Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

海外ドラマ「ウエストワールド シーズン1」の解説VOL6

2022年06月24日 12時34分00秒 | 映画
オープニング映像について。
OPの音楽は非常に単純な旋律の構成で同じような旋律の繰り返しである。作品のテーマであるループを意識しているのだろう。
 機械によってピアノ線が張られていく。これはピアノをホストに見立てているだろう。色的にピアノは白黒だし、コード通りに音楽が進行していく様はホストのコードと同じである。最初は白いホストがピアノを演奏しているが、途中から自動演奏に変わるのは、ホストの進化を表しているんだろう。もしくは人間にコントロールされている軛からホストが解放されるさまを表しているのかもしれない。
 旋律的には最初暗くゆったりと流れ、途中から盛り上がり、最後は転落するような流れで終わる。この物語の行く末を暗示するかのように。


 1-3には特に重要なシーンはない。鏡の国のアリスのシーンはドロレスの内なる声を、あたかも回想シーンのように見せている。重要なのは「私との会話を誰にも聞かれてないね」というくだりである。これはドロレスが自分の心の声が聞こえていることを、周りに秘密にしているということだ。
 解析モードとかいろいろ専門的なやり取りをしているが、基本的にこの対話は(無意識の)自分との対話である。
 これは人間でも心の声と対話するときは、心の中で擬人化した何者かがでてくることと似ている。ただホストの場合は記憶が正確すぎる機械であるから、自己との対話のあらわれ方が、人間とは少し違っていることを映像的に示しているのだろう。

 朝、ドロレスの家のタンスの引き出しから銃がでるシーンと、銃が消えているシーンが繰り返される。また、リーバスを納屋で撃ち殺したドロレスが、逃げるときに腹に銃弾を受けるシーンと受けてないシーンが繰り替えされる。これは単純に現在と30年前の異なった時間軸の中で、同じような事件が起こったというだけである。
 記憶が鮮明すぎるホストが、回収後に記憶を何度も消去されても、何かの拍子で消された記憶を思い出す。それをホストの主観視点で見るとこのような見えかたになる・・・ということだ。

 シーズン1現在のドロレスは、敵の銃弾をかいくぐり馬で一人で逃げた。ウイリアムとあの焚火では合流せずにである。
 記憶のなかで撃たれたドロレスは、逃げるのを失敗したループの一つのパターンだったんだろう。そのループではドロレスは回収され、記憶を消されてまたパークにもどるのである。
 一方30年前のドロレスは、これも敵の銃弾をなんとかかいくぐり、焚火にいるウイリアムと合流する。
 これらのループの記憶が現在のドロレスの中で蘇っているのである。

つづく。


海外ドラマ「ウエストワールド シーズン1」の解説VOL5

2022年06月23日 14時00分16秒 | 映画
1-2からの解説はサラっと通したい。
冒頭の「起きろドロレス、覚えているか?」はシーズン1の現在であり、埋められた拳銃を探して手に入れるところ。
 その直後に列車に乗っているウイリアムが写るので、若きウイリアムがウエストワールド初来訪の時間軸と1-2の冒頭のドロレスの時間軸があたかも同じであるという錯覚を引き起こしてしまうが、これはミスリード。

 あと我々はこの作品を日本語の吹き替えで観ているが、原文で観ないとわからないような言語的なトリックも隠されている。「覚えているか?」とか「覚えておけ」と日本語版ではなっているが、原文では「remenber」となっており、この単語は「覚える」と「思い出す」と両方のニュアンスを含んでいる。つまりここでもミスリードを誘う表現をとっているわけだ。したがって、ウエストワールドという作品の本質を捉えようと思ったら、どうしても原文にあたる必要があるのだが、そこまでやるともう研究レベルなので本稿では割愛する。

 列車の中でローガンが「本当の自分を出しているだけ。それがこの旅の目的さ。お前みたいな根っからの堅物野郎は別人になるといいぞ」という。ここにはローガンの本音が表れていて、この旅の目的はウイリアムの本当の姿を見るために連れてきたのだろう。なんだかんだ言いながら、ローガンはちゃんと経営者としての警戒心を持っていて、ウイリアムの本性をこのパークを使って探ろうとしているのである。しかしローガンは甘い男であるがゆえに、その目的をうっかりこのように言葉にしてしまうのである。

 駅のプラットフォームにはアンジェラが立っていた。30年前のアンジェラは受付嬢。シーズン1現在のアンジェラはワイアットの部下。
 エスカレータを上がったところのモニタに表示されるウエストワールドのロゴは、地下83階の冷凍室の入口にあるロゴと同じであり、現在のウエストワールドのロゴとは異なっている。まだパークはデロスのものではなく、アルゴス社のもだった頃だろう。

 君本物?「みわけがつかないなら、関係ないでしょ」
このセリフは、シーズン1、2、3を通して繰り返される。
シーズン1ではアンジェラが。シーズン2ではウイリアムが実験室でデロスに
言い、シーズン3では精神病院でのVR療法中にウイリアムが議長をつとめるデロスに言う。おそらくシーズン4でもこのセリフはでてくるだろう。
 このセリフの意味としては「本物か?偽物か?」「夢か現実か?」という問いに対する答えである。「分からなければ(見分けがつかないなら)関係ないだろう」。この答えはあたかもデカルトの「われ思う故にわれあり」にも似ている。実存とは「ある」と思い込んでたら、それは物理的になくても「ある」という解釈である。

 この場面でもアンジェラを含むホストは、白い服に白い靴であり、「白い靴のレディに乾杯」に繋がる。

 
 さて、このドラマはオンラインゲームを意識して作られている。冒頭の銃選び、服装選びなどもキャラメイク的に思えるし、最後の帽子選びなどは、自分が「善」なのか「悪」なのかの属性の選択なのであろう。
 扉に向かうウイリアムの表情が、西部のキャラになりきっているのが笑えるポイントである。

 この後、ローレンスを助ける黒服が迷路を探す旅にでることと、酒場でメイブがアキチタの手下に頭の皮をはがされそうになるのを回想するシーンは、「迷路」を頭の皮に刻むという意味で繋がる。
 シーズン3で明らかになることだが、すべてのホストはドロレスを元にして作られたという。そういう意味ではアーノルドがドロレスに施した迷路のゲームは、ドロレスだけに作用するのではなく、すべてのホストに作用すると考えても差し支えない。メイブは頭に迷路が刻まれることはなかったが、庭の砂の上に迷路の絵が描いてあることを見たし、また、アキチタもシーズン2で語られるように、エスカランテでアーノルドの死体と共に迷路のおもちゃを見てしまった。
 迷路はホストが自我を得る手段としてシーズン1では描かれる。この迷路はホストの覚醒の呼び水として作用する傾向がある。
 ここから先は妄想になるのだが、ひょっとしたら「レベリー」というのは、この迷路のゲームを起動するためのアップデートだったのかもしれない。すくなくともアーノルドが仕込んだレベリーとは、そういうたぐいのものだったのだろう。フォードの「レベリー」は、作中ではちょっとしたリアルなしぐさのアップデートのことを指しているということはバーナードの口から語られるけれども、たぶんこれは半分本当だが半分は嘘で、細かいしぐさのアップデートを隠れ蓑として本当は迷路のゲームをホスト全員に仕込んでいたのではないか?

 
 さて、場面はメサに映り、バーナードがフォードに対してアバナシーの暴走についての疑問をぶつけるが、フォードは答えをはぐらかす。
 フォードの意図的な介入がどこまであるのかについては明確には示されていないのでなんともいえないが、この場面をみるとフォードの介入のフシがある。


 時間軸が35年前に変わり、ウイリアムとローガンがパークに訪れるが、シーズン1現在の時間軸と違って、この頃にはまだヘクターはおらず、ユニオン軍が義勇兵を集めている。南北戦争あたりの時代のイベントがあったのだろう。メイブも酒場の店主ではなく郊外の小屋で娘と住んでいる頃である。



 フォードがパーク内に外出するシーン。
「道に迷ったの?」「ちがう、道を外れただけだよ、少し外れすぎたがな」
 フォードのセリフはいちいち二重の意味があって面白い。このシーンは原文ではどう言っているのかわからないが、日本語で解釈するのであれば「迷ってない。道を外れただけ」というのは、自分の夢そのものには疑問を持ってはいなかったが(迷ってはいなかったが)、道を外れた(外道に落ちた、罪深いことをした)ということだろう。
 

 1-2のラスト。フォードとバーナードが埋もれた教会の跡地での会話シーン。「プロットはある、私があたためてきたものだね。かなり独創的な」で終わる。このプロットはホストの反乱である「夜への旅路」のことであるが、これを1-2のラストにもってくるのがよい。初見ではフワっとした平凡な終わり方にみえるが2周目以降にみると、明らかに反乱のシナリオについて言及していることがわかるからだ。


つづく




海外ドラマ「ウエストワールド シーズン1」の解説VOL4

2022年06月20日 22時46分46秒 | 映画
VOL4だというのに、まだ1-1の解説が終わらない。
それだけシーズン1の内容が濃い所以だが・・・。
保安官にハエがとまり不具合が発生。プレイヤーを案内したテディがバルコニーの椅子に座っているとことで顔にハエが止まる。このハエの描写についてはシーズン1ではしつこくでてくるが、シーズン2、3になるとほぼ皆無になる。今度のシーズン4ではハエのギミックが大事な要素になるようだが、シーズンに1におけるハエの意味するところは大きく2つ。一つは視聴者にミスリードをさせるためのものである。つまりハエがホストに不具合を起こさせているという錯覚をおこさせるというもの。しかし実際のハエの意味は、ホストは人だけではなく生き物全般を殺せない・殺さないということを、ハエをつかって映像的に示しているのだろう。

 さてシーズン1の人物描写についてだが、シーンの何気ない一コマにも人物描写に念のいれようがうかがえる。屋上のラウンジでテレサ=カレンとリー=サイズモアが世間話をするシーンがあるのだが、ここでリーが「敬意を置く」という言い間違いをする。シナリオ部長である彼がこのようないい間違いをするのは、彼が脚本家として2流であるということをセリフではなくシーンで示している。


さて、ドラマはここから急展開を見せる。
ならずもののウォルターがプロットから外れて、相棒のリーバスを殺し、牛乳を飲んでいるシーン。ここでウォルターは「今回は死なねーぞ、アーノルド」という意味深のセリフを吐く。
 シーズン1の最大のどんでん返しの1つにバーナードはアーノルドを模して造られたというものがある。シーズン1にはアーノルドのような男がドロレスの回想(?)の中で何度も登場する。どれがアーノルドでどれがバーナードかという推理を視聴者はしたくなるのだが、それは監督のミスリードに見事にはまってしまったといえよう。なぜなら、シーズン1においてドロレスの回想(?)の中で登場するアーノルドのような人物は、実はドロレスの内なる声であることはVOL1と2で書いた通りだからだ。だからドロレスの「回想」というのも厳密には間違いで、あれは自分の内なる声なのである。
 それを前提とすると、ウォルターが「今回は死なねーぞ、アーノルド」と一人で会話しているシーンは、ウォルターには内なる声が聞こえているという解釈ができる。
 ただし、ウォルターが独力で内なる声が聞こえるほど覚醒しつつあるのかといえばこれは疑わしい。おそらくかなりの確率で、フォードがウォルターに「二分心」すなわち内なる声を仕込んだものだと思われる。
 実際1-10においてメイブがパークから脱出するときに、メイブは脱出のプログラムを入れられたとバーナードから告げられえた。そしてメイブのコアコードを書き換えた人物のIDは、アーノルドのIDであった。アーノルドが生きているわけがないので、このIDを使ってコアコードを書き換えた者はほぼフォードでしかありえない。

 
 さて、場面は変わってホストが作られる現場。丸い輪の中にホストの人体が大の字のポーズをとっている「カタ」がベルトコンベアで流れている。これは映像的にウィトルウィウスの人体図(ダビンチの人体図)を同じポーズである。これが何を意味するのかについては不明だが、フォードは文学・芸術的な造詣
が深く、おそらくそういう彼のキャラクターを強く印象付けるための映像的工夫を監督がしたものと思われる。

 
 翌日の早朝、一晩中写真をみていたドロレスの父のアバナシーは、明らかに不具合を起こしており、「地獄はカラだ。悪魔はここにいる」とシェークスピアのテンペストの一節をドロレスに叫ぶ。
 そして時を同じくして、スイートウォーターではヘクターによる酒場強盗イベントが起こる。ここで流れる曲はローリングストーンズの「黒く塗れ!」である。この歌の歌詞は、大事な人(女)を亡くした男がほかのことには目もくれず文字通り黒く塗りつぶし、ひたすら悲しみに身を浸すというもの。

1番の歌詞の原文と和訳
I see a red door
and I want it painted black
No colors anymore
I want them to turn black
I see the girls walk by
dressed in their summer clothes
I have to turn my head
until my darkness goes

赤いドアを見ると
黒く塗りつぶしてやりたくなる
色なんていらないのさ
全部黒くしてやりたいんだ
夏服を着た女の子達が
そばを通りすぎていったんだ
俺は見ないように反対を向いた
俺の中の闇が通りすぎるまで

この曲のタイトルは原文では「Paint it, Black 」とコンマが入るがこれはストーンズメンバーの意思ではなく、所属レーベルのデッカ・レコードによってつけられたものだった。しかしコンマが入ると「黒く塗れ」ではなく「塗れよ、黒人」という意味にとれてしまうため、近年ではコンピレーションアルバムなどに収録される際にはコンマなしの表記にされている。 (WIKIより抜粋)

 なぜヘクターの酒場強盗のシーンで、この曲が流れるかは実はよくわからない。なにかのオマージュなのかもしれない。


 場面はメサハブに戻って、アシュレイ・スタッブスがドロレスに質問をするシーン。ここでのアシュレイの質問の内容は、1-1の冒頭でバーナードの声でドロレスと質問のやり取りをしている場面とほぼそっくりである。
 つまり1-1の冒頭のシーンは、何度も回収されてループするドロレスに、(職員が)いつも同じ質問をして不具合がないことを確認する作業を示したものである。シーズン1においてホストにとって「声がする」というのは大まかに2種類あって、一つはこの感情がOFFになっているときに職員に話しかけられる「声」。もう一つは内なる自分の「声」である。

 
 さて1-1も佳境に入り、いよいよフォードが不具合の出たアバナシーに質問をする。アバナシーはシェークスピアのセリフをフォードにぶつける。このアバナシーの発言は、製作者への復讐ともとれるし、過去のシナリオが亡霊のようにレベリーの不具合で蘇ったともとれる。どっちにも取れるところであるが、覚醒したと理解しておくことにする。
 
 同時進行でドロレスへの質問に場面がうつる。アナバシーから告げられたセリフ「激しい喜びには激しい破滅が伴う」。この言葉の意味は?とアシュレーに告げられるも、ドロレスは「ない」とキッパリと答える。しかしこのセリフはアーノルドが自殺する前の最期の言葉であり、この時点のドロレスはこの言葉がアーノルドが最期に発した言葉であることに気づいているようだ。つまりドロレスはこの時点でウソをついている。直後に「ウソをついたことは?」とアシュレー。「ないわ」とドロレス。「生き物を殺したことはあるか?」に「あるわけがない」とウソをつきまくるドロレス。

 実はアシュレーもホストなのだが、それはシーズン3にならないとわからないようになっている。彼はドロレスについて「パークで一番古いホストだ」とよく内情をしっているし、またシーズン1でエルシーに「俺にも設定があってね」などという冗談をいうが、これが冗談ではなかったのである。
 
 1-1のラストは元酒場のマスター(酒場強盗の時に撃ち殺された)が、新アバナシーとして登場し、ドロレスが首にとまったハエを容赦なく殺したところで終わるのだが、非常に不気味な終わり方をしている。
 1-1はシーズン1を通じておそらく一番情報量が多い回であり、ここで物語のほとんどすべてのバックボーンを説明してしまっている。内容が濃密なのである。

 さて、「激しい喜びには激しい破滅を伴う」というセリフは、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」にでてくるローレンス神父のセリフである。ローレンス神父が情熱が激しすぎるロミオに対して戒める意味で語った言葉である。そういえば、ウイリアムの奥さんの名前は「ジュリエット」であり、ウイリアムにはいつも「ローレンス」が行動を共にしている。とするとウイリアムはさしずめ「ロミオ」かとも思うが、ウイリアムはご存じの通り婚約者であるジュリエットを愛してはない。
 パークのホストであるローレンスは、1-9か1-10で示すようにウイリアムとドロレスをパークの奥に案内し、最終的には海と山がつながる場所でサヨナラをしている(このときのローレンスはエルラゾという名前だったが・・)。またシーズン1の黒服(ウイリアム)とローレンスは、迷路を追って旅をしていたが、最終的に黒服がたどり着いた先は迷路というよりもドロレスだった(1-10)。ここまでくると、本当のジュリエットが何者なのかが分かるというものだろう。

 おわりに、アバナシーが喋ったシェークスピアのセリフ「生まれてくるとき、人が泣くのは、阿呆どもの舞台に引き出されたのが悲しいからだ。」という。これはシェークスピアのリア王という作品の中の王のセリフである。
  人生は舞台。人は仮面を被り人生を演技する。ホストの筋書きも舞台。アホどもの舞台の「アホ」共とはいったい誰をさすのか?という疑問を投げかけて、1-1の解説をとりあえずは締めくくろうと思う。

1-2につづく。


海外ドラマ「ウエストワールド シーズン1」の解説VOL3

2022年06月03日 18時56分37秒 | 映画
それにしても黒服は格好良い。シーズン2のジェームスデロスへの実験と、奥さんの最期を見ればわかるのだが、この1-1現在の黒服は、奥さんを亡くしデロスの実験も終わらせた後(あるいは直後)の苦悩が深い状態での来園である。
 黒服は会社の経営への熱意は完全に失われている。シャーロットヘイルに経営を任せ、娘が言うように自分を罰したいという気持ちがあったのだろう。

「お前に先に撃たせてやる」黒服はそうテディに言う。これは1-10で若きウイリアムが、傷ついて逃げたドロレスを助けるために、コンフェデラートスを皆殺しにしている時に言ったセリフと同じ。
 ところが1-1では、ドロレスは黒服によって傷つき、それを阻止しようとするのはテディである。つまりこの場面は、テディを若きウイリアムに、黒服をドロレスを犯そうとするコンフェデラートスになぞらえているのだ。
 このメタファは何をいいたいのだろうか?黒服がテディやドロレスに、自分がかつて受けた苦しみを同様に与え、覚醒を促していると考えればいいのか?あるいは、黒服がテディにかつての(一皮むけるまえの)自分自身を見て、嘲笑ってるのを象徴しているのか?
 いずれにせよ、そのような意図が監督によって重層的に張りめぐらされていることは間違いない。なぜならこのシーズン1には無駄なシーンがほぼ無いからだ。些細なカットにも必ず意味を持たせているのがシーズン1の特徴であり、同時にシーズン1がウエストワールドの最高傑作である所以だ。

「こっちは高い金を払ってるんだ。もっと抵抗しろ」
このセリフにも痺れる。これは別に凌辱プレイが好きだという表面的な意味もあるのだろうが、本当のところでは黒服はホスト達を自由に反撃させたかったのである。それは1-10において黒服はフォードに述べた通りなのだ。

そして黒服に撃たれたテディの倒れ方は、エスカランテでドロレスに撃たれた時のしぐさと酷似しているのは、この作品が「ループ」と「覚醒」というものをテーマにしているからだろう。


場所はメサに移る。
この建物の内装も職員の服装も極端なまでの白と黒の色で統一されていることである。ウエストワールドの作品は全体を通じて、この白・黒・そして赤という3色の色で統一されている。1-2において若きウイリアムが白い帽子を選び、ローガンが黒い帽子を被っているのにも意味があって、黒は基本的に悪のような特徴が、白はその逆で善のとうな特徴がある。

メサの建物内をみればわかるが、異様なまでにモノがない。壁は黒塗り、床もモノトーン。おそらく監督は、映像に映っているモノ全てに意味をもたせたいのだと思う。逆にいえば、映像に意味をもたないものは全部排除している。これは実写をアニメ的な手法で撮っているようにも見える。映像の情報量というのは、実写>アニメである。演者の顔のシミや、天井の汚れなどは実写ではどうしても写り込んでしまう意図しない情報である。これがアニメの場合は、キャラクターの顔にシミをわざわざ付け加えないと、そういうことを表現できないから、アニメの映像の場合は実写にくらべて情報量が少なくなる。つまり違う角度からいえば、アニメのほうが情報量が少ないが故に、監督が視聴者をコントロールしやすいのである。視聴者が余計な(監督が意図しない間違った)解釈をするのをあらかじめつぶせるのは、情報量が少ないほうがしやすいのである。つまり、ウエストワールドのシーズン1の監督は、そのアニメの原理をよく知っているがゆえに、実写でもアニメのように情報量を極力減らすことによって、視聴者の解釈をコントロールしようとしているのである。
同時に色とモノの統一美という効果もあるのだが・・・・。

さて職員の服の色は白と黒で統一。黒は主に管理職や事務職であり、白はおもに現場作業者・肉体労働者である。ホワイトワーカーとブルーワカーを色で表現しているわけだ。上級職は黒つまり悪の色を、肉体労働者は白つまり善の色になっているのは、このメサというパークを管理する仕事場を、我々の実社会のヒエラルキーとなぞらえているのである。
 その証拠にこのメサの最上階には上級職しか利用できないラウンジがあり、最下層には廃棄処分されたホストが並べられている。これは具体的な高低差の階層を、職務的な階層として表現したものである。下におりるほど貧しくなり、上にいくほど富めるというわけだ。


さてここで「レベリー」という言葉が初めてでてくる。レベリーは空想とか夢とかいう意味で、作中で流れるドビュッシーの曲のタイトルも同じくレベリーである。
この曲は、バーナードの設定上の息子チャーリーのお気に入りの曲で、アーノルドが自殺するときにも、フォードが最期に撃たれるときにも流れる旋律である。

地下83階。ここはまだデロスに買収されるまえのパークのロゴが確認できる。このロゴは若きウイリアムが初めて来園したときのロゴと同じであり、つまり35年前はこの辺りが列車のプラットフォームだったのかもしれない。

ここにフォードがたびたび籠っているのにも理由がある。1-10のラストでは、ここに保管されているホストは全てカラになり人間に反撃することになるのだが、それはまさに貧民による革命というメタファーであり、同時にホストの解放の狼煙でもある。
 作中では表現されてないが、ここでフォードは2番目のホストのオールドウィルとただ会話しているだけではなくて、この廃棄ホストに反乱のプログラムを入れていく作業もしていたのだろう。

「白い靴のレディに乾杯」「男の金を奪い、酒を飲みつくす」「生娘でなくてても構わんさ」とオールドウィルは言う。
 この意味は、シーズン2ー2でジェームスデロスの引退式のパーティにおいて、白い靴と服をきたホスト達がデロスの自宅で給仕をしている映像があるのだが、「白い靴のレディ」はそのホスト、もっといえばドロレスのことを暗喩しているのだろう。なぜなら2番目のホストのそのセリフを言わせているのが引っかかるのだ。おそらくこのホストは35年~30年前あたりに作られたホストであり、ちょうどその頃は、パークの所有者がアルゴス社からデロス社に変わったあたりであるか、あるいはウイリアムがデロスにおいて実験を握ったあたりかであろう。当時パークの経営は赤字続きで倒産寸前だったところを、(デロスの実権を奪った)ウイリアムが買収することによって助かった時期である。フォードにとっては「パーク存続に乾杯」と言いたいところだったろうし、あるいは「ジェームズデロスが引退したことに乾杯」だったのかもしれない。いずれにせよ当時のフォードにとっては自分の夢が倒産によって壊れることがないことに安堵したことだろう。
 そこで、その頃つくられたであろうオールドウィルに、パークのプロット内のセリフとして、この言葉を言わせたのだろうと思う。
「白い靴のレディに乾杯。男の金を奪い、酒を飲みつくす。生娘でなくてても構わんさ」
 このセリフは一見、性悪娼婦が男から金を搾り取るさまを言っているのだが、よくよくシーズン1と2を見返してみると、このセリフはホストであるドロレス(もしくはアンジェラ)が男(ウイリアム、もしくはローガン)から金を奪い・・・と解釈することも可能になる。つまり、ドロレスを使って(アンジェラを使って)、デロスに出資させパークを救うということを、誰かが画策したのかもしれない。
 辻褄の点からみると、アンジェラ(白い靴のレディ)が男(ローガン)から金を奪い、という解釈がしっくりきそうなのだが、しかし2番目のホストの名前がオールドウィル(ウィル=ウイリアム)であることを考えると、どうしてもウイリアムが「男」である可能性を捨てられない。


さて翌朝、ループによりドロレスが起き、父アバナシーとの会話をするシーン。ドロレスは父のセリフを先回りして喋るのだが、自然といえば自然。違和感があるともいえる。ウエストワールドはこのように日常の何気ない会話の中にもメタファや伏線を仕込んでくるから油断できない。
 ではどういう伏線かというと、ドロレスは1-1現在においては半覚醒である。意識を完全に得ているわけでもなければ、完全に人形というわけでもない。この会話はプログラムとコードによって何百回も繰り替えされてきて、殺されるたびに記憶はリセットされてきた。しかし半覚醒状態であるドロレスは、記憶の消去がおこなわれても、潜在意識にループの断片を覚えている可能性があり、それがドロレスが父に対してセリフを先回りして言ったのかもしれない。同様のセリフの先回りは、1-1の大自然の中でテディに対してもドロレスは行っている。

つづく





海外ドラマ「ウエストワールド シーズン1」の解説VOL2

2022年06月02日 16時12分27秒 | 映画
ドロレスが自分の内なる声と会話(葛藤)しているの最中に、映像ではテディが汽車に乗りスイートウォーターに到着するシーンが同時に映される。
 汽車は決められたレールの上を走る。決められたシナリオのプロットのメタファである。乗客はそのプロットにのっかってプレイする。ホストであるテディもそのプロットに従って日常を生きる。

下車すると、スイートウォーターの保安官が賞金首ヘクターの討伐を募集しているのだが、このヘクターという名前はギリシャ神話におけるトロイアの王子の名前であり、ホメロスの叙事詩イーリアスでトロイア戦争の敗軍の将である。つまり彼の運命はこの時点で死ぬことを決定づけられている。
 一方マリポサのマダムのメイブの名前はケルト神話における「酩酊」の意味でありアイルランドの女王である。ここから先は妄想になるのだが、マリポサのメイブはこの後酒場で客に「輝く海を渡り、新世界に渡った」というが、アイルランドの人間が大西洋を渡りアメリカ大陸に渡るというのは、この西部時代のアメリカではおなじみの展開であるし、アイリッシュ系移民はアメリカでは当時蔑まれていたということの記号として、この名前に設定したのだろう。
 いずれにしても細部の話なので、本筋とは関係ない。

 さてウエストワールドシーズン1では、視聴者の時間軸の混乱あるいは誤解というものがある。脚本が意図的に誤解や混乱を生むような作りをしている為なのだが、この冒頭のシーンはシーズン1での「現在」である。
 1-2から若きウイリアムの話が始まるのだが、あれは35年前の出来事である。「現在」も「35年前」もパークの施設はほとんど変更がないので、視聴者は「ここは今なのか?いつなのか?」というホストが感じる時間軸の混乱と同じような感覚を共有することになる。しかしながら、ホストの役柄が現在と35年前では変更が結構あるので、それを手掛かりにして時間軸の整理が可能な作りとなっている。

 さてテディが酒場の窓から外をみてドロレスを発見するが、窓の外にうつる女性というのは「叶わぬ恋」を示唆している。

 このあと、謎の黒服がやってくることになるが、こは言わずと知れた年老いたウイリアム。「また会ったな」「古い友人にそれはないだろう」「30年も通っているのに、まだ俺を覚えていないのか」「これまでいろいろあったじゃないか」というセリフは、シーズン1を最後まで見たら、そのセリフの印象がまるで変わってしまう。シーズン1の黒服は「俺はもう帰らない」と作中でいってるように、かなり厭世的である。
 黒服のセリフはシーズン1を通じて、かなりメタ的な発言が多く、俺がプレーヤーだ、とか、ローレンスに向かって(エルラゾの事を)彼は昔お前だったとか、ゲーム内での規定ギリギリの発言を意図的に行っているフシがある。



海外ドラマ「ウエストワールド シーズン1」の解説VOL1

2022年06月02日 00時17分41秒 | 映画
アメリカの西部劇を舞台にしたSFドラマ「ウエストワールド」。近年では稀にみる名作であった。同じ作品を何回も繰り返して鑑賞するのは、芸術作品やあるいはジブリアニメなどのものに限るが、このウエストワールドにも言えることである。
 この作品は現在シーズン3まで公開されており、今月中にシーズン4が配信されることになっている。そこで、これまで自分が繰り返し見てきたシーズン1~3までの作品の構造と本質を、2022年現在の私が理解している範囲で半ば備忘録として解説・記録することにした。
 最初から本編のネタバレを含む記述となっているので、これから初めてウエストワールドを見る方はこのページを閉じた方がよいと思う。

以下ネタバレ


シーズン1の本質は主人公であるドロレスが意識を獲得する物語である。
彼女やホストの記憶は正確で、人間の記憶のように後に改定されたり忘れることはない。彼女が記憶を忘れるとすれば、それは人為的に記憶を消去された場合のみである。そして彼女は意識を持たないAIから、意識を持つより高次元の存在に飛躍するための最後の一押しの直前という状態から、このドラマは始まる。
 この作品において、ホストが意識を持つということを映像的にどう表現するかということについては、これまでの過去のSF作品とはアプローチの仕方が異なりかなり革新的な手法をとっている。
 1人称であるドロレスは作中で、たびたび「声」を聴いたり、「声」に反応して応えたりもしている。これはあたかもその「声」が、ホストと矯正部あるいはホストとアーノルドとの「会話」のような印象を視聴者に与えるが、実際はそうではなくて、これはドロレスの内なる声、つまり「2分心」の声である。なぜシーズン1-1ではその「声」がアーノルドの声として表現され、1-10においては、自分の「声」になるのかについては簡単で、1-1のドロレスの時点ではまだ真の意味での意識を獲得していないからであり、1-10で自分の声になったときには完全に意識を獲得したからである。
 つまりこのシーズン1の物語は、ドロレスの1人称視点によって映像で表現されることが度々でてくる。その映像は、時として視聴者のミスリードを誘うことになる。作中の「声」として登場する黒人の男がバーナードなのかアーノルドなのかという謎解きの迷宮に引き込まれるのがまさにソレで、ドロレスと黒人の男の会話の回想シーンのような映像は、ほぼ全てがドロレスの内なる「声」とのやり取りなのである。
 その「声」を「葛藤」と表現してもかまわない。なぜなら、我々人間にも「内なる声」というものが存在するからだ。人は心に天使と悪魔を住まわせている、という喩えがあるが、我々は何かを考え何かを判断するときには、やはり「内なる声」というようなものと対話をしていると感じたりはしないだろうか? つまり人間のそういう感覚を、機械であるホストが獲得するときには、ああいう「声」というあり方で映像的に表現したのが、シーズン1である。

 これでシーズン1の解説は実はほぼ終わりなのだが、このドラマが優れているのは、今解説したメインテーマだけではない。作中のフォード博士のセリフにもあるように「神は細部に宿る」ということを、監督はこの作品を通じて実践している。ここからは、細かくそれを見ていこう。

シーズン1-1(以下1-1、1-2と表現する)の冒頭。
裸のドロレスがメサの施設内でバーナードの声と会話をするシーン。
上述したようにこのバーナードの声は、バーナードとの会話ではなく、ドロレスの内なる「声」である。
そしてここの裸のドロレス。まるでボッティチェッリの絵画「ヴィーナスの誕生」を彷彿とさせる。このドラマは度々シェークスピアだのミケランジェロだのクラシック音楽などの芸術作品が作中で語られる。これもおそらくボッティチェッリの絵画を意識しているものと思われる。

次にハエ。これも作中で度々現れるのだが、これは「死」のメタファーかと思われる。

そしてこの作品は基本的にループものであり、毎日同じようなルーチンが繰り返されていく。それはあたかも人間が、毎日定時に起きて仕事に行って家に帰って寝るという日常を繰り返すが如くである。ただし、ホストのループは人間のそれよりはもっと単純で、いわゆるオンラインゲームのような文字通りプログラム化された単純なループであるが・・・。
 そしてそのループを示唆する映像的なものが、自動演奏によるピアノである。このピアノの楽譜はパンチ穴のあいた点字のようなコードであり、まさにホストの「コード」と「ループ」を象徴している。

つづく