Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

近年の中東情勢についての備忘録

2024年10月09日 20時22分06秒 | 歴史
先崎彰容の頭の良すぎる内容を聞いてハッとしたので備忘録としてまとめておきたいと思う。


●(イスラム)原理主義という言葉の持つ本来的な意味
先崎
過去の聖典の作られた時代を絶対的に正しい時代として理想化して(想像上の過去と理想化して)、今の社会をムハンマドの登場する以前の無秩序と混乱の時代と同様なものとして考え、すなわちアメリカの資本などを受け入れた結果、腐敗堕落している無秩序な世界になってしまっていると考え、これを一気に変えなければならないという考え方をする。そうするとここに出てくるのは革命思想であり、社会を転覆するという思想になる。
 一方過去というものを理想化する時のもう一つの態度に保守主義がある。保守主義とは今まで紡いできた時間を尊重して、革命を起こすのではなくて、少しずつ微調整していこうという考え方である。
 ところが原理主義的な考え方は、もっと過去には純粋な無垢な時代があって、今徐々に他国の価値観などが入ってきて汚染されている時代なんだと考え、一気に変えなければならないという革命思想に直結している。革命は暴力を伴うから、我々が見ているような暴力のシーンもある。という風に考えたほうが、イスラムについて大枠で考えるときには正しいのではないか。

●キリスト教原理主義とイスラム原理主義の相違
宮家
キリスト教には聖と俗と2つに分かれている。その中間にカトリックであれば教会がある。ところがイスラムは聖と俗の区別がない。イスラム法学者は宗教指導者ではない。良いムスリムであれば、ムハンマドの教えを信じて実行する。この点で聖俗の区別はない。コーランに書いてあることを実行する。それを我々は原理主義と呼ぶ。

ペルシャとアラブ。石油がでているアラブと出ていないアラブ。占領下にあるアラブとそうでないアラブでは状況や事情が異なる。政治的利益の対立は、宗教的な教義でしか彼らは説明できないのある、今は。なぜなら議会制民主主義をやってもダメだった。社会主義をやってもダメだった。最後の手段としてイスラムがでてくるわけです。
 アラブ民族主義の動きも、もともとイスラム主義でやるかアラブ主義(世俗主義)でやるか(注:イスラム教に基づくイデオロギーかアラブ民族主義に基づくイデオロギーか)、このせめぎあいは第一次大戦後・第二次大戦後に出てきた。その時に、いわゆる「イスラム原理主義」というものは退けらた。なぜかというとイスラム原理主義的なことでやるとクリスチャンが入ってこれないから。ところがアラブ民族主義の一番盛んだった当時のところはレバノンだった。レバノンは当時半分以上はキリスト教徒だったから(注:キリスト教マロン派のことだと思われる)当時はイスラム主義は採られなかった。ところがレバノン式の統治もダメ、ナセル式の社会主義もダメだった。そして最後に残ったのがイスラム主義だった。その中でもシーア派的なものもあれば、スンニ派的なものがある。スンニ派の中にもいわゆるムスリム同胞団的なものもあれば、それ以外のものもいっぱいある。だけど彼らの基本的な考え方は、今腐敗しているのをムハンマドの時代に神からいただいた言葉の通り、良いムスリムでありつづけましょうという形で世直しをする。それに常に戻ろうとする。そして戻ったら、また腐敗してというかだらけて、それが何度も何度もイスラムの歴史のなかで繰り返されてきた。

司会
●サウジとイランの敵対関係はスンニとシーアの対立ではない?

宮家
ないという風に分析しています。あれは結果。
ペルシャ帝国とその対岸にあるアラブ。そこに石油が出ちゃった。その裏にアメリカがいる。(注:パーレビー王朝とアメリカの蜜月のこと)で、革命がおきた。(注:イランイスラム革命)アメリカはイランを敵対している。どうしよう。その時にイスラム革命によって共和制になったイラン。シーア派の「イスラム法学者」が政治を行っている。これはイスラム的にまた原理主義的に言えばあるべき姿。でもそんなことをやったらうまくいくわけがない、という人たちがアラブにもいる。つまりシーア派だからスンニ派だからというワケではなくて、イランが政治的に求めている権益とサウジアラビア等々人口が少ない・石油は出る、しかし自分たちじゃ守れない、いやなイラク人もいるし、そしてその先にはペルシャ人もいる。どうやって自分たちの権益を最大化するかって時に、ひとつのイデオロギーとして宗教を使っているということはあると思う。

●イスラム復興
先崎
原理主義という言葉はアメリカのキリスト教(プロテスタント)の保守派から出てきた言葉である。第一次世界大戦後に共産主義や国際連盟が登場するが、キリスト教保守派からみれば自分たちの考えているのとは全然違う世界構想が作られたという危機感が出てくる。終末論のようなものがワーッとアメリカを掻き立てていった時にでてきたのが原理主義という言葉の最初だった。
イスラムの研究者の間では、この原理主義という言葉をイスラムに使う必要性はないという論調が多くある。なぜならイスラムってのがそもそが原理主義であるから、わざわざ原理主義と呼ぶ必要性がない。

社会主義・アラブ民族主義というキーワードについて。
例えば社会主義的な政策・民族主義的な政策、この2つに共通しているのは宗教と対立して世俗的な価値観だということ。したがってアラブ民族主義を掲げることは、世俗的なことであってイスラム(主義)を排除することになる。
国作りをする点においては、宗教さえそれに従わなければならないという。
例えばエジプトが国作りをしていった時期があったが、これは世俗主義の権化であって(注:エジプトは社会主義を採り、かつアラブ民族主義であるから)、イスラム(主義)からすると耐えられない。
社会主義みたいなのが、時代の雰囲気もあって取り入れて国作りをしていった。
 アメリカにおいて第一次世界大戦後に原理主義が1920年代に台頭してきたように、イランやエジプトも明治維新期のように第一次世界大戦後に社会主義や民族主義を入れながら近代化を目指した時期があった。
 欧米諸国とイスラム諸国の融和。成長と分配の好循環というイメージ。経済的な豊かさをヨーロッパの科学技術や資本主義を学ぶことによって入れることが融和だとするならば、それによって中東にもたらされるものは、中東にいる王や資本家たちが牛耳る資本主義的な経済的格差である。そこに登場してくるのがイスラムという宗教の背景をもった人たちが、貧民たちに福祉政策をやるとしたら、国民の信頼を得る。そして国王という世俗権力に対してイスラムという宗教を全面に押し出してきた者たちが支持を得て、これを乗っ取っていくというか変えていく、革命によって「我々が考えている清く美しい世界を取り戻すんだ」というのがある支持を得ていく。だから、我々が考えているような欧米との融和政策。「融和なんてふざけるな」と。「資本主義の豊かさで堕落しているだろ」と。「我々が清くつつましく聖典に書いてある通りの生活をしているのをないがしろにしているじゃないか」と、これは許すまじという考え方が暴力的に出てくるであろうと。ここに石油利権というものが絡んでくるならば、この石油を求めてアメリカとかがこの地域をグリップしておこうという国をいくつかピックアップすれば、そこの所に前述したようなオイルマネーをめぐる貧富の差が出てきているというである。

司会
●反米主義がアラブの一部の地域にあるとすれば、相手を間違っているという話であって、その国その国の王族とかイスラム法学者とか、ないしは政府とか国営企業とかそういうところに対して向かうべき怒りというものを、反米主義という言葉で、その国その国の統治者・権力者らが、敵は我々ではなくてアメリカなんだよと、ないしは巨大資本なんだよとすり替えて聞こえます。

先崎
アメリカに対する怒りがものすごい。だからすり替えというか非常にわかりやすい一つの象徴になっているのは事実。

宮家
結局イスラエルという国が建国されてしまって、エルサレムをユダヤ人が支配してしまっていると。エルサレムはイスラムの聖地ですから、その裏にアメリカがいると彼らは思ってますから。
そうすると各王様・独裁者がいるんですが、例えばサウジだったらワッハーブという非常に厳しいイスラムの法学者を仲間に抱き込んで、厳しい政策をやってそれで宗教的な正当性を維持してきたんだけれども、しかし実態は堕落しているわけですよ、おそらく。となると困るでしょ、国内あんまり正当性がないわけだ。そしたら「ホラみろと。イスラエルはけしからん。あんなところで殺戮をやっている」「これはアラブの大義である」といって国内の引き締めのためにイスラム・アラブ諸国がイスラエルのパレスチナ問題を利用したといったら失礼だけれども大義として活用してきたことは事実。
 ところがパレスチナ人がとにかくバラバラになっちゃって、パレスチナ人は実政府あったはずなんだけどハマスにとられちゃって、そうすると「あれ?PLOにお金だしてきたのに、ちゃんとやってくれないじゃないか」と。
「よく考えると湾岸諸国にとって一番怖い相手はイスラエルなんかじゃない。ペルシャだとイランだと」となれば、「アメリカと喧嘩をするのもあるかもしれないが、やはりこれはイスラエルと組んで、そして自分たちの安全保障を考えることも検討しないといけない」と。「アメリカはアフガンから撤退して、そのあと帰ってこないんじゃないか」と。そういう疑心暗鬼がたとえばアブラハム合意というわけですが、イスラエルと一部の湾岸アラブ諸国との合意だとか、それとつい最近まではイスラエルとサウジアラビアとの関係改善もアメリカの水面下で仲介していたわけですよ。それが私の中東の現状認識です。


これらの話が正しいとするならば、中東の近現代史ならびに今日のパレスチナ問題、そして今日のテロ活動をしながらも貧民層に福祉するハマースやヒズボラの行動にも矛盾なく説明がつくものが多い。
 さらにいえば中東地域における中世から近代まで勃興と滅亡を繰り返してきた様々な王朝や権力者の歴史の中で、彼らがイスラム教をどう利用しどう活用してきたかということにもある一定の答えが見えてくるものである。
 1920年代に中東に起こった近代化や1978年に起こったイランイスラム革命は中東の「フランス革命」とは似ているが非なるものなのであろう。
 
「イスラムには聖俗の間に教会があるというような区別はなく、いつも原理主義であった。それが堕落とそれを正そうと絶えず繰り返される、それが中東の歴史である」という内容の話は目から鱗が落ちる言説である。

伊都国でガラス出土

2021年09月19日 01時13分00秒 | 歴史
https://www.google.co.jp/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/ASP9L5GS0P9LTIPE006.html

九州福岡の平原遺跡で重層ガラス連珠が見つかったようだ。原産は遠くローマ帝国の領域たる地中海沿岸とのこと。草原の道で伝わったと言う根拠としては、匈奴にこれと同じものが出土しているからだという。およそ3世紀のものである。

このニュースを見た時、歩揺冠のことが脳裏をよぎった。歩揺冠とは


こういうものである。ハート型の装飾があるくと揺れることから歩揺と呼ばれ、これを冠にしたものが歩揺冠である。


こちらは6世紀の新羅の冠。歩揺冠である。



最後のこれはアフガニスタンからの出土のもの。前1世紀後半から後1世紀前半あたりのものらしい。



スキタイ美術というものがある。現在のウクライナやコーカサス地方あたりにいたスキタイという遊牧民による黄金の工芸品である。なんとなく↑の歩揺に似ていないだろうか?

つまり文化というのは、ユーラシア大陸においてはこのようなダイナミックな文物の伝わり方をする。
お隣の半島では、起源は我が国だ!と頑なに主張したりするのだが、このガラス玉にしても歩揺冠にしても元を辿れば西の果てか中央アジアである。
正倉院に収められているガラスのボウルもササン朝ペルシャのものと瓜二つである。


正倉院



ササン朝ペルシャ






ワクチン接種と反ワクチン

2021年07月09日 09時58分08秒 | 歴史

医師の主張は、統計的なデータと死亡率によって、ワクチン接種による副作用のリスクよりも未接種によるウイルス感染死亡のほうが割合が高いから、ワクチンは打つべきだというものである。この他にも、集団でワクチンを一斉に打ち、できる限り他人にウイルスを感染させないという行動が重要とも説く。
これを世間では「ワクチン派」と括っている。

一方ワクチンによる副作用や副作用による死亡を恐れ、ワクチン接収を見合わせるあるいは接種をしないと決めた人々もいる。
これを世間では「反ワクチン派」と括っている。

ネットではワクチン派と反ワクチン派の対立が顕著にあらわれているが、この現象はいったい何なのかを考えてみる。

①「ワクチン派」「反ワクチン派」で一括りにすることについて

括る(くくる)というのは、さまざままもの、バラバラなものを一つにまとめるという意味である。つまり人の意見は十人十色でバラバラ。このままでは主張があいまいに過ぎるので、(乱暴だが)一つにまとめるという便宜である。つまり都合の良い思考の省略である。
言葉というのは、あるものを括ったり、一線を引いたり、区分けしたりして、別々に分類しようとする性質がある。これは都合の良いこともあるが、都合の悪いことも当然ある。


②人間は自分を依怙贔屓してみる癖がある

自分のツバは汚くないが、一旦外に出したツバは汚く感じる。理屈では滅菌してたら汚くないことになるが、それでも汚く感じる。人間には理屈では割り切れない感情・好き嫌いというものが存在する。それで自分の行動を変えちゃうのである。理屈とは違った行動に走るということである。


③ワクチン派は主に臨床データ・統計を根拠あるいは理屈にして主張している。反ワクチン派は理屈はあるけれど、感情または好き嫌いで打たないと主張していることについて

こういう論調はすぐに「こっちは正しい」「あっちは間違っている」という方向に議論が行きがちだ。良い悪いではなく、人間は理屈と感情の両方を持っているということは知っておかねばならない。忘れてしまうから「こっちは正しい」というような「基準」があたかも存在するかのような認識になってしまう。ある人が意見を言うとき、その人の中でどのくらいの割合で理屈と感情を織り交ぜて主張しているのだろうか。これはグラデーションのように境目は本来は存在しない。その時々の適度な理屈と適度な感情を織り交ぜて意見をだしている。


さて、ワクチン派と反ワクチン派の闘争?だが、彼らはいったい何と戦っているのだろうか?
たぶん良し悪しなのだろう。人間は理屈と感情というものを持っているということを忘れてはいないだろうか?
理屈と感情をあわせもっているということを前提として考えてみると、反ワクチンの感情と、そしてワクチン派の感情は何を主張したいのかを考えてみる。

まず。反ワクチン派の人が思っていることは、医師に対してまたは臨床的なデータや統計の結論に対して不信感を持っているということだろう。副作用とは現在までに確認されている副作用であり、未だ認知されていない潜在的あるいは長期的に作用する副作用について明らかにされていない。しかし言葉は、一括りにするので、現在における副作用は何%。死亡率は何%。感染率は何%と区切る。区切らないと分析ができないので当然だが、分析から落っことしたモノがたしかにそこにはある。未だ確認されてない副作用、これが落っことされている。それがどの程度あるのかは知らない。しかし医師やデータ・統計に関する不信感が、統計リスクを無視しても「打たない」と主張するほどに、不信感があると考えた方が、この騒動に説明がつくのではないか?

一方で、ワクチン派の思っていることは、なんで曖昧な感覚に依存して
「打たない」という行動にでるのか。バカなんじゃないか?と感情的に思っていることだろう。先ほども書いた通り、人間は理屈と感情を併せ持つ生き物であるのだが、理屈に傾いた人は感情を軽視したり、感情が理解できなくなったりすることがある。その理解できないことも本当は理屈で考え抜いて結論を出さなければならないのだろうが、人間は理屈と感情を併せ持つ生き物なので、おもわず「バカなんじゃないか?」という感情的な結論をだしてしまうわけだ。

つまり、「良い悪いではなく、人間は理屈と感情の両方を持っているということは知っておかねばならない。」というこのことを両方とも忘れいてるのである。




嶋穴駅 上総国

2021年05月28日 14時15分00秒 | 歴史


古東海道の駅に嶋穴という場所がある。現に千葉県の市原市にある地名なのだが、ここはかつて上総国の古東海道の駅であった。この道は後の豊臣秀吉が北条征伐の後に房総に進軍した道としても使われている。
嶋穴の地が史料に現れるのは延喜式においてであり10世紀にはすでに存在していた。


市原市を南北に流れる養老川。古養老川は現在の位置よりも南側に流れており、嶋穴駅は川の右岸にあった。ここは海上潟とも呼ばれは天然の良港があったという。
『万葉集』巻十四の東歌の冒頭に、「夏麻引く(なつそひ) 海上潟の 沖つ渚(そ)に 船はとどむめ さ夜更けにけり
との歌があるのが根拠であるとされる。海上潟は、古養老川の河口近くに形成された潟湖と推測され、東京湾と古養老川を結ぶ水上交通の拠点となっており、水運に長じた海人が少なからず居住していたであろうとのことである。

現在の養老川を数キロ上ると海士有木(あまありき)という地名があるし、その付近を通る国道297号線は古代の道と重なる部分が多い。当然のこととして、この養老川の付近には律令時代の国分寺や国衙がおかれていた地域とも重なる。



島穴神社。かつての嶋穴駅はこの寺の最寄りであり




現在、駅と思しき場所には石碑が建立されている。この石碑は嘉永元年1848のもの。


先日の大雨で川の水が増水しており、道路スレスレまで水位がのぼってきている。この地はほぼ海抜0メートルであり、さらに前述したように古養老川はこのあたりに流れていたことを考えると、この地の水捌けは極めて悪く、川の流れは幾度となく変わってきたのだろうと思われる。


現在、島穴神社と嶋穴駅は線路によって左右に分断されてしまっている。写真の中央左の森が島穴神社であり、中央右にすこしある木々の場所が嶋穴駅と比定されている場所である。







陰謀論を巡る態度

2020年12月12日 04時27分00秒 | 歴史
世に陰謀論なる言葉が存在する。この言葉の定義はどうやら陰謀という言葉とは違い、始めっからウソというニュアンスを含んだ否定的な言葉であるようだ。ウィキペディアからその説明を引用してみよう。

陰謀論(いんぼうろん、Conspiracy theory)または陰謀説(いんぼうせつ)とは、ある出来事や状況に対する説明のことであり、他にもっともらしい説明があるにも関わらず、邪悪で強力な集団や人物による陰謀や謀略が関与しているとするものである[2][3][4][5]。この言葉は、偏見や不十分な証拠に基づいているという否定的な意味合いを持って使用されることが多い

実際の陰謀は、たとえ非常に単純なものであっても、隠蔽するのは困難であり、日常的に予期せぬ問題が発生する[41]。対照的に、陰謀論では非現実的に陰謀が成功することが示唆され、陰謀の首謀者とされる集団(例えば官僚組織など)は、ほぼ完璧に近い能力と秘密主義に基づいて行動できるとされる。事象や状況の原因は、複雑な要因や相互作用する要因、および単なる偶然や意図しない結果などを排除するために単純化される。ほぼすべての発見は、首謀者によって意図的に計画されたものとして説明される[41]

だそうである。トランプの主張している選挙の不正や、第二次世界大戦での日本軍が証拠を全て処分・焼却したから証拠はないが◯◯は事実であると主張することなどは、いわゆる陰謀論といわれている。(後者の日本軍の場合のケースは巷では陰謀論とはいわれておらず、真実などといわれており、それを主張したいものは頑として陰謀論とは認めないであろうが)

陰謀論という定義は、wikiの説明を読めば、その行間に「陰謀論者はバカだ」というニュアンスが強く漂っている。つまり陰謀論とは元々バカにした言葉なのだ。陰謀にはそのようなニュアンスはない。ただし陰謀+論 となると、とたんに否定的な言葉となる。
ああ、そういえば世間にはこれとよく似た別の言葉あることに気がついた。それは「歴史修正主義者」という言葉である。
歴史+修正+主義者とバラバラにするとそれぞれの単語には否定的ニュアンスはないが、歴史修正主義者となると、これは陰謀論のようにバカげたという否定的な意味になる。もうひとつあげるとネトウヨなんかもこれらと親戚筋の言葉で、ネット+右翼でまあ右翼という言葉は否定的ニュアンスをもつが、いまやネトウヨという言葉は、それこそネット+右翼という意味を超えて、オツムの弱いバカという定義にされてしまっている。

それにしても思うのは、いったい誰がこのような造語を作ったのか、またはそれを利用したのかということである。

これらの言葉は全て「レッテルを貼る」ために生み出された、あるいは利用された排他的な言葉であろう。陰謀はこの世には存在する。論説もこの世にはある。しかし陰謀論は「バカで荒唐無稽な意見」というように意味を矮小化している。そのように言葉を利用している。それはつまり、副次的作用として、陰謀という言葉の元々持つ意味そのものも矮小化させる働きもしている。これは、陰謀を行う側にとっては、陰謀を行なったとしても、それを陰謀論と揶揄しその存在をあたかも荒唐無稽のようにバカにして矮小化して、陰謀そのものを隠蔽する方向にも利用できる。(戦争中や平時での情報戦とか、あるいは世の治安が悪くなればこういう造語は乱発される)
つまり造語が生み出される背景というのは、だいたいにおいてはなんらかの意図に基づいた主目的と、副次的にあらわれる副作用の両方が働くのであろう。

さて、陰謀論の親戚語のような歴史修正主義者という言葉についても同様に考えてみよう。我々が中・高等学校で習った歴史のある箇所は、近年の史料あるいは考古学の発見などによって、書き換えられているものがある。1192作ろう鎌倉幕府と覚えたものだが、いまでは1185と習っているそうだ。これを歴史修正主義とは言わない。歴史+修正+主義という単語の結合の意味として歴史修正主義という言葉の意味を探るとするならば、1192を1185に修正するのは、間違いなく歴史修正主義である。しかし、陰謀論と同じくこの言葉は「レッテルを貼られた」言葉であり、造語である。1192を1185に変えたのは、バカで荒唐無稽ではないから、これを歴史修正主義といったら、学者におそらく怒られるだろう。
どうも世の中には、いい修正と悪い修正というものがあるらしい。学者の論説、あるいは学説が定説になってきたもので修正すれば良い修正になり、素人の論説や疑問に基づく仮説は、悪い修正になるのだろう。

善悪と書いたが、なぜなら歴史修正主義という言葉は、バカにされている否定的な言葉であり、悪いニュアンスをもつレッテルを貼られたことばでえるので、良い修正と悪いの修正の基準はこの世にあるらしいということになる。

しかしそうなると、あたかも学者の定説であるかの如く、金で買収でもされた学者が、それっぽく何かを我々素人に説いたとすると、その学者が今までの歴史観を修正した主張であっても、良い修正と演出することは可能である。また逆も然りで、定説に則っていた学説だとしても、金で買収された何者かが、その説を歴史修正主義と貶める演出をすることは可能である。
つまりは真実を歪曲することもできるし、ウソを真実だと捻じ曲げることもできてしまう。

一般的に、このような「あるようなことをないかのように」あるいは「ないことをあるかのようなことに」する活動というものを陰謀という。陰謀論ではなく陰謀である。

まったく陰謀論とか歴史修正主義とかネトウヨとか、言葉を混乱させる造語を人はよく作るものである。そういう造語を作る目的は、陰謀に使われている可能性があることは述べた。

はなしを最初に戻そう。
トランプの不正選挙の話である。
不正なんかあるわけがない、これは陰謀論だ、と安易に切り捨てる人がいる。不正があったことは間違いない、と安易に信じ切る人もいる。不正があったかもしれないし、なかったのかもしれない、と思う人もいる。私の立場は最後のものだが、しかし、、。
こうも猫も杓子も「陰謀論」とか「歴史修正主義」だと血眼になってレッテルを貼り貶めることに邁進してブレない論者をおおくテレビや言論などで見ると、その発言者のあまりの排他性をみるにつけて、
あれ?ここまでの排他性を病的に主張して相手を貶めるってことは、ひょっとするとそのこと自身によって、陰謀とか実はあるんじゃないの?と疑いたくなるものだ。

事実、歴史修正主義とか陰謀論とかを排他的に主張・展開している団体や個人は多い。差別のないところ、あるいは少ないところに、大きな差別があるかのように主張し、その主張が極めて排他的であるのもたまに耳にする。歴史修正主義に限定して言えば、ナチスの歴史に擁護的な解釈をドイツで学者が主張すると、その者は訴追されて失職してしまうという例がいくつもある。これは排他的な動きの一つである。

かりにこの学者の主張がマヌケなものであったとしても、無視するでもなく馬鹿にするだけでもなく、訴追して失職という排他性を実際に伴っているわけである。
ここまでこわばった排他性をみせつけられると、あれ?ひょっとして、、、ホントは、、、と疑いをもちたくなるだろう。

つまり一度政治的あるいは何かの力によって極悪党と認定されたものは、その後新たな史料や証拠に基づいたものがあったとして、その人の悪党性を詳細に認定し直したとする。その詳細の認定の結果は、これまでが悪党度1000だったものが、悪党度950になるようなものだったとする。
しかし、前住したように、この世にはないものをあるかのように、また、あるものをないかのように、という陰謀はあったりする。学者が学者の良心に従い、きちんとした証拠と史料をもってその学説を「修正」したとしても、その修正は歴史修正主義と貶められる陰謀の餌食になる可能性もあるし、逆もまた然りであるつまり悪党度1000を1500にするという修正もである。

つまり、なにが正しい修正で、何が修正主義なのかという判断。
なにが陰謀で、なにが陰謀論なのかという判断。
これらは容易に下せるものではない。
それを容易に、そして頑なな排他性をもって下す者がいたとしたら、その者の主張は甚だ怪しいと疑わざるを得ない。
それこそが学問に対するまじめな態度だと思う。






カール・ポパーの本

2020年11月22日 22時39分00秒 | 歴史
養老孟司がかつて押井守と対談をした時に「現実」と言う概念がテーマになったとき、彼はポパーの世界1、世界2そして世界3という話をした。その内容があまりにも斬新だったので、ポパーのその本が読みたくなって図書館へ行き検索したら本書がヒットして借りてきた。

なんと、この本のメインは非決定論の擁護というもので、世界1〜3の話は本書の付録であったことに驚いた。

要約すると世界123の数字の順序は、それが現れた時期の順であり1ほど古く3ほど新しい。
世界1はいわゆる岩石や樹木や物理的力の場といった世界で、化学や生物の世界も含まれる。
世界2は心理にかかわる世界で、人間の心や動物の心についての研究者によって研究されている。それは、不安や希望といった感情の世界、行為に向かう性向の世界、また深層意識的な無意識的な経験も含めた、あらゆる主観的な経験の世界。
世界3は人間精神の産物の世界である。芸術作品、倫理的価値、社会的諸制度、科学図書の世界、つまり書物、科学的問題、そした誤った理論も含めてだが、理論など。

ここで1の世界は認めても良いが、2と3は世界とは言わない、とか、3は2に含まれる概念じゃないのか?などという疑問はここでは触れない。触れると本をそのまま抜粋することになるし話が長くなる。

ポパーはその3つの世界は相互作用すると言う。2は頭の中の思考だが、それを文字や数字といった記号として記録された時、あるいは文字として整理されて分類された時に生まれるものを3といっているようだ。
例えば2の思考は、言葉を全く発せずとも自分の主観的な考えで世界を構築できるが、一度文字として記録すると、第三者に参照可能なものになる。つまり世界3と相互作用してしまう。その「相互作用」と言う言葉は、「その文面を用いて他人と議論が起こる」と言い換えてもいい。
また、記録したものは、そこから新たなものを生み出すということがある。例えば数字というものを頭の中で考えてたとして(世界2)、それを紙に記録したとする。そしてその数字をみた私が、あるいは他人が、その数字を奇数と偶数の2種類に分化・分類したとしよう。この時「奇数」「偶数」というものは発明されたことになり、生まれたといって良い。ポパーのいう世界3とは、こういったものらしい。なので倫理的価値、社会制度、芸術作品などがこれにあたるわけだ。

今までの私の常識では、世界1と世界2という区別はなんとなく自然に受け入れられた。世界は二元論として認識されてはいたが、この世界3のポパーの解釈は斬新だった。これを世界2から分けて世界3としたのが画期的であるといっても良い。

そして世界3は、いわゆる「理論」というものだが、この理論を使って製品を作り出したとすると、それは「理論」ではなく「科学技術」と名前がかわり、科学技術で生み出された製品は、例えば車などは、世界1のモノとなってしまうのだ。(世界2によって構造的に明らかにされた世界3の理論を用いて製品を作ったら、その製品はモノなので世界1に相互作用をしたわけである)

この話が面白いのは、理論を利用して製品化されたものは科学(技術)といい、感性を利用して製品化されたものは芸術と名前を変える。細かくいえば、科学技術の製品にも感性を反映させた遊びがあるし(車のデザイン等)、芸術にも理論を反映させた遊びもある(音楽理論等)ので、科学や芸術が製品化された時にかならずしも理論と感性に完全に寄っているわけではないということである。
我々は言葉によって一律に概念を区切るということをやっているが、当初は便宜的に区切っていたものが、後になると全然別のものと当然のように認識してしまうという誤りを犯すことがある。科学と芸術は、今やかなり真逆なものとして捉えられているのではないか?

話が逸れた。
世界2から世界3が生み出されるということについて、考えてみよう。
世界3の理論が「正しいか」どうかを判定する時、我々がよく用いるのは観察や自然界での振る舞いが、その理論と合致するかである。ガリレオがピサの斜塔から異なる重さの鉄球を落とした実験はまさにこれであろう。つまり世界3の理論は、世界1の物理的な世界において一致するのか観測をするわけである。
つまり、最初に世界2の主観的思惟または直感などの感覚から、言語化文字化記号化されたものを、よくよくさらに読み解いていくと、先程の奇数偶数ではないが、何かしらの新たな理屈や原理めいたものが発明されてくる。そして、まさにこの思惟を通じて理論化する過程というのは、実は脳の構造を無意識のうちに外界の世界に作っているという行為ではないだろうか?
  人間がコンピュータを作っていたら、実はその構造とほとんどそっくりなものが、脳の大脳新皮質の機能にあった、というような事をここでは言っている。これはべつにコンピュータに限ったことではなく、宗教における二元論だって、脳の構造が二元論に傾くという機能を一部には持っているという証左なのだろう。カーナビの真ん中に矢印があるという、カーナビの構造も、我々人間が空間認識をするときに、脳の機能、あるいは構造において、地図と矢印のようなものが、内部的に備わっているのだろう。それを人間が外界に便利な物として発明するとき、それは自分の脳の内部構造を外界に別の素材で作っていると言うことができるのだ。

構造主義という思想があるが、今になって私はその意味の一端を新たに発見した気分である。


勉強においてインプットとアウトプットという言葉がある。私は歴史が好きだから歴史の本を読むとか動画を見るというインプットはよくやってはいるが、じつはこれだと知らなかった事についてはされなりに知ることはできるが、理論として新しいことに気づくということは殆どない。
経験的にそれらの気づきというのは、アウトプットの中から生まれていたような気は確かにしていた。
教科書に年表があったが、あの年表は編者が整理した年表であり、私が整理したものではない。そこで私は自分なりの(ヘタな)整理によって独自の年表を作ったことがある。つまりアウトプットしたわけだ。もしくは、世界2の思惟を紙に記号化することによって、その記号化したものをさらに掘り下げていくと、なにか一つの流れや法則や順序めいたものがみえてこないか?という、上に書いた「理論の発明」と同じプロセスをやっていたことに、本書を読んでいて気づいた訳である。

つまり、アウトプットなる言葉は、別の言葉を使うなら、世界2から世界3を発明するという行為とレベルの差こそはあれほぼ同義であるということだ。そしてそのアウトプットなる言葉は同時に、自分の脳の構造の一部分を外界に作り出しているという事でもある。

こうなると、インプットとアウトプットが意味するものが、一段階深いものとして再認識することができる。
歴史をより知りたいのであれば、世界2を磨かねばならぬ。それは主観的な心を含んだ深層意識的なるものも含んだ経験と知によるものの「磨き」である。
それは単なる歴史資料や歴史の本という情報を読むだけにとどまらず、人間の心をしるとか、その歴史のあった現地に行く経験であるとか、不安や希望といった人間の感覚などの経験を通じた重層的な理解などが「磨き」にあたる。これをインプットという。
それら絶え間ない磨きともともとの脳の構造から我々を突き動かすナニカの力によって、我々は文字化された「まとめられた(年表にあたるような)モノ」から新たな理論を発見、あるいは発明する。

奇数と偶数という分類法はそれは素晴らしい。天才的分類と言わざるを得ない。わたしにはとてもそういう洗練された分類はできないが(だからアウトプットよる成果はいつも先達の轍がある発見であり、発明とにはならないわけだが)、こういう分類の工夫などをすれば、すくなくとも今よりかは歴史の智に対してさらなる前進を加速するための貢献になるだろう。◯◯時代という区分を考えた人は凄い人だが、自分なりの分類によって、自分の気づかなかったことを発見できるような気になったことは確かである。

ポパーは凄い。これがなんと付録なのだ。ちなみに本文である非決定論の擁護については、難解すぎて読む気にはなれなかったということを付言しておく。





コロナのお話

2020年07月17日 04時15分00秒 | 歴史
本日の感染者は622人だそうである。言葉や数字とは不思議なもので、何でも一緒にしてしまう。今年の3月あたりが日本におけるコロナのピークだと思われるが、本日の感染者はその数に肉薄しているようにみえる。3月のピーク時は1日あたり700人くらい感染者していた。死者は記憶では1日20人くらいを超えていたように思う。
数字で見れば感染者は同程度。だからテレビでも「すわ大変だ!また緊急事態宣言か?」という内容をやっているらしい。が、死者は0である。今週の死者はほぼ0か1人で推移している。
つまりこの情報だけを見ても、今日の状況は3月の状況とは似ていない。違う状態と考えるべきだろう。




一方こちらは世界の状況。世界の国々の統計の合計というわけだ。これによると感染者は80635人で、死者は1747人。死者÷感染者は0.02166。100人中2.1人の死者である。
さて乱暴だが、この0.02166の死亡率を日本の本日の感染者数である622人にかけてみる。そうすうると、13.47人。しかし実態はこの日の死者は0である。

素直に考えると、感染者の定義が3月と今日の7月とでは変わったのだろう。かつては38度の熱が何日以上続いた、とか、そういうのが感染の定義だったりした。しかし今日ではPCR検査などで、ウイルスが体内にどのくらいいるかという定量で恐らく測られているのだろう。なぜなら今日では無症状でも陽性で感染者にカウントされているものが過去と比べて圧倒的に多いということはニュースとか見ていてもわかる。

日本ではコロナによる1日の死者が最大15人〜25人くらいがピークだったように思う。ということは、今日の感染者622人で死者0あるいは1という推移は、これの15倍の規模ではじめて死者がかつてのピークの15人ほどと並ぶことになる。622×15=9330。つまりかつての感染者700人は、今日の9330人に相当するものであると言えなくもない。つまり感染者の見極めの精度が上がったため、かつて同じ精度で測ったとしたら、やはり1日あたりの感染者は10000人くらいはいた、と考えられるというわけである。
  勿論ウイルスや人間の免疫力は冬から春にかけてのほうが今日よりも厳しい状況ではあるだろから、それを差し引くとしても、まあ1日あたり6000人くらいで、今年の3月に相当する規模と乱暴にいってもいいのかもしれない。

  しかしそうなると、世界の統計である感染者8万、死者1700人はどう考えたらいいのだろうか? 死亡率2.16%である。
ごく普通に考えるならば、その答えは「世界は日本ほど厳しいな感染者の定義をしていない」ということだろう。つまり日本の感染の定義を世界に当てはめたら、本日の世界の感染者は8万人では利かないのだろう。100万人とかになるのではないか?

もちろんこんな乱暴な意見はテレビでは流されない。しかしテレビは「人間はウソをつく」ということを省いて、発表の数字をそのまま流す。

テレビによれば、日本の対コロナ対策は世界と比べて優等生ではないらしい。むしろ失敗している方の国と報じている局も多いし、専門家の一部もそういう意見を言っている。
とすると、本日の感染者の622人がウソか、あるいは本日の死者0がウソか、あるいはテレビや専門家の一部の言っている意見がウソかのどちらかが考えられる。
どちらも本当だとしたら、矛盾するからである。発表の数字が本当だとしたら、日本は死者が出ない優等生であるから、テレビや一部の専門家はウソをついていることになるし、逆にテレビや専門家の言っていることが本当だとしたら、感染者622人で死者0はウソの発表ということになる。

どちらが本当なのかは知らないが、どちらかがウソを言っているということについては恐らく確かである。
意図的なウソなのか錯誤のウソなのかはともかくとして、、、。

しかし死者の発表でウソをついていたとしたら、大胆なことをするものである。それこそ戦前の大本営発表のようなものだろう。たしかに国家は時としてそういう事をする。
しかしニュースや専門家などがデマやウソを流したりするのは良く目にしたりするので、こちらも同様に鵜呑みにはできない。

いずれにせよ、どちらの陣営の発表も鵜呑みにするのは危険だろう。統計のウソであれば、いずれ死者の数がごまかせなくなるだろうし、ニュースの嘘も同様であるから、注視はしつづけるべきだろう。


私の今の認識では、本日の感染622という数字は、過去と比較できる数字ではない。したがって、本日を過去の3月のピーク時のようなものとは一切考えない。なので622人感染が多いとはほとんど思わない、である。




危機感

2020年06月02日 13時20分00秒 | 歴史
https://news.yahoo.co.jp/articles/efcc823051558f557a4003f65c8a56fd105ff066

こういうニュースが流れるたびに、論調はある決められた方向に流れることが定番となっている。
すなわち
①だから韓国は度し難い
②日本は悪いことしたんだから仕方ない
③韓国に対するヘイトはしてはいけない

思想の違いは①〜③では全く違うものの、おおむねこういう意見が多い。しかしそれではいつもの論調になるので(右や左の思想にせよ) 少し変わった考察をしてみたい。

親日賞賛禁止法とやらが議論されているらしい。懲役刑までこの法律は含むらしい。

上の①〜③のどの思想を持つ人にとっても共通するであろう危機感は、以下のものである。

「現在は日本の経済力はそこそこあり、未だ韓国に対してはかなりの発言権はあるものの、ひとたび日本が凋落した時、彼ら(韓国政府)は、いまですらそうなのに、日本が凋落した時には、彼らの国の国内だけの法律の適用のみならず、我が国に対しても強い干渉をしてくることになるだろう。その時に日本人は彼らの奴隷になりはすまいか?(経済的にせよ何にせよ著しく虐げられるということである。)
また仮に彼の国と戦争することになったとしたら、日本がもし彼ら負けた時は、文字通り奴隷的な関係性を強いられることになる公算が極めて高い」という危機感である。

別にこれは対象を韓国ではなく、中国に置き換えても同じことが言える。日本の戦中や戦後直後はアメリカに対しても同じ危機感を抱いていただろう。ポツダム宣言の受諾にあたっては、ソ連にたいしてそういう危機感を抱いていたに違いない。

日本人は以上の危機感を持っている。ヘイトスピーチが昨今本当に流行っているかどうかはともかくとしても、それが起こっている結構な割合で、この危機感があるとおもう。同時に、日本のGDPが失われた20年と言われるようにほぼ成長がなく、そして今回のコロナ騒ぎからの、政府の国民救済を渋ったことによる国民の怒り。この怒りの根源のなかに、国際的に他国よりも相対的に弱くなれば隷属することになる、という危機感もあったであろうことは否めない。

日本が戦後、韓国(または中国やロシア、アメリカも含む)にどれだけ手を差し伸べてきたかということについては、自分は日本人であり主観的にしか判断できないのだが、もしも今後立場が逆転したときに、彼らが我が国をどのように扱うのか、ということに関しては、日本が彼らに扱ってきたようには遇されないであろうことは予測できる。これはあくまで主観的な判断である。
(まあ自国である日本が、コロナによって被害を受けている最中さえも、外国に援助する金を国民よりももしかしたら惜しまないという態度が、あるいは客観的な証明の材料になるかもしれないが)

さて、そのように立場が逆転したときに遇される内容に危機感を覚えた国民は、もしもそのような時が訪れた時は、必死に抵抗するだろうと思う。わかりやすいのは戦争という「時の訪れ」だろう。
文字通り「鬼畜◯◯」と思いながら、命をかけて抵抗するに違いない。奴隷か?死か?である。

行き過ぎた憎しみは、やがて己に跳ね返るのだろう。ただし、その憎しみをやっている張本人は、そのことを知らないのである。「殺し合いの螺旋」というべきこの世界観を、みずからの正義(?)によって気づかないわけだから悲劇は繰り返されるのである。

やれやれ、客観中立を目指したものの書き方をするもんじゃない。書いててフラストレーションがたまるじゃないか。

以上に書いた内容をヘイトスピーチというなら、この世のありとあらゆる発言はヘイトスピーチなのかもしれない。
つまり今回の投稿は確実にヘイトスピーチには当たらない。

高床式倉庫

2020年05月08日 23時24分00秒 | 歴史
スイス南部のヴァレー州、ヴァルザー人の集落にはmazot(マゾット)と呼ばれる高床式倉庫がある。

ヴァルザー人の居住する地域は以下の地図を参照。


そして我が国の高床式倉庫である。



注目すべき箇所はネズミ返しと木の組み方である。


ほぞ差し(升の組み方)や


相欠きという組み方を駆使して作られている。

mazotと高床式倉庫は実に様式が似ている。かたや極東の東端、かたやヨーロッパという西端である。


これはスペインのオレオ hórreo 
石とレンガの屋根で作られており、mazotや高床式倉庫とは建築様式は異なるが、ネズミ返しはついているし、高床式ではある。



これは東南アジアに広がっているロングハウス(長屋)だが、こちらになネズミ返しは見られない。高床式というのだけが同じである。

高床式のネズミ返し付きの倉庫というのは古代において相当一般的なものだったのだろう。古代人にとって食料貯蔵庫はネズミとの戦いだったことが容易に想像がつく。掘立柱の建物にしてネズミ返しをつけるという発想は古代人の誰でも思いつくものであったのだろう。
掘立柱が6本というのも、建物の安定性と対ネズミ対策ということで、これも一般的発想だったろう。大陸のこれらの建築様式は2000年以上前からあるらしい。弥生時代が紀元前500年ごろから始まったことを考えても、おそらく大陸では2500年以上前からこの様式を使っていたに違いない。
ただし縄文人も掘立柱建物という建築様式は持っていた。それを倉庫として使っていたかどうかは不明ではあるが、まあ技術だけを考えるならば4000年以上前から床を上げるという技術は持っていたことになる。

しかしそれにしてもmazotを見る限り、この手の建築様式はユーラシア全土を席巻したと見てよかろう。もちろん起源は大陸側にあり、日本はのちにその技術と文化が入ってきたと見るのが自然である。
土器が1万〜2万年まで遡れ、日本のみならずシベリアや中国でも同じくらいの古さのものが出土していることを考えれば、そうとう長い期間、土器や高床式の倉庫は使われたと言って良く、従って起源などを特定するのは不可能だし、おそらく独創的な発明がある地域の一点から生じたということではないだろう。長い時間をかけて互いに影響を及ぼしあって広がった結果なのだろうと思う。



ドイツの杭上建築の復元。紀元前5000年ほどまで遡れるとか。

ここまで行くと掘立柱建物は、もはや墓制における「円墳」並みに世界で一般的なものとなってしまってはいないか?掘立柱の建物というのは誰もが思いつく形なのだろう。

このように文化の伝播というのは長い時をかけて互いに影響し影響されながら広がっていき、時々ユーラシアの東西の端で同じような形を見られる者まで現れる。それほどこの形の建物は一般化されるほどに当時としては洗練された完成度を誇っていたのだろうとおもう。

日本の先進文化は主に朝鮮半島と中国から入った、などと教科書には書かれている。それは全くの間違いとはいわないが、正しくは朝鮮半島や中国を経由して入ってきたと書かれるべきである。
文化はどこかの一部の地域でいきなり独創的に生まれたものではないということが、この高床式の建物を見ただけでもわかるのだから。








満洲文字

2011年04月21日 02時09分49秒 | 歴史
満洲文字。それは長久なる言語の変遷の歴史を垣間見ることが出来るものである。
中国故宮の太和殿には漢字と満洲文字が併記されている。写真をご覧頂きたい。
清朝は満洲女真族の系列を汲む王朝で、キョンシーで有名な辮髪とチャイナドレスの出で立ちは女真族の民族衣装である。
さてこの満洲文字だが、どこかの文字に似ていないだろうか?そう、アラビア文字に似ているのである。
アラビア文字は横書きだが、満洲文字は縦書きなっているアラビア風も文字になっている。満洲文字とアラビア文字の関係はあるのかないのか?答えは「大有り」である。

満洲文字の親文字はモンゴル文字である。モンゴル文字の親文字はウイグル文字である。

古い

フェニキア文字
 ↓
アラム文字
 ↓
シリア文字
 ↓
ソグド文字
 ↓
ウイグル文字
 ↓
モンゴル文字
 ↓
満州文字

新しい


ウイグルはイスラム帝国の影響でアラブ文字を使用した。続くモンゴル、満洲についてはそのアラブ文字を縦書きにしたわけで、ウイグル文字を境にしてアラブ文字が極東アジアの北京にまでもたらされた。さて、そのアラビア文字はアルファベットの祖語であるフェニキア文字までさかのぼる。ウイグル文字の親文字であるソグド文字も同じで、ソグド語もフェニキア文字までさかのぼれる。ソグド文字はアラム文字を借用した。アラム文字をつかってソグド語を記したのである。漢字をつかって日本語を記すのと同じで、ソグド語にもカタカナのようなアラム文字の草書体のものも見つかっている。
そしてフェニキア文字は、親文字にカナン文字、その親文字にヒエログリフと続く。あくまで「文字」の話に限定されるが、満洲文字は遠くヒエログリフを親文字としているのである。

前述したソグド語のように、ソグド人の部族の言葉をアラム文字で表現して発展した「ソグド文字」という発展の仕方がある以上、満洲文字はヒエログリフを親文字としてさかのぼれはするが、言語的には同じ語族にも類さない。
もうひとつ例を出せば、楔形文字も同じである。楔形文字はシュメール人が発明したが、その後のアッカド、アッシリア、バビロニア、ヒッタイトの民族もみな楔形文字を使用した。アッカド人も、アッシリアも、バビロニアもそれぞれの部族・民族の言葉を、楔形文字をつかって表しただけに過ぎない。現に、シュメールの頃の楔形文字は、象形文字的な表語文字(表意文字)的な側面をもっていたが、それがアッシリアでは、音節文字(表音文字)に変化している。楔形文字のように、もともと表意文字であったものが、時代とともに表音文字に変わっていった場合、もともとの表意文字の音がさかのぼれないという問題がでてくる。つまりシュメール人が使った楔形文字の発音は、現在においてまったく不明なのである。

というように、かなり風呂敷を広げて説明してきたワケであるが、こういう言語学に踏み込んでしまうと奥が深すぎて、これ以上先の考察は私の能力を超えている。

だが「アラム語」と「ソグド語」というのは、かなり広範囲に使われ国際公用語にまで発展した言葉だったらしいことは分かっている。アラム人はアケメネス朝ペルシアで公用語として始まった言葉であり、ソグド語は唐や中央アジアにおける公用語として使用されたようである。それが時を越えてイスラム帝国によってアラブ語が広まり、そして最終的に満洲文字にまで至る。なんともロマンのある話ではないか。

なんとも纏まりの無い文章になってしまった。


フンは匈奴か?

2010年12月16日 21時45分20秒 | 歴史
中国旅行記でウイグルについて書いてきましたが、ここで一つフン族の話を。まずはwikipediaの記述を引用する。

「フン族はヴォルガ川東方から現れた遊牧民の集団で、370年頃にヨーロッパへ移住して大帝国を築いた。彼らは恐らく300年程前に中国の北隣に居住していた匈奴の子孫であり、テュルク系民族のユーラシア大陸にまたがる最初の拡張であろう」引用おわり

フンは匈奴だった説というのは、昔から囁かれていた話である。その根拠とされているものは以下の理由からであった。

1:匈奴は現代中国語ではシュンヌと発音するが、古代中国語ではフンヌと発音した。(音が酷似している)
2:匈奴は北匈奴、南匈奴に分裂し北匈奴は西へ進み消息を絶った。匈奴が文書上から消えたのが、ちょうど五胡十六国の時代。すなわち西暦300年の前半である。フン族は370年頃にヨーロッパに移住した。

これが17~18世紀に中国に渡ったフランス宣教師が言った、フン=匈奴説の初出である。

3:この他に、ソグド人の手によって残された文書である、ソグド語「古代書簡」がある。これは1907年に敦煌西方の玉門関遺跡の中から発見したもので、年代についてはさまざまな説があるが、現在では312~314年という見解が有力である。この書簡の中に、匈奴がフンと呼ばれていたことが確認できるのである。ソグド人の故郷は中央アジア、現在のフェルガナ、サマルカンドあたりの地域で、かつてこの地域はソグディアナと呼ばれていた。

さらにwikiの引用をする。
さらに、ミュンヘン大学のF・ヒルト博士は『ヴォルガフンネンと匈奴について』(1899年)において、『魏書』西域伝に見える「粟特国」を、アッティラの死後フンが退居したクリミア半島の「スグダク」に比定し、西史に見える「フンのアラン族征服」を、『魏書』西域伝の「匈奴の奄蔡(阿蘭)征服」に比定し、「フルナス(アッティラの末子)」を「忽倪」に比定した。また、『魏書』西域伝に見える「(粟特国の)別名は溫那沙」に注目したJ・マルカルトは『ブルガール王侯表中に於ける非スラブ的表現』(1910年)において、「溫那沙=Un-na-sa」の「-sa」の中に、オセット語の接尾語「ston」、アラン語の「stān」が存在すると論じ、「溫那沙」はアラン語またはペルシャ語の「Hūnastān」すなわち「フンの国」の音訳であるとし、ヒルト説を補強した。その後もさまざまな研究者によってフン=匈奴説が支持され証明された。
しかし、これに反対する研究者もいた。日本の白鳥庫吉は「粟特国はスグダクではなくソグディアナであり、匈奴が粟特国を征服したとあるのは、フンがアランを征服したのではなく、エフタルがソグディアナを征服した記述である」とし、ドイツのJ・クラプロートは「フンの言語はフィノ・ウグル語であるのに、匈奴の言語はテュルク語であって両者は言語を異にする異民族である」とした。
引用おわり

後段のwikiの引用は、内容が極めて専門的であるので細かい解説はしないが、白鳥説ではヒルト博士説の反駁になっている。
つまり、ヒルト説が間違いであったのだとすると、フン=匈奴説は1~3の根拠によるものということになる。

ただし、この論拠は事実上名称の類似のみであり、遊牧民の集団は首長家の婚姻や政治的連合によって集団構成要素が容易に変動するため、フン族集団が匈奴の西走集団と系譜的につながるとしても、中国北方で活動した匈奴国家の部民がそのままの形で西方にフン族として登場した可能性は疑問視されている。西ゴート族襲撃以前のフン族について、正確に分かることは何も無いのが現状である。(wikiから引用)

という事である。

考えてみれば、月氏も匈奴に敗れて中央アジアに移動して大月氏になったし、突厥も東突厥と西突厥に分裂し、唐に敗れて西突厥は河西回廊の西に移動したし、さらにいえば遼(契丹)も金に滅ぼされて、西に移動して西遼(カラキタイ)となった例がある。とにかく遊牧連合は、敗れて西進する例が非常に多く、それもフン=匈奴説を後押ししているといえよう。


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佐倉 国立歴史民俗博物館

2010年03月12日 02時08分44秒 | 歴史
EF50mmF1.8II

佐倉の国立歴史民俗博物館に行ってきた。この博物館は広い。とにかく広い。展示物と解説の文章をくまなく読もうとすると、それこそ丸一日かかっても回れない程である。開館時間は、朝9時30分~17時まで。私は昼の12時からここを訪れ、最初はじっくりと見始めたのだが、縄文~大和時代の入り口まで見るのにも2時間はかかった。