Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

18:吐魯蕃(トルファン) ツアー値段事情

2010年10月28日 22時01分04秒 | 中国旅行記2010年8月

列車は一時間遅れでトルファンに到着。直ぐに切符を買いに行くが、手に入った切符は「無座」。つまり席がないということ。立って乗る切符である。これで私は中国の列車の切符の全種類を経験することになる。「軟臥」「硬臥」「軟座」「硬座」「無座」。まさか12日間の旅行の中で全ての種類の席が買えるとは思わなかった。振り返ってみよう。北京~西安=硬臥。西安~嘉峪関=硬座。嘉峪関~柳園=軟座。柳園~吐魯蕃=軟臥。吐魯蕃~烏魯木斉(ウルムチ)=無座。ただ一回の無駄も重複もなく、最短コンプリートである。

吐魯蕃(トルファン)。ここはもはや中国ではない。新疆ウイグル自治区という名称で中華人民共和国に政治的には属しているとはいえ、文化は完全に非中華である。吐魯蕃の歴史についての記述は後に譲ることにして、とりあえずは駅から市内に移動するまでの手続きについて書いていこう。
駅の到着はいつも早朝である。午前5時~6時。吐魯蕃駅から市内へはかなり遠く、交通手段を使わないと行けない。タクシーは高いのでバスを使うことにした。吐魯蕃駅から市内へ至るバスの切符は、切符売り場の建物の中で買わなければならない。切符には番号がついており、その番号の順番に乗車することになる。バスの市内に至るまでの所要時間はおよそ1時間。値段は7.5元とさすがに安い。タクシーなどを使うと多分100元は取られるのでバスがいい。バスは市内の中心部までノンストップである。バスを降りると早速客引きの男が近寄ってくる。この客引きは実はタクシーの運転手だったのだが、この時はまだホテルの紹介人だとばかり思っていた。なかなか日本語が上手く、日本人ですか??といきなり日本語で挨拶してくる。この時の印象は「とても怪しい」であった。だいたい海外で日本語を操る客引きには碌な連中がいないというのが私の持論であった。それだけ私が旅行を重ねてきているとも言えるが、悪く言えば私は旅行ズレしているのである。外国では常に警戒心を強く持つのは悪いことではないが、あまり警戒心を持ちすぎると出会いは無くなる。警戒心がなさすぎると、ボラられたりアクシデントに巻き込まれるリスクが増える。そのバランスが非常に難しいのだが、最適なバランスがどこにあるのかについては、私はまだ旅の達人ではないので分からない。さて、客引きの男に高いところに案内されたり、吹っかけられるのはイヤだったので、ここは警戒モードを最大にして笑顔であしらいつつ相手にせずにサッサと歩き始める。今回、私が中国旅行において心がけたことが一つある。それは断るにせよ値切り交渉をするにせよ、笑顔でニコニコしながら毅然とした態度で挑んだことである。これは実は外国に旅行をすれば、多かれ少なかれ、やらなければならない。経験則上、ムスっとした態度で交渉事を行うよりも、笑顔で挑んだほうが値切りの成功率が上がる。相手の心象もよくなる。だが、これは妥協ではない。ニコニコしながら、毅然ともしくは辛辣にツッパねるのである。高い、信じられない。ふざけている。冗談じゃない・・・という意志を穏やかな顔で行うわけだ。正直、これは20代の頃の私には出来なかった。値段交渉になるとイライラしたものだった。表情もいつもしかめっ面をしていたものである。「騙すんじゃないか?コイツもか?」という思いが、表情にそのまま表れていたのである。要するにポーカーフェイスができていないワケだ。これでは当然相手も身構える。そういう損な経験を過去にしてきたので、今回の旅行ではポーカーフェイスを貫きながら、値切り交渉に挑もうと考えていた。特に甘粛省からの旅程においては、この点を十分に意識して行った。西安の兵馬俑ツアーではキレてしまったが、中国でも田舎にいけばかなり人がいいので、ポーカーフェイスが出来る余裕ができてきたのかもしれない。もしくは中国に滞在すること一週間が過ぎているので、中国に慣れてきたのかもしれない。いずれにせよ余裕がでてきたことは確かである。旅行において余裕をもつという事は、非常に大切であるということが今回よく分かった。それは吐魯蕃滞在中に思い知らされた真実である。余裕を奪う要因はいくつかある。以下に列挙してみよう。

1:時間的スケジュールに追われる。
2:宿・切符が確保できるだろうか?という不安。
3:物価水準が分からない。情報不足。
4:やったことが無いことを行わなければならない。

この4点は、かなり心の余裕を奪う。
1番については、私は今回12日間で北京~ウルムチまで列車で行かなければならないという時間的スケジュールがあった。というのは、ウルムチ~北京行きの航空券は、すでに日本で予約してお金を支払ってしまっているからだ。間に合わないということは、航空券が紙切れになることであり、余計な出費が増えるということである。さらに、中国ではビザなしでの滞在は15日間しか許可されていないので、スケジュール通りに到着しなければ、不法滞在になる可能性も出てくる。これがまず心の余裕を奪った。
2:これは1と連動する。スケージュールに間に合わせるために、切符の確保が絶対となるので、切符の確保ができないということは1が遅れる、または破綻することを意味する。これはかなり神経をすり減らした。
3:情報不足は交渉事が不利になる。説得材料を持たないので、相手を落とすことが出来ない。5時間のタクシーチャーターで150元という情報(経験)が得らるまでは、タクシー交渉は負け続けたと思う。これは事前にインターネットで調べれば、かなり交渉事を有利にすすめられる。だが、究極的には現地での経験を積むしかない。これにおける余裕を事前に確保するのは難しい。
4:色んな部分で、日本とはシステムが違う。切符を買うこと。バスに乗ること。中国国内に電話をかけること、などなど。これらも一度やってしまえばどうという事はないが、最初にやるときにはいささか緊張する。そういうものが未来のスケジュールに組み込まれていると、その日が訪れるまでの間、多少緊張・ストレスがたまる。

以上を鑑みると、旅行というのはまず
1:スケジュールは長めにとっておく。北京~ウルムチ旅行の期間を1ヶ月と設定しておけば、時間的スケジュールにおける心の余裕を奪い要因はなくなる。列車が遅れようと、切符が取れなかろうと、さほど心配するには及ばなくなる。時間をゆっくりとすごせば、遅れようがなんになろうが、そんなに目くじらを立てることはなくなる。
こでて1、2の不安はほぼ解消する。ビザなし15日しか滞在できない制約があるのなら、ビザを取って1ヶ月にすればよい。
3:渡航前にインターネットでその国の物価情報は可能な限り取っておく。ボラれたくない人、騙されたくないと強く思う人は、これをやっておくべきである。スケジュールを考慮する必要がないとはいえ、必ず必要な情報というのものはいくつかある。例えば列車で旅をする人ならば、時刻表くらいは持っておくべきだ。日本のネットで中国の時刻表は手に入る。
http://railway.org.cn/link/index.html
わたしはここのHPの情報を参考にした。現在、スマートフォンという便利ななんちゃって携帯PCの端末がある。そこにPDFファイルに変換した時刻表を入れておけば便利である。まぁ国際ローミングをする人であれば、そんなオフラインの情報をためておく必要もないが・・・。
4:これは、もはや度胸というしかない。ネットで調べようが、やはり経験しないとこの不安は解消されない。いくら切符の買い方などをネットで調べて分かったつもりになっても、やはり実際に窓口に並んで買わない限りは、切符を買う行為は慣れないものだ。これはもう度胸と勇気と厚顔さを発揮していくしかない。


話がズレた。元に戻そう。
客引きの中国人、いやウイグル人はさすがにしつこい。いや商魂たくましい。執拗について来て、安いホテルあるヨと言う。私は内心「ウソツケ、どうせ騙すつもりだろう」と思っていたが、またまた~~~とか、冗談をかましながら、ニコニコしながらその客引きの男に「いくらなの?」と聞いてみた。すると男は「80元」で泊まれる、というではないか。一泊80元のホテルが本当だとすると、私が今まで中国で泊まってきたホテルの中で2番目に安いホテルということになる。「そうか・・・西域のホテルは安いのかも」と私は瞬時におもいは、その男に返した言葉は「高いな~~」であった。あぁ、やばい・・・段々バックパッカーの心境が分かるようになってきた。バックパッカーの旅行記などを見ると、みな値段を下げさせること、いかに値段を下げて安く交渉をまとめるかが記述の大半を占めてくるようになる。この誘惑は結構強烈なので、このあたりのくだりはサッサと進めよう。客引きの男が案内したホテルはたしかに80元の部屋はあったが、そこは多人数部屋、すなわちドミトリーと呼ばれるものであった。しかも部屋は埋まっていたようなので泊まれないことが判明。客引きの男をみて「客引き失格だな」と思いつつ、次のホテルを探すことにした。さて、この満員のホテルのロビーには「一日観光バスツアー」の看板があったが、客引き男が言うところによると、これは現在廃止されているという。理由は、例のウルムチの蜂起が起こって以来、観光客が激減してツアー客が集まらないからだそうだ。なるほど、たしかにそうかもしれないと思った。
客引きに男は、君はどこのホテルに行く?と聞いてきたので、私はガイドブックを取り出し、そこに書いてある「トルファン賓館」という一泊290元のネット設備があるホテルにすると言った。ここにはドミトリーもあり、そこは一泊50元とガイドブックには書いてある。もともとそのホテルにするつもりだったのだが、客引き男の言う80元の安さに魅力を感じてついてきただけである。その客引きの男は妙にフレンドリーであったが、会話もそこそこにして別れ、ガイドブックに書いてあるホテルに歩いて行った。
さてホテルに到着。入り口にはこれまた違う客引きの男がいて、私に話しかけてくる。この男の日本語はかなり流暢で、さっきの男以上であった。日本語の話せる客引きの多いこと・・・と思っていると、その男は「このホテルは一泊180元だ」という。ガイドブックには290元と書いてあるから、かなりお得な感じがした。180元の部屋と50元のドミトリーの部屋の両方を見せてもらう。50元のドミトリーは安いのだが、トルファン賓館のドミトリーは地下室で、かなり衛生状態が悪いように感じたので、180元のシングルにした。妙な事に、ホテルのレセプションの壁にかかっている料金表には「シングル180元」とか書かれておらず、「260元」くらいの値段がかかれていた。どうやらホテルのレセプションに掲げられた料金はあまり信用できない。
さて、その客引きの男。実はホテルの従業員ではなく、観光ツアーの斡旋人であった。斡旋人のオッさんは早速営業を始める。ウルムチ蜂起以来、観光客が激減した、という話がまたでた。だから今仕事がないんだ、収入もないんだ、困った、と、よくある営業トークがでる。そんなものは枕詞として聞き流して、一日ツアーでどこを回るのかを聞くことにした。それは驚くべき内容だった。交河故城、高昌故城、蘇公塔、ベセクリク千仏洞、火焔山、カレーズ、といったように、トルファンの有名どころを一気にまわるのであり。しかも、自分の好きなように時間を使ってもイイという。時間は一日がかりになる。9時から18時くらいまでまわることになるという。しかも日本語が出来るから便利だという。私は値段が気になって、いくらだそれは?と聞くが、なかなか値段の話を切り出さない。見事な営業トークである。
さて、最終的に値段のプレゼンになった。彼は500元という。日本円にして6500円。日本の相場から見れば破格なのはわかっているが、ここは中国。高いと思った。嘉峪関での5時間のタクシーの料金が150元である。それを考えれば高い。ありえないと突っぱねるが・・・すでに私は彼の営業トークに半分はかかってしまっている。まずウルムチの事件以来一日ツアーはないという背景。これで選択肢のかなりの部分はなくなった。このオヤジの案を蹴って、自分でチャーターを探したとして、はたして500元未満になるかどうか?そしてこのオヤジの提案は実質、タクシーの一日チャーターである。ガイドブックによれば、トルファンではなく西安だけど、タクシーを一日チャーターすると1500元かかるとかいてあった。それを考えれば確かに安くはある。こういう思考に傾いていった。合い見積もりは交渉の基本。だが、私はそれを怠った。実際問題、トルファンでのタクシーの一日チャーター料金は不明である。観光地へのバスは出ていないので、いずれにせよタクシーを使うしかない。中国のタクシーは花形商売で儲かるという話を、旅行前に日本のTVなどで聞いたことがある。おそらく相当値段に乗っけているのだろう。
だが、安いにこしたことはないので、値切りにはいる。だが材料がない。観光客がいないからこそ安くしろ、という半分わけの分からない論法で攻めるが、一人で500元は安いとオヤジに切り返されてしまう。それはそうだ。タクシーなのだから二人以上のれば、金額は半分になる。1人250になるのだ。つくづく一人旅は金がかかる。すでに相手の営業トークにやられた格好になった。仕方なく500元を払う。たかいなーとボヤくと、そばにいたウイグル人のこれまた日本語の出来るガイドのひとが、500元は高くないと言ってきた。この人がまた日本語が堪能で、これで今日は3人の日本語ができるウイグル人とあった事になる。横槍を入れてきた彼は、日本人の大学研究調査隊のガイドであった。

さて、早速一日チャーターがはじまる。500元を男に支払うと、その男は電話でタクシーを呼んだ。現れたタクシーの男は、最初にバスターミナルで出会った80元のホテルを紹介した男だったのだ。この時、はじめてこの男がタクシードライバーであると気づく。てっきり、ホテルの紹介人かと思った。いま考えてみれば、西安の客引きと同じだったわけだ。あれは一日観光のバス会社の手のものであり、こんどはタクシーチャーターの手のものであったわけだ。ホテルを紹介する客引きは、ほとんどすべてが「タクシーか一日ツアーの手のものか」である。これは覚えておくべきである。
何だか見事に騙されたようなきがした。80元のホテルが一杯だったときに、そのタクシードライバーには(この時にはホテルの斡旋人としかおもっていなかった)私の次のホテル候補のトルファン賓館の場所と名前を教えた。たぶんその時、タクシードライバーであるこの男は、携帯電話かなにかで、500元をしはらったこのオヤジと連絡をとったのだろう。この二人は知り合い、いや態度からすると、500元の男が上司で、タクシードライバーの男は部下の様な感じだった。ちょっとやられたと思った。しかも、この500元のオヤジは、そのタクシードライバーを紹介すると、「日本語は彼(タクシードライバー)ができるから、よろしく」といって、途中で降りて行ってしまった。つまりこの500元の男は、仲介手数料を取った形にも見える。というか、多分そういうシステムだったのかもしれない。この瞬間、しまった、ボラれたと思った。おそらくタクシードライバーと直接交渉すればもっと安い金額になったと思われる。このタクシーの男よりも、500元のオッさんのほうが、はるかにやり手だし、胡散臭かった。サービス精神旺盛で、ホテルのポーターばりの接客だったし、あの営業トークといい、あの引きあげ方のアッサリしたドライさを見て、してやられたと思ったがもう仕方がない。

皆は、騙されないようにして欲しい。おそらく感覚的ではあるが、一日ツアーは300元でいけるハズである。

トルファンの歴史については、次回写真とともにお知らせする。まて次号!
上の写真は高昌故城の一部。高昌故城の写真も次号にUPする。




17:甘粛省の交通事情と人民について

2010年10月25日 19時52分56秒 | 中国旅行記2010年8月
非常に驚くべき事だが、甘粛省の中国の人民の愛想は極めて良い。駅員や切符の窓口の係員または長距離バスの係員または公安などは別だが。とにかく中国で愛想の悪いのは、公務員か準公務員級の地位の高い連中であって、その他の人民については概ねヨーロッパの人民と同じくらい愛想が良いものだ。これには正直私も驚いた。ただし、忘れてはいけないのは、愛想はいいが油断しているとボッタくられるということである。商人には値段を吹っかけられることは多いので、油断していると損な取引をされることはままある。だが、彼らが愛想が悪いかといえばそうではない。また、商人以外の利害のない人民においては、これは愛想のよさだけが目立つ。彼らが反日教育をうけているとはとても思えないほどである。ただ、これを中国のスタンダードと捉えるのは正確とはいえないかもしれない。なにせ私が赴いているのは中国でも西域である。愛想が良いと感じ出したのは、甘粛省に入ってからである。北京や陝西省の西安などでは、愛想の良い人もいたが、逆に悪い人の方が沢山いた。やはり田舎というものは、世界各国共通して人がいいのかもしれない。上海や香港ではこうはいかないかもしれない。また、1人旅+電車利用&安宿利用というのも影響しているかもしれない。とにかく異邦人があまり使わないようなインフラを私は好んで使ってきた。
 この現実を、穿った見かたをすれば、やはり商売から生じるものかもしれない。西域は観光地である。そこは中国の平均物価からみて、かなり値段をボッている。だがツアー客などは、そんなところまで節約して極限まで値切ろうとはしない。日本と比較すれば、値切らなくても安いからだ。本当は値切ればもっと安くなるのだが、ツアー観光客はそんなメンドウな事はしないので、中国人商人からすれば「金離れの良い客」なのだろう。これが愛想の良い理由になっているという見かただ。西域の商人は観光で儲ける。商人の家族や知人も観光客はオイシイと思う。だから愛想の良い人が多く生産される。こういうシステムである。それは上海や北京でも同じでは?と言われる方もいるかもしれないが、上海や北京では日本の商社という、観光者よりも圧倒的に利害に目敏い人が中国人商人と駆け引きを行い商談をまとめるので、「金離れがいいお客」では必ずしもない。だから人民は冷たい。という要素もあるだろう。

まぁ個人的には、愛想のいい理由の5割はやはり「都会と田舎」だろう。都会の人は冷たく、田舎の人はあったかいのだ。のこりの5割中の3割は、反日教育の浸透かもしれない。やはりインフラの整った中国沿岸部のほうが、情報や教育の浸透度が大きいに違いない。残りの2割が「金離れのいい」という、点だろう。だが、これはなにも中国に限ったことではない。ヨーロッパでも、そして日本であっても同じことだ。ただ、その内訳の割合がちょっと違うというところであろう。

これは推測だが、ホテルは安いホテルの方が愛想が良い。
経験上では60~180元くらいのホテルがよかった。特によかったのは60元と128元のホテルである。200~280元のホテルは、まぁ普通か。300元以上するホテルはどうも気取りすぎて愛想が悪い。これが1000元くらいになると、恐らくこの法則は崩れ、素晴らしいものになるのであろう。というか、そういう値段のホテルはもはやだいたいが外資系である。この国の人民は偉くなると偉そうになる傾向が強い。トコトン豪勢にいくか、トコトンケチるのが、よい愛想を手に入れる近道かもしれない。(ただし、食堂はこれと逆である)





さて、これまで私は観光地への移動にタクシーを使ってきた。というのは、バスの乗り方とか切符の買い方などがよく分からないし、行き先があっているかどうかも不安だったからである。だが、私は今回初めてバスを使うことにした。それはまず莫高窟から敦煌への帰りの道のりであった。敦煌~莫高窟の行きの移動は、前述したようにタクシーを利用した。金額は75元。帰りのバスの料金は、なんと8元である。バスは安いとは聞いていたが、まさかこんなに安いとは・・・。
さて、そのバスの乗り方だが、これが実はそんなに難しくはない。言葉が通じなくても乗れる。まず、バスには行き先のプレートがついている。これは運転席の窓に掲示してあるものや、バスそのものにカッティングシートなどで行き先を貼り付けているものもある。だいたい、町の郊外にある観光地へのバスは、市内を通るバスとはちょっと違う。どう違うかというと、市内を通るバスは、行き先が電光掲示板などで記されており「565番」とか「18番」とか、行き先によって異なった番号が振られている。バスも大収容が可能な大型バスである。頻度も5分や10分おきに来る。一方、観光地に向かうバスは、もっとアバウトである。中型の中古のバスで、前述したように、行き先のプレートが窓に張ってあったり、車体にシールで張られてあったりなどといった、簡易なものである。料金は市内のバスも観光地へのバスも、バスの中で切符を購入するシステムである。パスには運転手だけではなく、常に料金を徴収する車掌がいる。これがバスの切符を売っているわけだ。観光地へのバスは定額制。市内のバスは、行き先によって値段が変わる。簡単なのは前者の観光地へのバスのほうだ。この場合だと筆談もいらない。

これを経験してしまうと、もうタクシーには乗りたくなくなる。早朝などの行きはともかく、帰りの道でタクシーを使うのはとても勿体無い。行きもバスにしたいところだが、バス乗り場の位置がわからないので、これは難易度がちょっと上がるが、帰りは絶対にバスに乗るべきである。

さて、莫高窟の後に行った「鳴沙山・月牙泉」の観光地だが、ここへは行きはタクシー、帰りはバスを利用した。タクシーの金額は10元くらい。バスを利用すると1元である。観光地への入場料は100元くらい。水の値段は2元~5元。もう金銭感覚がクラクラする。いったい何が高くて何が安く、何が普通なのかが分からない。まぁ、入場料が馬鹿高いことだけは分かった。





さて敦煌での観光も終わった。敦煌には一泊する予定もないので、夜行列車で次の観光地を目指すことになる。すでに切符は入手しているので、あとは駅に向かうだけだ。柳園駅までは道のりにして130キロメートルはある。行きはタクシーで市内まで来たが、既にバスの値段の安さをしってしまったので、バスを使って柳園駅に行くことにした。ところが柳園駅行きのバスを探すがなかなか見つからない。ガイドブックには柳園行きのバスの乗り場の場所が書いてあったが、探してもそのようなバス停は見つからないのだ。そこで売店で、水を買って、お店の人にバスの情報をもらうことにした。通りすがりの人に聞くよりも、買い物をした店の店員に聞くほうが有効だと思ったからである。この効果はてきめんだった。この店員は実に面倒見がよかった。甘粛省の公務員でない人民はとても親切であるという所以は、この経験からもきている。まず店員のねーちゃんはこう言った。タクシーに50元札を渡して、これで行け!と粘れ!と言った。私は「そんなアホな。そんなの了承するタクシーはないよ」と思っていると、さっそくねーちゃんは公道に出て近くを通るタクシーを止めるではないか。そして中国語で何やら交渉をしだした。50元の交渉である。おおっ、代行して交渉してくれている、と喜んでいると、最終的な値段は120元ということになった。・・・・むむっ・・・早朝使ったタクシーはたしか150元だった。ち、ぼられたか・・・と思っていると、ねーちゃんは「高すぎる」ということで、他の手段を探してくれた。ねーちゃんは次に携帯電話をかける。会話をしばらくしたあと、私についてこい、と言った。ついていくと一日ツアーの斡旋のような会社であった。そこにはオバちゃんのタクシードライバーがいて、ツアー斡旋のスタッフのお姉さんが既に話しをして居る。どうやら、乗り合いタクシーの話をしているようだ。そして、タクシーの集合場所(たぶん、客を引きやすい)まで移動。オバちゃんは同僚タクシーのオッさんと話をつけて、このオッさんが客を引いて、4人を確保して行くようだ。ツアー斡旋のおねえさんは英語が流暢なので、英語で私に今後の選択肢について説明する。内容はこうだ。タクシーは通常では120元らしい。4人なら一人頭30元でいく。この場合、乗り合いの人を探さなければならないので、すこし時間がかかる。というものである。列車の時間まではまだタップリあるので承諾する。さっそくそのツアー斡旋の会社に待機してたオバちゃんタクシーに乗る。オバちゃんは客を探しながら、タクシーの集まる集合地に向った。ここで選手の交代がおこる。客を探すのはオバちゃんタクシーから、おっちゃんタクシーに変わった。オバちゃんは、タクシー集合地までのタクシー料金の5元を要求するので、払う。
ここにきて、ちょっと不安になった。当初と展開が違う。このオバちゃんが乗り合いを探すということではなかったか?と思っていたので、つじつまが合わないと感じ始めてきた。どだいたどたどしい英語の会話だったので、最初からこういう展開だったのか、それとも途中で展開が変わったのか私には分からなくなった。だが、騙されるのはまずいので、おっちゃんタクシーに念を押す。本当に乗り合いだろうな?1人30元なんだろうな?と。おっちゃんは「そうだ、大丈夫」というような事を中国語で言っている。そして料金の30元の前払いを要求されるので払う。支払うとおっちゃんは車を降りて乗り合いの客を探しに行ってしまった。ここで30分~1時間ほど車で待たされる。半分眠りこけていると、おっちゃんが戻ってきて、こう言う。「あっちのおっちゃんBのタクシーのところへ行け」と。さぁいよいよ胡散臭くなってきた。またタクシー乗り換えである。だが、このおっちゃんには30元支払っている。つぎの「あっちのおっちゃんB」から、また30元も請求されてはたまらないので、しつこいくらいに念を押す。おっちゃんは、おっちゃんBに金は渡してあるから大丈夫という。なんだかかなり不安になってきた。タクシーのおっちゃんBのところに行って、くどく念を押す。30元はもらったよな?・・・と。おっちゃんBは「貰った。大丈夫」というような事を中国語で言っている。
「というような事を中国語で言っている」という事くらい不安なものはない。確証が持てないので、必然的にくどく念を押すことになる。ヘタをすると35元が水の泡になる可能性があるからだ。上手い事は裏がある・・・・という台詞にピッタリなシチュエーションだからだ。念は押しに押した。先方も「大丈夫」と言った。念書を交わしたわけではない。口約束ではある。だが、打てる手は打った。もしこれで柳園駅まで乗り合いで行ければ、破格の値段(35元)だ。仮に行かなかったとしても、125元である。安くはないが、この結末を見極めてみたいと思った。騙されるにしても、どうやってこの後騙すのかも見てみたかった。どの道、電車の発車の22時までやる事はない。無為に時間を過ごすよりも悪くない。結局、2時間かかることになるが、乗り合い3人は見つかったのである。
乗り合いタクシーで35元。時間がある人は試されることをお薦めする。





駅では日本人観光客のツアーがいた。どうやら大学生によるツアーらしい。二週間の旅程で、かれらは船で上海まできたとか。自分と同じような弾丸ツアーで、電車の寝台車を宿にしながら移動している日々が続いているらしい。
列車では軟臥を初めて経験する。およそ8時間あまりの乗車だが、これは快適だった。

16:敦煌の砂漠

2010年10月23日 02時16分50秒 | 中国旅行記2010年8月
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いよいよ来ました。砂漠の敦煌。ここは鳴沙山・月牙泉という観光名所。敦煌の中心部からタクシーに乗って10分程で到着する。
写真でみると、正面の砂丘に登るのはたやすいように思える。・・・が、砂丘を登るのは実はかなり体力を使うものなのである。山登りと違う。感覚的には山登りの5倍は疲れる。砂丘は高さ50~100メートルくらいだが、250~500メートルの山登りに匹敵する体力を消耗する。そもそも足場がよろしくない。第一歩踏み出すと、足が沈みだす。傾斜があるので、沈むだけでなく、少し後退する。なので、次の足を出さなければ後退するし、沈んでいく。次の足も沈みながら後退するので、また足を出す。これを延々を繰り返すのである。緩やかな傾斜の場所に到達するまでは、休むことは許されない。沈むし後退するからである。放っておくて簡単に膝の上まで埋まる。これは怖い。砂漠の砂の粒子は細かい。故に雪崩のように砂は低いところへ流れていく。高いところにある砂は、傾斜をたもとうとするので上方から下方へ、すなわち足元に砂が流れてきて、そうして埋まっていくのである。埋まるだけではなく、下方に砂はながれていくので、足場は安定せず、そのまま砂と共に下に流れていくので、前にすすまない。後退してしまう。まさに「巨大なアリ地獄」なのだ。
砂丘は登ることができる限界角度がある。30度くらいの傾斜はまず登れない。もしも登ったら、腹まで埋まるだろう。危険すぎる。20度で限界。砂丘を登る場合は絶対に急がば回れである。ショートカットするために急な傾斜のコースを選んではいけない。
次に直射日光が強い。日陰がないので、熱射病に注意しなければならない。まず水は2リットルはもって行くべきだ。すくなくとも砂漠の中を1時間以上滞在しようと思ったら、それくらいの水は持っていなければならない。あとは出来る限り軽装備で登ること。リュックを持って登るのは無謀である。私は6キロ+水の入ったリュックを背負って、この砂丘を登ったが死ぬほど疲れた。さらに直射日光を避ける帽子は必須かもしれない。




砂漠で歩きやすいポイントは山の峰を通ることである。傾斜がもっとも緩やかなところが足を捕られにくいからだ。
砂丘の峰までくると沢山の足跡がついているが、この砂丘をを登っている人は私以外の人では数名しかいなかった。



砂丘を一つ登っても、まだ先が・・・・。勾配が激しいので、写真に写っている先まで行ってみようとは思わない。代える体力が無くなるかもしれないからだ。砂漠は怖い。たった一つの砂丘を登っただけでもこれである。砂漠を越えて歩くなんていうのは、まさに狂気の沙汰である。砂漠を一日あるこうと思ったら、水を10リットル以上は持っていないと脱水症状に陥るだろう。つまり日中にあるくのは無理である。まさに天然の要害。敵は砂漠の向こうからはやってこない。日本にいてはこの感覚はなかなかピンとこないが、私も砂漠というものがほんの少し分かったような気がする。



さて、ここ鳴沙山には、エンジン付きハングライダーに乗ることが出来る。三角形の帆のついたハングライダーに、推進力をもたせるエンジンを搭載している乗り物である。中国製だろうからちょっと怖いけど、空中遊覧を楽しむことが出来るようだ。値段は260元。(3380円)  正直中国の物価からすると高い。だが、これをケチって乗らないのは絶対に間違っている。敦煌の砂漠を上空から見る機会など、これを逃したらまずないからだ。3380円など安いのである。重要なのは、ケチるところはケチり、ケチってはいけないところは行くのである。



下界を見ていただければ分かると思うが、住居の区画跡と思われる境界の線が砂上に薄っすらと見える。これは、かつてはこの辺りまで住居が存在したのだろう。しかし砂漠の砂に飲み込まれてしまったのである。これはおそらく現在進行形であろう。現在の入場口付近にある住居や建物も、やがては砂に飲み込まれる運命にあるのかもしれない。




見よ、この砂漠とオアシスの境目を。写真の左側はどこまでも続く砂丘があり、右側に行けば敦煌市内に至る。写真の中央の緑化された地域まで砂丘の砂が侵食しているのがお分かりであろうか。砂漠化はなおも進行中なのが良く分かる。昨今、温暖化の影響などが騒がれているが、日本よりも中国や大陸のほうが温暖化すれば、砂漠化がさらに進行して深刻な状況に陥るということが良く分かる光景である。まが、そんなエコの話は抜きにしても、この景色はすごい。





こちらは月牙泉。泉の形が三日月になっていることから、こういう名前が付いたらしい。
人の大きさと砂丘の大きさの対比していみると、いかに砂丘が広大なのがよく分かる。



山頂に上った峰から月牙泉を見下ろした写真。砂漠の上にポツポツ立っている黒い点は人である。まるでゴミのように小さい(笑)

15:憧れの敦煌

2010年10月18日 04時46分35秒 | 中国旅行記2010年8月
敦煌。学生時代からずっとこの地に行きたいと憧れていた。ちょうどその頃は映画「敦煌」が上映されていたし、NHKがシルクロードの旅で「敦煌」を取り扱っていた。なんでも砂漠の中に町がある。この言葉を聞いて以来、敦煌という場所に一種のロマンを覚えていた。敦煌が中国の西域にあることは当時から知っていた。その頃の私は中国史といったら、漫画の三国志くらいしか知らなかった時である。三国志の中では敦煌はまったく出てこない地名である。敦煌が中国史の中で大きく取り上げられるのは、漢の武帝の頃である。紀元前100年くらいの時に、漢の武帝は敦煌を時の支配者である「匈奴」から奪い、ここに郡を設置した。
ここは甘粛省の最西端。ここから西は、もう新疆ウイグル自治区である。敦煌は武帝の時代、大宛(フェルガナ)攻略の拠点であった。フェルガナは現在ウズベキスタンの都市となっている。ここに汗血馬という、三国志の赤兎馬のような名馬がワンサカいたという。武帝はこの馬が欲しかったようで、配下の李広利に大宛攻略を命じた。李広利は一度は大宛に敗北して敦煌に撤退した。武帝は「敦煌の玉門関から内側に入ったら殺す!」と脅したので、李広利は焦って、玉門関の外側の長城で踏みとどまり、再び大宛攻略を行い今度は成功させたという。これによると、漢の時代に既に敦煌の玉門関まで長城が設置されていたのが分かる。文書上の万里の長城の西端は、玉門関までということになる。(玉門関は、敦煌から西北90キロくらいのところにある。私はここには行かなかったが・・・)

さて、列車は早朝に敦煌の最寄の駅である「柳園駅」に到着。駅前は暗い。嘉峪関の駅も寂れていたが、ここはさらに上手で電灯がほとんど点いていない。道路もアスファルトではなく、土の大地だ。あまりにも有名な「敦煌」の最寄の駅がこんなに寂れているとは驚きを禁じえなかった。ところで、私は柳園駅を「敦煌の最寄の駅」と書いたが、これは実は正しくない。正しくは「最寄の駅だった」のである。ここ数年前に、中国は敦煌の町のすぐ近くに駅を作った。だがその駅に直通する列車の本数は依然として少ない。しかも乗り換えが必要である。主要幹線から外れる乗り換えを要するということは、その乗り換え地で一泊をすることを意味する。なぜなら、この国では切符を手に入れるのが容易ではないからである。発車時刻の予定も立たず、切符入手困難に中国においては、乗り換えという行為はかなりリスクが高いのだ。従って、かつて「最寄の駅だった」柳園駅を私は選んだのだが、いくら早朝4時ごろとはいえ、あまりにも明かりが少ない。死んだ駅前である。これは誇張ではない。今になってみれば写真に撮っておけばよかったと思うが、この駅に降り立った瞬間に感じたものは、「警戒せよ」であった。ちょっと怖い。駅前にはタクシーが溢れ返っているが、タクシーのおっちゃんも仕事モードに入っているものは殆どいない。だが流石中国。タクシーの運ちゃんの商魂たくましいこと。私を見つけると、早速乗ることを薦めてきた。
値段交渉が始まる。敦煌の町までは、車で片道二時間もかかる。いったいいくらで行ってくれるのだろうか?嘉峪関で半日タクシーチャーターの金額を覚えているので、無茶な金額なら強く交渉しようと思っていると、先方は150元という。正直、嘉峪関のタクシーとは比較にならないほど高い。が、選択肢はない。このタクシー群の中でどれかを選ばなければならない。この駅前付近は本当に暗い。怖い。一人で先に歩ける状態ではない。私は恐れをなしてしまい、150元の言い値で承諾してしまった。
タクシーは早朝、まだ空が暗い中を走る。柳園から敦煌への道は、ほぼ直線道路である。時速100キロくらいで走る。ちなみに柳園~敦煌までの距離は130キロ以上はあると思われる。これは、タクシーに乗っているとき、道路の標識に「敦煌:128キロ」と書いてあったからである。道はひたすら真っ暗。ネオンや街灯などは一切無い。民家もまったく見受けられない。時々対向車がすれ違うだけ。私はタクシーに乗りながら不安になった。これは本当に敦煌に向かっているのか?どこか人けの少ないところに走らせて停めて、私を脅して有り金を巻き上げようとしているのではないか?などと不審に思っていると、30分くらい走らせたところで、車を急に側道に停めるではないか。周りは明かりは一切なし。道はただひたすら直線に伸びている。対向車も非常に少ない。「これはヤバいか?」と警戒していると、タクシーのおっちゃんは「眠くなった」というような事をいって、車を停めて外にでた。外はほんのりと寒い。寒気を身に当てることによって眠気を覚まそうとしているのだろう。襲われるのではないということがわかって、ホッとした。さて、私もその時一緒に車の外に出たのだが、空が凄い事に成っている事にこの時初めて気づいた。空はまるでプラネタリウムのように星、星、星であった。月明かりで影ができるような夜の明るさを経験された方もいるだろう。あれに似ている。星明かりで影ができるほどは明るくない。しかし満天の星空である。天の川がハッキリ見える。天の川が白い。そう白く見えるのだ。英語で「ミルキーウェイ(ミルクの道)」と言うが、まさにその喩えの通り、ハッキリと白い帯が見える。四方には街灯や明かりがまったくない。しかも敦煌あたりは砂漠が近く、田舎で空気も澄んでいる。その気候がこれほどの星空を作っているのだろう。オリオン座を発見する。だが、オリオン座の中に無数の星を発見できるほど、多くの星が見えるのだ。日本でオリオン座を見ると、ベテルギウスとシリウスがよく見えるだけで、あとはスカスカ。オリオン座の中にある星などは見えず、ただ暗闇だけであるが、ここ中国柳園付近はそうではない。天の川が、まるで夜空にかかる「雲」のように、ハッキリと識別できる。これには本当に感動した。
さて、2時間が過ぎ、タクシーは敦煌市内まで来る。まだ夜明け前なので、町は暗い。街灯はついているが、人は活動している時間ではない。北京や西安とは大違いである。いよいよ西域に来たな、という感じがした。さて、タクシーのオヤジはこの辺りからそわそわし出した。私はタクシーに乗るときに、行き先を敦煌市内の○○ホテルに行ってくれと注文したのだが、いざ到着してみると、そのホテルは閉まっていた。私はもともと別に、ホテルに泊まるつもりはなかった。既に柳園に到着した時点で、次の行き先である吐魯蕃(トルファン)行きの切符を買ってしまっていたから、敦煌のホテルなんかに泊まるつもりは毛頭なかったのである。タクシーも2時間で150元という金額は、そんなに安くはないと思っていたので、敦煌の町まできたら、別のタクシーを探そうとしていたのだ。だから、ホテル前についた時点で、このオヤジとはおさらばしようと思っていたのである。だが、オヤジには「ホテルまで頼む」といってしまった以上、彼は代わりのホテルを探し出した。正直迷惑な話で、オヤジは「ここが良い」とか言い出して案内しだす。オヤジがそわそわしている。そうする理由は明らかだ。彼は私にホテルを確保させて、すぐにでも観光に連れ出したいのだ。要するにタクシー代を稼ごうと考えているのである。ここに至って、私はこのオヤジが疎ましくなってきた。オヤジ困ったことに一緒にロビーまでついて来るではないか。レセプションで私に代わって値段まで聞いている。額は忘れたが280元くらいだったと思う。高い。もともと泊まるつもりがないので、私は拒否してホテルを去る。

さて困った。もういい、あとは自分で探すというそぶりを見せても、このオヤジはなかなか私を放さない。「見つけた獲物は逃がさない」という感じの執拗さである。とはいえ、私としてもまだ暗い敦煌の街中で、タクシーを捜すのは心細い。そこで、このオヤジに敦煌の観光地である「莫高窟」まで連れて行ってもらってもいいかな・・・と思い始めた。執拗なオヤジの押しに負けたという感じだったかもしれない。値段をきくと往復で150元。ガイドブックには往復100元が目安と書いてあったので、高い。交渉するも、なかなかしぶとく値下げを受けないので、片道の75元にすることにした。帰りは違うタクシーを拾っていこうと考えたからである。
さて、交渉について一言。やはり交渉というのは「他にも選択肢はある」という状況下で行わないと負ける可能性が高い。故に早朝とか深夜などに交渉するのは極力避けるべきである。人がいないということは、それだけ心細くなり、交渉も有利に進められない。決裂を恐れてしまう。



さて、タクシーは莫高窟に向けて走り出す。莫高窟とは仏教遺跡のことで、これが作られ始めたのは五胡十六国の乱の頃である。三国志の100年ほど後の時代である。三国志は、魏の家来であった司馬懿がクーデターを起こし、その孫の司馬炎が「晋」の皇帝となる直前に終わる。その後、晋は内紛が起こり、江南に逃れ「東晋」になるが、華北は遊牧民族の打ち立てた王朝の勢力争いによって混乱期を迎える。
まず漢王朝と遊牧民族匈奴の王家の血が入った「劉淵」が、漢を打ち立てる(これは劉邦の漢とは連続していない)。その子が後継争いで内紛が起き、後継者争いに勝った劉淵の子孫が「趙」という国を打ちたて、皇帝に即位するが、後年家臣の裏切りによって趙は「前趙」「後趙」に分裂し、家臣の打ち立てた「後趙」に「前趙」は滅ぼされる。これも遊牧血統による王朝だが、ここにきて漢族のレコンキスタが始まり、漢人が反乱、「魏」を打ちたてる。(曹操の魏ではない。後の魏である)だが、この魏も傍若無人に振舞ったために、漢人にも背かれ、遼西から入ってきた鮮卑の部族が打ち立てた「前燕」に領土をもぎ取られていく。また同時に西側では、氐よ呼ばれるチベット系の遊牧民が打ち立てた「前秦」という国が同じく魏の領土を奪い、こうして魏は滅亡し、華北の西に前秦、東に前燕という国が睨み合う形となった。結果としては、西の前秦が前燕を圧倒して華北を統一することになるのだが、莫高窟はこの「前秦」がこの地を支配する時代に作られたようである。西暦355年、あるいは366年頃といわれている。隋、唐の時代もこの寺院は存続し、宋~元の時代になって廃れ、忘れられた存在になっていったという。莫高窟が栄華を誇ったのは4世紀~10世紀頃までの500年間といえる。

さて写真は、早朝の空。莫高窟手前の公安詰所においてである。来るのが早すぎたとみえて、まだ入場できないので、1時間ほどここで時間を潰すことになった。




莫高窟の拝観料は160元。しかもここでは撮影禁止となっている。カメラは持ち込むことができない。窟内は勿論、入場したら外からでも撮影はしてはいけない。うるさい公安が、まわりをウロウロして見張っている。写真は入場前の柵の外から撮ったものである。まぁ、この後iphoneで、盗み撮りすることになるのだが・・・。ここでタクシーのオヤジとはお別れする。妙に寂しそうな顔をしていたが、もう空は明るく、人も多く、タクシーも沢山いたので仕方がない。ここで日本のように甘い顔をしていると、トコトンまで付込まれるので、スイッチを切り替えて「帰りは遅くなるのでここでいいよ、じゃーね」と心を鬼にして断った。
外国では人格のスイッチを変えないと、カモられるので、精神的には疲れるけれどもビシッといわねばならない。






莫高窟といえば、この写真。あまりにも有名な建物の中には仏像が鎮座している。まるで奈良の東大寺のように、この中には巨大な仏像がいるのである。
その大きさは奈良の大仏よりも遥かに大きい。写真でお見せできないのが残念だがビックリする大きさである。




さて、iphoneでの盗み撮り写真については、次回に動画と共にUPしようと思う。


14:午後は町を散策

2010年10月16日 16時45分44秒 | 中国旅行記2010年8月
この日は、早朝からタクシーに乗って「天下第一墩」「懸壁長城」「嘉峪関」の三つの名所を回った。合計5時間ほどタクシーを乗り回した。観光名所でも、オヤジに駐車場に待ってもらっていたので、ほぼ半日タクシーをチャーターしたことになる。非常に便利なタクシーであった。さて、全ての観光が終わり、嘉峪関駅にタクシーが再び着いたのはお昼過ぎであった。タクシーのメーターは130元(1690円)付近を指していた。タクシーのオヤジは、さすがに安すぎたのかどうかは知らないが(駐車代金などもあったのかもしれない)、チップとして10元を求めてきた。つまり、5時間のタクシー料金の総額は140元である。中国ではチップの制度は無いことを私は知っていたが、さすがに半日チャーターの金額が140元であるということに少なからず驚いていたので、チップはやる気でいたのだが、相手から要求されると途端に渡したくない気分になってきた。損なことをしやがるタクシードライバーだな、と苦笑しながらも、まあここで問答をしてもあまり意味が無い。彼はボッタくっているわけではないのだから。半日で140元という金額は、おそらく中国人が利用するのと同じ金額かどうかは分からないが、かなりその金額に近いものだと思われる。実際、いままで利用したタクシーの中で一番安かった。

今考えてみると、北京到着日の深夜に利用したタクシーは高かったと思う。それは深夜割り増しを入れてもそうだった。僅か10数分の距離を乗って60元である。30元くらいが妥当だったのかもしれない。まぁ大都市のタクシーなので、値段が違うという要員もあるので一概に断じることは出来ないが・・・。

さて、嘉峪関で見るものは、おおよそ全て見てしまったが、時間がとても余ってしまった。次の目的地である柳園(敦煌最寄の駅)に出発する電車の時刻はあと12時間後である。12時間を何をして過ごすか・・・・。しまったな、もう少し時間をかけて一つ一つ観光しておけばよかったと一瞬後悔もしたが、それはすぐに打ち消された。というのは、この時点で私の旅の疲労はかなり蓄積されていたのである。西安でホテルに一泊したとはいえ、これまで私は列車の中で二泊もしている。そのうち最初の一泊は寝台車であったが、二泊目は硬座で18時間座ってきたのだ。さらに早朝からの観光が常にセットになっている。さすがにこの日は丸一日観光が出来るだけの体力は残っていない。体力の充電時間が必要だと感じたので、ホテルを探すことにした。もちろん翌日まで宿泊はしない。列車の発車時刻までの12時間の間、ホテルを利用することにしたのである。そうすれば数時間は眠れるからだ。
だが、財布を見ると残りの元が少なくなっている。これは両替しておかなければならないと思った。私の旅行スタイルは、早朝に目的地についてすぐに観光である。当然早朝は銀行が開いていない。だから、この時間を利用して銀行で円を元に換金する必要があった。さて、中国で外貨を両替するには、普通の銀行ではダメである。これは日本も同じ事。中国では「中国銀行」が唯一、外貨を元に交換できる銀行である。中国銀行は、だいたい町には一つ必ずある・・・・・が・・・・嘉峪関にある中国銀行は、駅からかなり遠いのである。距離して、片道30分はかかる。つまり駅から3~4キロメートルほど歩くことを覚悟しなければならない。換金に気づくのがもう少し早ければ、タクシーのおっちゃんに中国銀行で下ろしてもらえばベストだったのだ。「嘉峪関駅から中国銀行までは遠い」これは、嘉峪関に行かれる方は是非念頭においておくべきだろう。
さて、中国銀行に到着して、換金手続きに入るが・・・・これが非常に面倒くさかった。ヨーロッパで外貨を換金されたことのある人はご存知のことと思うが、だいたい西側の銀行では、パスポートを見せて、外貨を窓口に払ってサインをすれば、手続きは終わりである。ものの1分で終わる。だが、ここはアジアの国。西側ではないので手続きが長い。まずパスポートのコピーを取られる。宿泊先のホテルの名前も書かされる。日本の住所や電話番号までも書かされる。サインも三箇所くらいさせられる。そうして最終的に元を手にするまで、実に15分以上もかかった。何事にも時間の流れが遅い。ちなみにレートは1元=12.66円。悪くない。

さて、銀行から駅までの長い道のりを歩いていると、面白い看板に出くわした。




どこかで見たことのあるCGである。これはたしかファイナルファンタジーという日本のゲームのキャラクターのCGだろう。間違いなく日本のゲーム会社には許可を取ってはいないだろう。「これが噂のパクリ・・・・いや著作権無断使用か」と思った。中国の知的所有権に対する考え方のいい加減さは、日本国内のネットなどでよく聞いていたが、こうして現地に来てみて、それに該当するものを目の当たりにすると、なにか感慨深いものがある。非難の気持ちが起こるという前に、なにか笑ってしまうとうか、むしろ「おぉ~~私は中国に来たんだなぁ」という感慨の方を強く感じる。




昼食はこれ。メニューは、中国語の漢字の洪水で意味が分からないが、「チンジャオロース」という漢字だけは読めたので、それを注文する。
実物(写真)が運ばれてくると、ソースが赤い・・・・。トウガラシが何本も入っている。味は・・・もちろん辛い。これで料金はたしか25元(325円)くらい。
スープが8元くらいのくせに、やたら量が多い。いままで食事はマックとか吉野家などの多国籍企業のお世話になってきたが、さすがに嘉峪関のような田舎の町にはケンタッキーもないので、衛生的には極めて不安であったが、初めて中国の食堂を利用した。





食事をして、しばらく町をブラついていると、市場があったので覗く。内陸部の甘粛省の市場に魚が!!おそらく淡水魚なんだと思われるが、まさかこの地で魚を目にするとは思わなかった。これがどこから運ばれてくるのかは不明。今後調べてみる価値はあるだろう。

さて、ホテル探しである。中国では外国人は泊まれないホテルがある。早い話、宿泊料が安く、しょぼいホテルは外国人は泊まれないのだ。その指標として分かりやすいのが、ホテルの名前である。「○○大酒店」「××酒店」「○○飯店」と名前がつくホテルはOK。「××招待所」という名前がつくホテル(建物?)は中国人オンリーである。私はその事情は知らずに「招待所」に入ってロビーにいく。当然断られるのだが、ロビーには一泊の値段が書いてあるプレートがある。それによると、招待所の料金はだいたい30~50元である。
私が西安で泊まったホテルは138元。北京で泊まったホテルは360元。いかに外国人のホテルが高いかということが分かる。外国人が泊まれるホテルは嘉峪関の駅前に一つだけある。だが、生憎そこは満室であったので入れなかった。駅前には招待所はナンボでもある。駅から3キロほど歩けば、外国人が泊まれるホテルはあることにはあるが、そこは大体高級で、一泊300元(3900円)くらいはするだろう。日本の感覚では一泊3900円は安いだろう。だが、私はこの日、タクシー料金の真の値段を知ってしまったし、招待所の値段も知ってしまった。旅行をして4日くらい経つが、そろそろ中国の物価というものが分かり始めてきたので、200元以上もするホテルには泊まる気にはなれない。北京では一泊1000元以上するホテルもザラだが、そんなものはカモられているとしか思えない。そういうホテルはビジネスで使うホテルであって、旅行で使うとしたら、それは老後の余生を過ごすときくらいである。
私は体力的にはそろそろ限界を迎えていたが、ホテルの料金は妥協するわけに行かなかったので、招待所も含めて10軒くらい当たってみた。すると、一泊60元(780円)という、招待所クラスの値段で、外国人が泊まれる旅館が見つかったので、ここに決めた。この料金は、この中国旅行の全旅程の中で一番安いホテルであった。(ドミトリーのような多人数部屋は除く)

さて、ホテル(旅館)で23時頃まで過ごす。列車は24時の半ばごろ出発だ。いまや体力の充電は完了し、再びやる気がみなぎっている。




嘉峪関の駅の待合室。電光掲示板には中国語で注意が書かれている。もちろん中国語で書かれているが、そこそこ何が書かれているかは分かるのが、漢字を使う日本人の特権である。





北京や西安の駅と違って、嘉峪関の駅はご覧のような古めかしい佇まいである。20世紀中旬くらいの風景のようだ。

13:懸壁長城(けんぺきちょうじょう)

2010年10月12日 22時42分54秒 | 中国旅行記2010年8月
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嘉峪関市の見どころのもう一つは懸壁長城である。中国には観光地「懸壁長城」が二つあるという。一つは本物で、一つは偽者というものだ。だが、この表現は実はあまり正しくない。正確には「国が再建した長城」と「個人が私財を投じて再建した長城」である。俗に前者を本物といい後者を偽物というが、両方とも元々あった頂上を修復したものなので、どちらも本物といえる。前者の修復は1980年代。後者は2000年代に入ってのものだろう。この事実を私は迂闊にも帰国後に知った。私が登った長城は、俗に言う偽者、すなわち個人が私財を投じて再建したものである。嘉峪関と長城は、明の時代に建設されたものである。ウイグル、モンゴルの後継国家などの脅威から国土を防衛するべく作られたものである。



北京郊外にある万里の長城とは比較にならないほど小さいものだが、こうして遥か西側(ほぼ最西端に近い)ところまで長城を設置する執念というか、遊牧王朝に対する恐れというのは、尋常なものではないことがよく分かる。



クロアチア旅行記でも、切り立った山に這うように城壁が設置されていたが、ここでも同じような光景を目にすることが出来る。クロアチアの隣はハンガリーやブルガリアだが、やはりあのあたりも遊牧王朝の西側の勢力限界線であることを考えると、あれも地中海の勢力からの防衛というよりも遊牧民の西進を恐れて設置したと見るほうが正のではないか?という想像というか妄想が沸いてくる。このあたりは是非研究してみたいテーマではある。




長城から真北側の眺めは、見渡す限りの大草原である。ここから北に100キロほど行けば、そこは甘粛省と内モンゴル自治区の境目である。そこからさらに300キロメートルほど北に行けば、そこはもう中国・モンゴルの国境である。世界地図帳を見ると、この辺りは「黄土色」で塗られている荒涼とした大地を思わせるが、実際に来て見ると意外と所々に草原があるのである。なるほど、これをみれば確かに騎馬が展開するのに適した土地である。明もそうとう手を焼いたに違いない。




どこまでの続く長城。嘉峪関に繋がっている。



いよいよ嘉峪関市の観光名所「嘉峪関」に到着。
西域における主要な関所の一つ。現存する西域の関所の中で最も保存度が高い関所である




右側に見える壁が長城。これは先ほどの懸壁長城までずっと続いている。



嘉峪関の西側の門である。高い。壁も分厚い。堅固な門である




西域での長城ならびに関所の建築は「版築」という技術が使われている。
版築とは、土壁や建築の基礎部分を堅固に構築するために古代から用いられてきた工法である。
製造方法は以下のような手順で行う。

  1. 版築を作る部分を決め、両側を板などで囲み枠を作る。板の大きさは長さが1.5m程度、高さは高くても10cmぐらいである。一回の高さは薄いほうが頑丈である。枠は横に支えになる柱を立てるなど、強い構造にする必要がある。
  2. 板で挟まれた間に土を入れる。より頑丈にするために土に小石や砂利、藁や粘土を混ぜることもある。
  3. たたき棒や"たこ"と呼ばれる道具で、入れた土を硬く突き固める。1.で両側の板を強い構造にする必要があるのは、このためである。
  4. 板の高さいっぱいまで突き固めたら、板の上に新しく板を継ぎ足すか、今の板を外し次の枠を作る。

以上wikipediaからの抜粋

つまり、両側に板を板で囲み、そこに土を流し込んで、突いて固めるという技法だ。子供が砂場で二枚の板を使って砂のお城の壁を作るのと同じようなやり方だ。ただ砂と違って、西域ではより粒子がきめ細かい黄土を使用する。きめ細かいので、しっかりとした壁に仕上がるワケである。この工法は安く仕上がるのが最大のメリットである。しかも、この土地は雨がほとんど降らないので長持ちする。そういえば、この技法は我が国の重要文化財でも用いられている。法隆寺の築地塀などがそれだ。特徴は、水平方向に線が入っている。板の境目に段差が出来るので、壁に線となって残るのである。古くは吉野ヶ里遺跡からも版築がみつかっている。秦の時代の長城は、版築で作られていた。

しかし、それにしてもこの壁の高さと厚さはすごい。いかに明の時代に作られた建物とはいえ、さすがは中国・・・いや大陸文化のすさまじさよ。城壁における我が国と防衛思想が違う。これはヨーロッパにおける城壁に通ずるものがある。










長城は遠くさらに北の方へ真っ直ぐ伸びている。遥か遠くに見える雪を湛えた山脈は、チーリエン山脈である。



嘉峪関の遠景。


12:嘉峪関

2010年10月07日 04時31分32秒 | 中国旅行記2010年8月
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列車は朝6時に嘉峪関駅に到着。嘉峪関。ここは河西回廊の西側出口付近にある町。甘粛省の西の奥。ここから西に500キロメートルも進めば、そこはもう新疆ウイグル自治区である。嘉峪関の駅は小さく、駅前にも高層ビルはない。駅から観光地は遠くて、なかなか歩いていける距離ではない。さて、駅に着いから最初にやっておかねばならない仕事は、次の駅に行く切符を購入することである。くどいようだが、中国では列車の切符は入手しにくい。かつての国鉄よろしく、切符の売り手のほうが強いのだ。その証拠として、旅の最中に出会ったエピソードをここで一つ紹介することにしよう。
いつものように私は切符を買おうと列にならぶ。この時並んでいる人は少なくて、私の一つ前に並んでいる中国人が窓口にいる。その中国人はどうやら窓口の係員にクレームをつけているようだった。私は中国語が分からない。何の内容の話を喋っているのかも分からない。だが、言葉が分からなくても、雰囲気で分かるようなことはいくつもあるのだ。

中国人の客:○×△■(不満そう)
中国人の客:□☆●!(イライラしている)
中国人の客:×▲□××●○!!!!(イライラしている)
係官:▲□○×(ムッとした顔)
係官:×▲▲□□!!!(キレ気味)
係官:□○○×▲▲!!!!!(相手の言葉を遮って、キレ気味で話している)
係官:○×△▲□××○×▲××▲▲!!!!!!!(キレている)
係官:○●□▲▲!!!(まだもキレている)
中国人の客:▲□●×!(係員の反応にドン引きして、やや元気がなくなりながらも食い下がる)
係官:××●▲▲□!!!!!(すかさず反撃。怒っている)
しばし沈黙・・・・
中国人の客:●▲□……(かなり弱弱しくなってきた)
係官:●×! (短い言葉で強い語調)
しばし沈黙・・・
中国人の客:(お金を弱弱しく払う)
係官:(切符とおつりを放り投げるようにして返す)
中国人の客:(それを何も言わずに無言で受け取り、すごすごと窓口を後にする)

何の会話がなされているのかは分からないが、その力関係だけは明らかである。すなわち係官の勝利である。後ろに並んでいるお客は、その光景を見ても文句を言わない。恐るべし、中国の係官。百戦錬磨の猛将である。そりゃ切符を「売ってやる」という立場だから、無敵なのであるが…。
私の番に来た。第5志望まで書いたが、切符は「メイヨー(無い)」寝台車は全滅。硬座のみだという。今まさに18時間の硬座に乗ってきたばかりの私としては、「うそ~ん」と言いたくなるほど厳しい審判を受けたのである。嘉峪関駅から、次の目的地の柳園(敦煌最寄の駅)間の列車での所要時間は4時間半である。出発時刻は深夜の24時。「また夜を硬座ですごさないといけないのか…」と思い、気分が滅入る。が、それしか選択肢は無いので買うことにした。柳園への片道切符の値段は44元(572円)。4時間~4時間半の電車にのって570円前後の金額とは安い。千葉~東京間の運賃が650円であるから、その安さがよく分かるであろう。
さて、嘉峪関観光の話に戻る。到着は朝の6時なので、駅周辺にはひとが殆どいない。列車の乗降客くらいしか見当たらない。まぁ、それが普通なのである。いままで北京や西安などを見てきたが、朝の6時ごろから人ごみでごった返していた。あれが異常なのであって、通常はこの嘉峪関駅のような光景であろう。さて早朝の駅には、タクシー乗り場には無数のタクシーが列をなして停まっていた。中国人の乗客は、当然のようにそのタクシーを使って、それぞれ家路を目指して帰っていく。そこには公安警察が1人いて、タクシーの誘導をやっている。乗客は次々とタクシーに乗っていき、タクシーは次々と駅に到着するという光景が続く。私は当初、観光地までは歩いていこうかなと思っていたが、この光景を見てタクシーを利用することにした。というのは、このタクシーを現地の人間が使っているからである。しかも公安までいるということは、これはボッタクリのタクシーの類ではないからである。
タクシーでまず最初に案内してもらったのは、天下第一墩である。


天下第一墩。この手前まで万里の長城は延びている。だが、さすがに北京~嘉峪関までの全ての地を一本の線でつなぐように長城は伸びているわけではない。中国は山あり、谷ありの峻険な地形が多い。400メートル規模の山には長城も張り巡らせれているが、1000メートル以上の山には流石に設置しない。自然の要害を巧みに利用している。そして、ここ天下第一墩も、渓谷そのものが長城の役割を果たしているので、長城はこの先には無い。



位置関係が分かりやすいように、グーグルアースの画像を添付する。天下第一墩と書いてあるのが上の写真の位置である。地図上でもハッキリと渓谷が見える。この渓谷は遠く南の山脈「祁連山脈(チーリエン山脈)」まで伸びている。河西回廊(甘粛省)が細長くなっている理由は、その南の境にはチーリエン山脈が西から東へ伸びており、北には広大なゴビ砂漠が広がる。分かりやすく説明するために、もう一つ地図を紹介する。




河西回廊は、ゴビ砂漠の南端とチーリェン山脈の北端の間にある狭い「回廊」である。地形をみれば分かる通り、モンゴルと中国の国境線は西からアルタイ山脈、ゴビ砂漠、東の大興安嶺山脈といった峻険な地形によって分断されている。天山山脈から西は現在のカザフスタン共和国である。ヒンドゥークシュ山脈から西は現在のアフガニスタン、パキスタンである。南のインドとの国境線はヒマラヤ山脈を境にして分断されている。漢族にとって西との交易ルートは、事実上河西回廊を使用する他は海のルートを通るしかなかったのだ。そういった意味で、河西回廊を支配することは漢族にとっては戦略的に極めて重要であった。ここに嘉峪関という関を設けた理由もよく分かる。長城も西の果ての場所が敦煌のすこし西側までというのも、タクラマカン砂漠があるのと関係があるという事だろう。タクラマカン砂漠から西側の山脈を越えれば、そこはもうサマルカンドであり、そこはソグド人がいるペルシャの国である。嘉峪関以西の陸のシルクロードのコースはタクラマカン砂漠の南側を崑崙山脈・カラコルム山脈・パミール高原沿いのオアシスを西に進み(このルートも北に砂漠、南に山脈の細長い回廊である)、中央アジアに至るコースである。これが漢族の陸の交易ルートである。もしくは天山山脈の北麓を進む(トルファン・ウルムチを越える)天山北路を通るルート。または、楼蘭を通りタクラマカン砂漠の北側(天山山脈の南側)のオアシス都市を抜けていく漠北路を通るルートである。だが一番安定したルートは最初に書いたようにタクラマカン砂漠の南側を抜けるルートである。北の道にいけばいくほど、遊牧民との勢力争いが激しい地域になるので、北の道は時代によって使えたり使えなかったりしたのである。

では北方の遊牧民の交易ルートはどうだろうか?匈奴・鮮卑・突厥などの遊牧民は現在の内モンゴル自治区~モンゴル・極東ロシア一帯の広大な土地に広がっていた。彼ら遊牧民が西と交流・交易する為のルートはおもに二つ。一つは河西回廊である。もともと河西回廊は「月氏」とよばれる遊牧民が支配していた。それを匈奴の冒頓単于が奪い、そして遥か後年に漢の武帝に奪われることになる。漢の西に対する陸の交易ルートは、前述した通り河西回廊を通過し、タクラマカン砂漠の南側コース、北側コース、天山山脈北麓コースを通る。匈奴がまだ河西回廊を支配していた時は、この交易ルートも遊牧民は使っていた。これが遊牧民の交易ルートの第一。
第二は、いわゆる近年言われている「北のシルクロード」と呼ばれる道である。これは天山北路の事を指しているのではない。上の地図ではもはや表現しきれないので、文章で表現すると、モンゴルの大草原を西に行きアルタイ山脈北麓を通って西に行くルートもあれば、バイカル湖あたりから草原の道をつかって遥か西側、すなわちカザフスタン共和国の北端あたりを越えて、カスピ海の北側を抜けてイスタンブールに続く道を移動するコースである。カザフスタンの平原を南に降りると、そこはかつてパルティアと呼ばれた国があった地域である。もしくはアケメネス朝ベルシア、ササン朝ペルシアのあった地域である。

話が広がりすぎたので、元に戻そう。天下第一墩はこのような場所である。この場所から北側には、長城が嘉峪関と呼ばれる「関」までずっと続いている。



これが西域の長城である。土壁、土塁に近い。北京郊外にあるような長城とは違って壁も低い。2メートルほどである。
写真の左側奥に見える雪を湛えた山脈は「チーリエン山脈」である。あの山脈を越えたところは、もうチベット自治区である。



西域の崩れかけた長城に登る。私は北京郊外にあるシッカリとした石で建てられた長城よりも、この無骨でショボイ西域の長城の方が味があって好きである。長城は遥か北、嘉峪関を貫きさらに北に伸びている。写真を見てお分かりの通り、ここは砂漠と草原が混在した地域である。砂漠といっても、ここは我々のイメージするところの砂砂漠ではない。礫砂漠である。ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠などは文字通り砂砂漠で、そこは植物が生えず、人がまったく住めない地域であるが、礫砂漠の場合は、植物などもちらほら見える。また地下水がある場所ではオアシスなどが形成され、付近には草原なども見られるのである。このように、砂漠といってもイロイロな種類があるのだ。

嘉峪関の「関」についてのレポートは次回にまわします。

11:食とトイレ事情

2010年10月03日 05時40分02秒 | 中国旅行記2010年8月
写真は西安での朝食。
李先生という屋号の、中国で300軒もあるチェーン店で肉ラーメンを注文した。値段は15元。だが、このラーメンには余計なものが入っていたのである。それは…「小蝿」。油でカリカリに揚がった小蝿の死骸がスープの表面に浮いていたのである。返金を主張しようと思ったが、中国といえば毒入りギョーザ、毒入り歯磨き粉、廃棄物入りおもちゃで有名な国である。返金交渉はとても疲れることになると思ったので、クレームをつけてどんぶりを取り替えてもらおうかと思ったが、その考えは3秒で撤回した。小蝿は見れば、油でカリカリに揚がっている。これは後から混入したものではない。スープ鍋の中でじっくりと煮られたものに違いない。ということは、取り替えられても、そのスープにはハエのエキスが入っているワケで、まったく意味が無い。店内には「李先生の創業のビデオ映像」が流れていたが、すべてが空々しく思えてしまった。300軒のチェーン店といっても、中国ではこんなものである。私のどんぶりにハエが入っていたのは、天文学的な確率ではあるまい。おそらく1/1000以上ではあるまい。鍋にハエが入るのなんかは、日常茶飯事であろう。そういう文化の地域でわめき回しても、相手にはこちらの感覚は理解できまい。


さて、次はトイレ事情である。中国のトイレには紙がない。紙は自分で用意しなければならないのだ。自分の腹具合、便意具合をよくよく見計らっておかないと、中国ではヒドイ目にあう。中国のトイレで紙がある施設は、空港かマックなどの外資系の店しかない。それですら、トイレのロールタオルのように、器具の中にトイレットペーパーが収納されており、使う分しか引き出すことが出来ない。こういうつくりにしておかないと、トイレットペーパーを盗っていく輩が多いのであろう。勿論列車のトイレには紙がない。
中国を旅行するなら「ティッシュ」は必須アイテムである。しかもこの国のトイレは非常に不衛生だ。列車のトイレなど、前の人のしたウンコが流れずに、そのまま便器に張り付いている時などがある。さすが後進国である。モラルにおいても後進国である。

10:車内

2010年09月27日 04時33分17秒 | 中国旅行記2010年8月
EF24-1405mmF4L

18時間の乗車と一言でいうが、これは成田~ヨーロッパの飛行時間よりも長い。面白いのは電車の様相である。午後1時近くに出発した時は、車内は活気にあふれていた。会話が弾み、食事も朗らかに、そしてゲームにも興じる。その風景は中国もヨーロッパも同じである。何よりも凄いのは異邦人に対する興味である。この列車には、日本人は…いや外国人は私しかいなかったであろうと思う。この車両には、ではない。この列車には、である。駅の待合室でもそうだった。日本人はまず見ないし、外国人もそうそう列車を使わない。観光地ではかなりの数の外国人とすれ違うが、鉄道ではとんと見かけなくなる。私が外国人だと分かると、そして日本人だと分かると、もう質問攻めである。どこへ行った?何歳だ?結婚しているのか?どこへ行くんだ?何日くら滞在するんだ?などなど、筆談を交えて取り留めの無い会話であるが、それが2~3時間くらい続く。だが流石に18時間も続きはしない。昼間の列車の様相はこのように明るい。だが、乗車も10時間くらい経つと、車内の様相は変わってくる。皆疲れきってくるのだ。そりゃそうだ。いくらインフラの整っていないのが当たり前の中国といっても、やはり18時間の乗車はキツい。体力的なものはところ変わっても同じものらしい。ちょうど夜の24時を回る頃には、みな座席でコックリ、コックリとクビを振りはじめる。横になって眠れない苦痛は、かなりのものである。眠ろうにも体勢が維持できないので、途中で倒れそうになって目が覚めるのだ。それを4~5回ほど繰り返すと、眠りたいのに眠れないというイライラと疲労がドッと出るのである。深夜の車内は異様なほど、皆憔悴しきっており、言葉を発するものは誰もいなくなる。だが列車は走り続け、時折駅に停車して乗客の乗り降りがある。深夜に列車に乗り込むお客は、あまり愉快なものではないだろう。とにかく車内が暗いのだ。照度が、ではない。車内の空気がどんよりと、重く暗いのである。目を明ける、足を動かすのも億劫な乗客が殆どだからだ。列車に10時間以上も滞在するというのは、思いのほか疲れるのである。これはなかなか文章では説明しづらい。

写真は昼間の外の風景。列車は陝西省をこえて甘粛省に入る。甘粛ではこのような風景はどこでも見られるものだ。山間が深く、黄土を含んだ河が流れる。



さて甘粛省といわれる所はどこにあるか?
この地図の赤い線で囲んだ場所が甘粛省である。画像の右下に「西安市」と書いてあるのが見えるだろうか?列車はそこから蘭州をぬけて、武威をこえて、酒泉まで行く。めざす目的地の嘉峪関は、酒泉からさらに西に40キロぐらい行ったところにある。さて甘粛は、ご覧の通り、非常に細長い回廊をもった省である。この細い回廊を河西回廊という。
秦・漢の時代、甘粛は「涼州」と呼ばれていた。宋の時代に甘州と粛州の二つの州ができて、後年それらが一つに纏められて「甘粛」となったようである。この地は昔からモンゴル系、回教徒などが多い地域であり、遊牧民の文化などもかなり流入している、いわば中国らしくない地域である。秦・漢の時代の西の領土の端はこの州であり、甘粛最西部にある「敦煌」から先は、もう外国であった。

秦・漢と匈奴の長きにわたる勢力戦いは、オルドス地方(現在の内モンゴル自治区)と、ここ甘粛において頻繁に起こっていたのである。匈奴の命脈が絶たれたのは、漢の武帝が張騫を西の大月氏を派遣して同盟を結んで匈奴に共同戦線を張った事と、ここ河西回廊を通って西域(敦煌まで)を切り取ったことが原因とされている。この道は交易・経済のルートだったので、いくら遊牧民の匈奴とはいえ、いや遊牧民だからこそ、物資の交換などの交易を必要としていた。つまり匈奴は補給戦を絶たれて、そして負けたのである。
だがこの地は、その後も遊牧国家によって取られたり、取り返したりを繰り返した。漢族による限界線、すなわち漢族の共同体の限界線は実はここなのである。現在の中華人共和国は、ハプスブルク帝国のように多民族国家である。ハプスブルクの支配者層たるゲルマン民族が、オーストリア周辺くらいまでのごくごく小さい領域までの範囲しか支配できていなかったように(ハンガリーやユーゴスラビアなど、ハプスブルクは広範囲の帝国を築いていた)、中国も漢族という支配者層がいる範囲の西側の限界線は、ここ甘粛なのである。

さて、先ほど「武帝が張騫を大月氏に派遣して、これと同盟を結び」ということを書いたが、「大月氏」とは「おおつき氏」と読むのではない。そんなプラズマ教授のような名前の国ではなく「だいげっし」と読む。この「大月氏」というのが遊牧民族名なのか国家名なのかは良く分かっていない。匈奴・鮮卑・モンゴルというのも、これも同じで「民族名」か「国家名」という区別は、この時代においては極めて曖昧な存在であった。つまり、匈奴に属していた遊牧民族も、鮮卑に仕えれば、それが「鮮卑人」になるわけだ。後のモンゴル帝国をみれば明らかなように、彼らは様々な遊牧民族を「モンゴル」という統一した呼び名の下に結集させた。大月氏も、規模の違いはあるにせよ、これと同じ状況であったと思われる。言語的にはテュルク、イラン、チベット、モンゴルのいずれか?ということになっているが、良くわかってはいない。
ただ、「月」という漢字が置かれているのは興味深い。私はテュルク系の言語の人間が支配者層に多かったのではないかと推測している。なぜなら「テュルク」は「トルコ」の事を指した言葉で、このテュルク系民族は、古代においては中央アジア~東北アジアの一体に広がっていた。近年「トルクメニスタン(西トルキスタン)」「トルコ共和国」「東トルキスタン(ウイグル自治区)」という国があるが、これらの国の国旗には「三日月」が描かれている。テュルクのトレードマークは「三日月」なのである。そうすると「大月氏」の「月」という文字は、やはりテュルクと見るのが正しいのではないか?と思うのである。

このように、甘粛という場所は古代から戦略的・地政学的にも極めて重要な地であった。それは現在においても変わらない。甘粛省と隣接している省は「内モンゴル自治区」「寧夏回族自治区」「ウイグル自治区」「青海省(かつてのチベット。本当はチベット自治区はここまであった)」である。漢人とそれ以外の民族の境に位置している省。それが甘粛である。簡単にいえば、ここは漢人が他民族から切り取って自分の領土にした地域であり、風土、景色、文化などは、完全に非中国、すなわち外国である。それはこの後にUPしていく写真をみれば良く分かっていただけると思う。お楽しみに!



さて、この若干イケメンの好青年は、私が西安駅の待合室で知り合った西安出身の中国人である。彼は日本語がなかなか上手い。以前にも書いたが、iphone3GSを持つ金持ちである。彼は働いていないので、おそらく両親が金持ちなのだろう。この時間帯は既に夜の21時は回っている。この時点で乗車してから9時間は経とうとしているが、その表情はさわやかで崩れてはいない。不思議なもので、会話をしていると長時間乗車している疲労をあまり感じなくなる。彼の席は隣の車両だったが、夜になって遊びにきたようだ。
この時になって気づいた。そうか、彼に翻訳を頼めば、昼間の中国人との会話も、筆談ではなくて、もっと濃密にできただろうに…、と。そこで、また2時間程、彼という通訳を使って中国人とのしばしの会話に華をさかせた。この席で、彼と意気投合し、「ウルムチで26日に会おう」という約束をした。彼は一足先にウルムチまで行ってしばらく滞在する。私は4、5日後にウルムチに行く。つまり4、5日後にウルムチの駅で再会しようという事になった。私がウルムチに向かう列車の切符を買って、その発車時刻が分かったら、彼に電話するという手はずになったので、彼の電話番号を聞き出した。
さて、中国で電話をかけるという、またやったことのないことに挑戦することになったが、それは後日の話である。とりあえずは、ウルムチでの再開を約束した。





次回予告!
ついに甘粛の西側、嘉峪関に来る。
そこはもう、中国的なものは殆ど感じさせない砂と瓦礫の大地の世界だった。北京から2500キロも離れた場所にそびえる「シルクロードにある万里の長城の姿とは??」
乞うご期待!

9:中国人親子

2010年09月23日 15時46分54秒 | 中国旅行記2010年8月
西安出発の日。向かう先は西域「嘉峪関」である。嘉峪関は北京から2000キロ以上離れている所だが、そこにも万里の長城は続いている。万里の長城の最果てをかねてから見たい。それが今回の旅行の目的の一つでもあった。
さて、写真は西安駅での一コマである。中国人の娘と父親である。どこの国に行っても子供はカワイイ。子供はめずらしいモノには興味津々で、異邦人たる私と私が持っているカメラをマジマジ見ていた。娘はスレていなかったので、まあ可愛かった。そこで親子でバチリとカメラを撮る。
この写真、よくよく見てみると、父親の顔がだれかに似ているのが分かる。チュートリアルの福田にソックリな顔である。現地にいた時には気づかなかったが、こうやって撮った写真を改めてみてみるとよく似ている。



多少恥ずかしがっているのか、それともポーズを取っているのか、なかなか良い表情の写真が撮れた。



さて、本日は西安発~嘉峪関着の列車に乗る。所要時間は18時間。長い。しかし寝台車の切符は買えなかったので、硬座で18時間を耐えるしかない。出発時刻は10時のハズだったが、列車到着が遅れている。写真の中の電光掲示板に書いてある「晩至」というのは、遅れているという表示であるが、どの列車も次々と「晩至」に変わっていく。この国では始発でない限り、まず長距離列車は定刻どおりに出発できない。「晩至」の表記の後に時間が書いてあるが、私の乗る列車は、もともと10時27分の発車であった。それが11時に変更され、11時半に伸び、最終的には12時半となるのである。ムカつくのは、その遅れの時間を小出しにして知らせることである。11時に変更するときに、すでに11時なんかには着きっこないことは鉄道員は知っているハズである。だが小出しに11時と掲示板上に表記される。そして10時50分頃に、11時30分とまた小出しに変更される。そして11時15分くらいになると、12時30分と「元々から分かっていた遅れ」をここで初めて公表するのである。
この待合室では、およそ10本の列車の時刻は表示されていたが、その10本の中の実に6本くらいは「晩至」に次々と変更されていった。私の乗る列車は最終的には2時間遅れで到着する。
以上の内容から分かる通り、この国では列車移動による予定は立たない。乗り換えなんて怖くて出来ないのである。この国で私が感じたのは時間の流れがゆっくりであるという事である。この国を旅行するときは、かなり時間に余裕をもったスケジュールを立てることをお薦めする。この列車の遅れについてカリカリしてはいけない。これにカリカリするようでは、中国でのほぼ全ての事にカリカリすることになるからだ。高品質、高サービス、時は金なり、これらは先進国日本などの高度経済国では常識的な感覚だが、時間における貴重さの概念が我が国と中国では異なる。これは東南アジアの発展途上国でも同じことだが、なにをするにしても時間がかかるというのは、効率において極めて問題があるわけで、よって経済発展に対しても大きな支障がでるということであって、後進国の後進国たる所以であるので仕方が無い。
旅行にもし「高インフラ的な快適さ」を求めるのであれば、中国の内陸部には行かない方が良いかもしれない。上海あたりでは、おそらくこういうトラブルはないであろう。内陸・西域の旅行は「優雅」でも「インフラ的快適」でもないが、異文化や西洋化されていない風土を味わうことにおいては「快適」である。

この待ち時間中に、日本語のできる中国人と知り合った。彼は中国人の中では金持ちのようである。しかも年も若く20代だ。アイフォーンの3GSを持っているくらいである。日本にも行った事があるようで、日常会話程度の日本語ならば理解できる。彼も硬座席らしいのだが、行き先は私よりも遠いウルムチである。所要時間はおよそ28時間。28時間もよく硬座に座って行こうと考えたものである。彼とは乗車してからも会話が続き、後日ウルムチで合流しようと約束をした。彼についての話については、また次回の記事で機会があったら書こうと思う。



これが天下の西安駅のホームである。うーん古い。西欧の田舎の駅とちょっと似ている。今日の西安という都市は、意外と田舎なのか?しかし西安市区人口は420万人ほどいるので、大都市だと思うのだが…。



いよいよ18時間の乗車の旅が始まる。
とにかく、中国の列車には一人旅の外国人は殆どいないので、必然的に中国人の注目の的になってしまう。まぁ話しかけられるわ話かけられるわ。彼らは中国語しか出来ないが、まぁ話しかけてくる。私も筆談で応酬する。そんな事が2~3時間は続く。

8:兵馬俑

2010年09月18日 03時49分12秒 | 中国旅行記2010年8月
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ご存知、有名な兵馬俑の写真です。結論を先に言おう。これほど写真で見た風景のイメージと、実物との差を感じなかった観光地を私は知らない。まんまである。「どうせ幕張メッセみたいな展示場の中に、土に埋まった兵馬俑が綺麗にならべられて展示してあるだけだよ」と行く前には思っていた。実際に見てみてもその通りであった。

さて、この兵馬俑。元々は着色されていた。鎧の色は黒で紫の縁取りが入っている。秦の正規軍は黒かったワケだ。発掘直後はこの色が残っていたが、空気に触れたらあっという間に風化して、ごらんのような土くれの色になってしまったらしい。空気に触れても大丈夫なように保存する技術がまだ確立されていないという事なので、発掘は現在中止されている。よって始皇帝の石棺の場所も当然まだ土の中であり、どういう形でどういう色だか分かっていない。



さて、この始皇帝陵の一部たる兵馬俑が発見されたのは1974年。まだ36年程度しか経っていないが、この発掘によって秦の部隊編成や民族構成などが随分明らかになってきているらしい。それによると、秦の軍団は様々な民族の混成部隊だったそうである。秦は長年西戎と抗争を繰り返していたので、おそらく西戎の民族も流入していたであろう。匈奴などのテュルク系の民族も入っていたに違いない。という事はやはり遊牧民特有の騎馬術に長けた者も多かったに違いない。春秋・戦国時代などに秦が蛮族呼ばわりされていたのを考えれば、やはり秦も胡人と深いかかわりがあったのだろう。
なお、展示されている兵馬俑は、あくまで始皇帝陵の一部に過ぎないという。これよりも地下には宮殿もあるという話である。そこにも相当な数の兵馬の俑がいるのだろう。風化防止の技術が確立されれば、秦の時代の文化や軍制その他のことがもっと明らかになるに違いない。副葬品なども出てくれば一層秦の時代の詳しいことが解明できるであろう。早くそういう日が訪れて欲しいものである。



こちらの写真を見れば、俑の実物大の大きさが分かるであろう。あれ?なんか現代人と同じくらいの大きさのような…。まぁ細かい事はおいておくとしても、注目すべきはやはり馬と人の大きさの対比である。現代のように交配が進んでサラブレッド化した馬とは違い、かなり小ぶりである。これではおそらく最高時速でも30キロ~40キロくらしか出ないだろう。



発見された銅剣である。紀元前220年頃には、まだ銅剣を使っていたらしい。鉄剣もあったはずであるが、銅剣もまだ駆逐されてはいなかったようだ。そりゃ弥生時代にも鉄製農具は使われていたから、中国に鉄剣も沢山あるに決まっている。ただ驚きなのは、その先進文化のはずの秦が、この時代まだ銅剣も使っていたという事実である。鉄の武器が兵士の隅々に至るほど、秦も鉄が安価に生産できなかったのかもしれない。



中国には「槍」と呼ばれるものが5種類あった。これまで文書などからその存在は知られてはいたが、ここ兵馬俑にて発掘されて初めてその存在が考古学的に実証されたのである。左から順に「戟」「矛」「」「殳」「戈」。全部、大体が「ほこ」を意味する言葉だが、その名前と形が違っている。「戟」は良く見ると西洋のハルバードのような形をしている。「矛」は現在の槍の形で、「」はやや大ぶりな槍。「殳」は先端のみが変わった形で尖った槍である。最後の「戈」はピッケルとそっくりである。この中で日本に伝えられたものは「矛」の形状のものだけである。戟や戈は、我々日本人から見ると馴染みのない武器である。中国発祥というよりは、むしろ大陸には広く分布していたものなのだろう。西洋に広まったものはハルバードになり、ピッケルになったのであろう。これらの武器の発祥の地がどこであったのかは分からないが、おそらくは中東・ペルシャあたりなのだろう。



こういうものを見ていると、改めて俑とハニワの関係などが思い起こされる。
精巧さにおいて、はるかにこちらの俑のほうが凌ぐが、東アジアの辺境である倭の国の墳墓に埋められた俑(ハニワ)のレベルは、あの時代にはあのくらいだったのであろう。それにしても、この一体一体に色が塗られていたというのだから凄いことである。

7:西安

2010年09月14日 19時27分36秒 | 中国旅行記2010年8月
電車は3時間遅れで西安に到着。
西安駅に着き、まず真っ先にしなければならない事。それは次の目的地までの切符を事前に買っておく事である。早速売り場へいくが、寝台車の切符はもうない。硬座のみである。仕方なく硬座の切符で我慢することにした。

次は早速宿の確保である。駅前でホテルの勧誘している女の人の押しがあまりにつよいので、とりあえず無視し続けるのもどうかと思い、話だけでも聞いてみる事にした。曰く宿代は160元(130元くらいだったかもしれない)だという。しかも駅から徒歩で5分くらいの場所である。非常にリーズナブルだったのでそこに決めた。
どうやら、この女の人はホテルの従業員ではない。一日バスツアーなどの旅行案内のスタッフであるようだ。彼女らは私のような旅行者を、さっさと安そうな宿に案内し、バスツアーに勧誘しようとしているワケである。私としても西安に兵馬俑を見にきたので、バスツアーを利用しようと考えていた。

結論から先に書こう。バスツアーは使ってはいけない。
バスツアーの寄る場所は、驪山北麓、おまけ、おまけ、おまけ、鴻門の会跡、兵馬俑です。このおまけを含めると実に5~6箇所回ることになりますが、このおまけが限りなくヒドイ。まず土産物屋2店に寄る。昼飯屋にも寄る(高い)。子供だましのテーマパークに連れて行かれる(世界七不思議ハリボテテーマパーク)。これがおまけの正体である。
さて、このバスツアーの値段だが、ここで私は騙されてしまったかもしれない。というか多分騙された。ツアーの料金はバス代とは別で、バス代は40元なのだが、ツアー料金は280元もするのである。勿論このツアー料金は、入場料金も含まれている。兵馬俑は90元。驪山はロープーウェイに乗るのだが、この入場料はいくらかは分からない。鴻門の会跡の入場料金も分からない。おまけの入場料金も分からない。だが5箇所で280元なら、ひとつ平均で50元だ、お得だ、と思わせる戦法だったのだ。実は兵馬俑以外はクソで、おまけに至っては、金を払うのもバカバカしいものであった。特に世界七不思議ハリボテ博物館(?)のヒドさといったら、筆舌に尽くしがたいほど陳腐で幼稚だ。こんなものは子供騙しですらない。子供ですら騙せないほどの代物である。バス代40元+ツアー代280元=320元(4160円)はまったくありえない。さらにキタナイ事に、このツアー代の徴収は、ツアーバスが走り出してから20分後ぐらいに行うワケである。バスが走り出す前にこの話がでれば、全てご破算にしてバス代40元すらも解約することも出来たと思うが、走り出してからだともう遅い。乗客は、私と、日本人のバックパッカー、韓国人のバックパッカー、そして中国人の家族4人の計7名であった。日本人と韓国人のバックパッカーは「話が違う」と言い出した。私とまったく同じ境遇である。彼らも40元で兵馬俑の往復バスとして利用したらしい。驪山も鴻門の会跡もどうでも良いのである。私もまったく同感だったので、彼らと野合して「兵馬俑にしか行かない」と一点張りを通し、バス代の40元だけで乗り切ろうとした。が、ツアーのガイドのねーちゃんは呆れたようにため息をつくばかりだ。ねーちゃんは英語が話せない。しきりに中国語でいろんなことを話すが、どうやらバス代だけの40元ではダメのようだ。兵馬俑の一点張りを続けると、しまいにはねーちゃんはご立腹のご様子である。「おいおい、逆切れかよ。ご立腹なのはこっちだっつーの」という思いでイッパイになったが、サービスレベルが低いのは中国に来る前から覚悟しておいたので、ジッと堪えながら交渉を続ける。だがまったくの平行線である。すったもんだの挙句、驪山と兵馬俑とおまけ(七不思議博物館)おまけ(西安歴史博物館?)で200元という事で妥協した。(この時点では七不思議と西安歴史博物館?のヒドさの正体を知らない。正式名称はナンタラ博物館という大層な名前になっているので、4箇所で200元という内容しか頭に入らなかった。兵馬俑が入場料90元なので、あとの三つが110元で見られる。つまり一つあたり35元程度で見られるという計算である。ガイドのネーチャンはかなり不服そうだったが、その姿を見ていると気分が悪くなるので、私はここから無関心を決め込むことにして相手にしないことにした。 結果的には、この後の結末を知っていたら、この時激怒していたハズであった。

さて驪山だが、この日は生憎の雨。驪山全体は雨と霧で視界がまったく悪く、観光としては見るべきものはまったくなかった。写真は大雨なので一枚も残っていない。

次に土産物1である。宝石・石屋である。すでに大勢のお店スタッフがツアー客を入り口で待ち構えている。ツアー客の7人よりも従業員数のほうが圧倒的に多い店で、買え買えオーラがほとばしっている。ガイドもつまらんところに連れてきたものである。

次にメシ屋に寄る。メニューも通常の1.5倍くらいの値段で辟易した。日本人と韓国人のバックパッカーと料理をシェアして極力安く済ませる。

次はいよいよ悪名高き「七不思議博物館もとい展示場」である。



中国西安の土地に、明らかに場違いな建物が建っている。



よくよくみてみると、写真には「世界八大奇跡館」と書いてあって世界7大ではなかったが、そんな細かい当方の間違いはどうでもよろしい。この奇跡館の内部はお化け屋敷のように暗く、うっすらと照明が当たっている程度である。理由はすぐ分かった。そうしないとハリボテすぎてただでさえ陳腐な作りが、もっと陳腐に見えて金を取れないからであろう。案の定、お客さんは我々以外には殆どいない。
ここを解説するのも馬鹿馬鹿しいことなのだが、要は世界の7不思議に兵馬俑をいれて、8大奇跡にしたのである。ちなみに7不思議とは、ピラミッド、アレクサンドリアの灯台、バビロンの空中庭園、ギリシャのゼウス像とか、そういったものである。それに自国中国の兵馬俑を取り入れているワケで、ジョークとしてもアトラクションとしても全然笑えない。

次に行ったのは、また土産物屋。

ここの土産物屋の棚の配置は失笑ものである。普通売店の棚の配置というのは、コンビニのような回遊性を考えて作るものだが、この店はどうやら回遊性よりももっと拘るものがあるらしい。まず図を見ていただこう。



汚いイラストで失礼。上の迷路のように一本道になっているのが棚である。入り口を入って、まず客は右側から商品棚を見る。そして棚をくまなく回る事によって、ようやくレジ付近から出られるのである。
彼らが意識している事柄は一目瞭然だ。「全部見ていってくれ」「なんか買ってくれ」「買わないで出て行かないでくれ」という無言の言葉を感じる。あまりの浅ましさと浅はかさに失笑するしかない。

土産物の次は、西安の歴史博物館?展示場?ハリボテ?である。ここも先ほどと同様に館の内部は暗く、うっすらと照明があたる程度である。金を取るならもっと金をかけろと言いたくなる。



写真はよく分からないと思うが、始皇帝の墓を再現したものである。細長い蛍光灯のような又ヘビのような地面の光は、始皇帝の墓に水銀の川が流れていたことを再現したものである。石棺の形と色は想像上のものだろう。始皇帝が眠る石棺が発掘されたという話は、少なくとも私は聞いたことがない。よってレプリカといえどもこんな形でこんな色で、こんな内装だったのかは一切分からないのである。物語というよりもおとぎ話レベルであり、学問的な価値は全くない。そのあまりの馬鹿馬鹿しさに、iphoneで撮影してしまった程である。

さて、この日11時から始まったツアーだが、このようなクソつまらない所と、お土産屋などを回った為に、兵馬俑に到着したのは午後5時だった。兵馬俑の閉館は午後6時。一時間でこの博物館を見てくれとガイドはぬかす。さらに待ち合わせ場所はココではなくて、チョット歩かせた場所にするという。こんな時間の少ない時にさらに時間を削る発言をしたのである。そらに集合場所も中国語でウダウダいっているので、位置がよく分からない。時間はどんどん過ぎていく。さすがにここで私はキレた。兵馬俑は私は少なくとも2時間は見ようと思ったのに、こんな下らないものを見させられて、肝心要のものが一時間という有様である。まさに本末転倒という言葉こそふさわしい。ガイドといっても、彼女は最初の観光場所から一貫して入場口から先へは一切中に入ってこないのである。解説なんぞしないのだ。バスの中でウダウダしゃべっているだけである。モタモタやっているので、「はやく入場券を買って来い!」「集合場所は、あそこでいいんだな、早くしろ」と怒りを爆発させて、ツアーの観光客の双方を完全シカトして、さっさと本命の博物館に入って行った。走らないと時間が勿体無い。走らせなければいけない状況を作ったガイドとツアーに心底腹が立った。他人を待っている余裕などはないのだ。西安に立ち寄ったのはただ「兵馬俑」を見るためだけといっても過言ではなかった。翌日の朝には西安を立つ。兵馬俑が見えなければ、西安に時間をかけて寄った意味が全くなくなる。そういう思いで一杯になり、心の余裕が失われていたのである。さて中国人の家族は、娘1人だけが兵馬俑を見たいとか言っており、両親は我々3人に(私、日本人と韓国人のバックパッカー)娘も一緒に連れて行ってくれと言う。
この時私は完全に無視状態だった。そんなのを一緒に連れてみていたら、それこそ時間がまったくなくなるのである。

その行為は後に「娘はどうしたんだ?一緒じゃないのか?」という話になり、揉め事に繋がるのであるが、もうそんなことはこの時は知った事ではなかった。ガイドのねーちゃんも、それに文句をいわない中国人家族にも正直うんざりしていた。この家族はひょっとしてサクラなのではないかともこの時は疑っていた程である。
さらに、ガイドのねーちゃんは信じられない事をサラっと言った。6時15分までは待つが、それ以降になったらバスは出発するとか言って、タイムリミットをつけやがった。「遅れてバスを逃したら自分で帰れ」という事である。「はぁぁぁ???」って感じだが、問答などしている暇はないのである。

午後6時ギリギリに1人バスに帰ってきたときに、その母親からツッコまれたが、「しらん」の一言で放っておくことにした。ガイドにも同様の質問をされたが、同じく「しらん」でほうっておいた。私は「娘を連れて行ってくれ」という要求に「YES」とは答えていない。それを説明するのももはや面倒くさかったので「時間がなかった」「私は走ってみて回ったので知らん」の一点張りを通した。10分くらい経っても一行は帰ってこないので、ガイドはまた不愉快モードになって、私になんか言ってくる。ここでまた、私はキレモードに入った。もう英語を使って話すのもバカバカしくなったので、日本語で文句を言うだけ言った。ガイドは私がキレたのを少々驚いたようで、これ以降には私に対してはおとなしくなった。よろしい、これが外国流だ。日本では私の行為ははなはだ「ワガママ」に当たるのだが、外国ではここまでやらないと付込まれる元となるからである。まずかったのは、キレするが遅かった事だ。200元払う時にやっておくべき儀式(キレること)だったと反省している。

というワケで、兵馬俑にもし行かれる方がいるなら、一つだけ提案したい。
一日バスツアーは止めておいたほうが良い。それは「気分が悪くなるから」という理由ではない。明らかに値段が高くつくことと、時間が無駄になるからである。

すでに中国の旅を終えた今となってみると、合計240元というのはとんでもない金額の高さであることが分かる。利用はしていないが、市内から出ているバスを利用すれば、兵馬俑まではおそらく片道5元とか7元くらいしかかからないはずである。3時間か4時間も時間があれば、入場料も含めて僅か100~105元くらいの間で兵馬俑を2時間以上も満喫することが出来るのである。
一般のバスを利用することは難しくはない。実際、この後の旅程において、私は様々なバスを使った。そのどれもが1時間乗っても10元は超えない金額で収まるのである。

兵馬俑の写真と内容については次号で紹介します。

6:北京西発西安行き

2010年09月11日 03時37分01秒 | 中国旅行記2010年8月
北京西発西安行き


iphone+動画編集

北京西~西安までの道のりはざっと1,300キロメートル。生まれて初めて寝台車に乗った。初めての寝台車が中国だったというのは奇縁と言うしかない。ここ2等寝台車は三段ベットが二つあり、計6つのベットがおいてあるコンパートメントだ。私の場所は2階。1階と私の対面の2階のベットは、中国人の家族の場所になっている。動画に写っている生足のオネーチャンは、その家族の娘である。とにかくこのオネーチャンはスタイルは抜群であった。
これから西安まで13時間の旅が始まる。



これが切符である。サイズは名詞よりも小さく日本の切符よりは大きい。値段は265元(3445円)であるが、値段の左側に何か見覚えのあるマークが…。日本の通貨のマークである「¥」が。どうやら中国では、これは「元」ということを意味しているらしい。元はローマ字表記で「yuen」(ユエン)である。なるほど、元も円も同じような読み方だ。

2010年8月18日 16:55発   16号車 14番の中段ベットである。




ところで、北京西駅の近くには吉野家がある。この国の大中都市の駅前には、ケンタッキーフライドチキンか、吉野家かマクドナルドがある。その中でもケンタッキーフライドチキンは圧倒的で、中国全土の駅前を網羅しているのでは?と思うほど多い。ちなみにケンタの中国語表記は「肯徳基」である。
さて外資系のケンタやマックの話はどうでもよろしい。我らが日本が誇る吉野家の話をしようではないか。結論から言えば、吉野家やケンタに代表されるファストフード屋の値段は安くない。私の頼んだのは牛丼のセットである。中国には牛丼「中盛」というものがある。なんだそれは?聞いたことがないぞ中盛って。なるほど、確かに大きさは並と大盛の中間くらいである。その中盛にドリンクがセットになって15元(195円)である。日本の感覚では安いと思われるだろうが、中国では勿体無い値段である。しかし、セットのドリンクがコーラ、それもペプシとは…。
味については、完全に吉野家である。中国に来たというのに、中華料理を食べない私…。この頃は、まだ中国に来たてであり、日本でニュースで騒がれた「メタミドホス毒ギョーザ事件」の記憶が生々しく残っているので、怖くて多国籍チェーン店しか利用できなかったのだ。



見よ!このオネーチャンの見事なスタイルを。思わず目が太ももに行ってしまうではないか!!

5:でかい

2010年09月09日 04時21分43秒 | 中国旅行記2010年8月
EF24-105mmF4L

紫禁城の入場料は、たしか60元。入場券売り場は、入場口のかなり手前にあるので注意していないと通り過ぎてしまう。一方入場口の近くにも窓口があるけれども、ここではチケットを販売しているのではなくて、音声ガイドの機器を貸し出している窓口である。音声ガイドは日本語のものもあり、40元を払えば借りられるが、機器のデボジットとして100元預けておかねばならない。この100元は機器を返したときには返ってくるのだが、中国ではこの「デポジット」という制度が広く行われていて困るのである。例えばホテルに泊まるときなども必要だ。一泊180元のホテルで、400元のデポジットというヒドイ金額を預けさせられたこともある。人民元をそんなに換金していない旅行者にとってはデポジットを払えないという局面でもでてくるだろうに。

それにしても一々建物がデカイ。いったい何なんだこれは?
一般大衆の度肝を抜く装置としてはやり過ぎなような気がする。北京西の駅といい、この紫禁城といい、スケールのデカさが違う。これが大陸いや中国クオリティーというものだろうか?しかも、この写真の建物はまだ紫禁城の本体ではない。そこに繋がる「門」に過ぎない。宮殿はこの太和門の先にあるというのだから驚きである。



太和殿、明の時代には皇極殿と呼ばれていた建物である。ここでは、即位式、結婚、朝会、葬儀などが行われた宮殿の中で最も重要な場所とされている。写真で写っている人々の大きさと広場・建物とを比べてみれば、この建物が如何に大きいかがお分かりいただけるだろうと思う。この故宮を見てまわるには、少なくとも2時間は必要である。じっくり見たいのであれば半日は用意すべきだろう。さらにリュックなどの荷物を背負って見るものではない。荷物はホテルに預けてから、じっくりと手ぶらでまわるのが賢いやり方だ。
ちなみに、私の場合はこの日の夜の宿はホテルではなく寝台車。よって荷物であるリュックサックを背負っての故宮観光である。リュックの重さは5キロほどに抑えたとはいえ、これをもって故宮をまわるのはシンドイ。辛すぎる。賢明な諸兄は是非とも荷物はどこかに預けておこう。なお、中国の駅には「コインロッカー」なるものは置いていない。人が管理している荷物預かり所のようなものはあったが、これがはたして預かり所なのか、それとも西洋のチッキのように荷物を目的地の駅まで送るというサービスの窓口なのかは不明である。ただ、これが仮に預かり所だったとしても、中国人がその荷物を管理するのである。そいつが、リュックを開けて貴重品を盗らないとも限らない。中国到着二日目でイヤな思いはしたくなかったので、結局私はこのサービスを利用しなかった。このように中国ではインフラが整っていないため、荷物は極力少なく、そして軽くしておく工夫をしておこう。



太和殿の玉座。正直ここの写真を撮るのはかなり大変だった。なにが大変かといえば、ここの撮影ポイントには常に人だかりの山ができているのである。中国人がこの玉座の写真を撮ろうと、おしくらまんじゅう状態になる。撮影ポイントは朝の満員電車なみの人口密度である。そのあまりの密度の為、巻き込まれた子供などは大変で、泣き出す子もいるくらいの凄まじさである。その人だかりは尽きる事がなく、写真を撮り終えたものが離れる頃には、また新しい観光客がそこに補充されるといったように、つねに大きな人だかりができていて一向に人が減る気配がないのである。また人ごみを掻き分けて撮影ポイントに到達したとしても、押し、そして押されるので、カメラが思うように固定できない。撮影してもブレた写真にしかならない。まるでこの玉座は、芸能人のトップアイドルが如きである。皆、我先にと写真を撮ろうと、押すわ押すわ押すわ。私も15枚くらい撮影したが、まともな写真はここにUPした写真だけである。この現象は太和殿が特別なわけではなく、この後ろにある中和殿においても同様な事が起こる。中国人も日本人と同じく、やはり撮影ポイントには群がるわけである。

さて「天子南面す」という言葉をご存知だろうか?これは日本の京の大極殿も同じなのだが、天子は南を向いて座っているという事である。これは紫微、つまり北極星あたりが世界の中心であり、天帝の所在地であるという概念と無縁ではないだろう。つまり天帝の所在である北から、反対の南をにらむという構図である。同時に北半球において、南というのは一日中光が入るという建物における暮らし易さという要因も入っているかもしれない。だが、この南面という概念は中国のみならず、東アジア・東北アジアを含む一帯に広がる概念でもある。それはどういうことかというと、中国の東北部、または北方には遊牧民の国が昔から存在し、様々な国家形成をしながら栄え、そして滅んでいく事を繰り返していた。匈奴という国がかつてあった。この国の軍政を見ると南面の関係が良く分かる。王の軍や政治の中枢は国土の中央に配置し、その東側には「左賢王」の治める国や軍を置き、西側には「右賢王」が治める国や軍を置く。ちょうど左賢王・右賢王が鳥の翼の両翼のように西と東に広がって配置されているのである。この配置は、匈奴の後に現れた遊牧民族国家である鮮卑や突厥、契丹、モンゴル帝国に至るほとんど全ての遊牧民族の編成に共通した特徴である。東を「左賢王」と呼んでいるのは、支配者が南を向いているからである。南を向いている支配者(中国では皇帝)から見た場合、左側は東にあたり右側は西にあたる。そして遊牧民の国家においては、常に重要な位置は右(西)よりも左(東)であった。それは匈奴が鮮卑に取って代わられ、鮮卑が柔然に、柔然が突厥に取って代わられる歴史の中で、取って代わる存在は、つなに巨大な遊牧民国家の左(東)側から現れているという地政学的状況と無縁ではあるまい。遊牧民国家においては左(東)の備えは常に重要と位置づけられていた。中国や日本の官制には「左大臣・右大臣」なるものがある。位は勿論左大臣が上位で、右大臣が下位であるのだが、これは「左賢王・右賢王」の関係と見事に対比している。遊牧民は常に南を見ていた。彼らが居住する地域のさらに北は極寒の土地である。故に彼らが領土として広がりをもつ範囲は東であり西であり、そして定住者の国家が存在する南であったワケである。翻って中国の歴史は、常に北方の脅威にさらされたものであった。中国における遊牧民の形質を持った人が打ちたてた王朝は、数えても「北魏」「隋」「唐」「金」「元」「清」と数多い。
まだ完全に証明はされてはいないが、つまり天子南面す、という言葉そして風習は、おそらく遊牧民の風習から発祥したものが中国に伝わったのだろうと思う。中国の国家が、その地政学上において、南面する意味が分からないからだ。そもそも始皇帝である「秦」の国も、北方の蛮族出身の色が強く、かなり遊牧民国家的な形質を多く持っているのである。さらに遊牧民の宗教観にも「天帝」すなわち「テングリ」の概念は古くから存在しており、何も天帝思想は中国の独創ではないことが分かる。そう考えれば「天子南面す」という概念の発祥がいったいどこに由来するのかについては、かなり有力な推測が導き出せるだろう。すなわち遊牧民族発祥説である。




4:天安門広場~紫禁城(故宮)

2010年09月06日 12時25分58秒 | 中国旅行記2010年8月
EF24-105mmF4L

北京の世界遺産その1である紫禁城に来たる。
紫禁城。その名の由来は「紫微」という天帝を表す言葉。もともとは北極星あたりの一帯を指す言葉だが、星が動かないので世界の中心という意味を持つ。「禁」は庶民の入場が禁じられているという意味を持つ。
この城は、もともとは元朝のクビライ・ハンが都を大都に建てたときに作られたとか作られないとか言われているが、現在の姿に近い形になったのは明朝の永楽帝が改築した後のことである。昔この地は、燕と呼ばれており、永楽帝が帝位に就く前の位は燕王であった。燕という文字に「北」という文字が入っているのは偶然ではない。古くは北京は「燕京」と呼ばれていた。というワケで、現在のような大きな宮殿の形になったのは15世紀以降で比較的新しい建物であり、中国4000年の歴史をここから見て取ることは出来ない。

中国の古い都は西安、洛陽、南京であり、華北は遊牧民に征服される歴史を繰り返してきた。モンゴル帝国「元」が朱元璋によってモンゴル高原まで追い出されたとはいえ、なおもその勢いは強いものがあった。紫禁城改築も万里の長城の改築も、そのような状況の中で行われた事業であり、北方の脅威は常にあったワケである。

写真は天安門広場から撮影したものである。天安門事件で有名な天安門広場。1989年にここに戦車が出動し、民衆を武力で鎮圧した。それが僅か20年前のことである。1949年には、この天安門の建物に毛沢東が現れ中華人民共和国の成立を宣言した、そういう場所である。ここには数多くの公安(警察)がいて、なかなか警備は厳重である。天安門西駅の地下鉄の出口から天安門広場へは、地下道で繋がっているが、広場に入るためにはX線検査機に荷物を通さなければならないという厳重ぶりである。駅や空港以外でX線検査機を見たのは、ここ天安門だけである。



さて天安門~紫禁城の場所だが、地下鉄の1番線の天安門東駅(赤い丸印)が最寄の駅である。地下鉄2番線は環状線になっているが、これは紫禁城を囲むように走っている。中国の地下鉄についてだが、実は2003年くらいまでは1番線、2番線くらいしか無かった。ここ7年くらいの間に残りの線は開通したことになる。



こちらは中国政府が発表する2015年までの完成図である。あと5年で出来るとはとても思えない計画である。2010年現在では、この計画の半分も達成できていないではないか。ちなみに地下鉄の料金は全線2元(26円)である。全ての駅に自動改札機はあるが、お札は殆ど認識しないので、使っている人民はほとんどおらず、結局切符発券の窓口で駅員が販売しているほうに長蛇の列が出来ているという有様である。
中国の紙幣は、綺麗なピン札から汚いくしゃくしゃになって破れそうな紙幣もある。汚いお札はどさくさにまぎれて押し付けられるので注意が必要だ。



これが天安門入り口。門の上にはハゲのオッサンの肖像画が掛かっている。この男は大躍進政策で千万単位の人民を餓死させ、文化大革命において人民を虐殺してきた元締め。アメリカ流に言えば「悪の親玉」である。改革開放政策に切り替えられ、毛沢東の政策は否定されたとはいえ、未だ天安門にはこの肖像画が奉られている。さて、門の屋根の真ん中あたりには中国共産党の「エンブレム」が取り付けられている。明、清の皇帝が住まう宮殿の門に、共産党のエンブレムが付いているというのも、考えれば違和感のあるものだ。城壁には五星紅旗がひるがえり、城壁には「中華人民共和国万歳 世界人民大団結万歳」と書かれている。なにが「世界人民大団結万歳」だと思ってしまう。ここには主語が書かれていないが、要するに「(中国を中心とする)世界人民大団結万歳」に違いない。門の入り口には公安が2~3人程いるし、それは天安門広場にも多数いる。そういう状況を見ると、一層「大団結万歳」なんて言葉は空々しく聞こえるものだ。
社会主義を唱えた統領が、帝国主義の象徴たる紫禁城の表門である天安門の城壁から手を振って中華人民共和国の成立を宣言する。それだけでも「?」が無数に付くというものだ。結局「相手変われど、主かわらず」ってことだ。こんな事を中国のブログに書いたら公安に捕まるかも知れないが、ここに自由な国日本なので、気兼ねなく書けるというものである。



どこの国でも同じ事だが、国家に仕える連中の態度は横柄というか偉そうというか、やる気がないものである。日本の警察官もそりゃヒドイものだが、こっちの公安もそれはヒドイ。中国は景色や人民はなかなか良いのだが、残念ながら「国家」がクソだ。早く民主革命が起こってまともな国になってくれる事を祈る。

それにしても中国の宮殿はスケールが違う。ここは宮殿につづく門に過ぎないが、その門ですらこんなに堅牢で大きいのである。京の羅城門どころの騒ぎではない。