Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

罪と罰 読了

2020年05月31日 05時33分00秒 | 世間話
泣いた。読んでて泣いてしまった。人間は清濁が常に人格の中に同居し、濁の人間のおぞましい悪性が描かれるが、同時に清の人間の神性も描かれている。人間の悪性を暴露した話というのは、現在ではうんざりするほどあらゆる物語の中で取り上げられる。いわばお腹いっぱいのニヒリズムである。しかし、そんな人間にも考えられないような清い美しい行いをするという「希望」もこの作品は読み手に信じさせてしまう。いわゆるファンタジーとも言える内容を含んだ作品だ。

だめだ。どたいこの作品を言葉で説明したところで、表現しきれるものではない。

ただ、この作品は後世の様々な作品に影響を与えた事は確かである。
まったく順序は逆なのだが、この作品を読んでいてデスノートを思い出した。デスノートの原作者は、この罪と罰という作品を必ず読んでいるハズである。デスノートにおける主人公の思想や考え方、または苦悩などは、この罪と罰という作品の濃いエッセンスをかなり薄めたものとして読める。少年漫画だからしかたがない。罪と罰を薄めずにそのまんま漫画で少年雑誌に乗せることはまあ無理である。

次に、やはり夏目漱石や芥川龍之介などの明治の文豪の筆致のような暗い影を落とす作品のにおいが至る所でするのである。もちろんドストエフスキーがそれらに影響されたわけではなく、漱石や芥川のほうが影響されたほうだろうが。。。

あとはロシア人という民族性をこの物語から伺い知ることが出来る。ドイツ人が書いた魔の山、またはファウストなどの登場人物たちと、ドストエフスキーの登場人物、世界観はかなり異なったものである。ただし19世紀の共通したにおいというものはあり、共通点も多い。それは漱石の作品にも同じものを感じることができ、19世紀という世界がどういうものであったかを垣間見ることはできる。

あとは前回も書いたが、やはり理性と身体の問題。
そして裏切りという「罪」と、殺人という刑法上の犯「罪」の違い。
良心の呵責による「罰」と、法律によって裁かれるという「罰」の違い。
そしてその異なる罪と異なる罰における贖い方の違い。すなわち悔恨・更正なのか禁錮・拘束なのか。

このあたりにくると、神の摂理である自然法と人間の作った(人間社会の自由を制限・調整する)法律という異なるルールというテーマもこの作品に見いだすこともできることになり、いわゆるホッブス、ロック、ルソーなどの近代国家思想の話としての解釈も可能になる。

そうなると、クラシックロマン派作曲家のワーグナーの作品「タンホイザー」におけるテーマとの近似性も現れてくる。彼のこの作品が1840年代に書かれたことをみると、やはりドストエフスキーの時代とほぼ同じではないか。そして、かたやドイツ。かたやロシアである。

そして、この罪と罰の時代のロシアでのドイツ語というものの位置付け。作品の中に、やたらドイツ人、ユダヤ人、そしてドイツ語などがでてくるが、なぜこの時代のペテルブルクの人の中に「ドイツ」というものがでてくるのか、ということについてはこの時代の歴史背景をしらねば深くは理解できないという仕組みにもなっている。
(そもそも皇帝エカテリーナはドイツ人であることや、ペテルブルクという都の名前がドイツ語読みであることを知らなければ、このあたりの事情については気づかないだろう)

あとはこのような貧民街での娼婦という世界。これは現在のインドなどで似たような光景を目撃することができるだろう。インドに貧乏旅行したバックパッカーの旅行記などをみると、この罪と罰における貧民街と娼婦の住居などは、とても近しい雰囲気を感じるからだ。

この作品には、ひとりあきらかに1人だけ濁をもっておらず、清のみしかもたないというファンタジーな女性が出てくるのだが、こういう人間が実在していて欲しいという希望が感じられる。このようなキャラクターは、ヘタをすると作品そのもののリアリティを壊し、ファンタジーをして読者に「嘘だこんなの」と思わせることになり、結果作品をダメにしてしまうという危うさがあるが、この作品はその塩梅が極めてうまく、ギリギリのところで成立させていると思う。
ただ、一番のリアリティをもっているのはやはり主人公であり、上記したファンタジーの女を本物とすれば、主人公の行いは偽物だが本物に限りなく近い。この主人公もややファンタジー的な側面があるが、我々凡人が目指すことができる最高の到達点はおそらく主人公クラスにおける善性だろう。女性ほうのクラスはもはや神である。この作品の唯一人間くさくない人物である。(つまり、やや嘘だ!こんなやつぁいないと感じさせてしまうものがある)

そういう意味では、罪と罰という作品は
リアリティ文学というよりは、ややファンタジー寄りである。これはもちろん褒め言葉である。


ドストエフスキー 罪と罰

2020年05月30日 00時56分00秒 | 世間話
図書館が再開したので、さっそく本を借りる。今回は文学of文学、ドストエフスキーの罪と罰。上下巻で結構分厚い。
今日、上巻を一気に読み終えてしまったのだが、これは読みやすい。トマスマンの魔の山もこれと同じかこれより分厚い本だったが、あれは正直きつかった。
今回の罪と罰は、訳者の工藤誠一郎もうまかったのだろう。とても素晴らしい翻訳だとおもう。とはいえ、まだ上巻までしか読んでない。が、半分読んだだけでもこの作品は名作だと分かる。ドストエフスキーは人間のこころというものを実によく知っている。主人公の心理描写や、その他の大勢の人々の心理がことごとくリアルであり、同時に清い。自分もこういう人物でありたい、という希望を作品の登場人物に見出してしまう。どんな終わり方を迎えるかはわからないが、ひとついえることは、この本はどういう内容か?と問われた時に、説明するのが不可能だということだ。
様々な読み方ができる。ただ予感として感じる1つのテーマとしては、「頭(意識)で考えた事などは、行動で体験・経験に比べれば、はるかに矮小であり独善である」ということである。
この作品は、身体というものをかなり重視していることは読んでいてわかる。主人公は頭脳明晰ではあるが、身体はまるでダメである。しかし身体を通じて、主人公は思考では得られなかった数々の経験をつみ、人格が変わる。教養小説の極みである。

ザリガニ取り

2020年05月25日 12時59分00秒 | 世間話
子供が市役所の裏にある広場に行ったら、なんと家族連れが沢山いた。うちの県は特別警戒都道府県だが、さすがにみんな自粛に疲れているのだろう。特に子供などは自然な生き物なので、表に出て飛び回らないと心身ともに不健康になり弊害もでるだろう。
広場の池でたむろしてる人達がなにをしてるのかというと、手製の竿を使ったザリガニ釣りである。写真はその釣果だ。

子供はザリガニを飼育したいらしく、ザリガニは何を食べるの?と質問してくる。私が子供の頃は、ザリガニを釣るのにザリガニの身を使ってたので、ザリガニが何を食べるのかということについては共食い以外に知らないのにハタと気がついた。
ネットで調べると雑食のようで、煮干し、魚の切り身、イトミミズなどの動物性のものから、レタス、ほうれん草、水草までの植物性まで幅広くエサにすることができるそうだ。

子供はザリガニを、池の水をいれた2リットルのペットボトルの口を切った容器に入れて持ち帰ってきた。早速バケツに移し替えたが水量が足りない。そこですこし水を足すことにして水道水を足したが、、、、

あれ?水道水って消毒してたが大丈夫か?という基本的なことに水を足してから気がついた。


早速ネットで調べたら、カルキ抜きをしてない水道水ではザリガニは死ぬと書かれていて狼狽した。カルキ抜きはバケツの水を日光の下に5時間ほど晒してやると抜けるようだが、そのまえに死んでしまうかもしれない。そこで広場の池に逆戻りして池の水と泥を取ってきた。これで一安心。


分かったこと。

つくづくつまらない大人になってしまった。ザリガニの生態もロクに知らないのである。何を食べるのか知らない。水道水が毒であることも忘れてる。ザリガニの呼吸がえら呼吸であることも調べないと分からない。カルキ抜きというものがあるということもはじめて知る始末。

情報化社会のくせに、そういう情報についてほぼなにも知らないのである。結果的にそのことを子供から教わった。
ザリガニ取りや飼育の知識はカネにはならないし、社会ではほとんど役に立つことはないだろう。しかし人生を豊かにするには必要な知識であるに違いなく、それらを知らないのである。つくづく教養の無さを思い知ったわけである。


養老孟司の話の書き起こし。

2020年05月23日 03時12分00秒 | 世間話

養老孟司


自然=人が意識的に作らなかったもの。

意識的に設えたものは全部自然じゃ無いですね。意識的なもの。

実は人も自然なんですよ。どういう意味かって、意識的に作られていませんから。

意識的に作った部分とそうで無い部分を区分けしていかないと、僕のいう自然が理解できない。だから自然にどう向かい合うかってのは、実は自分が自然であるということをうっかりすると忘れちゃうんですよね。で、自分が自然であることのいちばん典型は身体なんですよ。

0.2mmの受精卵が食べることによって大きくなった。ということは完全に自分で周囲と繋がっちゃてるんですよ。物質的に考えたら。その感覚は今はゼロですよ。それね、昔の人はあったんですよ。だから土から生まれて土に還るって言ってた。その感覚がない人が、だから、自然と人間が対峙していると、こう考えちゃうんですよ。

全然違うそれは。お前さんどこにいるんだよって話で。一部に過ぎないでしょ。要するに自然が物質でできているとしたら、その一種の結節点みたいになっていて、ね、まわりはずーっとこう曖昧になっていて、そこになにかかたまりができているんですよ。あっちこっちに。その塊がアンタでしょ、て話で。その塊はいずれほどけちゃうんですよ、死んで。別の部分は別の人に入ってるかもしれない。だから、そっちから考えると世界は繋がっちゃってるから、自然という言葉は消えちゃうんですね。

で人工的なものは意識的なもので、自然と対立するのは意識的なものといったでしょ。で、意識そのものは、実は自分で主導権を持ってないんですよ。つまり、意識があるときはね、意思があるから、なにかを自分がやってると思うわけでしょ。体も自分が動かしていると思っている。だけど、意識そのものが出てくるときは、朝、目が覚めるわけでしょ。これ意識が目が覚めようと思って覚めてんじゃないんだよ。だから目覚ましがいるんじゃないですか。じゃあどこから意識が出てくるかっていったら、ひとりでに出てくる、これは体の都合でしょ。寝るときも完全にそうで、しっかり意識して寝ようと思ったら目が覚めますよ。ね、ひとりでに寝る、なくなるんです。だからなんと、意識って自らの主導権を持っていないんです。ところが意識が一旦出てきちゃうと、つまり目が覚めちゃうと、てめえがやってると思ってるんだよ、意識は。そうでしょ。やってないよ頭殴られたら消えちゃうもん意識。

だけどその意識主導でやってきた結果が今の世界でしょ。で僕がいちばんよく分かりやすく「ああすればこうなる」的だろって。ああすればこうなる、こうすればああなるってのが意識ですから。


都会なんて典型的でそういう意味では不自然でしょ。そう、意識的なものしか置かないんですよ。これはもう驚くべきもんで。だから本当によくいうんだけど、銀座のね、道に石ころ落ちてないでしょ。おちてたら怒られるんだよ。誰かがけっつまづいて転んで足の骨おると、銀座だったら区役所が告訴されるんですよ。僕が山行って虫取りに行ってさ、石にけっつまづいて転んで足の骨折ったら、気をつけて歩きなさい、って怒られるだけだよ。でしょ。で世界の見方が全然違っちゃうんだよ都会と田舎では。だからその意識的な世界ではそういう、できるだけ無意識なものが世界中に満ちているってことを、気づかせないために、人の作ったものしか置かないって暗黙の前提が出てくるんですよ。だから、マンションに住んでて、たとえば丸の内の会社に通っている人ってのは、1日のうちにおそらく意味のないものを見ないんですよ。


1番問題なのは、感覚から入るものが非常にこう限定されてしまっているというところに、問題を感じているんで、これ、無意識ですから。

感覚から入るものをね、基本的に無視してしまうってのが人間の特徴なんですよ。そして、一旦抽象化しちゃうと。だからその、入るところをどんどん削っていってもあんまりわかんない。冷暖房完備の部屋に閉じこもっていれば分かるけども、まわりにおいてあるものは全部、意味のあるもの、人が使うもの。気温は変わらない。お日様は動かない。


ここにいれば風が吹くし、鳥の声がするし、これ、どんどん光うつってますよ。いどうしてますよね。それ嫌いでしょ今の人。講演会なんかいくと、全員がだって閉じ込められて座っているもん。全部一定でしょ周り。それなにをしてるのかって考えると、感覚を遮断してるんですよ。


いまさ、そこに書いてるから、白って書いてみなさいよ。漢字で。白でしょ?それ黒だもん。それ屁理屈じゃないんだよ。だから猫に字を教えられないんですよ。わかります?動物は感覚が先だから、だから、黒ペンで白って書いたら、彼らは頑として黒と読んじゃうだよ、まず。人間はそれを無視できんるんだよ、なんと。黒字で書いてなにが白だよって言わないんだよ、人間は。そのくらいメチャクチャな生き物なんです。それで万物の霊長とか言ってんだからさあ。そこで落とされているのは実は素直に感覚から入ってくる、こういう。

で、それがどういう影響を与えるんですかって、必ず聞くんだまた。バカが。それが理屈で言えるんだったらもう。。。わかるでしょ。黒が白になってんだからさ。そこを禁止しなきゃいけないよ、もう。




特別定額給付金

2020年05月21日 23時03分00秒 | 世間話
特別定額給付金の申請用紙が届いたのでさっそく記入して郵便箱に投函してきました。もらわないほどに奇特な人にはなれませんでした。

問題は何に使うかである。
社会的な発言としては「使って経済を回す」であろうが、
個人的な発言としては「不安だから貯蓄」となってしまう。

申請前は前者の考え方が優勢で、あぶく銭として使ってしまおうと思っていたが、申請後の今は心は後者の考えに傾いている。

これだから「自分」というものは信用ならない。定額給付金がイメージとしてあまり現実感を持っていなかった時には、あぶく銭だから経済回す為に使おう、使うなら国内の製品に金を落とそう、などと殊勝な考えをしていたものだが、しかしいざ申請用紙がとどき、給付が現実のものとして見えてきた時に、前者の考えを実行に移すには躊躇を覚えているのである。やはり貯金か?そう考えている自分がいる。
おそらく実際に現金が振り込まれたときの現実に直面した時には、さらに考えが確信に変わるだろう。すなわち貯金に意思が固まってしまうということである。

#10万円  で記事を書くつもりで、いまスマホで記事を入力しているのだが、ふとそんなことが心のなかによぎってしまった。

ほんとはもっと気楽に「焼肉でも食いたいな。写真のようなタン塩を頬張って・・・」などと書こうと思ったが、どうもそれは今の心境としては正しくない。

今の心境として感じることは、やはり自分はカネというモノに対して、ただならぬ執着があるということである。

オードリーの春日が、お金を使わないで生活することが楽しい、と言っていたが、あの心境は多分そういうことなんだろうとおもう。あれはそうすることにより、心の安定を買っているのだろう。不安を払拭する為にお金を使わないで生活しようとすることが染み付いてしまったのであろう。
それは一見素晴らしいように見えるが、おそらくは形を変えた執着なのだろう。なぜなら私はかなりの部分で、春日のそのあり方に共感しているし、同時に春日のしている事を似たようなレベルで実践もしているからだ。
しかしそれは、あくまで貯蓄で安心を買っているだけであり、もし未来にそのお金が紙切れになったとしてご破算になったときに、はたして平静でいられるか?と言われれば答えはNOである。
アリとキリギリスの話ではないが、アリは無欲なのではない。厳しい冬の前に、不安を払拭するためにセッセと貯蓄をしていたわけである。いかにアリとしても、その冬のときに貯蓄が突然にして消えてしまったときには平静ではいられまい。アリの餌はお金と違って実態だから消えるということはないが、もしも餌がお金のように実態出なかったとしたら、冬にいきなり消えてしまうということもありうる。そうなるとキリギリスと共に死ぬことになる。

なので、お金に対する執着がどの程度なのか?ということは、このような緊急事態には感覚にハッキリと教えてくれる。つまり自分は何者なのか?何に執着し何に頓着しない人間なのか?ということをマザマザとみせてくれる。

この感覚を持つ人は日本人では案外多いのではないだろうか?日本が仏教の国であることと関連性があるかもしれないが。

ゲームをやってても、この癖は現れる。クラフト系のゲームなのだが、資源を集められるだけ集めて、収納できなくなるので、さらに収納スペースをつくり、資源を集める。その繰り返しである。貯めることで安心を買っているのだろう。つまり不安の裏返しで、同じことをしているのだ。

このことは我が国がデフレであることと無関係ではあるまい。仏教の国である事もあるが、災害国である我が国は、いつも不安と隣り合わせであった。台風で川が増水し資源が失われ、母屋も壊され、地震で壊滅する。地震に伴い火事で資源が奪われ、といったように、いつも安心・安定を得るために、この国の人たちに貯蓄という文化は根付いている。
逆にいうと、安全・安心という執着が強いがゆえに、貯蓄の象徴であるカネに執着するのかもしれない。

仏教では執着は苦しみを生み出す元という。かといって信仰宗教にカネを「浄財」とか説伏されて、うまく利用されて喜捨させられるのも真っ平御免である。そんなものは仏教ではない。

仏教の本質はどう執着とケリをつけていくかにあるだろう。愛を「失うことを恐れる執着」と言い切った仏教は、たしかにキリスト教には無い世界観と着眼点を持っている。吾唯足知という言葉も執着に関する格言であり仏教に通づるものがある。

どう執着と付き合っていくか。そこを考えさせた特別定額給付金でした。








捏造報道これいかに

2020年05月21日 02時49分00秒 | 世間話
https://asagei.biz/excerpt/16271

このご時世に、国民の気の緩みを報道したいが為に、よりにもよって3月の映像を5月17日の映像と偽って流したのが「バイキング」なる番組である。

いくら視聴率を稼ぐためとはいえ、こんな事までするとは。「こんなに気が緩んでるなら、まだ緊急事態宣言の解除はできない」と、政治家がこの番組をみて感じてしまうのでは?

たしかに世は休業をしててもテレビ局は休業しない。みんな家に引きこもってるから視聴率は爆上げだろう。じゃあちょっと盛ってやれ、と捏造まで及んだのはないか?

人というのは、いつの時代でもどんな状況でもこういうことをする人は後を絶たない。

1番怖いものは何か?という質問に、著名人はこう答えたという。
「人間」と。
たしかに人間は怖い。自分がテレビのお偉いさんだとして、金が入るのならひょっとしたら捏造に手を染めてしまうかもしれない。人間は状況で変わる。自分が変わらないと思い込むのは傲慢なのかもしれない。先の世界大戦は、人間が状況で変わるということの良い証左であろう。

危ないのは人間である、ということを知っておいた方がいいという話である。

私は元々は自民党支持者でした、、、が

2020年05月14日 02時34分00秒 | 政治 経済
【ゾンビ企業は市場から退場です。新時代創造だね。】
とかすごいこと書いちゃってます。コロナウイルスの文脈の中で書いたツイートですが、凄いことを言うものです。ちなみに自民党岡山1区の人です。
ゾンビ企業の定義はわかりませんが、抽象零細企業のことを指しているのは明白です。百歩譲って仮にそれらがゾンビ企業だったとしても、そこで働く従業員は退場したら失業者です。つまり国会議員が失業者オッケー、新時代創造だね。などと言っているわけです。
この発言が企業から出るなら分からないでもない。企業は営利でモノを考えるので。
なので企業はまず文化という寺や神社、文化財などには投資しないので、それらの施設はこの日本から早速消えるでしょう。過疎地は経済的には損なので、過疎地にインフラを投下、もしくは維持費を投資することは企業はほとんどやらないでしょう。そこにすんでいる人たちも遠からず追い出されることになるでしょう。
医療費をどこかの期間が負担することも、企業としてはやらないでしょうから、医療制度も早速崩壊するでしょう。

つまり、国にしか出来ない投資やインフラ整備、文化財の維持、安全保障のための国有のものなど、けっこう国家が考えなければならないものは多いにもかかわらず、
この
あいざわ一郎
とかいつ奴は、国家としてやるべき責務について、まったく考えが及んでいないどころか、企業的な視点で政治を考えており、害悪以外の何者でもありません。こういう議員を一刻早くクビにして、企業に行ってもらいたいものである。

議員として不適格であること甚だしい。
それが、あろうことかこの国の与党である自民党員。しかも松下政経塾の出身とか。いったい松下政経塾とは何を教えている塾なのか。しかもこんなのが政務次官にもなっていたりしていたらしい。

これは失言の類ではない。言い間違いとこ言葉の綾ではない。完全に確信犯。つまり信念に基づいた発言であることは文面を見ればよくわかる。

こういう奴が、儲からなければなんでも民営化!とか叫ぶんだろう。
自衛隊も民営化してみるか?アホが。

岡山1区の国民はは次の選挙には票を入れる対象を考えるべきだろう。


経済について考える。 思考実験

2020年05月12日 13時00分00秒 | 政治 経済
-1+1=0 規模1
-10+10=0  規模10
-100+100=0  規模100
-1000+1000=0  規模1000
-10000+10000=0  規模10000

まずは単純モデルを考える。細かい間違いには目をつぶる。

マイナスは借金、プラスは現金とする。借金と現金を合わせると0となる。規模とは、人口が増えたり社会が大きくなれば、貸し借りの数字は比例して増えるものと考える。

ここまでは、たくわえの多さについて述べた。この現金を使うことにはまだ言及していない。どんなに規模が大きくなろうとも、全ての人がまったく現金を使わないなら規模の大きさに意味はなくなる。

ここで現金の50%を「使う」ことにしよう。そうなると

-1+1=0 規模1   市場0.5
-10+10=0  規模10  市場5
-100+100=0  規模100  市場50
-1000+1000=0  規模1000  市場500
-10000+10000=0  規模10000  市場5000

たくわえの50%使うことを「市場」と呼ぶことにする。市場規模と現金の規模は比例する。市場規模と借金の規模は比例する。


ここでたちまち疑問が生まれる。
①どんなに規模がでかくなっても、全ての借金を全ての現金で返してしまえば0になってしまう。借金も消えるが現金も消えてしまう。ここにまず違和感がある。すくなくとも自然界にはこういうものは見たことがない。あるとすれば、物理学における陽子と反陽子、電子と反電子などの理論の中にだけある。

②現金を使っても、それは誰かの現金になるだけで、現金は借金が存在している限り消えない。従ってモノの売り買いは際限なく出来る。モノという資源は有限にもかかわらずである。借金や現金の仕組みと有限な資源との間には辻褄があわないことがある。ここに違和感を感じる。

もちろん我々は知っている
借金はいずれ返さなければならないというルールが世間にあることを。
資源とは自然界の資源だけではなく、知的所有権のような人間が作り出した付加価値もそう呼ぶことを。

しかしそうであっても取引は無限、資源は有限には変わりがない。また、全ての借金の返済するとこの世から現金がなくなるということにも変わりがない。

経済はこの2つの仕組みになってるので、いつも違和感を感じ、なにかペテンにかけられた気持ちになる。

まあとりあえずそのことは考えずに先を進めよう。

資源は有限だが取引は無限についてまず考えよう。
資源は自然界の恵みであり、同時に知的所有権のように人間の生産物でもある。つまり有限な資源という側面もあるが、人間の生産力というある意味無限の資源という側面もある。(ただし有限な資源を使って生産力を得ているから有限だし、人間の時間毎に作れる生産物には限りがある点で有限だ)

取引を需要と表現するなら、取引の無限性は需要の無限性と表現することができる。
需要に対して資源・生産力が追っついていなければいわゆるインフレになり、反対になればデフレになる。

取引(需要)とは、「使う」ということであり、使う=市場だとは上で述べた。
従って、取引=需要=使う=市場  需要=市場ということが出来る。
その考えに基づくとデフレとは
❶市場が資源・生産力と比べて縮小していることを表すし
また別のいい方をすれば、
❷資源・生産力が市場と比べて過剰であるということを表してもいる。

認識を❶としてみるか❷としてみるかによって、デフレにおける政策は変わることに留意いただきたい。❶の解釈に立てば、市場を大きくする政策を採ることになり、資源・生産力に合わせる形で取引を増やすまたはカネを使う。❷の解釈に立てば、資源・生産力を小さくする政策を採ることになり、取引やカネの使う量を合わせる形で資源・生産力を減らす。

❶を財政出動政策❷を緊縮財政政策という。



国は自ら借金と現金を作り出すことができる存在である。借金と現金の規模が「たくわえの規模」であり、そのたくわえの50%を使うことを「市場の規模」と上で述べた。つまり国は現金(借金)を作り出し、それを使うことによって市場の大きさを操作することは出来る。しかし資源・生産力を操作することはなかなかできない。つまり国は需要は操作できる。供給は操作しにくい。


次にバブルというものを考えてみよう。

バブルとは「局所的なインフレ」ということができる。世の中の物価相場と比較して、ある商品の物価だけが急激な値上がりをして、しかもそれでもその取引が冷めないことをいう。
これが起こる過程はいくつも考えられる。
❶その商品を作るための資源・生産力が著しく毀損している場合。
❷その商品に値段よりも価値があると人々が思い込んでいる場合。

❶は需給バランスが悪いことによって起きる現象。
❷は売れ過ぎる商品である。価格を上げても売れ過ぎる商品である。

❷が厄介で、大抵は人間の思い込みに根ざしたものだ。この商品は「9将来さらに価格が上がるに違いない」という幻想を集団が本気で思い込んでいれば、この装置は起動する。投機商品に多い傾向がある。金融商品、金融派生商品にこの傾向がある。

❶によるバブルは主に自然界の資源が足りなくなってきた時に起こりやすい。
❷は大抵が人間の生産物によって引き起こされる。◯◯権などという人間が作り出した権利という商品は、人間にある思い込みをさせる傾向が強い。
人間を騙すために、人間は偽りの生産物を作ったりする。

生産物は偽りのだろうがホンモノだろうが生産物と割り切るか、偽りの生産物は生産物とは認めないと頑張るか。
そして、それらが混ざった「生産物」を買う人がいたとして、それを「市場がある」と認めるか、「偽りの市場」として退けるか。

経済は本質的には、法律に違反しない限りは、全ての生産物を認める傾向にある。従ってそれらが取引によって市場が拡大するこということを認める傾向にある。

私には違和感ばかりで、どうも経済にはあまり関わりたくないと思う次第である。







種苗法改正

2020年05月12日 03時18分00秒 | 政治 経済
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200511-00072491-gendaibiz-pol&p=1

コロナ禍の3月3日にシレッと種苗法改正を閣議決定したのとこと。この混乱期のなかにどれだけこの法改正が議論されたのかは分からないが、おそらく拙速にやったと思う。なぜこの時期に通そうとするのか?今はそれどころでは無いはず。
それどころでは無いはずなのに、あえて通そうとする意図は、そりゃ後ろ暗いものと勘ぐられても仕方がなかろう。この時期に通される法案の殆どは疑ってかかるべきなのだ。

ハッキリ言って、現在の不安過多の状況下にあって、国民が種苗法の是非を調べてその良し悪しを吟味する余裕はない。だから今は全面反対でよろしい。そういう重要そうな法案は、もっと落ち着いてからやるべきなのだ。

この政府はどうかしている。急ぐべきものを急がず、吟味しなければならないものをサッサと通す。こりゃ火事場泥棒と言われても仕方ない。

とにかくふざけてる。


何度でも官邸や全省庁に文句のメールを出して国民の圧力をかけるべきである。


高床式倉庫

2020年05月08日 23時24分00秒 | 歴史
スイス南部のヴァレー州、ヴァルザー人の集落にはmazot(マゾット)と呼ばれる高床式倉庫がある。

ヴァルザー人の居住する地域は以下の地図を参照。


そして我が国の高床式倉庫である。



注目すべき箇所はネズミ返しと木の組み方である。


ほぞ差し(升の組み方)や


相欠きという組み方を駆使して作られている。

mazotと高床式倉庫は実に様式が似ている。かたや極東の東端、かたやヨーロッパという西端である。


これはスペインのオレオ hórreo 
石とレンガの屋根で作られており、mazotや高床式倉庫とは建築様式は異なるが、ネズミ返しはついているし、高床式ではある。



これは東南アジアに広がっているロングハウス(長屋)だが、こちらになネズミ返しは見られない。高床式というのだけが同じである。

高床式のネズミ返し付きの倉庫というのは古代において相当一般的なものだったのだろう。古代人にとって食料貯蔵庫はネズミとの戦いだったことが容易に想像がつく。掘立柱の建物にしてネズミ返しをつけるという発想は古代人の誰でも思いつくものであったのだろう。
掘立柱が6本というのも、建物の安定性と対ネズミ対策ということで、これも一般的発想だったろう。大陸のこれらの建築様式は2000年以上前からあるらしい。弥生時代が紀元前500年ごろから始まったことを考えても、おそらく大陸では2500年以上前からこの様式を使っていたに違いない。
ただし縄文人も掘立柱建物という建築様式は持っていた。それを倉庫として使っていたかどうかは不明ではあるが、まあ技術だけを考えるならば4000年以上前から床を上げるという技術は持っていたことになる。

しかしそれにしてもmazotを見る限り、この手の建築様式はユーラシア全土を席巻したと見てよかろう。もちろん起源は大陸側にあり、日本はのちにその技術と文化が入ってきたと見るのが自然である。
土器が1万〜2万年まで遡れ、日本のみならずシベリアや中国でも同じくらいの古さのものが出土していることを考えれば、そうとう長い期間、土器や高床式の倉庫は使われたと言って良く、従って起源などを特定するのは不可能だし、おそらく独創的な発明がある地域の一点から生じたということではないだろう。長い時間をかけて互いに影響を及ぼしあって広がった結果なのだろうと思う。



ドイツの杭上建築の復元。紀元前5000年ほどまで遡れるとか。

ここまで行くと掘立柱建物は、もはや墓制における「円墳」並みに世界で一般的なものとなってしまってはいないか?掘立柱の建物というのは誰もが思いつく形なのだろう。

このように文化の伝播というのは長い時をかけて互いに影響し影響されながら広がっていき、時々ユーラシアの東西の端で同じような形を見られる者まで現れる。それほどこの形の建物は一般化されるほどに当時としては洗練された完成度を誇っていたのだろうとおもう。

日本の先進文化は主に朝鮮半島と中国から入った、などと教科書には書かれている。それは全くの間違いとはいわないが、正しくは朝鮮半島や中国を経由して入ってきたと書かれるべきである。
文化はどこかの一部の地域でいきなり独創的に生まれたものではないということが、この高床式の建物を見ただけでもわかるのだから。








今後の生活

2020年05月07日 11時32分00秒 | 世間話
まず対応が遅い政府に文句のメールでもいれましょう。メールを送る国民が数千万人の規模になればどんな無能な政府でも動かざるを得ないのだから。政府の自浄作用は期待できない以上、国民の怒りという圧力をかけて政府のケツを叩かなければ、あの10万円の給付金すら実現しなかったでしょうし、現在の政府の支出はなおもジョボすぎてどうしようもない。
そういう主張をする者を巷ではクレクレ君と揶揄しているだが、緊急事態なのである。何のために今まで税金を払ってきたのか?我慢も度を越せば奴隷という誹りをうけることになる。その怒りはやがて同じ国民に向いてしまう。というか現にそうなっている。本来の怒りは政府に向くべきはずなのに、自粛警察などという国民間闘争になってしまっている。すでに政府の強制的な自粛(?)で経済的損失を、うけた休業者の自殺も発生してしまってるのに、何がクレクレ君なのか?本当は暴動を起こしてもいいレベルまできてしまっているのだが、、、。

今回の投稿の趣旨はそこではない。
まあ上記の趣旨が政府への圧力になり、政策に反映されればそれはそれで良いのだが、その結果が期待できない場合は、その事に頼ってたらバカをみることになる。従って、上記の趣旨がまったく通らなかった場合のことも想定した人生設計をしなければならないだろう。

先日、youtubeにて荒俣宏さん出演のラジオ番組「ラジオ版学問のススメ」を聴いた。
1時間の対談ラジオの番組と長いのだが、先般私が「自己紹介」の記事の中で書いたものに親和性が高い内容だったので、のめり込んでしまい、あっというまに聴き終えてしまった。

今後はこういう生き方も模索していかないと正気を保っては生きていけないのだろうという感想をもった。「0点主義」の本はまだ読んでいないが、幼少の頃からこれを実践した荒俣宏を真似るかどうかはともかく、高校生以降の人や大人全般に関してこの0点主義を持っている人は少ないのだろうとは思う。学問を出世や経済的収入につながる手段として学ぶという近視眼的功利主義の時代はもはや終焉を迎えつつあるのだろう。すくなくともこの緊急事態宣言以降の世の中は、その時代の終焉に加速を促すものであることは確かだろう。平均的には、我々は親の世代の収入を超えることはなかったし、我々の子は我々の世代の収入を超えることはおそらくないだろう。
学問を収入や栄達の手段と捉える限り、勉強しても昔と比べて実入りが少ないという事となり、勉強する動機が弱くなる。馬がニンジンを目の前にぶら下げて走り続けられたのは、そのニンジンが美味いからであろうが、現在のニンジンは昔ほど美味くないから走り続けられない。功利主義の行き詰まりはそこにある。
  
そういう経済的な功利主義によって、人の行動を強いることはもはや難しい時代となってきた。昨今ミニマリストというライフスタイルを志向する人が現れたのもそういうことと無関係ではあるまい。

この0点主義と道教という二つの書籍に興味を持った。今度本屋に見に行こう。図書館はいまだ空いていない。こういう時こそ図書館は開けとくべきだとおもうんだが、、、、。









自己紹介

2020年05月05日 04時27分00秒 | 世間話
Schwäbischといいます。名前の元ネタはドイツ連邦共和国の都市Schwäbisch hallからとったもの。いずれブログでも書くかもしれません。読み方はシュヴェービッシュハル。

ブログを始めたワケは、旅行に行くためにCanonのデジタル一眼レフカメラを買ったことだった。旅行が好きで旅行記なども書きたいし、それなら写真もとってブログに書けば、見てもらえる人もいるからモチベーションがつづくかも、というもの。

このブログの方向性だが、昨今の新型コロナウイルスの影響で、今後はますます経済的には厳しくなり収入も相対的に減ることが予想される中で、できる限りカネのかからないライフワークを模索していきたい。
それは主に学問系になると思う。
図書館で本は借りられる。歴史、地質、植物、天文、哲学などはカネをかけずとも借りて読めば知見は深まるし、その理解をこのブログで文章化すれば、自分の読んだ知の整理にもなるので一石二鳥。
さらにこれらの学問は知だけでなく、日常で見て触れて感じるという経験と合わせると一層楽しめるはずである。神社・仏閣や地層、街路や公園の雑草、季節ごとの夜空を見上げたときの美しさは知と経験によって増幅される。ようするに教養をやりたいワケである。

カネがかからないライフワークであれば、今後の経済が厳しくなったとしても、そのライフワークは経済的理由で取り上げられることはないからだ。そりゃお金は欲しい。経済的に裕福にはなりたい。しかし欲望は際限がないので、どこかで足りるということを知るか、もしくはカネがかからずにできる欲に転化するしかない。教養という知識欲に転化するしかないのである。幸いにして学問は底が簡単に見えるような浅いものではないので、知識欲はほぼ際限なく満たしてくれるであろう。

吾唯足知  「われ、ただ足るを知る」
を座右の銘としたいところだ。特にカネに対しては足るを知りたい。知識欲に関しては貪欲でよろしい。どうせ教養という知は、知っててもお金にならない。

旅行という趣味はカネがかかるのだが、こればかりは仕方がない。これだけは性というか業というか、抑えることが難しい。ただし安く済ませる旅行のあり方は模索できる。そして旅行の満足度を上げるためには、先ほど書いたような教養が必要不可欠である。

旅行と歴史  旅行と地質 旅行と植物 旅行と天文 旅行と哲学または文学 旅行と言語 旅行と写真 旅行はかなり学問との相性が良いからやめられない。
理想的な旅行はバックパッカー。





ホームセンターは人でごった返し

2020年05月04日 13時29分00秒 | 政治 経済
個人居酒屋やチェーン大手居酒屋、個人飲食店などは休業をし、水商売やパチンコなどは店名公開や自粛指示まで出して休業に追い込まれている。さらには一部の交通機関、会場、イベントなどの人が集まることはことごとく休業の中、大手飲食店は相変わらず開き、朝11時にホームセンターの横を通ると、駐車場はほぼ満杯。
政府は国民の8割が外出を抑えれば終息するといい、コロナは抑え込めるという。一方では、休業にたいする個人や企業への支援は遅いどころかケチンボ。

そもそもだが、国民の8割が外出を抑えれば終息するのだろうか?
医療崩壊をしない程度に緩やかに国民全員が感染し抗体をもつというのが現実的だと思うのだが。
仮に感染を抑え込みんだとして、抗体を持たない大量の国民がいる中で一応の終息を見たとしても、外国から感染者が日本に来て、抗体の持たない国民に感染したら、やはり爆発的に感染が広まり元の木阿弥にはならないか?

また抗体を獲得したとしても、再び感染するということもある。ウイルスは2種類いるとか報道されているから、その可能性は否定できない。再感染の頻度が感染と比較して10%程度であれば、再感染は大した問題ではない。100%なら、今年の1月の再来ということになるが、、、。

つまり、そもそも
「何をもって終息とする」のかが、よく分からないのである。おそらくは医療崩壊をしない程度に緩やかに国民全員が感染し抗体をもつことを終息と考えているのだろう。

だとすると、この自粛・休業期間は少なくとも1年以上はかかるという話である。5月末まで緊急事態宣言などというのはゴマカシとしか思えない。
仮定として、1日に1000人が感染したとしよう。単純計算で10日で1万人、100日で10万人、1000日で100万人の感染である。
1000日とは2.7年である。到底おいつかない。1日に10万人が感染したとして、1000日で1億。しかし1日10万人の感染者が出たら間違いなく医療崩壊がおきる。
とはいえ、この計算には問題がある。

1:感染者の拡大は最初は少なく、途中から爆発的に多くなり、抗体をもつ人の割合が多くなれば後半からは再び少なくなる。
(理系じゃない私はこの計算の仕方がわからない。グラフ上はベルカーブを描くことはなんとなく想像できる)

2:1日10万人の「感染」があると書いたが、感染して重篤化した者(a)も、安静にして免疫で乗り切れる者(b)も、無自覚に感染してて気付かずに抗体を獲得した者(c)も含む数字である。統計は「医療機関で発見されたaとbの合計の数(d)」なので、実際の感染者は1日何人いるか分からない。

1と2を計算に含めないと、上記した仮定は成り立たない。1は計算の仕方がわからないので2だけやってみる。

dは1日あたり300人と仮定する。(発表された感染者を参考)
a+b+c-d=90000人と仮定したとき、1日の感染者の実態は9万3千人。つまり感染発表数値の30倍が未確認感染者であるとしても、3年以上かかる。1のベルカーブ曲線によってザックリ1年短縮できたとしても2年。

この仮定は信憑性があるだろうか?つまり、dが1日あたり300人ということは発表で分かっているのであまり疑う余地はない(隠蔽してたら話は別)が、a+b+c-dの未確認感染者がその30倍も本当にいるのか?という疑問だ。
死者の推移からみると、1日30人ほど死んでいる。総感染者数が現在約15000人に対して、死者総数が約540人である事を考えると3.6%の致死率ということになる。もっともこれはdの統計であり、死者÷dのパーセンテージ。死者÷(a+b+c)で計算すると、540÷93000=0.58%となる。致死率0.58%は本当か?いささか低すぎる気もする。

低すぎる、高すぎるという意見は感覚である。

世界と比べてみよう。
世界の感染者、つまり世界のdは348万3194人。死者は24万6027人。約7%
これは世界のdにおける致死率である。
我が国と比較するなら
我が国3.6% 世界平均7%

病院で感染が確認された数と、コロナによって死亡が確認された数の割合が3.6であり7である。
病院で確認されていないa+b+c-dの感染者と、同じく病院で確認されていないa+b+c-dの死者の数は、a b cの数が明らかになっていない以上わからない。

つまりこのコロナは、本当の致死率が幾つなのかは分からない。まあ統計とはそういうものだろう。いつの時代でもa b cの本当の数は分からないダークマターのようなものである。
ただし世界のa+b+c-dが日本と同じく30倍だったとしたら、348万×30=10440万、つまり1億440万人の感染者ということになり、地球の人口を70億人とすると、その総人口の1.49%が感染していることとなる。
世界の発表された死者24万6027人÷70億=0.0035%

、、、、、、わからん。

死者についても、発表されたコロナの死者eと、確認されていないコロナによる死者fがいて、本当の致死率を仮定する場合は、fを使わなければならないが、そろそろ仮定に仮定を重ねてきたので、この計算に意味があるのか疑問に思えてきた。


まとめると、集団免疫というおそらくもっと早い恒久的な終息という考えで計算してきたが、それでも終息には2年以上かかるという公算が高いということだ。

こんな計算は、頭の良い国家のブレーンなどはもっと前から、もっと精緻に行われているハズである。
私の拙いシミュレーションでも、どんなに早くても終息には2年かかるとでた。(潜在的感染者が今の発表された感染者の30倍もいるという事を仮定したものでさえ2年である)

にもかかわらず緊急事態宣言は5/6まで、とか、5月一杯とか、国民を騙すようなことを言っているのはなぜか?
なぜこの政策だと2年以上かかるというようなことを言わないのか?
そして、このような単純な計算は国民誰もができるハズなのに、誰も疑問も思わずに政府の発表に一喜一憂しているのだろうか?

同時に国の政策で支援を殆どしないというのはどういうことか?どう考えても5月一杯で緊急事態宣言などを終わらせることはできないハズだ。
暖かくなればウイルスは太陽光と湿度で死ぬとでも確信しているのだろうか?
その確信が、国民への給付を遅らせるほどの強い確信なのか?そこまで確信しきれる自信は一体どこにあるのか?それが予測できるほど今回のウイルスに対して知り尽くしているのか?全然そうは思わない。

つまり政府の言動を見たら、国民を騙すことはもはや確定的であるといっていい。パニックを防ぐ為という言い訳は通用しない。なにしろ自粛休業が長引く中で、給付が全然進まないどころか渋っているわけだから。
5月一杯たえてくれれば、その後は、、、という希望を国民に与え(騙し)、その実政府は支援をしないのである。
言葉よりも行動の方が、人の考えを映し出す。政府も我々の見えないいろんな制約の中で、そのような対応をせざるを得ないのかもしれないが、人間が作った秩序や構造やルールなどは、結局のところ人をあまり助けないということが露呈した。

有事だからこそ見える国家やルールや秩序というもの姿の変遷。それは、現在交通が極めて減った状態にもかかわらず、信号機が相変わらず動いているという状況に似ている。場所によっては信号機など役に立たないほど交通量が少ない地域もあるだろうが、現在は平時と同じく信号機は動き続けている。つまり環境が変わったのに、相変わらず同じ秩序は動き続けているわけである。
かといって、そのルールがバカバカしくて廃棄しろなどという「破壊的な意見」を述べるつもりはない。そういう破壊的意見で国民を扇動してきた政治家や実業家を我々は何度も見てきた。

人間の作ったルールは、状況によって環境に合わなくなってもそのまま踏襲されて社会を凋落におとしたりもするが、そのルールはダメだと破壊して一部の政治家や実業家を潤したりもする。どちらにおいてもルールが不完全故のことである。自然界のルールの方がはるかに複雑で精緻である。環境の汚染はしっぺ返しとして人間に跳ね返ってくるし、人間の考えた介入では自然界に大いなる副作用をもたらし、制御できないのだから。

そんな不完全な人間の作ったルールに縛られる我々は、まさにら自縄自縛である。
世の中が生きづらいというのは、主にこういう事に起因しているのであろう。


フォッサマグナ

2020年05月02日 23時59分00秒 | 長野旅行記
フォッサマグナ。大地溝帯。大地の裂け目。ナウマン象でおなじみのナウマン先生が命名したというもの。


要するにユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界である。


嘘かホントかは知らないが、日本列島は2000万年前に中国大陸から分離して、日本海が形成され、1600万年前に割れた。その後、東日本は縦長に、西日本は横長になってくっ付いたらしい。
プレートはいつも同じ場所に留まっているものではないらしい。




ここは、糸魚川静岡構造帯。フォッサマグナの西の始まりの場所である。ここから東に向かって数十キロメートル行くと、フォッサマグナの東はしである柏崎千葉構造線に至る。
とにかく1600万年前に日本列島は割れた。割れた場所では日本海と太平洋を繋ぐ海になっていた。そこに風雨による侵食作用があり土砂がそこを埋め立てた。
フォッサマグナの深さは6000メートル。恐竜の化石があるとすれば、その下の岩石にあるだろう。上に積もった岩石は新第三紀以降のものであり、もう恐竜はいない。

関東山地のみがフォッサマグナから頭が出ている古い岩石。北西は小諸、佐久より、南西は八ヶ岳の東側で北杜市あたりまで。北東は熊谷手間あたりまで、南東は厚木までの巨大なものである。
この地域が頭が出ているのは、フィリピン海プレートの沈み込みによって、かつてはるか南にあった伊豆半島が本州にぶつかり北アメリカプレートの下に沈み込んだときに持ち上げられたのだろう。

さて糸魚川はヒスイで有名だが、これはフォッサマグナと無関係ではないだろう。ヒスイは火山活動により、岩石の中に溶岩が貫入するときに、溶岩の成分が溶けた地下水などが温められて結晶化したものだと考えられている。つまりヒスイは温水から作られるというものだ。
このあたりはフォッサマグナミュージアムで見学することができる。




南回帰線説

2020年05月01日 05時48分00秒 | 世間話
コロナによる日本人の死者は400人を超えた。ユーラシア大陸の先進国の中での日本の死者は少ないが、東南アジアやオーストラリアなどの国はもっと少ない。これは人口比では見ていない。あくまで死者の絶対数である。
南半球では死者が少ないように見える。それは海に囲まれてることと、中国から遠いことが考えられるが、それよりも重要なのはむしろ気温と湿度と、太陽光ではないか?南半球は夏だったからである。

中国でコロナに最初に確認されたのは、いろんな情報はありながらも12月20日前後であろうと思われる。このあたりの日は冬至と重なる。
太陽が南中のときに真上に来るのは「赤道直下」と我々はおぼえているが、それは春分と秋分の前後の日だけである。
地球の地軸は23.4度傾いているので、太陽が夏至の日の南中に真上に来る地域は北回帰線上の地域であり、冬至の場合は南回帰線上の地域である。

ただし温度が最大になるのは夏至の日ではない。日本を例にすれば、夏至の日(6月22前後)よりも8月の方が暑い。これは大地と海が温まるまでに多少時間がかかるためのものである。

赤道直下は秋分の日9月22日前後が最大の日の長さになるのだが、実際にこの地域が暑くなるのは、さっきの日本の例とおなじく、この日から1ヶ月ちょっと後の話である。つまり11月くらい。

新型コロナが中国で確認されたのが12月の末ということを考えると、その時期に最も暑かった地域は、赤道よりもやや南方、インドネシアのジャカルタあたり。

●赤道の南中に太陽は真上= 9月22日
赤道の最も暑い頃 =11月
●南回帰線の南中に太陽は真上=12月22日
南回帰線の最も暑い頃=2月
●つまり赤道と南回帰線の間にある地域が、今回コロナの流行った時期にもっとも暑くなり、日照時間も長いということになる


逆に考えると

●北半球では12月22日がもっとも陽が短い。
●温度で1番寒い日は、おそらく冬至から1ヶ月ちょっとなので2月。
 
この現象は緯度が高ければ高いほど顕著になる。
白夜極夜という言葉がある。これは緯度の高い北欧などの北極圏では、夏は一日中陽が沈まず、冬は一日中陽が登らない日のことをいう。

近年コロナウイルスが太陽光と湿度に弱いなどと米国の研究によって報じられている。
アメリカやヨーロッパの被害が大きいのは様々な要因があるが、とにかく陽が短く寒い。北欧やロシア、カナダなどは日照時間や温度・湿度的にはそれよりさらに顕著である。
逆に赤道直下よりも少し南、インドネシアのジャカルタあたりから、南回帰線あたりの北オーストラリアあたりまでの地域は、この頃は日照時間も長く暑く、湿度も高い。
東南アジアなど、中国人の華僑が多い為、中国発のコロナは国民の多くが感染してもいいはずである、、、が、あの人口密集のシンガポールですら、死者は少ない。

とすると、、、北半球も夏至〜8月にかけて、ウイルスの活動はかなり弱まるのではないか?すなわち、あと2ヶ月の辛抱ということにならないか?ウイルスの絶対量が減れば、重篤になりにくくなるということであり、死者は激減するのではないか?

南アメリカでもブラジルはともかく、南回帰線上にある国の死者は少ないようにも見える。アフリカも同様である。

ちょうどコロナは夏至の日あたりにはじまった。それは南回帰線上の地域がもっとも1日の日が長いことを示し、その日から1〜2ヶ月後には温度が最大になることでもある。
つまり、逆を言えば南回帰線上にある国は、これから半年後にはコロナが流行ってしまうかもしれないということでもある。
アフリカ、東南アジアの南側、南アメリカ、オーストラリアはこれから数ヶ月後が試練になるのかもしれない。