Renaissancejapan

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ロスチャイルド財閥119 スペイン内乱 ゲルニカ

2022-11-30 01:00:05 | 国際政治・財閥


作品名:ゲルニカ
作者 :パブロ・ピカソ(スペイン)
製作年:1937年
サイズ:349.3x776.6cm
技法 :油彩 カンヴァス
所蔵 :マドリード レイナ・ソフィア美術センター



概要
  内戦状態にあったスペインで、反政府側のフランコ軍を支援するナチス・ドイツ軍が1937年4月、スペイン北部バスク地方の町ゲルニカを無差別爆撃する。この市民を巻き込んだ殺戮を知り、描かれた作品。

「スペインを苦悩と死に沈めた軍隊に対する憎悪を表現した」とピカソが語るように、この絵には、現実の戦闘場面が描かれているわけではなく、むしろ戦争によって与えられる恐怖や苦しみ、悲しみといった人間の普遍的な感情が示されている。

画面右端の炎に包まれておののく女性、その手前の地面をはうように逃げる女性、さらには殺された子どもを抱いて絶叫している左端の女性など、それぞれの姿を大胆に変形して動作や表情を強調することによって、その感情をすさまじい切迫感をもって見る者に伝える。

なお、本作は1937年のパリ万国博覧会スペイン共和国館に展示するために制作されたものだが、スペインが民主国家になるまでは返さないというピカソの信念により、1981年まで、ニューヨーク近代美術館に委託されていた。

1978年、スペイン・アメリカ合衆国の両国政府は絵画がスペインに移送されるべきであるという判断を発表し、スペインではピカソが名誉館長を務めたマドリードの国立プラド美術館、絵画の主題の対象地となったゲルニカ、ピカソの出生地のマラガ、ピカソが青年時代を過ごしたバルセロナなどが絵画の受け入れ先に手を挙げた。

1992年9月、マドリード市内に国立ソフィア王妃芸術センターが開館すると、絵画はコレクションの目玉としてプラド美術館からソフィア王妃芸術センターに移された。10年間絵画を保管してきたプラド美術館のフェリペ・ガリン館長は、「この絵画はたいへん重要な作品だが、プラド美術館の歴史的なコレクションとは必ずしも馴染まない」と語った。

ピカソはこの絵画と同じ図柄のタペストリーを3つ制作しており、ニューヨークにある国際連合本部の国際連合安全保障理事会議場前とフランスウンターリンデン美術館と日本の群馬県立近代美術館に展示されている。日本の徳島県鳴門市にある大塚国際美術館には絵画の実物大のレプリカが置かれている。




スペイン内戦時の写真(1936~1939年)



時代背景(スペイン内戦)
スペインでは、ソ連を後ろ盾にした共和国軍の左派(社会主義)とナチスドイツのコンコルド旅団やイタリアなど枢軸国と手を組んで反乱を起こしたフランコ率いる右派(保守勢力)が、スペインの主権を争って内戦が起こっていました。(日本はフランコ側を支持)

この時ピカソはパリに住んでいましたが。左派政権を支持していたため共和国政府(左派政権)から、パリ万国博覧会のスペイン館の壁画を書いてほしいと要請を受けていました。

しかし、ピカソは、漠然とした依頼に何を題材にすべきかを悩んでいました。
1937年4月26日にドイツ空軍が右派のバスク地方のゲルニカに向けて「都市無差別爆撃」を行ったことが世界史上初の都市無差別空爆と言われており、当時このニュースはヨーロッパを始めアメリカにまで届きました。

パリにいたピカソが、「ゲルニカが全滅した」と聞き、パリ万博の題材には、このゲルニカで起こった悲劇にしようと決めました。



写真はドイツ空軍によって空爆を受けたゲルニカの町


「ゲルニカ」を描いたピカソは直接その惨状を見たわけではありません。
作品の「ゲルニカ」は平和を愛する一人の画家として世界に戦争の悲惨さと愚かさを訴えたいとの思いから描いたに違いありません。

ですが、当時左派政権を支持していたピカソにとってはフランコ率いる保守勢力を非難する思いも強く込められていたのではないでしょうか。

しかし、一方で左派政権側の人民戦線軍(共産党系)も7千人もの聖職者を殺害していることを忘れてはならないでしょう。そしてピカソはそのことを知っていたのでしょうか。



(参考)

ロスチャイルド財閥-118  スペイン内乱 誰がために鐘は鳴るhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/30a1c67008bf83cc6f850607d9906481

ロスチャイルド財閥-117 狙われたスペイン ローマ法王の警告回勅https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/8d8f89b77d1f1118ca864e5ac7957ca6

ロスチャイルド財閥-116  狙われたスペイン 国王は不正選挙で追い落とされたhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/730297da08bf87887fa9aae5e6d49ada

ロスチャイルド財閥-115 狙われたスペイン スペイン史は革命テクニックの見本市https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/ce7e67a7a8ce8d39c04e1ad203d366cc

ロスチャイルド財閥ー114 スペイン革命を計画するスターリンhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/6dcaded3aeb94a1daa35c4a62a604d1d

ロスチャイルド財閥-113 国際銀行家が指名した独裁者スターリンhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/c694c5ccb30bbf3f5c1b1ce5d36631fc

 





作品評価

この作品が発表されたときの関係者の反応は一部の理解者を除き不評であったと言えます。

多くの人の予想はもっと写実的で悲惨な作品を期待していたようでした。またスペインの危機やナチスの残酷さが十分に表現されていないなどの意見もあったようです。
逆にピカソの絵は醜いばかりで観る者の心を萎えさせるという人々もいたとのこと。

そうした不評の中で、前衛芸術家や一部の美術批評家の間では「この作品は傑作であり、やがて、世界の名画と言われるようになる」との評価も受けていました。

名画であるかどうかは見る人の主観によるものですが、世界的に名高い作品であることは間違いないようです。
ピカソ自身はこの作品に関して多くを語っていません。



パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)1881- 1973

私の名はパブロ・ピカソ。世間ではへんてこな絵を描くやつだと思われている。 何しろ好奇心が強いものでいろいろな技法や構図を 試したくなるのだ。

人々が私の絵を見て笑ったり、眉を顰めたりする姿を見て楽しんでいるのさ。だから、型にはまったスタイルはあまり好きじゃないんだ。

私はスペインのアンダルシア地方の港町マラガという町で生まれた。

父は美術教師だったので幼いころからたくさんの絵を見て育ち、私自身も絵を描くことは大好きだった。自分で言うのも気恥ずかしいが子供のころから描写力には才能があったと思うよ。

周囲の勧めで王立美術アカデミーに入学したが、そこには自分の好奇心を満足させてくれるようなものは何もなかった。それよりプラド美術館でベラスケスやゴヤの作品を観ていた方がよほど勉強になった。

1900年、友人の画家カザジェマスと共にパリにでた。パリは何といっても芸術文化の中心だったからね。

楽しいことが起きそうで19歳の私はウキウキしてた、そして毎日ルーブル美術館に通ったものだ。

ところが1年後、友人のカザジェマスが失恋して自殺してしまったのだ。彼がだいぶ落ち込んでいたことは知っていたがまさか、自殺するほどとは思っていなかった。私にとっては大変なショックだった。

彼のために何も力になってあげられなかったのだからね。私も立ち治るまで時間がかかった。そのころの作品には青色ばかり使っていたよ。作風も暗いものが多かった。後世の評論家はそのころのことを「青の時代」と呼んでいた。


出所 西洋絵画美術館
https://artmuseum.jpn.org/index.html








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ロスチャイルド財閥-118  スペイン内乱 誰がために鐘は鳴る

2022-11-28 17:55:28 | 国際政治・財閥

https://www.star-ch.jp/vod/?p=1445392



『ヘミングウェイ・レビュー』は、宝塚歌劇団の舞台作品。星組公演。形式名は「ダンシング・ファンタジー」。 作・演出は草野旦。併演作品は『皇帝』。トップスター・麻路さきの宝塚退団公演である。 

ヘミングウェイ生誕100周年を記念して、宝塚歌劇団のレビュー・ショー作品1998年の舞台作品、実在の作家を題材とした作品・小説家を主人公とした作品・スペインを舞台とした作品・アフリカを舞台とした作品カリブ海を舞台とした作品・パリを舞台とした舞台作品・第一次世界大戦を題材とした作品・スペイン内戦を題材とした作品・第二次世界大戦を題材とした作品・哺乳類を題材にした作品・アーネスト・ヘミングウェイを題材とした作品。 wiki





『誰がために鐘は鳴る』 執筆中のアーネスト・ヘミングウェイ(1939年12月)


アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway、1899 - 1961)は、アメリカ合衆国出身の小説家・詩人。ヘミングウェイによって創作された独特で、シンプルな文体は、冒険的な生活や一般的なイメージとともに、20世紀の文学界と人々のライフスタイルに多大な影響を与えた。1954年にノーベル文学賞受賞。代表作は『日はまた昇る』、『武器よさらば』、『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』など。これらは、アメリカ文学の古典として考えられている。  wiki




スペイン内戦

スペイン内戦(スペインないせん、スペイン語:Guerra Civil Española、英語:Spanish Civil War)は、1936年から1939年まで第二共和政期のスペインで発生した内戦。マヌエル・アサーニャ率いる左派の共和国人民戦線政府(ロイヤリスト派)と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍(ナショナリスト派)とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦、メキシコが支援し、欧米市民文化人・知識人らも数多く義勇兵(国際旅団)として参戦、フランコをファシズム陣営のドイツ、イタリア、ポルトガルが支持・直接参戦した。


概要
スペイン内戦は、スペイン第二共和国政府に対してスペイン陸軍の将軍グループがクーデターを起こしたことにより始まったスペイン国内の抗争だった。内戦は1936年7月17日から1939年4月1日まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、フランシスコ・フランコに率いられた独裁政治を樹立した。

フランコ政権の政党ファランヘ党は自らの影響力を拡大し、フランコ政権下で完全なファシスト体制への転換を目指した。

内戦中、政府側の共和国派(レプブリカーノス)の人民戦線軍はソビエト連邦とメキシコの支援を得、コミンテルンが各国共産党を使って、西欧諸国の個人から多くの義勇兵(その大半は共産党員)を得た一方、反乱軍側である民族独立主義派(ナシオナーレス)の国民戦線軍は隣国ポルトガルの支援だけでなく、イタリアとドイツからも支援を得た。この戦争は第二次世界大戦前夜の国際関係の緊張を高めた。

この戦争では特に戦車および軍用機が、ヨーロッパの戦場で主要な役割を果たし注目された。戦場マスコミ報道の出現は空前のレベルで人々の注目を集めた(小説家のアーネスト・ヘミングウェイやジョージ・オーウェル、写真家のロバート・キャパらが関わった)。

そのため、この戦争は激しい感情的対立と政治的分裂を引き起こし、双方の側の犯した虐殺行為が知れわたり有名になった。他の内戦の場合と同様にこのスペイン内戦でも家族内、隣近所、友達同士が敵味方に別れた。

共和国派は新しい反宗教な共産主義体制を支持し、反乱軍側の民族独立主義派は特定複数民族グループと古来のカトリック・キリスト教、全体主義体制を支持し、別れて争った。戦闘員以外にも多数の市民が政治的、宗教的立場の違いのために双方から殺害され、さらに1939年に戦争が終結したとき、敗北した共和国派は勝利した民族独立派によって迫害された。

人民戦線派の反カトリック姿勢は徹底しており、内戦中、人民戦線派支配領域で殺害された聖職者は、その1割に相当する7,000人に上り、その大半は内戦当初の1936年秋に殺害された。

邦訳についてはスペイン内乱、スペイン市民戦争とも表記され、特に近年は後者が用いられることも多い。



年表

1936年
人民戦線協定の締結(1月)
人民戦線政府の成立(2月)
スペイン領モロッコでフランコ将軍の蜂起(7月)
ドイツ・イタリアがフランコの支援を開始(9月)
ロンドンで不干渉委員会の開催(9月)
フランコ、トレドを占領(9月)
元首をフランコとして新国家の樹立を宣言(10月)
フランコによるマドリード攻撃開始(10月)
人民戦線、国際旅団の創設を承認(10月)
人民戦線、政府をバルセロナへ移転(11月)

1937年
グアダラハーラの戦い(3月)
ドイツ義勇軍(コンドル軍団)によるゲルニカ爆撃(4月)
バルセロナで五月事件(5月)
フランコ、ビルバオ占領(6月)
人民戦線、政府をバルセロナへ移転(10月末)
日本政府がフランコ政権を承認 (12月)
テルエルの戦い(12月から翌年2月)

1938年
フランコ、ブルゴスで内閣樹立(1月末)
フランコが地中海岸に到達、人民戦線側は南北に分断(4月)
パロス岬沖海戦(5月)
エブロ川の戦い(英語版)(7月)
国際旅団の解散(10月)

1939年
フランコ、バルセロナ占領(1月)
イギリス政府、フランス政府がフランコ政府を承認(2月)
フランコ、日独伊防共協定に参加(3月)
フランコ、マドリード占領(3月)
フランコによる内戦終結宣言(4月)
アメリカ政府がフランコ政府を承認(5月)
第二次世界大戦勃発(9月)





関連作品
「Category:スペイン内戦を題材とした作品」も参照。

小説
『誰がために鐘は鳴る』(アーネスト・ヘミングウェイ)
『カタロニア讃歌』(ジョージ・オーウェル)
『希望』(アンドレ・マルロー)
『狼たちの月』(フリオ・リャマサーレス) - 内戦中、そして内戦後にもおよぶ、共和国軍敗残兵の若者と村人たちの姿を描く。
『サラミスの兵士たち』(ハビエル・セルカス) - 共和国側の集団銃殺から逃れたファランヘ党小説家のエピソードをきっかけに、戦った兵士たちの真実に迫る。
『さらばカタロニア戦線』(スティーヴン・ハンター) - イギリス情報部の依頼で国際旅団に潜入した元警官の青年の視点で、マルローやヘミングウェイが描かなかった共和国軍側の凄惨な内部抗争を描いている。
ドリュ・ラ・ロシェルの小説『ジル』や、ロベール・ブラジヤックの小説『七彩』の主人公は、最後にスペイン内戦にフランコの反乱軍側のファランヘ党の義勇兵として参加していく。
『太陽の門』(赤神諒)(日本経済新聞出版社、2021年5月)-日本経済新聞朝刊に連載された映画『カサブランカ』の前日譚。

映画
『誰が為に鐘は鳴る』 - ヘミングウェイの小説に基づく1943年のアメリカ映画。ゲイリー・クーパー、イングリッド・バーグマン主演。
『希望 テルエルの山々』 - 1945年公開のフランス映画。アンドレ・マルローの小説「希望」を、マルロー自身が共同監督したもの。戦費調達の意味合いもあった。
『命あるかぎり』 - 1955年の西ドイツ映画。ゲルニカ爆撃を行ったとされるドイツ義勇軍「コンドル軍団」の若者たちの青春群像を描いた。
『日曜日には鼠を殺せ』 - 1964年のアメリカ映画。エメリック・プレスバーガーの同名小説を『酒とバラの日々』のJ・P・ミラーが脚色、『尼僧物語』のフレッド・ジンネマンが製作・演出。
『戦争は終った』 - 1965年のフランス映画。アラン・レネ監督。
『ミツバチのささやき』 - 1973年のスペイン映画。ビクトル・エリセ監督。
『鏡』 - 1975年のソ連映画。アンドレイ・タルコフスキー監督。
『歌姫カルメーラ』 - 1990年のスペイン映画。カルロス・サウラ監督。
『ベル・エポック』 - 1992年のスペイン映画。
『大地と自由』 - 1995年、イギリス・スペイン・ドイツ合作映画。フランコ派だけでなく左翼勢力間の争いを描くなど、共産党にも批判的で無政府主義者陣営には同情的な視線から描かれている。
『蝶の舌』 - 1999年のスペイン映画。マヌエル・リバスの同名小説の映画化。
『パンズ・ラビリンス』 - 2006年のメキシコ・スペイン・アメリカ合作映画。
『私が愛したヘミングウェイ』 - 2012年のHBO制作のアメリカ合衆国のテレビ映画。ヘミングウェイと彼の3番目の妻となった戦時特派員マーサ・ゲルホーンとの恋愛をスペイン内戦や第二次世界大戦を背景に描いた作品。

宝塚歌劇
『誰がために鐘は鳴る』 - 鳳蘭・遥くらら主演。
『NEVER SAY GOODBYE -ある愛の軌跡-』 - 2006年宙組公演。和央ようか・花總まり主演。

ゲーム
『Hearts of Iron IV』 - 1936年にイベントとして「国粋スペイン(反乱軍)」vs「共和スペイン(人民戦線)」の「スペイン内戦」が登場する。

wiki







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ロスチャイルド財閥-117 狙われたスペイン ローマ法王の警告回勅

2022-11-28 02:02:44 | 国際政治・財閥

ローマ教皇 ピウス11世 (Pius XI、1857- 1939)
カトリック教会の司祭。本名はアキッレ・ラッティ(Achille Ratti)。二つの世界大戦のはざまの時期(戦間期)にあって、19世紀以来、途絶えていた諸国と教会の関係正常化をはかった。ピオ11世とも表記される。

ナチス台頭以前のドイツではカトリック系のドイツ中央党が政治に大きな影響を与えており、ドイツ・カトリックの関係者が国政に参加することも珍しくなかった。そのため、ナチスとカトリックは対立関係にあり、ドイツの司教はナチス関係者の洗礼を拒否することもあった。

しかしナチス台頭後、ドイツ中央党党首フランツ・フォン・パーペンがナチスに接近、1933年にナチスが政権を握った時、パーペンは副首相に就任し、ピウス11世は正式にナチス政権を認めた。そして、ドイツ中央党はいわゆる全権委任法に賛成し、ナチスとカトリックの協力関係が築かれた。1933年7月にはドイツとバチカンでライヒスコンコルダートが結ばれ、ナチス政権はカトリックの保護を約束し、教会は聖職者の政治活動を禁じた。カトリック教会がナチスを容認した理由は、反共産主義で一致していたこと、ドイツ領内のカトリック教徒の保護とバチカンの保護などが挙げられる。

しかしナチスは政教条約を無視し、カトリック教会による青年運動などを禁止し、カトリック教会との対決姿勢を鮮明にした。これに対して教皇は、1937年の回勅『ミット・ブレネンダー・ゾルゲ』(『とてつもない懸念とともに』)で、ナチスが人種・民族・国家を神格化していると非難し、その非人道的行動を非難した。また、社会主義に対しても批判的な態度をとり、1937年の回勅『ディヴィニ・レデンプトーリス』(『聖なるあがない主』)では共産主義を容認できないものとして弾劾している。 wiki






ローマ法王の警告回勅

1031年、スペイン共和政府を作った社会主義者の多くの信念も真摯でした。 彼らは「赤い」共産主義も「黒い」ナチズムの加担も望んでいませんでした。 しかし、彼らはあまりに無力で、共産主義者およびアナーキストによってその革命プログラムの第二部が実行されるのを防ぎきれませんでした。革命指導者が採用した策略は、あらゆる機会に社会主義者を裏切ることでした。

政府内部の赤い分子は政府に幾つかの愚かしい過ちを犯させました。 一方で政府外の赤い分子は、政府を無能で役立たずの腐敗集団として非難。 共産主義者およびアナーキストはプロレタリアによる独裁支配だけが政府を確立できると主張し、モスクワの代理人たちはありとあらゆる罪を重ねて、国家治安の責任者の評判を失墜させました。

デ・リヴェラ将軍は、その独裁支配の期間、ラルゴ・カバリェーロを大いに利用して労使間の意見の相違を取り除きましたが、共和政府が成立すると、ラルゴ・カバリェーロはその本性を現しました。 1935年、彼は「スペイン国内に何万人もの共産主義細胞をばらまいた」と豪語しました。 第三インターナショナル第11回総会(プレナム)でスペイン代表団は祝福されました。 「スペインでは速いペースで革命のための必須条件がつくりだされつつある」というのがその理由でした。

第12回総会になると、スペイン代表団への祝福の言葉は次のように変わりました。
「皆が承知しているように、スペインではとくに、スペインのプロレタリアートにとっては、初めてと言えるほど長い歳月に渡って、革命のためのストライキ闘争が繰り広げられている。 このような闘争のなかで生じていることこそ、スペインの革命のさらなる一歩に他ならない」。

古いことわざに「謀りごとは蜜なるを尊ぶ」というのがあります。 これはスペインで生じたことをまさに物語ります。 スペインにおけるモスクワ系地下組織の指導者といえば、ホアキーン・モーリン、ヴィクター・セルゲス、アンドレ・ニーンの名が挙がります。 いずれもスペインでの指導者としての役割を任じられる以前に、モスクワのレーニン研究所で革命運動の専門訓練を受けた若手の活動家です。

モーリンは、16歳のときからカタロニアの分離主義者の運動に関わっていました。 早熟のこの知的思想家は17歳で、世界経済問題に対するソヴィエト式解決策についてスペインの人々に説き始め、21歳のときにはアナーキストの長に選出されて憎しみと暴力の、その持論を実践していました(1914年には20年の服役刑を宣告されていますが、このときには、まだそのような処罰の対象年齢に達していませんでした)。

また、1921年にで開かれた第三インターナショナル第3回大会には代議員として出席しています。 彼は好意的な関心を集めていました。 プリモ・デ・ヴィラが辞任すると、モーリンはスペインに戻りました。 フランスやモスクワに身を潜めていたのです。 彼の人生は波乱に満ちていました。 刑務所を出たり入ったりし、脱獄もやってのけました。 1925年には負傷もしています。 モンジュイックの砦に監禁されたこともあり、一説によれば、彼が生涯で穏やかな時間を過ごしたのは、若い妻とパリで過ごした1927年から30年にかけての3年間だけだったとされています。

1936年、モーリンは本を書きあげました。 ヴィクター・セルゲスが序文寄せました。 その著書『二番目の革命へ(Hacia la Segunda Revolution)』のなかで、彼はスターリンがマルクス主義のイデオロギーから離れたことを暴露したばかりか、共産主義勢力を利用して自ら抱く帝国主義的全体主義にもとづく秘密の野望を実現しようとしているとして、スターリンを非難しました。

モーリン、セルゲズ、ニーンが1936年に公然とスターリンと決別してからも、労働階層のなかでの3人の影響力が極めて大きかった為、スターリンは彼らが自分の目的のためにその役割を果たすまでは、生かしておくよう命じました。 そしてスペイン内戦の直前まで利用したのち、3人の抹殺命令を下しました。それも「3人の死は、彼らが共産主義の大義に殉じたかのように大衆の目に映るよう引き起こさなければならない」と言い添えて。 モーリンはフランコの勢力に売り渡され、裁判の後、処刑されました。 セルゲスは戦闘中に共和制支持者によって射殺されたと報告されています。ニーンも同じように抹殺されました。3人の死は共産主義の敵による暴力行為によって生じたと声高に論じられました。



ヴィクター・セルゲスは、
「ソヴィエト共産主義の進化は1936年に、革命的インターナショナリズムから、諸国で配下の党を手足の様に使う大軍事国家のナショナリズムとなって完成された。 1936年7月以後、スターリン主義者は第三インターナショナルと連携する統一社会党を組織した。スターリン主義の狙いはフランスを包囲するためにファシスト的性格の新たな列強、すなわち準備されているその戦争におけるロシアの同盟国をつくることである」と記しています。


モーリンは、
「英国の伝統的政策は敵を破壊し、保護者のふりをして征服された人々の復興を不可能にすることである。 スペインは先ず英国の、次にはフランスの食い物とされていて、それを嫌がれば、英国もフランスも激しくスペインを攻撃する。 また英国に傾けば、フランスからの圧力が増大する。 フランスも英国も資本主義国家である以上、どちらもスペインにとって自然に同盟国となる筈がない。 必然の境界線となるのはポルトガル、ドイツ、イタリア、そしてロシアを貫く曲線である。 そしてこの自然ブロックがフランスおよび英国を無力化する」と述べています。


さらに、セルゲスは共和制支持者のプロパガンダが世界的な新聞に実に多く取り上げられているのに対して、フランコのプロパガンダについての報道はほとんどなされない理由も説明しています。

「敵を攻撃するために、遠距離から真相など頓着せずに絶え間なく流されるプロパガンダのなかで、スターリン及びその手先でる第三インターナショナルによるプロパガンダほど低俗で士気を挫くための方策はかつてなかった。 皮肉を込め、執拗に繰り返すその手法はほとんど機械的でさえある。

ソヴィエトの官僚たちはこのやり方を世界的規模で展開しようとしている。 ヴァレンティアの『イズヴェスチア(Isvestia)』紙の特派員によって発表された悪評はすぐさま一斉にパリ、ストックホルム、オスロ、ブリュッセル、ロンドン、ニューヨーク、メルボルン、ブエノスアイレスといった都市の機関誌に取り上げられ、嘘で固められた悪評が何百万部も発行される。 しかも、何百万ものロシア労働者にとっては、それが唯一の情報なのだ。 そして英国、アメリカ、中国、ニュージーランドの新聞はこの嘘を子の順で転載する。

知識人も、そうした新聞は反ファシスト的だと思ってウから、記事を信じてしまうことになる。 このように士気を挫くための許しがたい企てが世界的に機能してることは誰の目にも明らかであり、トロッキーの言葉『スターリン主義者のコミンテルンのプロパガンダは労働の梅毒である』が過酷なほどに正鵠を射た発言だと思わないでいられない」





1936年にモーリンとセルゲスが記したことは、ローマ教皇ピウス11世が1937年3月に発布された回勅『ディヴィニ・レデンプリトス(Divini Redemptroris)』を裏付けるものでした。 有名な勅書の第1章には以下のように記されています。 「その上、許遺産主義の思想が敏速に広まったのは、真に前代未聞の悪魔的な宣伝のおかげである。

この宣伝は、ただひとうつの中心によって統轄され、種々の民族の条件にきわめて巧みに適合させられているし、潤沢な資金、巨額な組織、国際大会、良く統制された無数の勢力を利用している。 その上、この宣伝は、小冊子、雑誌、映画、演劇。およびラジオと通じて、小学校から大学に至るまでおこなわれ、徐々に、あらゆる環境、最良の環境にまで侵入しているので、その害毒は、ほとんど知らず知らずのうちに、絶えずますます、人々の精神と心の中に浸み込んでいくのである。 第三の要因は全世界の出版物の大部分が、謀略的に沈黙を守っていることである。

余は、謀略という言葉を用いる。 何故なら、日常生活のささいな出来事を報道して飽くことが無い出版物が、ロシア、メキシコ、スペインの大部分に起こった恐るべき出来事について長い間、沈黙を守り、モスクワの指導下にある共産主義という広汎な世界的組織について、比較的わずか氏k報道しないと言う事は、謀略によるというほかならないからである。

この謀略は、ある程度、短見な政策に鼓吹されたものであるが、永年前からキリスト教的社会秩序を破壊しようと努めている種々の秘密結社に援助されているのである。

この悲しむべき結果は、我々の眼前に展開されている共産主義は、キリスト教とキリスト教文明の根底までも破壊し、人々の心、とくに、青少年の心から、そのすべての記憶を消し去ろうと努力した。これは、共産主義が公然と声明したところである。 スペインにおけるように、できることなら、キリスト教のすべての教会、すべての修道院、そのすべての形跡をも、破壊しようとしたのである。

凶暴な共産主義者は、司教たちをはじの司祭、修道者、修道女、しかも他の人よりも熱心に労働者と貧者のために尽くしていた者を殺したばかりでなく、さらに多数の信徒を、あらゆる階級に渡って殺戮した。 現代では可能と思えないほどの増悪、残虐、蛮行によって遂行されたのである。 スペインにおけるこれらの事件が、明日は他の文明諸国において、繰りかえされるかも知れないと思うとき、健全な判断を持っている人、その責任を自覚している要人のうち、恐怖におののかない者はいないに違いない。

人間には、個人の場合でも、社会を営んで生活をしている場合でも、拘束が必要である。 しかしながら、人間の心から神の観念が消える時は、奔放な情欲は、これを駆って、最も野蛮な残虐行為に走らせるのである」。[『デヴィニ・レデンプトリス』]



次の投稿は、いよいよスペイン内戦です。







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ロスチャイルド財閥-116  狙われたスペイン 国王は不正選挙で追い落とされた

2022-11-27 07:04:48 | 国際政治・財閥

フランシスコ・フランコ・バアモンデ(Francisco Franco Bahamonde、1892 - 1975)
スペインの軍人、政治家。長期独裁を敷いたことで知られる。 フランコ将軍として有名




国王は不正選挙で追い落とされた

プリモ・デ・リヴェラ(スペインの軍人・貴族、1923年より1930年までスペインを独裁的に統治)の独裁体制の第一の成果は、モロッコ戦争を首尾よく終らせたことでした。 フランシスコ・フランコ将軍は、この戦争の最終段階に登場し、完敗と思われた戦争を輝かしい勝利に一変させました。 正義に慈悲を加味することで、フランコ将軍は多くのモロッコ原住民の賞賛と忠誠心を得て、スペインの一般大衆の注目を集めました。

デ・リヴェラは人としてすべきでないことを片っ端から行ったとして、非難されますが、法と秩序を回復したこと、いくつかの社会改革を実行したこと、労働条件を改善するためにラルゴ・カバリエーロと協力したことを記録するのは全く公平な事です。 デ・リヴェラは懸命に努力しました。 それゆえ、1929年には健康を害しました。 1930年に彼が犯した判断ミスは、そのせいとしか思えません。

疲労困憊の状態で、政府の長という重責からそそくさと自らを解放するかの如く、デ・リヴェラは2人の社会主義指導者、ベスティロ、サボリトに選挙制度の再編を要請しました。 君主制を望むのか、共和政体の政府を望むのか、国民の総意を問おうとしたのです。 それにしても何故、リヴェラがこの任務をベスティロとサボリトに与えたのかは、おそらく永遠に謎でしょう。 2人の社会主義者は巧みに選挙制度を解体して共和政体の政府が実現するように図りました。

マドリードだけでも4万人の有権者をでっちあげました。 類似の不正が人口の集中する選挙区のすべてで生じました。 スペインの君主制を終わらせるために大東社ロッジ(フリーメーソンの教会)は特別に軍事同胞組合(ミリタリー・ブラザリー・ユニオン)を組織しました。 これによって、23人のスペイン人将軍のうち21人から共和制を主張する人々の大義を支持する約束が取り付けられました。 スペインの国家防衛評議会議長であるモラ将軍はその著書『嵐、静けさ、陰謀そして危険(Tempestad Calma Intriga Y Crisis)』のなかで、このような将軍たちが大東社に参入していたこと、そして共和政体の実現に失敗した際に備えて、海外逃亡のための資金50万ペセタが彼らに貸し付けられていたことを明らかにしています。

フランコは軍事同胞組合に参加する事を拒んだ2人の将軍のうちの1人でした。 モラ将軍の言葉を裏付けるかのように、スペイン議会(コルテス)でカノ・ロペス
議員は以下のように述べています。 「1925年以後、フリーメーソンはその中心である軍事同胞組合のもとに、大部分の高い地位の軍部幹部の大部分を集めていた。 そこにはカバネリャス、サンフルホ、ゴデド、モラ、ロペス、オチョア、ケイボ・デ・リャーノらが含まれていた。 23人の師団将軍のうち21人がフリーメーソンであり、大東社に誓いを立ていた。 」(すなわち大33位階の評議会の長に無限の尊奉の誓い、彼こそ思考の存在であると認める誓いである)。

更にロペスは続けます。「1929年にはデ・リヴェラの独裁支配を破棄するために、1931年には君主制を廃止するために、いずれのときも大東社は命令を下し、将軍たちはこれに従った」。 モラ将軍は、彼自身そしてその他の将軍たちが、スペインをもう一つの共産主義独裁支配国家にしようとするスターリンの秘密計画の実現のために利用されているにすぎないことを確信して、大東社の誓いを破棄した経緯を語っています。

国際銀行家は、自らの姿を現わさないまま、スペインの革命活経済援助を行いました。 1932年2月、『ル・ジュナル(Le Journal)』紙はスターリンがスペインの活動家養成学校に20万ドルを支援する事を約束したと報じました。 また、1931年の第三インターナショナル会議に提出された金融報告書によれば、24万ポンドの英国の金(money)がスペインの革命家支援のために受理されたことも明らかになっています。 こうした支援に加えて、さらに250万ペセタが武器、軍需品の購入費用として利用きるよう手配されました。


モラ将軍によれば、1938年までに、モスクワのレーニン研究所で訓練を受けた200人以上の革命指導者がスペインに到着していたとされています。 1930年から選挙の日まで、ランファミーの運動が、ルイ16世およびマリー・アントワネットにたいしておこなわれたように、スペイン国王およびその一族に対して続けられました。 アストウアリアス王子が生き永らえるために、若い兵士が毎日一人ずつ殺害されているいう途方もない大嘘がながされました。 王子は血友病に苦しんでいたからであります。 また国王についてもロシア皇后がラスプーチンの愛人だと誹謗されたのと同じように、ふしだらで身持ちが悪いと言う中傷が広まりました。

都市部の不正票は、農村部で根強い君主制支持票を抑え込みました。 選挙結果を受けて、共和政体の政府が支持されるおとが宣伝され、アルフォンス13世は最後の公的声明を以下のように発表しました。

「日曜日に行われた選挙の結果、私にはもはや臣民の愛情、愛着を得られない事が分かった。 私は常に全身全霊を傾けてスペインそして臣民のために尽くしてきたから、私の良心の告げるとおろによれば、この状況が永続的なものだとわ思われない。 国王も知っパはする。 きった私もそうだったのだろう。しかし、この国は他人の悪意無き失敗には常に寛大であった。 私はスペイン国民すべての王であると同時に、一人のスペイン国民である。 『国王の大権』を侵害する人々に対して、実質的な抵抗を示してその権利を維持しようと思えば、私にもいろいろな方策が見いだせる。

しかし、衝突を起こして国民を互いに対立させる内戦や身内を殺害する戦いに巻き込むよりは、きっぱりと退くほうをえらびたいと思う。 私は自らの権利のどれ一つとして放棄はしない。それらは私のものというより国家を守る者としての立場が積み上げられてきた歴史的遺産であるからである。 この立場については、いつか私自身が厳密な説明をしなければならないと思う。

集団の良心が偽りなく完全に示されるのを私は待つ。 そして国家がその意思を明らかにするまで、あえて『国王の大権』の行使を中止し、スペインが自らその運命を 支配する事を信じつつ、この国を去る。 私はまた、自分自身が国家への愛情によって命じられる役割を果たしていると信じる。 私以外のスペイン国民も私同様、真摯にそれぞれの役割を受け止め、果されんことを神に祈ります 」。



次の投稿は、『ローマ法王の警告回勅』です。







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ロスチャイルド財閥-115 狙われたスペイン スペイン史は革命テクニックの見本市

2022-11-27 01:02:50 | 国際政治・財閥

最強の第176代ローマ教皇・インノケンティウス3世(Innocentius III、1161 - 1216)



スペイン史は革命テクニックの見本市

スペインを究極支配するための長期計画は、他の国家においてと同様、キリストの死後すぐに開始されました。 

スペインのキリスト教会の権威を砕くために、金貸し業者たちはその代理人に,信徒のなかに入り込んでキリスト教徒のふりをするよう命じました。 

ユダヤ・ロスチャイルドとプロテスタント・モルガンの関係とよく似ています。ユダヤ人差別でアメリカにビジネス参入できなかったロスチャイルドは、モルガンを代理人としてアメリカでビジネスを行いました。 代理人を使うのが彼らの上東手段です。

この指示に従って、代理人は教会組織に地位を得て、内部からの破壊を試みました。 この企画が暴露されると、ローマ教皇インノケンティウス3世は宗教裁判所を設置しました。この裁判所が意図するところはキリスト教徒を装っていると見られる異教徒を見つけ出して審問することでした。 

それまでスペインは例外的にユダヤ人に対して寛容策を採り、ユダヤ人が公職に就いて税の徴収人となることを認めていました。しかし、ヨーロッパの他の国家で生じたように、キリスト教を信じない金貸し業者およびその代理人の犯罪によって、スペインでもユダヤ人全体が非難されるようになりました。

イザベラ女王とフェルナンド国王の治世下、1475年から1504年にかけて宗教裁判所が大々的に活用され、教会と国家の権威の破壊をはかる裏切者が糾弾されました。 

そして破壊分子の地下組織がいよいよ拡大し、有効に機能していることがトルケマーダ(初代宗教裁判所長)指揮下の審問官によって看破されると、スペインも他のヨーロッパ諸国の例に倣って、すべてのユダヤ人を追放処分としました。 

しかし歴史がおしえるところによれば、経済的に反映していた国家がユダヤ人を追放した途端に坂道を転げるように衰退しています。 恐るべしユダヤのビジネス・ネットワークです。

このことに乗じて一部の過激派は暴徒と化して、ユダヤ人に暴力をふるい、悲しむべき大虐殺が数ケ所で生じました。 こうした違法の殺人行為に対しては、もちろんローマの教会当局も公然と非難しています。



17世紀に国際銀行家が再組織化されると、その代理人はスペインの財務省に潜入しています。英国の革命およびフランス革命の時期、彼らはことのほか活発に活動し、スペイン経済を破壊して、この地での革命活動の素地をつくろうとしました。 

1839年から1839年の間にスペインで続けられた政治的陰謀を研究するのは無駄ではありません。 というのも、それによって全ての国家の究極支配を実現するために利用される革命テクニックの定型が明確に見えてくるからであります。

すべての革命活動は、3段階から成り立っています。
(第一段階)
革命集団の代理人を、政府、行政機関、軍隊、労働組合に送り込み、反乱の命令が下されたとき、政府を内部から破壊できるよう重要な地位を確保させる。

(第二段階)
君主国家であろうと共和国家であろうと、既存政府を転覆させるために、革命集団を社会党あるいは自由党左派と結びつける。

(第三段階)
人民戦線政府の評判を落とし、プロレタリアによる独裁支配の樹立に口実を提供するために、破壊分子を活動させて無秩序状態を現出する。 独裁支配が樹立されたら、1917年のロシアの場合のように、粛清によってプロレタリアによる支配を全体主義的独裁支配に変える。




マルキストと大東社ロッジ(フリーメーソン)の連携

1865年の江戸末期、カール・マルクスの代理人はスペインで最初の政治的ゼネストを組織しました。 1868年(明治元年)、世界革命運動の指導者たちは、ファネリをスペインに送り込み、アナーキストをマルキストの革命家と結びつけました。 

ファネリはマルクスやエンゲルスに親しいバクーニンの親友でした。 ちなみにバクーニンは、1870年、政策をめぐってマルクスと対立し、世界革命運動の第一インターナショナルを追放されています。

1872年、バクーニンはスペインの革命指導者を動かして「社会民主同盟」を結成させました。
スペイン政府はバクーニンの過激派組織を違法と表明しましたが、彼らは地下に潜って活動を続けました。

都合のいいことに、大東社ロッジがその本部の役割を果たしました。 サラゴサで開かれた会議では、マルキスト・インターナショナルのスペイン関係者がアナーキスト・インターナショナルと連携することに同意しました。

この連携が成立すると、二つの集団はさまざまな労働者集団を大きな結社カモツラ)に再編しました。 この連携活動の成果がスペインに第一共和国をつくりだした1873年の革命でした。

革命指導者の側の活動には、毎度のことながら、恐怖政治が伴いました。 混乱が蔓延し、あらゆる種類の暴力行為が生じました。 そしてついに、パヴィア将軍によるクーデターが発生し、革命勢力はまたしても地下に潜りました。





カルロス派の敗北

もう一度、日の当たる場所に出るために、革命地下組織のメンバーは穏健な自由主義運動を支持して政治権力を得ました。 そして革命指導者はドン・カルロスの子孫が王位に就くべきだと主張する人々と、イザベラの子孫が就くべきだと主張する人々の間に生じていた対立を利用して内乱を開始させました。

結局、この戦いはカルロス党員の敗北で1876年に集結しました。 スペインの労働者は実のところ、彼ら自身が保護されるための組織化を望んでいたものの、大多数の人々はアナーキストによって主張される過激な政策に同意しませんでした。

反革命の立場に立つ人々は、労働者協会をを組織しました。 この穏健派はすぐさま革命勢力と雇用主、両方から攻撃を受けました。 この攻撃は止まず、ついに1888年にはパブロ・イグレシアスの提案によって、穏健派も労働者総同盟を名乗ることになります。

この組織はやがてUGTとして知られるようになり、ましたが、イベリア・アナーキスト連盟が政府によって非合法とされるまで、UGTのメンバーはあまり支持を得られませんでした。

1908年まで共和制支持集団の過激派と協力していたサンディカリスト分子は、やがて「ソリダリダ・オブレラ(労働者の連帯)」を、2年後の1910年にはCRTの名で知られた組織を結成し、その直後には全国労働連合(CNT)も組織しました。




バルセロナに「ソロ・シンジケート」と「フリー・シンジケート」組織の設立

1913年、一連のストライキの結果、CRTもCNTもその活動を停止させられました。 政府は団体交渉という基本原則に反他したのではなく、過激な方針と指導者の革命活動に異を唱えたのです。

つまり過激分子が組合内部の執行部に自在に入り込めると見られたせいで、社会正義を求めて奮闘する合法的労働者がその組織を非合法化されたということになります。世界革命を目論む人々の側はこの措置を予測していました。 サンディカリスト分子による革命運動はいよいよその勢力を拡大し、あらゆる政党および国家そのものに抵抗する活動を行いました。

子の過激勢力の方針である直接行動がい大いに熱を帯びて、荒々しく主張され、1916年、CRTはアンヘル・ペスターニャ、サルバドール・スグイによって差編成されました。また、1918年になると、この2人の労働運動指導者によってバルセロナに「ソロ・シンジケート」、一般には「ワン・ビッグ・シンジケート」として知られる組織が設立されました。



第一次世界大戦の期間、スペインは中立国として莫大な金(money)を稼ぎましたが、一般的に言えば、国家の繁栄に見合うだけの取り分が労働社会層にもたらせたわけではありませんでした。 この事実が労働者の大多数を穏健な労働者組織から過激労働組織の革命指導者のもとに駆り立てる要因になったと思われます。

それでも穏健で分別ある労働運動指導者は急進勢力に対する戦いを諦めず、その活動の成果として、1920年には新たな労働者組織「フリー・シンジケート」を成立させました。そして続く3年のあいだ、局地的ストライキ、ゼネスト、所有物破壊、労働運動指導者を抹消するための暗殺、対立組織の勢力を低下させるための大量殺人など、

右派、左派の労働者組織がしのぎを削りました。 自由の名の下であらゆる犯罪が引き起こされ、1923年になると、事態は収拾がつかなくなりました。 2度目の革命が共産党によって引き起こされるのを避けようと、スペイン国王はプリモ・デ・リヴェラに軍事政府の長の権限を与えました。


今回の投稿はここまでです。 次回の投稿は、「国王は不正選挙で追い落とされた」です。







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