Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

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フンは匈奴か?

2010年12月16日 21時45分20秒 | 歴史
中国旅行記でウイグルについて書いてきましたが、ここで一つフン族の話を。まずはwikipediaの記述を引用する。

「フン族はヴォルガ川東方から現れた遊牧民の集団で、370年頃にヨーロッパへ移住して大帝国を築いた。彼らは恐らく300年程前に中国の北隣に居住していた匈奴の子孫であり、テュルク系民族のユーラシア大陸にまたがる最初の拡張であろう」引用おわり

フンは匈奴だった説というのは、昔から囁かれていた話である。その根拠とされているものは以下の理由からであった。

1:匈奴は現代中国語ではシュンヌと発音するが、古代中国語ではフンヌと発音した。(音が酷似している)
2:匈奴は北匈奴、南匈奴に分裂し北匈奴は西へ進み消息を絶った。匈奴が文書上から消えたのが、ちょうど五胡十六国の時代。すなわち西暦300年の前半である。フン族は370年頃にヨーロッパに移住した。

これが17~18世紀に中国に渡ったフランス宣教師が言った、フン=匈奴説の初出である。

3:この他に、ソグド人の手によって残された文書である、ソグド語「古代書簡」がある。これは1907年に敦煌西方の玉門関遺跡の中から発見したもので、年代についてはさまざまな説があるが、現在では312~314年という見解が有力である。この書簡の中に、匈奴がフンと呼ばれていたことが確認できるのである。ソグド人の故郷は中央アジア、現在のフェルガナ、サマルカンドあたりの地域で、かつてこの地域はソグディアナと呼ばれていた。

さらにwikiの引用をする。
さらに、ミュンヘン大学のF・ヒルト博士は『ヴォルガフンネンと匈奴について』(1899年)において、『魏書』西域伝に見える「粟特国」を、アッティラの死後フンが退居したクリミア半島の「スグダク」に比定し、西史に見える「フンのアラン族征服」を、『魏書』西域伝の「匈奴の奄蔡(阿蘭)征服」に比定し、「フルナス(アッティラの末子)」を「忽倪」に比定した。また、『魏書』西域伝に見える「(粟特国の)別名は溫那沙」に注目したJ・マルカルトは『ブルガール王侯表中に於ける非スラブ的表現』(1910年)において、「溫那沙=Un-na-sa」の「-sa」の中に、オセット語の接尾語「ston」、アラン語の「stān」が存在すると論じ、「溫那沙」はアラン語またはペルシャ語の「Hūnastān」すなわち「フンの国」の音訳であるとし、ヒルト説を補強した。その後もさまざまな研究者によってフン=匈奴説が支持され証明された。
しかし、これに反対する研究者もいた。日本の白鳥庫吉は「粟特国はスグダクではなくソグディアナであり、匈奴が粟特国を征服したとあるのは、フンがアランを征服したのではなく、エフタルがソグディアナを征服した記述である」とし、ドイツのJ・クラプロートは「フンの言語はフィノ・ウグル語であるのに、匈奴の言語はテュルク語であって両者は言語を異にする異民族である」とした。
引用おわり

後段のwikiの引用は、内容が極めて専門的であるので細かい解説はしないが、白鳥説ではヒルト博士説の反駁になっている。
つまり、ヒルト説が間違いであったのだとすると、フン=匈奴説は1~3の根拠によるものということになる。

ただし、この論拠は事実上名称の類似のみであり、遊牧民の集団は首長家の婚姻や政治的連合によって集団構成要素が容易に変動するため、フン族集団が匈奴の西走集団と系譜的につながるとしても、中国北方で活動した匈奴国家の部民がそのままの形で西方にフン族として登場した可能性は疑問視されている。西ゴート族襲撃以前のフン族について、正確に分かることは何も無いのが現状である。(wikiから引用)

という事である。

考えてみれば、月氏も匈奴に敗れて中央アジアに移動して大月氏になったし、突厥も東突厥と西突厥に分裂し、唐に敗れて西突厥は河西回廊の西に移動したし、さらにいえば遼(契丹)も金に滅ぼされて、西に移動して西遼(カラキタイ)となった例がある。とにかく遊牧連合は、敗れて西進する例が非常に多く、それもフン=匈奴説を後押ししているといえよう。


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旅程一覧表 目次

2010年12月01日 02時40分13秒 | 中国旅行記2010年8月
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32:万里の長城

2010年12月01日 02時25分09秒 | 中国旅行記2010年8月
北京郊外にある万里の長城の観光地は三箇所あるが、その中でもっとも有名な場所は「八達嶺長城」である。
万里の長城まではバスが出ている。ここでタクシーを使うのはハッキリいって勿体無い。万里の長城行きのバスは徳勝門から出ている。徳勝門への最寄の地下鉄は积水潭駅で降りて徒歩で徳勝門まで歩く。バスの番号は919番だが、919番のバスは徳勝門よりもはるか手前にもあるので、そちらには間違っても乗らないように。市内を回るバスと、万里の長城行きのバスとでは明らかにバスの形状が異なる。長城行きのバスは長距離バスで観光バスのようなつくりをしているから分かりやすい。料金は片道12元。タクシーで行ったらおそらく片道100元くらいは取られるのではないか?

現在の万里の長城は明代に作られたものである。始皇帝の時代の長城は土塁。しかも、その長城でさえすべて始皇帝が作ったわけではなく、戦国の七雄と言われる趙や韓などが作ったものを始皇帝が繋げたというものである。国内にも長城はあったらしいが、それらは取り壊されたという。



それにしても凄い人である。人、人、人だ。人だらけ。西域から北京に戻ってみるとさっそく人だかりである。
万里の長城は傾斜も激しい。所によっては15度くらいの傾斜の場所がある。そこは階段もなく、ひたすらの坂である。
とにかく、今回の旅行は遊牧民にちなんだ土地をずっと回ってきた。締めくくりが遊牧民の進入を防ぐ万里の長城であったというのも面白い。



しかし流石に北京郊外の長城は、西域のものは違って堅牢かつ壮大である。山の峰にそってどこまでも長蛇のように続いている。
明国の力の大きさを示す建築物ではないか。



今回の旅は北京~ウルムチまで列車を使い、ウルムチから飛行機で北京に戻るという、合計7,000キロにおよぶ大旅程であった。わずか11日間の現地の滞在であったので、これまでにないほどの強行軍を強いられたが、特に印象に残る土地はやはりトルファンであった。西安・北京に関してはともかく、トルファンにはもう一回今度はゆっくりと滞在してみたい。

旅行記を長々と書いてきたが、今回のこの長城編でおわりである。
さぁ、来年はまたどこにするかなぁ。

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