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ロスチャイルド財閥-153 (1/2) RAA(特殊慰安施設協会:実態は日本の婦女子を使った売春慰安所)と新憲法成立

2022-12-29 23:31:32 | 国際政治・財閥


1945年8月15日、敗戦の悲しみに暮れる日本国民

特殊慰安施設協会(RAA) 横須賀の安浦ハウス  慰安所に並ぶ米兵の写真







GHQn将校のケーディス大佐と華族の鳥尾夫人 日本政府の楢崎渉が紹介し、二人は不倫の愛人関係。

日本政府から、戦後の昭和憲法改正に向けて、議論する中、GHQに尻尾を振り、RAAを設立したり、GHQ将校向けには華族の女性まで接待に使った。 この接待部長、楢橋渡は、大臣に昇格した。

そして第九条含む新しい憲法には、吉田茂がGHQに追従の姿勢を見せ、岸信介もGHQに尻尾を振り、満州の盟友・東条英機が絞首刑になるのを横目に、戦友・日本を裏切り、A級戦犯が開所され、巣鴨刑務所から釈放された。

岸の日米安保条約締結により、日本は安全保障を米軍に丸投げ、そして米国の軍産複合体のビジネスに貢献し、今まで数百兆円のプレゼント。 そして日本の軍需産業は倒産ラッシュが今日までの実態である。

最近、流れは少し変わってきたようであるが、台頭する中国の軍事力に心配する米国の方針が少し変わってきて、日本に軍事を強化させようとしているのかもしれない。 ロシア-ウクライナ戦争も無縁ではないでしょう。

岸田首相がNATOの会議に日本人として初めて呼ばれたり、防衛費をGDPの2%に増額すると言う動きからも感じるところがあります。







8月15日の天皇陛下の終戦の玉音放送も冷めやらぬ、わずか3日後。 腐れの日本政府はなにをしたかご存じでしょうか? なんと、自国民の婦女子を使った国営の売春組織を企画したのです。 

敗戦で多くのアメリカ兵は日本女子をレイプするだろう、よってこの国営売春組織をつくり、彼らの性欲を発散させ、日本女子を救うという目的のようです。

戦後の新しい日本の憲法をGHQと練る中、こういうプロジェクトも進んでいたのです。 もちろん、戦勝国アメリカに尻尾を振り機嫌を取るためです。

この評判の悪い国営売春慰安所こそが、世界から馬鹿にされ呆れられ、 外圧で解散に追い込まれた『RAA』( Recreation and Amusement Association)、日本語で『特殊慰安施設協会』です。


これについては、GHQの占領下、新憲法作成をはじめ、RAAなどが詳しく書かれた著書があるので紹介します。 またRAAについてはWikipediaでも一部紹介されています。 この私の投稿では、以下の本から記事を引用します。


『占領神話の崩壊』 著者:西鋭夫、岡崎匡史発行所:中央公論新社、 2021年7月25日初版発行

この本は、スタンフォード大学フーバー研究所に保管された一級の一次事実資料で、西教授や岡崎リサーチフェローが、50年経って公開された資料を翻訳してくれたもので、700頁にわたる分厚い本で、結構な値段します。 

この内容については、ダイレクト出版の有料動画講座でも紹介されているので、ご興味ある方は購入下さい。確か約2万円ほどだったと思います。

あまりにボリュームが多いので、私自身も全てを読破できているわけではないので、一部だけ紹介します。

簡単に言えば、戦時中に「鬼畜米英」と戦争を煽り国民を洗脳し、国民は経済制裁で物資・食糧不足にも耐えて、一緒にアメリカと戦っていた。 

そして東京大空襲、原爆2発他、日本国土は焦土と化すなか、婦女子を含む日本国民全員もアメリカと戦っていた。 そして迎えた8月15日の終戦。 夫・息子など戦争に駆りだされ、戦死し収入も途絶え、多くの家庭では貧困で子供を含む餓死者までも出る始末。 

まだ、国民の意識は鬼畜米英と戦っているなか、8月15日から3日後日本政府は日本の婦女子を使った慰安所RAAを計画。 女性集めのため新聞社に広告を依頼、しかしさすがの朝日・毎日新聞はじめ前身はアホかと拒否。 

どうしてもやりたい政府は新聞社に、接待・賄賂を使い新聞社を丸め込めるのに成功。そして慰安所は全国に作られ、募集には売春の文字は一言もなく、お国のための奉仕、ダンスなどのレクレーション、そして衣食住はすべて至急。 当然、飢えにに苦しむ女性は集まりますが、そこで知らされたのが日本政府が運営する慰安所での売春。 

とまどうも、収入の当てがないので、歯ブラシ1本と洗面器1つ、タオル1本が支給され、豆電球1個の中で売春させられました。その収入の半分は日本政府にとられた。政治資金が欲しい政府は一日数十人の客を取らせる過酷な労働。

つい数日前まで鬼畜米英と戦っていたアメリカ兵士。 政府は黒人兵士用、白人兵士用と慰安所を分けた。しかし毎日のようにすすり泣く声が聞こえたとし、気が狂った女性、自殺者まで出る始末。 

欧米のメディアが見逃すわけがなく、RAAに並ぶ黒人兵士と白人兵士、そして慰安婦の状況などや写真入りで全世界に報道。 皮肉にも辞めさたのは日本政府ではなく、アメリカの人権団体やキリスト教会。 

ばつが悪くなったアメリカ政府・GHQが辞めさせる決断をし、わずか反投資余りでRAAの慰安所は閉鎖。 いうまでになく日本政府はもっと恥をかいた。そしてそのRAA跡地が戦後俗にいう赤線地帯。

古今東西、敗戦の国の政治家が自国民の婦女子を使って国営の売春宿を経営したというあまりに恥ずかしく情けない例はこれだけだといいます。 

しかし、政府は貴重な外貨ドルを結構巨額に集めることが出来、これが笹川ら右翼団代、後の自民党設立の資金源になったという話もあります。これについても調べているところです。

そして一般国民の婦女子は米国の白人・黒人兵士相手に売春させられましたが、GHQの将校たち向けには英語のできる容姿端麗の華族の夫人らをあてがった日本政府。

その接待部長は異例の出世というおまけつき。 今回の投稿の後半事実ベース・実名入りで紹介しています。  どうもこのRAAを企画したのがA級戦犯だった悪党右翼の笹川良一を中心に、児玉誉士夫、岸信介らであったと別の本にあり、笹川良一はこの本にも出てきます。 

西教授はあとがきで実名こそ出していませんが、戦友・日本を裏切り釈放された連中とありますので、この3人には間違いないでしょう。






西教授のあとがき

1945年の夏から米軍の日本占領が始まった。 戦勝国の「東京報復裁判」で日本人のA級戦犯が裁かれ、7名が絞首刑になった。 日本は、刑死7名で戦争責任は決着したかのように。検証しなければならない過去を振り返らず、「戦後復興」の旗の下でわき目も振らず経済大国になってゆく。

だが、あの裁判で海軍や陸軍の上層部は占有を裏切り、日本を米国に売った。それらの戦争指導者たちは、戦争末期に声高く「一億層玉砕」と国民を駆り立てていたが、世界的規模の阿片製造と販売に深く関わっていた。 裏切りもアヘンの真実も戦後教育に一行もでてこない。 風化させれば無罪になるのか。

日本はGHQ直筆の「平和憲法」を鵜呑みにしなければ、天皇の命が危ないと脅された。 「平和」とは、自衛のためにも武器を持たないと誓った「第九条」である。吉田茂外務大臣がGHQ草案を日本国憲法にするための裏取引をした。 元帥の許可で吉田は総理大臣にしてもらった。「あの平和の真実は、美しくない。米軍基地が日本列島に永久に存在するのは、憲法の負の遺産だ。

日本人ほど学問を崇める国民は世界でもまれだ。だが、日本には「言ってはいけない」ことが多い。 明治維新の元年から「言論の自由」は、ない。 時の政府に自信がないので、批判を受け止めるだけの度量もなく、反対意見を許さない。 帝国政府の姿勢が醜い形で表見化したのは「治安維持法」だ。共産主義や社会主義に染まった国民は極めて少数だったが,容赦なく弾圧さた。 殺された。 特高警察がナチス・ドイツ秘密警察のように振舞った。

歴史を紡ぐ道のりで大切なのは、捏造された「神話」ではなく、色あせない「史実」だ。幸運にも、「フーヴァー・トレージャーズ」の山の中に貴重な第一次資料が埋まっていた。 

岡崎は、私が日本大学大学院で指導した院生の中で、圧倒的に優秀だった。 1000ページの博士論文は、読みごたえがあった。 「頭が良い」だけでは、卓越した学術書を書き上げられない。根気と体力と指先が震えるような期待と焦燥感が必要だ。 学問の世界には終わりがない。 天井もない。 
岡崎は「学問の極限を追う人」になる素質を持っていると判断したので、厳しい機会を与えるために「スタンフォード大学のフーヴァー研究所へ来るか」と誘った。私の判断に狂いはなかった。

『占領神話の崩壊』は、私の初めての共著だ。 岡崎と組んで創り上げた研究論文は、近現代史に多大な貢献をするだろう。私が岡崎から多く学んだことは、岡崎からの恩返しと受け止めている。 

そして膨大な『占領神話の崩壊』は、中央公論新社の藤平歩氏の惚れ惚れする編集眼力の恩恵を受け、読みやすい学術書になった。藤平氏に、西と岡崎は深い敬意と感謝を表したい。  2021年夏





次に、今回の投稿の主題であるRAAについて、この著書から引用した一部の文を掲載したいと思います。




宴会政策と特殊慰安施設協会

楢橋渡は、明治初期の鹿鳴館のように宴会でGHQ幹部を堕落させた。 楢橋と鳥尾夫人が出会ったのは、1946(昭和21年)2月頃である。 

この頃占領軍兵士たちの間では性病が蔓延していた。 日本人の娼婦たちが性病に冒されていたからだ。進駐軍兵士の性病があまりにひどく、慰安所への「立入禁止」(オフ・リミット)が兵士たちに通達された。 

1946年1月21日(月曜日)、GHQは「日本に於ける公娼廃止に関する件」を発して、民主主義の理念に反するとして公娼制度(公に営業を許可された売春婦)を廃止。これを受けて進駐軍専用の慰安所は1946年3月27日(水曜日)にすべて閉鎖された。 

占領軍の名誉と対面を傷つける恥ずべき行為だからだ。 慰安所の存在を知ったアメリカの女性団体や宗教団体からもGHQに抗議が寄せられていた。慰安所に群れをなした米兵の姿の写真が、アメリカのマスコミで報道されたからだ(いのうえせつこ『敗戦秘史 占領軍慰安』新評論・2008年)。 

慰安所が閉鎖されて困ったのは、性欲の余った進駐軍の兵士たちだけではない。日本政府中枢にいた楢崎渉もその一人だ。

GHQの高級将校のご機嫌をとるには、女性による接待漬けが欠かせない。彼らを性的にも血敵的にも満足させるには穢れていない、教養の高い、英語を理解できる女性が求められていた。娼婦ではなく、
貴賓のある令嬢たちが性の接待として動員されていたのだ。 

華族の女性たちも、権力・物資・経済に恵まれたGHQ高級将校に夢中になり刹那的な優越感に酔いしれる。

高級化粧品やチョコレートまで貰うことが出来た(木村文平『米軍の諜報戦略』東京ライフ社・1956年)。日本国憲法と売春を結びつけることに嫌悪をいだかれる読者もおられるだろう。しかし、「性」の問題を避けて通ることはできない。占領軍のために慰安所を設置したのは。日本政府だ。

日本政府は降伏直後3日目の8月18日(土曜日)、米兵から大和撫子(やまとなでしこ)を護るために、GHQ将校の性処理を真剣に議論していた。

発案をしたのは東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣の国務大臣・近衛文麿。 近衛は「婦女子を性に飢えた兵士たちから守ること」は、緊急の対策であると提言。 

閣議の直後、警視総監の坂信弥(さかのぶよし)1898-1991年・内務官僚・富山県知事・警視総監を経て、公職追放後は大商証券の社長)を呼んで、日本女性の純潔を守るため対策を依頼した。 坂信弥はこの時の事を次のように振り返る。

「東久邇宮さんは南京に入城されたときの日本の兵隊のしたことを覚えておられる。 もちろん、全部ではないでしょうが。 それで、アメリカにやられたら大変だろうなという頭はあっただろうと思います。

そうすると、どうしたらいいかということで、やはり慰安所が必要です。 一応さばく所をこしらえておこうじゃないかという事が、内閣の方針として決まった。 それから内務省にまわってきた」(坂信弥「慰安施設の準備」大霞会編『内務省外史 続』財団法人地方財務協会・1987年)。 内務省は進駐軍の狼藉を恐れて婦女子に対して「心得」を発する。

(一)婦女子は日本婦人としての自覚をもって外国軍人に隙を見せることがあってはならぬ。
(二)婦女子はふしだらな服装をせぬこと。また人前で胸を露にしたりすることは絶対にいけない。
(三)外国軍人がハローとかヘエとかかたことまじりの日本の語で呼びかけても婦女子は相手にならず避けること。
(四)とくに外国軍駐屯地付近に住む婦女子はやかんはもちろん昼間でも人通りの少ない場所はひとり歩きをしないこと(「控えよ婦女子の一人歩き」『読売
報知』1945年8月23日)


近衛大臣の「性対策」は、東京の警視庁が音頭を取って東京料理飲食業組合の幹部に協力を求め、キャバレー、ビアホール、そして慰安婦までをも擁する進駐軍専用の慰安施設の設置が決まった。 その名を「特殊慰安施設協会(Recreation and AmusementAssociation・RAA)」という。まさに占領軍を迎え撃つ婦女子肉弾戦である。





日本勧業銀行(現・みずほ銀行) RAAに5000万円 貸付金保証

国営売春組織ともいえるRAAに、日本政府は5000万円もの貸付金の保証をした。 政府が直接貸し付けたことは恥ずかしくて表沙汰にしたくないので、内務省から大蔵省に働きかけて、日本勧業銀行(現在の「みずほ銀行」の前身の一つ)がRAAに貸し付けることになった。

大蔵省で貸付け担当したのは、主税局長の池田勇人(1899ー1965)だ。 「貧乏人は麦を食え」という名言をも残した池田勇人は、1960年(昭和35年)に総理大臣となり、「所得倍増計画」を打ち出す(小林大治郎、村瀬明『新版 みんなは知らない国家売春命令』雄山閣・2008年)。

銀座7丁目の料理屋「幸楽」に本部を置いたRAAは、「新日本女性に告ぐ」「戦後処理の国家的緊急施設の一端として進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む」「女事務員募集」「年令18才以上25才まで」「宿舎・被服・食料など全部支給」と慰安婦の募集を開始する。

といっても、あまりに国辱的な内容なので『朝日新聞』『読売新聞』『日日新聞』(現在の毎日新聞)はRAAの広告掲載を拒否。 しかたなく、焼け跡の石垣や電柱にビラを貼り付ける。

向島の大倉別邸(事業家の大倉喜八郎(137年ー1928年)が構えた接待用の御殿で敗戦後にRAAが接収した)に新聞記者を招待し、御馳走を振る舞いRAA声明書を読み上げて、政府の命令でRAAが組織化されたことを訴えたる。

新聞記者を篭絡させたことで、A・A始末記」キング8月特大号付録『戦後十年 秘録・流転ニッポン』大日本雄弁会講談社・1955年)。





日本全国に広まるRAA

広告につられて、8月26日にはRAA本部に1500名もの行列ができ仕事を求めて押しかけた。 しかし、仕事内容を聞いて愕然ととする。 それでも食うに困った女性たちは「お金になる」という囁きに勝つことはできず、大半の者は慰安婦になる運命を受け入れる。

戦地で夫を亡くした戦争未亡人は数知れず。 インフレも襲い掛かる。「お国の為という逃げ道も用意されていた。 応募者のうち、半数以上は処女であったと言う(鏑木清『秘録 進駐軍慰安作戦』番長書房・1972年・小林・村瀬『新版 みんなは知らない国家売春命令』)。

慰安所は都内だけでも23ケ所。 東京都衛生局予防課長・与謝野光(1902ー1992年・歌人の与謝野鉄幹と与謝野晶子の長男)は、兵士の人種および階級の混乱を避けるために「将校・下士官用」「白人用」「黒人用」に地域を振り分けるようにと、GHQから指示されたと振り返る。

「将校・下士官用」には、向島・芳町・白山の芸妓街、「白人用」には公娼街の吉原・新宿・千住、「黒人用」には亀戸・小岩・玉の井の私娼街と割り振った(平井和子『日本占領とジェンダー』有志舎・2014年)。

将官専用に改装された向島の大倉別邸には、ロバート・L・アイケルバーガー中将(Robert・L .Eichelberger 1886-1961)、ウィリアム・マーカット准将(1894-1960)・GHQ経済科学局長、エリオット・R・ソープ准将(1897-1989・GHQ民間諜報局長)が入り浸る。

小説家の高見順(1907-1965・第一回芥川賞候補)が敗戦直後の銀座の街並みを書き残している。 「松坂屋の横にOasis of Ginza と書いた派手な大看板が出ている」「松坂屋の横の地下室に特殊慰安施設協会のキャバレーがあるのだ」「(註・地下)三階がキャバレーで、アメリカ兵と一緒に降りて行くと、3階への入り口に『連合軍隊ニ限ル』と貼り紙があった」

「『志那人と犬、入るべからず』と上海の公園の文字に憤慨した日本人が今や銀座の真ん中で、日本人入るべからずの貼り紙を見ねばならぬ」「日本人入るべからずのキャバレーが日本人自らの手によって作られたものであるということは、特記に値する」

「さらにその企画経営者が終戦前は『尊王攘夷』を唱えていた右翼結社であるということも特記に値する」(高見順『敗戦日記』初版1959年/中公文庫・2005年・註・松坂屋のホームページ「松坂屋ヒストリア小話その22」[戦後復興2018年8月8日配信分]によると、

[進駐軍用のダンスホールは、名古屋店では『トロカデロ(魔都)』という名名称で1945年10月に地下1階に開設され、翌年10月には7階にもオープンしています。 銀座店も『オアシス オブ ギンザ』という名称で1945年11月に辰韓地下2階に開設しました。

そして、これらはいずれも松坂屋の新たな収入源となり、厳しい情勢下業績向上に寄与しました。 このように松坂屋は機敏な変化対応によって戦後の変動期を乗り切ってきたのです]と記載されている)。


特殊慰安所は、江ノ島や箱根や熱海の保養地などにも広がり、名古屋や大阪や京都などの大都市に瞬く間に浸透する。 京都では、警察と京都府が一丸となり、慰安施設を祇園に設置する。 京都市内で芸妓250名、娼妓1100名、ダンサー400名が慰安婦として動員された(大内昭雄) 『米軍治下の京都1945年-1958年』文理閣・2017年)。

特殊慰安所は、地方都市にも及ぶ。内務省が「治治安維持のために、各府長県長に対して、占領軍向けの「性的慰安施設、飲食施設、娯楽場」を急いで開設させる指示を出したからだ。

当時、山梨県警察部長を務めていた松崎正躬(生没年不明)は、「まさか女郎屋の親父になろうとは考えてもおりませんでした」と当時を振り返る。

山梨県は富士山麓に日本陸軍の演習地があったことから、占領軍が駐屯する可能性がある。 慰安所を急いで整える必要があった。 松崎警察部長は、慰安婦となる女性を勧誘しなければならない。

遊郭で働いた経験のある女性を探し出し、「お国のためだ」「一つ辛抱してくれないか」「もし辛抱してくれるならば、こういう着物も用意しております」と泣き落としたという(松崎正躬「進駐軍受け入れのための慰安所設営」大霞会編『内務省外史 続』)。





笹川良一 大阪 「連合軍慰安所アメリカン倶楽部」

惨敗からわずか一ケ月後の1945年9月18日(火曜日)には大阪南地の花街に「連合軍慰安所アメリカン倶楽部」が開設された。右翼の大物・笹川良一(1899ー1995・国粋大衆党総裁・A級戦犯に指定)が資本金数百万円を拠出し、実弟・了(1915ー1982)を社長にして経営を舵取りさせた。(平井『日本占領とジェンダー』)。

右翼の変わり身の早さに驚かざるを得ない。 それとも米兵用に慰安所を作り、日米親善を促す事が国体護持につながるのか。

戦後、政財界の黒幕と呼ばれる児玉誉士夫(1911-1984・A級戦犯に指定)は東久邇宮内閣の内閣参与であった。 東久邇宮稔彦王は「私は児玉を渡しはよく知らないが、児玉は海軍および右翼と深い関係にあったので、その連絡のために採用した」という( 東久邇宮稔彦『一皇族の戦争日記』日本週報社・1957年)。右翼とRAAの繋がりは闇の中。





慰安所1号店 品川の「小野園

慰安所の第一号店は品川の大森海岸にある高級料亭「小野園」(当時の住所・品川区大井鈴ケ森町2480)。敗北から12日後の1945年(昭和20年)8月27日(月曜日)に開店。 「特別挺身隊と呼ばれた約30名の慰安婦が待機した。 胸が痛くなる残酷な史実だ。

翌28日(火曜日)、RAAが正式の発足。これを記念して、午前9時に皇居前広場で「君が代」を斉唱して宣誓式が挙行された。 RAAの全役員と官公署の役人が出席し、「新日本再建の発足と全日本女性の純潔を守るための礎石事業たるを自覚し、滅私奉公の決を固めた。

彼らは、各自が指を切って盃に血を集め飲み交わす。 RAAの理事長に就いた宮澤濱治郎(みやざわはまじろう)(出生不明ー1949・東京料理飲食業組合業・上野にある中華料理「五十番」の経営者)が声明書を読み上げる。

その一文には「『昭和のお吉』幾千人かの人柱の上に、狂瀾(きょうらん)を阻む防波堤を築き、民族の純血を百年の彼方に護持培養すると共に、戦後社会秩序の根本に、見えざる地下の柱たらんとす」と謳われていた(坂口勇造『R・A・A協会沿革誌日新社・1949年・鏑木清一、小沢昭一「米兵の防波堤となった女たちの二十四時」)。

8月28日は、GHQの第一陣が厚木飛行場に着いた日である。 まさに、「性の防波堤」だ。 「守るべき女性」のために、「人柱にしてもよい女性」が創られた瞬間だ。

「RAA声明書」は、何故慰安婦たちを昭和のお吉と例えたのか。 これを理解するには幕末まで遡らなくてはならない。初代駐日米国総領事のタウンゼント・ハリス1804-1878)は「日米修好友好条約」を締結した事でも知られる。

ハリスの妾にされたのが芸妓の齋藤きち(1841-1890)。ハリスはとお吉の間に肉体関係があったのかは不明だが、外国人ハリスの世話を数日間した事から「唐人お吉」と悲劇の物語として民衆に語り継がれた。(川元洋一『開港慰安婦と被差別部落』31書房・1997年。)




「昭和のお吉」

「昭和のお吉」として占領軍への「人身御供」となった「小野園」の慰安婦たちには、メリンスの長じゅばん1枚、肌着と腰巻きが2枚づつあてがわれる。

さらに、東京都から特別配給としてセルロイドの洗面器、石鹸、歯ブラシ、歯磨き粉、タオル、手ぬぐいが支給された。 十畳、二十畳と広間の多い元料理屋「小野園」の広間は大急ぎで改装が行われ、一つの部屋を屏風やカーテンで仕切り「割り部屋」にされた。

カーテンには大きな番号札がつけられ、女たちはカーテンで仕切った小部屋に布団を敷いて、その上で待機。 小野園の開店を聞きつけた米兵たちは100円札を握りしめ、行列をつくる。 ショートタイムで1回30円。RAAと慰安婦が利益を折半した。 米兵たちはお金を払うと女部屋の番号札が渡されて、部屋に案内されてゆく。(鏑木)『広く進駐軍慰安作戦』・小林・村瀬『新版 みんなは知らない国家売春命令』)。

憐れすぎて、これ以上書きたくない。 筆が進まない。 だが書かねばならない。 『R・A・A協会沿革誌』には次のような記述がある。

さて、蓋をあけてみると、気の荒い面々、砂漠にオアシスを見つけた如く、近々然(きんきんぜん)と行列をつくり彼女らに肉薄して行ったのは、けだし天下の壮観であった。

然しながら時には土足のまま部屋に乱入するものもあり、左右に開閉(かいひん)する障子、唐紙を欧米式ドアと感違いして破損する者もあり、あるいは突飛な時間に上がり込んできて女を求め、応じなければ従業員と慰安婦の見境をつけず手あたり次第にねじふせて抑え込む者あり、

それを阻止しようものなら、殴る蹴る、たたくの乱暴狼藉、片や戦勝国民、片や敗戦国民、一切の談判は一方的に遮二無二(しゃにむに)押し切られる惨めさ、為に通訳や従業員の面々怪我を負うもの日毎夜その数を知らず、真に命がけとはこれを言うのであろう(坂口『R・A・A協会沿革誌』)。



8月30日(木曜日)には横浜の慰安所「五楽荘が開設され、80名の女性が米兵を待ち受けた。 横浜に慰安婦を集めるために、業者たちは群馬県の貧しい村から女性を勧誘。

さらに、女性を迅速に集めるため、警察が電車の「優先乗車証明書」を発行した。 慰安所の布団やベッドや化粧品を調達したのも警察である。神奈川県内で布団を手に入れることができず、埼玉県にまで調達しに行った。

『神奈川県警察史』によると、何千人もの米兵が慰安所に押し寄せて大混乱となり、一週間で慰安所が一時閉鎖される事態となった(川元『開港お案婦と被差別部落』)。

韓国の『慰安婦問題』に取り組む前に、日本国内の「特別挺身隊」の真実に光を当て、無残な日本の姿を直視する時だ。

慰安婦となった女性たちは強制徴用されたのではなく、自発的に志願した者もいたろう。 性行為にともなう金銭も慰安婦に支払われていた。 当時の日本では、公娼制度は合法だ。

日本人慰安婦を生んだ張本人は、日本政府であることは疑いがない。内務省、外務省、大蔵省、運輸省、東京都、警視庁の協力がなければRAAは組織なぞされていない。

慰安所で、残忍な性暴力が起きたとしても、RAAの慰安業者や米兵個人の厄介事という逃げ道が用意されており、政府の責任を追及できない。 RAAの実態を目のあたりにした作家の高見順は次のように嘆く。


「占領軍のために非占領血の人間が自らいち早く婦女子を集めて淫売屋を集めて作ると言うような例が・・・ 。 志那ではなかった。 南方でもなかった。

懐柔策が巧みとされる志那人も、自ら志那女性を駆り立てて淫売西、占領軍の日本兵のために人肉市場を設けるようなことしなかった。 日本人だけが無しえることではないか」(高見順『敗戦日記』)。

GHQの命令で日本の恥部であるRAAは廃止されたが、その爪痕はおおきい。 RAAは最盛期に7万人ほどの淫婦を抱えており、閉鎖したときは約5万5千人いた。

彼女たちの新たな就職さきはどこか。 外娼(がいしょう)として、夜の街で米兵をお客にした「パンパン」という隠語が飛び交った。 RAAの施設があった場所は「赤線地帯」(特殊飲食街=公認売春地帯)に指定され、売春は戦後日本に根強く残った(鏑木『秘録 進駐軍慰安作戦』)。

不幸は重なる。 「混血児」が生まれ、さらなる差別を招いた。 「パンパンの子」と蔑(さげすま)まれ、純血を重んじる日本で不憫な目に遭う。

満州や朝鮮半島から命からがら逃げてくる途中で、ソ連軍兵士に強姦された女性が生んだ混血児は「ロスケ」と賤(いや)しまれた。 婦女暴行は日常茶飯事であり、新聞の記事にもならなかった。

敗戦の犠牲になるのは兵士だけではない。 女性やこどもが最大の犠牲者である(上田誠二『「混血児』の戦後史」青弓社・2018年)。

負の歴史を後世に刻むために、特殊慰安施設協会役員(設立時)の名前を全員列挙する。 1949(昭和24)年にRAAの関係者が纏(まと)めた『R・A・A協会沿革誌』(非売品)には実名と写真が堂々と掲載されている。RAAの歴史を誇れるものにしようと画策した。「公式資料集」といえるものだ。

RAAは国家の要請に従い、進駐軍のために「RecreationとAmusement」を提供し、「大使命を完全」に果たしたと自画自賛した。



特殊慰安施設協会役員

・理事長 兼 食堂部部長 宮澤濱治郎
・福理事長 兼 資材部長 野本源次郎
・同 成川 敏
・同 大竹廣吉
・専務理事 兼 総務部長 渡邊政次
・専務理事 兼 キャバレー部長 辻 穣
・専務理事 兼 慰安部長 高松八百吉
・専務取締役 兼 特別施設部長 佐藤甚吾
・常務理事 兼 企画部長 杉村銀之助
・常務理事 兼 藝能部長 瀬谷紋次
・状無理事 兼 監査部長 川本重夫
・常務理事 兼 遊戯部長 高木樂山
・ 常務理事 兼 営繕部長 市川忠吉
・常務理事 兼 経理部長 春日政男
・常務理事 兼 物産部長 安田與一
・同 鈴木初五郎
・同 山口富三郎
・同 鈴木 明
・同 三好鏻蔵
・常務理事 兼 厚生部長 秋本平十郎
・常務理事 兼 室内遊戯課長 平山三郎
・常務理事 兼 日本料理課長 山下 茂

(参照 ・坂口 「R・A・A協会沿革誌」)







内通者を大臣へ昇格(1946年2月)

RAAが解体され,華族の女性を手駒にしていた楢橋渡。 GHQの高級将校を下半身から丸め込んだ楢橋書記官長「接待部長」は大出世を遂げる。

1946年2月25日(月曜日)、幣原内閣は、楢橋渡(内閣書記官長)と石黒武重(1897-1995・法制局長官)を「無任所国務大臣」(各省大臣と同格)に任命する同意をGHQに求めた。

ホイットニー准将は、二人の大臣昇格に好意を持って賛成。 ホイットニー自らマッカーサー元帥にご報告し、大臣任命の許可を求めた。


ホイットニーからマッカサー元帥へ 1946年2月25日付

幣原内閣は、終戦連絡事務強を通じて、柿に名を現職のまま「無任所国務大臣」に任命してよろしいかと許可を求めております(註・「無任所国務大臣」は各省大臣と同等の地位。 「終戦連絡局」はGHQが占領政策を徹底させるために日本政府につくらせた)

楢橋渡 :現職(内閣書記官長)
石黒武重:現職(法制局長官)

幣原がこの2名が閣議に班列してもよろしいかと許可を求めております。 今までのように、彼らが議決権を持たず閣議に出席するだけではありません。

元帥もご存知のように、楢橋はGHQの類稀な協力者です。日本政府の中で,元帥の指令を最も順守している人物です。 石黒は楢橋の息のかかった協力者です。

楢橋が法制局長官から内閣書記官長(註・官僚のトップ)に任命された時、、その後任者として石黒が選ばれました。 幣原首相が二名を抜擢したことは、差し迫る憲法問題を打開するためです。

とても良い人物だと信じております。 終戦連絡事務局は、楢橋と石黒の履歴書を本日午後三時までに、私に届ける手はずとなっております。 彼らが現職の任務についているのですから、公職追放令に抵触することはないと存じます。

GHQ民間諜報局が二名の事前審査を行っております。 問題がなければ、本日午後の会議の際に、私に個の二名の任命を許可する権限をお許し頂ければと存じます。

コートニー・ホイットニー
米陸軍准将





出所 『占領神話のj崩壊』 著者:西鋭夫・岡崎匡史、発行:中央公論新社  
西鋭夫 : スタンフォード大学フーヴァー研究所・教授
岡崎匡史:元スタンフォード大学フーヴァー研究所・リサーチフェロー

*占領期の日本から多くの公文書が密かに米国に持ち出されていた。 スタンフォード大学・フーヴァー研究所に手付かずのまま残された数万枚に及ぶ極秘文書。これらを徹底的に調査し、新たな発見をもとに、隠蔽された歴史の真実にせまる。





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