スタジオジブリの映画「君たちはどう生きるか」を観た。
まるで難解なオペラを観たような気分になった。私の趣味がクラシック鑑賞なのでこういう言い方しかできないのが申し訳ない。オペラ作曲家であるワーグナーの「パルジファル」や「トリスタン」などが難解なオペラの代表で、ようするに初見ではさほど面白くは感じられないということを言いたいわけだ。だがスルメのように噛めば噛むほど味が出る。見れば見るほどわかってくる。人生の経験を積めば積むほどわかってくるという、厄介なつくりになっているのである。
ということで私の現在における「君たちはどう生きるか」の感想は多分に的外れな考察が入っているものではあるが、そういう先入観を排除せずに以下に考察を書いていこうと思う。
さっそく本題に入ろう。結論から先に言えば、この映画は主人公である真人の1人称の視点で描かれた主人公の内面世界における話である。物語が複雑なのは、この映画は主人公自身の「妄想」や「思い込み」「ごまかし」そして「嘘」も含めた1人称視点である。主人公本人がそれを意識しているかいないかはわからない。そういう意味では「信頼できない語り手」という叙述トリックを映像でやっている映画である。
信頼できない語り手の意味は詳しくはWIKIを参照してほしい。簡単に抜粋すると以下のようなことだ。
【語り手の心の不安定さや精神疾患、強い偏見、自己欺瞞、記憶のあいまいさ、酩酊、知識の欠如、出来事の全てを知り得ない限られた視点、その他語り手が観客や読者を騙そうとする企みや、劇中劇、妄想、夢などで複雑に入り組んだ視点になっているなどがある。ーーー 中略ーーー 語り手の陥っている状態は、物語の開始と同時にすぐ明らかになることもある。例えば、語り手の話す内容が最初から誤っていることが読者にも分かるようになっていたり、錯覚や精神病などである。この手法は物語をよりドラマチックにするため、劇中で明かされることが多いが、語り手の信頼できるか否かが最後まで明らかにされず、謎が残されたままの場合もある。 】
なぜそう思うのか?この映画は冒頭火事のシーンから始まるのだが、このシーンが明らかに不自然だからだ。映像やセリフでは母親の入院中の病院?の建物が火事になって母が亡くなるという事だが、モブの民衆の表情や動きは明らかに局所的な火事の反応であるとはとても思えないほど緊迫している。火事である建物から遠く離れているにもかかわらず、なぜ遠くにいる民衆がこうも憔悴しきった顔をしているのか? つまりこの映像には「嘘」が混じっているのである。これはおそらく空襲だろうと思われる。母は空襲による火事によって亡くなったのだろう。しかしながら主人公は、母の死を火事ということで無意識に書き換えた。実際は空襲で疎開してきたのだろう。
この映像による「嘘」はこの後も絶え間なく続くことになる。主人公の父がどうしようもない男として描かれているのも、疎開先の豪華すぎる屋敷にしても、アオサギにしても、異世界に迷い込むのも、主人公の1人称視点での思い込みや嘘やごまかしがはいった映像である。主人公本人にはそう見えるのだ。そう見える理由は彼がまだ子供であるということもあるが、同時にトラウマもあり、精神的にも追い詰められているからである。
ではアオサギとは何をさしているのか?アオサギは醜い自分の象徴であろう。自分の心の内が実体化したものである。アオサギの姿がだんだんグロテスクになっていったり、喋ったりしていくのは、醜い自分を自覚しだしているのか、はたまたそういう自分を殺そうとしている(自殺しようとしている)のか。アオサギに恐怖を覚えた瞬間の映像は真人に無数のカエルがまとわりついた映像としてあらわされている。面白いのは、この映画ではやたら動物や鳥などが出てくるが、これらはすべて主人公が見たことのある動物である。みたことのないモノはでてこない。想像力は、実際にみたことのあるものの中から生まれるということを表しているのだろうし、子供にとって強烈な経験や感情というものはこの映画の映像のように突飛にみえるものなのである。のちに鳥たちが非常に狂暴な存在としてあらわれるが、主人公はまだ子供なので実際の狂暴な人間の大人を知らない。知らない主人公から見える世界は、まさに映画のような突飛な世界になるのである。
では劇中にでてくる大叔父が建てた塔とは何をさしているのか?
塔はおそらく「自分の世界観」を象徴してるのだろう。大叔父はこの塔の中で本を読みすぎてオカシクなった。夏子はこの塔につわりの最中に迷い込んだ。主人公は失われた母をもとめてこの塔に迷い込んだ。若かりし頃のキリコの世界にもこの塔は存在した。久子も作中1年間失踪した事件があったと語られているが、おそらく塔に迷い込んだのだろう。主人公と一緒にバタージャムをのせたパンを食べた世界がそれであり、そこにも塔があった。
塔とは「自分の世界観に囚われた生き方」なのかもしれない。映画のラストでそれが崩れるのは、主人公は何かに囚われた生き方から一皮むけたということを表しているのだろう。狂暴な鳥も、塔の外(真人の本当の現実世界)に出た瞬間に小さくなり、ただのセキセイインコになるのは、囚われた世界からの解放でもある。あの鳥はどう考えても大人の人間そのものである。つまり真人は大人に失望しているからこそ、狂暴な鳥に翻弄されるという視点をもっていたのだが、囚われた世界観から覚醒した主人公は大人も自分以上に苦悩を経た人間であると気づき、怪物のような容姿ではなくなった。つまりトラウマから醒めたのである。
ではラスト付近に登場する大叔父の空間と、白い積木、そして巨大なる意志をもったような石とは何か?
あきらかに白い積木を積み上げる行為は「理想の世界」を描いているのだろう。しかしその理想は無垢すぎて人間には到達できる場所ではない、いわば観念の中にしか存在しないものである。悪意のないもので積みあがった世界だからだ。
空に浮かぶ石やチリチリとしびれるあの石はいったい何なのか?なぜ夏子の産屋と大叔父の住む場所にいくには、あの石を通過していかなければならないのか? この辺りはしっくりくる答えがわからない。まるで漫画版ナウシカの墓所の石のようだ。
さて、この映画にはセルフオマージュのような映像がいくつもでてくる。帆船は明らかに紅の豚の死者が舞い上がる飛行機を想起させるし、アオサギの羽をつけた矢が勝手に動き出しすごい威力で壁に刺さるなどの描写はもののけ姫を思い起こさせる。その他にも随所にこれまでのジブリ作品に似た映像が挿入されている。これはいったい何か?
これを私はワーグナーの楽劇で取り入れられている「ライトモティーフ(指導動機)」と解釈している。簡単にいうと登場人物の行為や感情、状況の変化などを端的に、あるいは象徴的に示唆するために使う手法のことである。
つまり今作の映画におけるセルフオマージュは、そのオマージュの状況に近いものが今作の作中で現れてるいると考えると多少辻褄があう。
わらわらはもののけ姫のコダマのオマージュであり、いわばプレ生命である。コダマは樹木のプレ生命である。鳥の王が木の橋を剣で切って主人公を落とそうとするのは、ラピュタでのパズーが橋から落ちるシーンのオマージュだが、これもそのときの心情をあらわしたものだろう。
以上の解釈から考えると、今作はトラウマに苛まれ生きる希望を失いかけた主人公がキリコと夏子との出会い、そして自分に向き合い善意と悪意の両方をもった自分を認め、トラウマを乗り越えこの世を肯定的に生きるというあたらしい世界観を獲得した、という話といえるだろう。
「彼はこのように生きました。では君たちはどう生きるのか?」という話であります。もちろん「彼」とは真人でありそして宮崎本人です。