Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

ようするに日本に対するネガティブキャンペーンだろう?すり替えるな

2020年06月21日 14時09分00秒 | 政治 経済
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73439

記事はほとんど読むに値しない。自粛警察をファシズム的と断じ、今回のコロナの外国人への入国制限を人種差別と断じて、日本に対するネガティブキャンペーンを展開しているのである。
何のために? そりゃまさにドイツなどの欧州や米国が、自分達こそまさに人種差別やファシズムと非難されるような事をしているニュースが国際的に取り上げられているのであり、それから目をそらす為に極東にある他国日本に対して、同様のことがあたかもあるかのように宣伝しているのである。

つまり確信犯的な工作の記事に対して反論する試みをしているのわけで、野暮と言えるが我慢ならぬ。

自粛警察はたしかに問題はあるが、それを自国の人間が怪しからんというのならともかく、外国人や外国に発信するためのスポークスマンが言うのは我慢できない。
それは工作的だからである。必ず外国にとっての政治的意図があるからだ。もしくはそれがなかったとしても、単に外国を盲目的に礼賛しているカブれているか、である。

東日本大地震による共同体的絆と、自粛警察はいわばコインの裏表である。ある面における美が、一方の面では醜に写るだけだ。こんなものをファシズムという著者は工作が目的ではなかったら、頭が悪いとしか言いようがない。たとえそれがフンボルト大学を出ているとしてもである。

記事の中にあるファシズムの実験とやらも噴飯ものだ。ナチス式服従とナチス的ポーズを強制させて、ファシズムの証明をはかろうとするなんて。
そんな事を実験しなくても、国家や文化の鋳型に嵌められた人間は、その国やその文化の人のようになるのは当たり前のことではないか。日本に住めば鋳型によって日本人的になるし、アメリカに住めばアメリカ的になる。それだけのことだ。
ドイツがナチスに傾いたのは、ナチス式服従とそのポーズにあるのではない。そういうのは枝葉の鋳型であって、警察官の格好をさせれば警察官らしくなるというだけの枝葉の証明にすぎぬ。かれらがファシズムに傾いたのは、ドイツの国家や文化の鋳型もあれば、19世紀後半から20世紀前半のヨーロッパの環境という鋳型もある。反ユダヤ主義はナチスの専売特許ではなく、19世紀〜20世紀のヨーロッパやロシアでは非常に顕著だった。ユダヤ人=汚い資本家という思想は、真実はともかくとしても当時から広く認識されていた。加えて19世紀末にはすでに社会主義思想と貧富の差が蔓延していた。
それはドストエフスキーの小説を読めば、いかに人民が閉塞した空気に包まれているかということがよく分かる。加えて第一次世界大戦でドイツは負け、巨額な賠償金を科せられた。
当時のこのような鋳型がナチスを生んだと見たほうがより説得力がある。

にもかかわらず枝葉のナチス式ポーズや自粛警察という表面的な現象のみを取り上げて、これこそファシズムの兆候だ、などと騒ぐのは、学歴ある著者としては「それを知っててなお言っている」としか思えない。

冒頭の
「要するにネガティブキャンペーンでしょ? 外国の政治的問題をそらすために、そこまで我が国を貶める必要がどこにある?」
というわけである。

解像度にまつわる話

2020年06月17日 00時20分00秒 | Eos5D
画像はフォトショップの画像解像度の画面。
私は長らくこの画面に書いてあることの意味がよくわからなかった。
画面の「ドキュメントのサイズ」の項目にある「mm」は長さの単位だからいわゆる紙の大きさでわかるが、「pixel」という言葉の意味「pixel/inch」に至っては何を言ってるのか分からなかったが、この度ようやく一定のレベルで把握した。

pixelがドット(点)と同じようなものであることは私もわかっている。
しかしpixel/inch(ピクセルパーインチ)というものは良く分かってはいなかった。
pixel per inchとは、ppiとも表されるもので、密度を示す単位である。下図をご覧いただきたい。
ここにppiではなくdpiと書いてあるが、本質的には同じ意味である。
1インチあたりの密度、それがppiである。
dpi=ドットパーインチ。 (主にプリンターの1インチあたりの印刷密度を表す数値)
ppi=ピクセルパーインチ。 (主にモニターの1インチあたりの表示密度を表す数値)
1インチ四方の密度ではない。1インチの密度である。

ppiは密度の話である。しかしまだ大きさの話はしていない。モニターは大きいものから小さいものまである。密度も高く大きさも大きければ高級といってもいいだろう。600ppiの100インチモニターなら最高だろう。しかしそんなものは巷に売ってはいない。その話をすると話がそれるので、まずは本題から進めていこう。

さてモニターの大きさの話である。
96ppiの1インチ四方のモニターがあったと仮定しよう。もちろんこんなモニターは巷には売られていない。縦2.54センチ×横2.54センチの真四角の小さすぎるモニターだからだ。(これは1インチモニターではない。モニターのインチとは横幅でも縦幅でもなく対角線の幅を指す用語)
さてこのモニターは96×96=9216個のピクセルの細かさで写真を表示する。
ppiを上げたらどうなるだろう。例えば600ppiの1インチ四方のモニターを考える。
600×600=360000個のピクセルの細かさで写真を表示できる。素晴らしい!
しかしそんなモニターはない。1インチに600ピクセルも入れられるような液晶素子は少なくともモニターにはない。トフォンの最新機器のiphone11のRetinaディスプレイは458ppiもあるそうだが、PCモニターでそこまでの密度を誇るディスプレイは(高すぎて)市販されてはいない。

さすがに1インチ四方のテレビは荒唐無稽だ、96ppiの23インチモニターで計算してみよう。23インチモニターの縦横の長さをミリメートルで表すと以下のようになる。
https://pen64.com/document/monitor-size.html 

横幅508.3mm(50.83cm) 高さ286.3mm(28.63cm)
ppiはインチなので分かりづらいので、ミリメートルに置き換えてみよう
式 96÷25.4(mm)=3.779 1ミリメートルに3.779個。この密度である。
23インチの横幅は508.3ミリなので、508.3×3.779=1920.86個
23インチの高さは286.3ミリなので、286.3×3.779=1081.92個
横が約1920個。高さが約1080個。1920×1080=207万個。

さて、ここで1920×1080という数字をどこかで見たことがないだろうか?
そう、モニターの解像度である。
HDは1280×720 約92万個
FHDは1920×1080 約207万個
4Kは3840×2160 約829万個
8Kは7680×4320 約3317万個

23インチだろうと28インチだろうと、FHDモニターである以上は1920×1080の解像度までしか出力しない。FHDに代表される規格とはそういうものである。しかし、だとすれば、23インチだろうと28インチだろうとどんなにモニターが大きくなったとしても、FHDの規格である限りは、ピクセル総数は1920×1080=207万個である。23インチの面積は1,454cm、28インチの面積は2,156cm。しかしピクセル総数は207万個。小さな23インチのモニターのほうが面積あたりのピクセル数は多くなる。
https://pen64.com/document/monitor-size.html

ということはモニターが大きくなると、ppiは落ちるのではないか?
フォトショップの画像解像度で入力して確かめてみた。
28インチのモニター 1920×1080 幅618.7mm 高さ348.5mmの場合のppiは・・・
79が近似値。落ちている。
https://www.ipentec.com/document/hardware-display-dot-pitch
このページを参照するとそのことがよくわかる。モニターがでかくなればppiは落ちる。つまりインチ当たりの密度は落ちるワケ。

さて、上で1920×1080=207万個と書いたが、207万画素といってしまっても差し支えない。ピクセルの総数=画素なのだ。
ただし、これまで書いてきたように、どんなに画素数があがっても、ppiが落ちたら密度は落ちるから、見た目の画質は荒く感じる。つまり画素なる言葉は決して画質を保証しない。画素など写真のサイズが大きくなれば画質は荒くなるわけで、あくまで画素数は写真サイズと比較することによってはじめて意味をもつ単位となる。

さて、相対指標の画素よりも、絶対指標のppiを重視するべきであることは確認したが、ここで「人間の肉眼」というものについて述べなければならないだろう。
はたして人間は、どの程度のppiまで識別することができるだろうか?
ppiは理論上、技術がすすめばどこまでも高めることはできるだろう。それこそ10000ppiという密度も未来においては可能かもしれない。
しかし、人間の視覚(明視距離25cm)で識別できるppiは、およそ360ppiといわれている。写真を虫眼鏡や顕微鏡を使ってみるのではないとしたら、25cm先から見るのであれば、360ppi以上は必要ないということになる。
技術の進歩は、 人間の生得的なセンサー(例えば肉眼)を越えたところで、人間が識別できなければ意味をなさない。

スマートフォンのRetinaデスプレイは400ppi以上あるというが、スマートフォンは25cm以内で見ることになるので、人間の識別可能域はもっとあがり、たぶん600~800あたりになるのではないか?


私の持っているEOS5Dはもう15年も前のカメラである。
フルサイズの撮像素子をもったカメラで有効画素は1280万画素。

4368×2912ピクセル=1271万画素
サイズ46.2cm 30.8cm
A3サイズ=42cm 29.7cm
解像度 240ppi

これで撮った写真をWEB上で載せても意味がない。240ppiは96ppiまで落とされてしまう。4Kの23型で200ppi。8Kの23型で400ppiなので、4Kを買えば、モニターで200ppiまでの画質なら再現できる。しかし肉眼にはまだ余裕がある。
なので、写真サイズをこの半分にしたとする。つまりA4サイズに縮小したとする。サイズの縮小によってカメラの解像度はあがり340ppiになる。この場合、4Kのモニターだと200ppiまでしか対応していないので、4Kの23型よりもかなり小さなものを選ぶか、もしくは8Kの23型に買い替えることになる。すると400ppiまで表示できるので問題ない。そして肉眼も360ppiまで25cmの範囲なら識別できるので、非常に画質がよくなるわけだ。

これは5Dの写真をモニター鑑賞する場合である。
印刷の場合はどうだろう。

プリンターの性能は300dpi以上といわれている。この際肉眼である360ppiを超える必要はない。360dpiのプリンターで、A4サイズの340ppiの5Dの写真を印刷し、360ppiの肉眼で鑑賞すれば、すくなくとも肉眼では340ppiの画質を感じることができるのである。
もちろん写真をA4より大きく引き伸ばすとしたら、まずEOS5Dが障害になる。また、印刷して鑑賞することが目的だとするならば、モニターは別に96dpiのFHDでも問題はない。モニター上では実物よりもショボくみえるだろうが、印刷するのであれば、画質を左右するのはプリンターのdpiと肉眼のppiだけになるのだから。

ということで、お買い物が難しくなるのである。


BLACK LIVES MATTER に対する諸々のはんのうについて

2020年06月08日 14時07分00秒 | 世間話
https://news.yahoo.co.jp/byline/daisukekawasaki/20200607-00182173/

スマホアプリの「スマートニュース」からの記事である。最近、スマートニュースを読んでいて感じるのは、記事の一つ一つの文面が長文になっていることが多い。

コロナによる緊急事態宣言以降にこの傾向は顕著な気がする。私も政府に対して、国民に対する補助がシブチンなこともあり、同様に長文で感情をまくし立てた。なのでこの傾向も同じことなのだろう。つまり必死というか一生懸命、または感情的になっているのである。

著者はこういう。
【「差別はやめましょう」と諭して仲裁するような運動――では「まったく」ない。】と。
同時にこうも言う【これは「怒りの」運動だからだ。不正義を正すための「戦い」だからだ。】

言わんとしていることはわかる。この事件を、いつもニュースで流れるようなお題目的な「かわいそう」「ひどい」という事で片付けたくはないのだろう。つまりここに一生懸命さが現れていることはよく分かる。

そして「この問題は対岸の火事ではない」といういつものお題目が出てくる。人類皆兄弟、日本人だから関係ないという態度は許されないというような強い主張がついている。無言でいることは「人の尊厳に対する根源的冒涜行為を容認する」ことになると主張している。

言いたいことはわかる。それだけ必死なのだろう。自分の近しい対象に対する冒涜があった場合には、私もこれと同様のことを言うかもしれない。著者にとっては黒人問題は、人類の普遍的な人権に対する冒涜行為と捉え、他人事ではなくて明日は我が身、もしくはこれに賛同しないものは不正義だと言わんばかりである。必死さゆえの感情的な意見の吐露である。

その感情は尊重できなくはないが、この感情が「同一の意見をもて!」という強制力を伴った物言いになったときには、注意が必要である。

不正義を見過ごすものは不正義だ。だから正義の言動をしなければならない。

著者の主張はかならずしもこうではないだろうが、こういう解釈の余地が強い表現をとっている。おそらくは感情的になっているからであろうが。
これの何が問題かといえば、著者はたぶん気づいていないのかもしれないが、どんなに善意から発生した意見であっても、「同一の意見をもて!」とやった瞬間に、そこに悪が入り込むのである。
善とか悪とかはただの言葉である。善悪論争で問題になるのは、いつも「同一の意見をもて!」という事を、善悪両陣営が行なっているからだろう。

別にこれをやめろとは言わない。なぜなら自分の最も大切な家族や自分自身が冒涜的立場に置かれて隷属を余儀なくされた場合には、「自分は今の境遇から解放されるべきだ」という強い意志を、まわりに同調させようとするはずだから。その点において、「同一の意見をもて!」という正義を自分は持つ事になり、従って著者の意見を完全には排除はできないのである。

問題は、どこまでを一人称、二人称としての問題と捉えるかである。
一人称や二人称の「虐げられた」という感覚は、私にとっては大事件である。私が虐げられたのは勿論として、(私にとっての)あなた、君という近しい存在が虐げられることは大事件なのである。

やばい論理展開を私が今やっていることは自覚している。この主張は、私の意図とは違った解釈を他人に与える危険性があることは承知しているが、一応最後まで述べさせてほしい。

さて、これが三人称、つまり彼、彼らになるとどうだろう?地球の裏側で、報道されることもなく、知らされることもなく起こる虐げられた事件については、我々は知らなかったりもしている。

つまり、ここで私がいう二人称と三人称というものの違いは、どれだけ親しい間柄かということも言っているが、同時に、どれだけ世界で起こっている情報を知っているか、そしてそれを知った時にどの程度二人称のような気持ちになることが出来るか?
ということである。

両親の死と知人の死と赤の他人の死とでは、自分に与える影響は異なる。これは理屈ではなく感覚である。本当は世界のどの人たちとの間でも、二人称の気持ち(つまり両親を失った時のような気持ち)になれたら素晴らしいとは思う。そういう気持ちをもっても損をしない社会が世界に広がっていれば、そうなりたいとかなりの割合の人が思っているだろう。

記事はこのように続く

~ひとまず、前編はここまでだ。後編にて「制度的人種主義」の本質および、いかに日本が「ある種のレイシズム」の総本山であるのか、解説してみたい。】

論法構成は以下の通り。

●黒人差別の事件があった。
●これを差別で片付けてはいけない。これは人の根源的冒涜行為の問題
●他人事は不正義。同じ意見をもて!
後編の予測
●制度的人種主義はナショナリズム。
●日本が「ある種の」レイシズムの総本山

この論法はどうも眉唾だ。
この論法をみると、今回の黒人の事件をきっかけにして、最後の「日本がある種のレイシズムの総本山」という主張こそが著者の主張の中心ではないか?と疑いたくなってくるのだ。

著者の記事を好意的に解釈するのであれば、かれは世界の人々全てを二人称のように考えていることになる。この前提から出発するのであれば、彼の怒りはわかるし、かれが「同一の考えをもて!」というような気持ちを押し付けるのも無理はないと思う。

しかしだとすれば、著者はこの社会では生きていけないだろう。この世の不公正を被る人間を、二人称で考えていたら、経済活動などそもそも罪深くて行うことはできないだろう。先進国は他の発展途上国を経済的には割合の違いはあるが利得を貪っているきらいがある。差別で片付けることなく、そこまで問題を拡大するなら、そう断じざるを得ない。


「同一の意見をもて!」
このイデオロギーによって、どれだけの血が流されたのか。

勿論、今回のアメリカで起こった出来事は、我々にはある問題を突きつけたことは確かである。そういう意味では対岸の火事ではない。しかしその問題の感じ方は、人によって大きく異なる。人によっては重く、深く受け止めるだろうし、場合によっては世界の見え方が変わってしまうということもあるだろう。
しかし、理屈でもって
これが正しいから、同一の意見をもて!とやると、その切実な願いはとたんに、いつものイデオロギーに落ち込むのである。



人のふり見て我がふり直せ。
というところかもしれない。








危機感

2020年06月02日 13時20分00秒 | 歴史
https://news.yahoo.co.jp/articles/efcc823051558f557a4003f65c8a56fd105ff066

こういうニュースが流れるたびに、論調はある決められた方向に流れることが定番となっている。
すなわち
①だから韓国は度し難い
②日本は悪いことしたんだから仕方ない
③韓国に対するヘイトはしてはいけない

思想の違いは①〜③では全く違うものの、おおむねこういう意見が多い。しかしそれではいつもの論調になるので(右や左の思想にせよ) 少し変わった考察をしてみたい。

親日賞賛禁止法とやらが議論されているらしい。懲役刑までこの法律は含むらしい。

上の①〜③のどの思想を持つ人にとっても共通するであろう危機感は、以下のものである。

「現在は日本の経済力はそこそこあり、未だ韓国に対してはかなりの発言権はあるものの、ひとたび日本が凋落した時、彼ら(韓国政府)は、いまですらそうなのに、日本が凋落した時には、彼らの国の国内だけの法律の適用のみならず、我が国に対しても強い干渉をしてくることになるだろう。その時に日本人は彼らの奴隷になりはすまいか?(経済的にせよ何にせよ著しく虐げられるということである。)
また仮に彼の国と戦争することになったとしたら、日本がもし彼ら負けた時は、文字通り奴隷的な関係性を強いられることになる公算が極めて高い」という危機感である。

別にこれは対象を韓国ではなく、中国に置き換えても同じことが言える。日本の戦中や戦後直後はアメリカに対しても同じ危機感を抱いていただろう。ポツダム宣言の受諾にあたっては、ソ連にたいしてそういう危機感を抱いていたに違いない。

日本人は以上の危機感を持っている。ヘイトスピーチが昨今本当に流行っているかどうかはともかくとしても、それが起こっている結構な割合で、この危機感があるとおもう。同時に、日本のGDPが失われた20年と言われるようにほぼ成長がなく、そして今回のコロナ騒ぎからの、政府の国民救済を渋ったことによる国民の怒り。この怒りの根源のなかに、国際的に他国よりも相対的に弱くなれば隷属することになる、という危機感もあったであろうことは否めない。

日本が戦後、韓国(または中国やロシア、アメリカも含む)にどれだけ手を差し伸べてきたかということについては、自分は日本人であり主観的にしか判断できないのだが、もしも今後立場が逆転したときに、彼らが我が国をどのように扱うのか、ということに関しては、日本が彼らに扱ってきたようには遇されないであろうことは予測できる。これはあくまで主観的な判断である。
(まあ自国である日本が、コロナによって被害を受けている最中さえも、外国に援助する金を国民よりももしかしたら惜しまないという態度が、あるいは客観的な証明の材料になるかもしれないが)

さて、そのように立場が逆転したときに遇される内容に危機感を覚えた国民は、もしもそのような時が訪れた時は、必死に抵抗するだろうと思う。わかりやすいのは戦争という「時の訪れ」だろう。
文字通り「鬼畜◯◯」と思いながら、命をかけて抵抗するに違いない。奴隷か?死か?である。

行き過ぎた憎しみは、やがて己に跳ね返るのだろう。ただし、その憎しみをやっている張本人は、そのことを知らないのである。「殺し合いの螺旋」というべきこの世界観を、みずからの正義(?)によって気づかないわけだから悲劇は繰り返されるのである。

やれやれ、客観中立を目指したものの書き方をするもんじゃない。書いててフラストレーションがたまるじゃないか。

以上に書いた内容をヘイトスピーチというなら、この世のありとあらゆる発言はヘイトスピーチなのかもしれない。
つまり今回の投稿は確実にヘイトスピーチには当たらない。