖母は、震える手でその箱を開けました。


 

薄い紙を開き、輝かしい金色の星を取り出した時、祖母の顔は輝きました。短い走り書きが添付されていました。声を少し振るわせて祖母はそれを読み始めました。


「どうかわたしを怒らないで、君。クリスマスの飾りをしまっている時、あなたの星を壊してしまい、君にそれを言うことができなかったのだ。もう新しい物に換える時期だとは思っていたけれどね。最初の星が君をとても喜ばせたように、これにも同じ効果があるといいと思っているよ。メリークリスマス。愛と共に、ブライアントより。」


 

ですから、結局のところ、祖母のクリスマスツリーには、星があったのです。星は、祖父母の互いの永遠の愛を表現してきました。そうやって祖父はクリスマスのために私たちの心の中に戻ってきて、これまで最高のクリスマスになったのでした。


 

 

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クリスマス・ベルを聴く

2018-12-15 | アメリカ事情

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黄色いベスト運動がパリでひどく暴動化し、破壊・略奪行為が報道される中、先日はクリスマス・マーケットが大勢(200万人プラス)の観光客を呼ぶドイツとの国境の街ストラスブールでのテロリスト行為で死傷者が出て、犯人は逃走中というニュースがはいった。同じ頃ブラジルの教会堂で銃乱射があり、やはり死傷者が出ている。クリスマスが来るというのに、この冬空に、なんと悲惨なことばかり起こるのだろうか。合衆国でも英国でもそして日本でも人々の政治への不信、経済活動の疑惑などを、ミディアはこぞって報道しているような気持ちになる。そんな沈鬱な気分に浸りたくはない私は、ニュースを報じるテレビやラジオやコンピューターを切り、ロングフェローのクリスマスキャロル(I Heard the Bells on Christmas Day=クリスマスの鐘を聞いた)を聴く。

 

この詩を書く2年前の1861年7月、ロングフェローの平安は、突如破られた。最愛の二番目の妻ファニーが子供の髪の房を封筒に入れて封蝋で封緘しようとしていた時、蝋を溶かすための蝋燭から衣服に引火、重篤な火傷を負い、翌日44歳で死去したのだった。その後、1863年、アメリカ南北戦争の最中に、ロングフェローの長男のチャールズ・アップルトン・ロングフェローが父の承諾なしにユニオン(連合軍)に志願したのだった。

 


ロングフェローはその事実を1863年3月14日にチャールズがすでに戦地に赴いてから出した手紙によって知らされた。 「おとうさんへのことわりなしに(戦地へ赴く)行くという誘惑に抵抗してきましたが、私はもうできません」と手紙にはあった。 「自分の国のためにできることをするのが私の最初の義務であると感じており、...」と続けてあった。チャールズは中尉として任命されたが、その年の11月には、マイン・ラン作戦中、ヴァージニア州のニューホープチャーチ戦で、重傷を負った。その後回復したが、兵士としての彼の役目は終わった。


おそらく失意と失望のうちにあったろうロングフェローは、1863年クリスマスの日にこの詩「クリスマスの鐘」を書き、これは1865年2月出版された。彼の南北戦争への思いは、作品の至る所に見られる。


私が好むのは、彼が打ち沈んだ魂に浸っているばかりではなく、きちんと主について理解している点である。人間は試されるためにこの世にやってきているのを、この世が試しの世であるのを、しっかりと承知して、最後まで忍びたいという気持ちが、現れている。(下記英語での歌詞の緑色の箇所)

 

ロングフェローの讃美歌としてのクリスマスの鐘(I heard the bells on Christmas day)

注:和訳は讃美歌日本語訳より 


 

I heard the bells on Christmas day         クリスマスのなつかしい鐘は鳴る 

Their old familiar carols play,

 And wild and sweet the words repeat

 Of peace on earth, good will to men.        地に平和,人にきあれとうたう

 

 

 

I thought how, as the day had come,        その日は来たるとすべての鳴り

 The belfries of all Christendom

 Had rolled along th’unbroken song

 Of peace on earth, good will to men.        地に平和,人にきあれとうたう

 

 

 

And in despair I bowed my head:          平和の歌はしく響けども

 “There is no peace on earth,” I said,         

 For hate is strong and mocks the song

 Of peace on earth, good will to men.”        地には望みもなくうなだれてあり

 

 

 

Then pealed the bells more loud and deep:     そのとき,さらには響きわたる

 “God is not dead, nor doth he sleep;        「神は生きたもう,地に安きあれ」と

 The wrong shall fail, the right prevail,

 With peace on earth, good will to men.”

 

 

 

Till, ringing, singing, on its way,            歌声,,夜,昼響きて

 The world revolved from night to day,

 A voice, a chime, a chant sublime,          

 Of peace on earth, good will to men!         地に平和,人に安きあれとうたう


 

 
 

そして、これはセント・ピーターズ合唱団による歌である。Enjoy!



 

 

 

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クリスマスは

2018-12-14 | アメリカ事情

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クリスマスは愛することである。喜び、分かち合い、共有すること、笑い、家族や友人との再会、華やかで輝かんばかりに装飾されたパッケージでもあるかもしれない。それでも、主にクリスマスは愛することである。私は、大きな瞳と柔らかいバラ色の頬を持つ小柄な生徒が、私にクリスマスに驚くべき贈り物をくれるまでは、それを信じていなかった。


マークは11歳の孤児で、姉の遺児を世話しなければならないことを非常に重荷と感じる、冷酷な中年の叔母と暮らしていた。彼女は自分の寛大さがなければ、露頭に迷うホームレスの浮浪児になっていたことだろう、と幼いマークに思い起こさせないことはなかった。それでも、マークは家での叱責や、冷たい扱いがあったにも関わらず、優しく親切な子供だった。


マークは、毎日授業の後に、教室を片付ける私を手伝うために、居残りするようになるまで(後に気づいたことだが、叔母の怒りを募らせるというような危険を犯してまで)特にマークに気が付いてはいなかった。私たちは、静かに整理整頓をし、あまりしゃべらず、放課後の静けさを楽しんでいた。マークが話すのは、彼の母親のことだった。マークは母親が亡くなった時、かなり小さかったが、親切で穏やかで愛情のある母親だったのを覚えていて、彼女はいつもマークと多くの時間を一緒に過ごしてくれたのだった。


クリスマスが近づくにつれて、マークは毎日放課後に残ることがなくなった。私はマークが来ることを楽しみにして、そして数日が過ぎ、ある午後、授業の後に教室から急いで去ろうとしている彼を止め、なぜ彼が放課後教室の整理整頓を手伝わなくなったのか尋ねた。私はどれだけ彼を待っていたことかと、彼に言った。彼の大きな灰色の目は明るく輝いて、「本当に僕を待っていたのですか?」と言った。


私は彼がどれだけ最高のヘルパーあったか説明した。 「僕は先生を驚かせようとしていたのです、」と彼は自信気に囁いた。 「クリスマスのため」。そして彼は照れて、教室から飛び出した。彼はそれ以後、放課後にはもう滞在しなかった。


ついにクリスマス前の学期終業日になった。その午後遅く、後ろ手に何かを隠して、マークはゆっくりと教室に入り込んだ。 「僕、先生へのプレゼントを持っているんです」と彼は照れながら、私が見上げた時に言った。 「気に入ってくれるといいんだけど。」彼は手を差し伸べ、その小さな手のひらには、小さな木の箱があった。


「なんてきれいなんでしょう、マーク、中に何かあるの?」私は箱を開けて、内部を見せて、と頼んだ。


「あ、中に何が入っているのか見えないんです。」と彼は答えた。「それに触れることができないし、味見もできないし、感触があるのではないんです。でも、おかあさんは、しょっちゅう、言っていました、それは気分をよくし、寒い夜には、温めてくれ、独りぼっちでも怖くないんです。」


私は空の箱に見つめた。 「それは何でしょう?」と穏やかに私は尋ねた。「それで私はとても気分が良くなるんですって?」 「それは愛です。」彼は柔らかく囁いた。「おかあさんは、いつも、それをどなたかに差し上げるのが一番だと言っていました。」
そして、彼は踵を返して、静かに教室を出て行った。


だから、私は居間のピアノの上に木の小片で作られた小さな箱を置き続けている。その中には愛が入っているのだ、と説明する私に友人たちが、いぶかし気に眉をあげる時、私は微笑むのである。


クリスマスは、歓喜にあふれ、素晴らしく陽気な歌、喜ばしい贈り物かもしれないが、主にクリスマスは愛のためなのである。


ー作者不詳


pixabay.com

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今年のクリスマスには

2018-12-13 | アメリカ事情

 

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25通りのいつもとは違う今年のクリスマス

 


1.去年のクリスマスには、自分たちが何を持っていないか考えていたが、今年のクリスマスには、持っているものについて考える

 

2.去年のクリスマスには、うちのドアにリースを架けていたが、今年のクリスマスには、我々のヒーローたち(戦没者)の墓石にリースを架けている

 

3.去年のクリスマスには、息子たちにおもちゃの銃や武器で遊ばせたが、今年のクリスマスには、銃はおもちゃではないと教えている

 

4.去年のクリスマスには、持ち金がいくらか数えていたが、今年のクリスマスには、我々の受けている祝福を数えている

 

5.去年のクリスマスには、飾りとして蝋燭を灯していたが、今年のクリスマスには、祝うために灯している

 

6.去年のクリスマスには、クリスマスの真の意味について、口先だけを言っていたが、今年のクリスマスには、敬意をもって話したい

 

7. 去年のクリスマスには、クリスマス休暇に飛行機で帰郷する費用を見つけるのに銀行口座の奥深くまで掘り下げていたが、今年のクリスマスは、我々の魂を深く掘り下げる勇気を見つけたい

 

8.去年のクリスマスには、迷惑な親戚が私たちを利用するのではないかと懸念していたが、今年のクリスマスは、最善の態度と気持ちで彼らに臨みたい

 

9. 去年のクリスマスには、クリスマスを祝うだけで十分だと思っていたが、今年のクリスマスには、我々は、クリスマスを厳かに祝う方法を見つけなければ、と知っている

 

10. 去年のクリスマスには、フットボールで俊足な選手が英雄だと思っていたが、今年のクリスマスには、 燃えさかる建物に人命救助のために突入する消防士が本当の英雄だと思っている



11. 去年のクリスマスには、クリスマスの商魂ゆえの狂気じみた喧噪について考えていたが、今年のクリスマスには、クリスマスの意義・意味について考えている

 

12. 去年のクリスマスには、我々はお互いの神経に触れあっていたが、今年のクリスマスには、膝を交えている

 

13. 去年のクリスマスには、商店で買う贈り物に感謝をしたが、今年のクリスマスには、神からの贈り物に感謝をしている

 

14. 去年のクリスマスには、いかにしてお金で買えるすべての物を子供たちに与えられるかと思っていたが、今年のクリスマスには、どのようにしたらお金では買えないすべての物(平和、安全など)を与えられるか考えている

 

15. 去年のクリスマスには、仕事場で受けるプレッシャーについて考えていたが、今年のクリスマスには、その仕事場を去った人々のことを考えている

 

16.  去年のクリスマスには、クリスマスキャロルを歌っていたが、今年のクリスマスには、国歌も歌っている

 

17. 去年のクリスマスには、富裕だと感じるのはどれほど良いかと思っていたが、今年のクリスマスには、生きていることがなんと素晴らしいかについて考えている

 

18. 去年のクリスマスには、天の御使いについて考えていたが、今年のクリスマスには、この地上に天使はいるのだと知っている

 

19. 去年のクリスマスには、新年にすべてが好転して欲しいと期待していたが、このクリスマスは、この新しい現実の中で我々がしなければならないすべての変化を考えている

 

20. 去年のクリスマスには、財布の力を信じていたが、今年のクリスマスには、祈りの力を信じている

 

21. 去年のクリスマスには、ゴシップを分かちあい・広め・耳にしていたが、今年のクリスマスには、福音を分かちあい・広め・耳にしている



22. 去年のクリスマスには、収入にどれだけ課税されているかに文句を言っていたが、今年のクリスマスには、自由が只ではないのを理解している

 

23. 去年のクリスマスには、高価な物に価値があるとしていたが、今年のクリスマスには、聖なる物に価値があるとしている

 

24. 去年のクリスマスには、お気に入りプロスポーツのユニフォームを着ることに心酔していたが、今年のクリスマスには、警官、消防士、そして軍隊の制服を着ている人々が素晴らしいと思っている

 

25. 去年のクリスマスには、地上に平和を、というのは、教会で日曜の朝だけ祈ることだったが、今年のクリスマスには、毎日そう祈っている

 

参照:http://christmas.spike-jamie.com

 

 

pxhere.com

 

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1914年のクリスマス停戦

2018-12-12 | 人間性

Mansell—The LIFE Picture Collection/Getty Images

 

 

 

 

ヴェトナム戦争が激しかった頃、よくニュースで、「クリスマス停戦に入った」ということを何年か耳にした。幼かった私は、クリスマスだけの停戦ではなく、いっそ全面停戦で戦争を終結にすればいいのに、と生意気に思ったものだった。次の実際に起こった話は、かなり年月が経って大人になった頃知った。

 

1914年に勃発した世界大戦は、20世紀初のヨーロッパ戦争で、当初、両軍兵士とも、勝利を祝うためにクリスマスには、帰還できるだろうという予想が、保証されていたほど楽観的だった。勿論その予測は明らかに間違っていた。

 

戦争が四年目に突入すると、戦線ではクリスマスに帰還できるかどうかより、生きて帰れるのかどうかさえ覚束なかった。その四年間に8,500,000人が死亡し、さらに数十万人が戦傷が原因で死亡した。 「すべての戦を終わらせるための戦争」は、恐ろしい人間の犠牲を払い、ヨーロッパを変えた。[ちなみに合衆国は大戦の後半、1917年にやっと重い腰を上げて参戦したのだった。これは時の大統領ウッドロー・ウィルソンがクエーカー教徒で戦争を嫌い、穏健派であったせいである。その為、合衆国軍隊の死傷者は少数ですんだ]

 

しかし、1914年のクリスマスイブに於いて、軍事史上最も珍しい出来事のひとつが西部戦線で起こった。 12月24日の夜、天候は急激に変化し、水は凍りつき、兵士の詰めている陣地の塹壕は、すぐにぬかるみとなった。ドイツ陣地では、兵士たちがろうそくを灯し始めた。英国側の兵士は敵陣の塹壕上に、柱や銃剣の先に小さな灯りがぽつぽつと見えると、指揮官に報告した。

 

これらの灯りはドイツ軍をはっきりと照らしていて、射撃を受けやすいようにしていたが、イギリス軍は射撃をせずにいた。さらに驚くべきことに、英国の将校達は、双眼鏡を通して、敵軍が枝に灯した蝋燭を飾ったクリスマスツリーを頭上に持っているのを見た。 12月24日のクリスマスィヴの夜、それを祝いたかったドイツ兵たちはその挨拶を彼らの敵にまで広げていたのだった。

 

それを目撃した瞬間に、英国兵は幾人かのドイツ軍兵士が、クリスマスキャロルを歌っているのを聞いた。すぐにドイツ軍側のすべての兵士が合唱し始めた。

 

聞いた言葉は、「Stille nacht、heilige nacht」だった。そのメロディが「Silent Night」(きよしこの夜)であるのを即時に理解した英国軍は、これが迅速に両国間の敵対行為を中和させ、攻撃を停止させたと気が付いた。一人一人英国軍兵士は、「無人地帯」と呼ばれる両陣営間の、爆撃によって更地になったちいさな地帯にそれぞれの武器を置いた。両陣営の余りに多くの兵士たちが、そうするので、上官が異議を唱えるのを妨げているかのようだった。そこに公式には宣告されていない休戦状態が生まれた。

 

フランク・リチャーズは、この非公式の停戦の目撃者だった。彼の戦時日記で、彼はこう書いている。「私たちは板切れに”メリークリスマス”と印し、それを掲げ持った。敵は同じことをした。我々の二人仲間は、装備していた武器を置き、両手を頭上に組み、ドイツ人の二人にも同じことをするよう促した。仲間の二人が彼らに会いに、頭上に手を置きながら塹壕を飛び出た。

 

「彼らは握手をし、そして我々は皆塹壕から出たのだった。ドイツ人もそうだった。」とリチャードは言った。

 

リチャードはまた、何人かのドイツ軍兵士は、完璧な英語を話し、戦争に疲れて果てていることや、戦争が終われば、どれほど喜ばしいことかと述べた。英国軍兵士たちとて、それには同意したのだった。

 

その夜、少し前まで敵同士だった兵士たちは、同じキャンプファイヤーの周りに座っていた。 彼らは、携帯していたチョコレートバー、ボタン、バッジ、小さな牛肉の小さな缶詰など、つつましい小さな贈り物を交換しあった。数時間前に敵対する相手を殺戮せんとしていた男性たちは、ここでクリスマスを祝う時間を共有し、お互いの家族のスナップ写真を見せあったのだった。このささやかな、でも終了しがたい 停戦は、相互合意によって、突如始まり、終わったのだった。 

 

英国軍ロイヤルウェルシュ師団歩兵軍団長のC.I. ストックウェルは、まさに "サイレントナイト"の後、12月26日午前8時30分に大気に3発を撃ち、塹壕の土手に足を踏み入れたことを覚えていた。 前夜ストックウェルと贈り物を交換したドイツ将校も、塹壕の土手にいた。彼らはお辞儀をし、挨拶をして、それぞれ塹壕に戻った。 数分後、ストックウェルは、ドイツ軍将校が大気中に2発銃弾を撃ち放ったのを聞いた。

 

第一次世界大戦時、クリスマス休戦・停戦は、他の地域でもあり、この兵士たちのように喜び合っていたわけではなく、戦友を失った恨みや悲しみから、祝いたい気持ちを押し殺したり、あるいは上官たちは、これをしたら、戦う意欲を兵士から奪うとして、禁じたりした。そうした人の中には、あのアドルフ・ヒットラーがいて、彼は、仲間に戦時中はすべきではない、と言った。上官の中には、もし敵にむかって両手を挙げて塹壕を出るならば、即時に撃ち殺すと告げた者もいた、と言われる。

 

この「きよしこの夜」については、1966年サイモンとガーファンクルが出した7 O'Clock News/Silent Nightと言う曲も思い出す。ユダヤ人である二人がクリスマスの歌を?と当初不思議だったが、生意気な子供だった私は、実際に聞いて納得できると思った。これは、Charlie O'Donnellと言うDJにニュースを読ませ、それにからませて二人が「きよしこの夜」を静かに歌うものである。そのニュース内容は、公民権法案が上院で難航していることや、ヴェトナム戦争の状況、時の人気コメディアンのレニー・ブルースが麻薬過剰摂取で死亡したことなど、トピックを連ねるだけで当時の暗い世相が伺われる。そのニュース内容の悲惨さと正反対の静謐な歌が一つになったこの曲は、時には人々を涙させたのを覚えている。

 

私はここで、「だから戦争は。。。」や、「人間は。。。」などを論じる気持ちはひとつもなく、むしろほんの短い間でも戦争を、世界大戦を停めたこの歌の持つ威力に感銘するとともに、クリスマスというのは、尊いことだと思うのである。いつか世界に本当の平和がやってくることを祈りつつ。

 

 

 

 

 

参照:http://time.com,Wikipedia, .history.com

 

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