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9月2日。この日の午後6時に飛行機は出発する。昼頃、首都ザグレブに到着。市内を短く観光した後、飛行場に向かう。レンタカーを返したのが午後二時ごろ。この十二日間の全走行距離は3960kmであった。
山火事あり、コソボあり、ギリシャ無謀走破ありの弾丸旅行であったが、あっという間の十二日間であった。
クロアチア旅行記おわり。
山火事あり、コソボあり、ギリシャ無謀走破ありの弾丸旅行であったが、あっという間の十二日間であった。
クロアチア旅行記おわり。
プリトヴィッツェ湖群国立公園内にあるホテル「イェゼロ」に泊まる。今日一日は、まるまる国立公園の観光である。写真はスラブ系(?)のお姉ちゃん方である。若い白人の女性は流石に綺麗である。
湖面にエメラルドグリーンの領域がある。太陽光の直射に照らされて出来ているのだが、なんとも幻想的である。
まさにバスクリンの水の色である。水の青さは遠くから見下ろさないと、普通は際立たないものだが、この国立公園では水辺の目の前で見ても青い。
前回と同じ構図からもう一度撮影した。さすがは世界遺産である。
湖の底に石灰岩の大岩がある。まるで湖に沈んだエメラルドのようだ。
木々には小鳥がちらほら見える。人間が危害を加えないため、鳥もほとんど警戒しない。
湖の沿道も緑で覆われ、なかなかきれいだ。
滝。
再び、滝。
珍しい色のトンボを発見。濡れた羽を乾かしている最中なので逃げません。
湖面にエメラルドグリーンの領域がある。太陽光の直射に照らされて出来ているのだが、なんとも幻想的である。
まさにバスクリンの水の色である。水の青さは遠くから見下ろさないと、普通は際立たないものだが、この国立公園では水辺の目の前で見ても青い。
前回と同じ構図からもう一度撮影した。さすがは世界遺産である。
湖の底に石灰岩の大岩がある。まるで湖に沈んだエメラルドのようだ。
木々には小鳥がちらほら見える。人間が危害を加えないため、鳥もほとんど警戒しない。
湖の沿道も緑で覆われ、なかなかきれいだ。
滝。
再び、滝。
珍しい色のトンボを発見。濡れた羽を乾かしている最中なので逃げません。
この日の空は抜けるような快晴。全旅程の中で一番空がキレイな日であった。この日の予定は、またもや移動である。目指す目的地は、クロアチアのプリトヴィッツェ湖群国立公園である。そこは、旅行の二日目で訪れた場所だが、撮影的に思い残しがあったのと、やはり水と滝の風景が頭に残っていて、せめてゆっくり朝から夜まで一日かけて国立公園を観たいと思ったのである。
さて、今日の一日の始まりは朝のスヴェティ・ステファンである。我々はこの旅行の当初から中頃にかけて、アドリア海沿岸を北から南に時間をかけて下ってきたが、今日はそれの逆コースである南から北へ一気にあがるのである。これまで見てきたコトル、ドブロブニク、アドリア海沿岸をもう一度通過する。すでにブログで公開した写真と同じ構図のものが以下に出てくることになるが、この日の景色は非常によく、取り直した写真の方が良く仕上がっている。
そして、これまで数日間かけて走ってきた道を、一日で逆再生するかのように一気に遡るのは、ノスタルジーが喚起されて、私の中では非常に印象深い想いとなったのである。
ここはコトルの南側。我々は北上しているので、景色は以前の南下していた時とは違い、反対側からみた風景となっている。空と海が青い。ギリシャでエーゲ海の一部を見たが、個人的にはアドリア海の方が遥かに美しく感じた。
コトル湾の一番狭くなっている箇所を撮影する。山の緑が湾の水に反射して面白い。
絵の具でも流したかのように、嘘くさい青さの水だが、本当にこんな色をしている。
以前、公開した構図とまったく一緒の場所で撮った写真。この日の空は驚くほどクリアーであった。
この日になってコトルの本当の美しさに気付くのだった。
どこにカメラを向けても、絵になってしまうのがコトルの凄いところである。
コトルを通過し、モンテネグロ国境を越えてドブロブニクへ。写真はドブロブニク手前の風景。モーターボートの航跡が海にいつまでも残っている。波はほとんどなく、非常に穏やかである。
青い、ひたすら青い。
ドブロブニクの町。
この青さはいったい何なのだろうか?
対岸の小山に城壁が見える。あれは以前カキを食べたStonの町である。ここの海は浅瀬なので、海は青ではなく、バスクリンのような水色になっている。
飛び地からボスニア・ヘルツェゴビナ国境のネウムを越える。写真はその付近のものである。パノラマ写真として編集してあります。
国境の町ネウムを越えて、アドリア海沿岸をひたすら北上する。沿岸部は写真のようにアドリア海を上から見下ろすような場所も多い。
幹線道路上にある何気ない風景でも、絵になってしまう。
海岸線にはほとんど砂浜もなく、山が海に浮いているな地形が続く。だが浜辺はエメラルドグリーンに染まる。不思議。
水の透明度は異常。船が飛んでいるようにすら見える。
この後、アドリア海沿岸から内陸部に入って行き、いよいよプリトヴィッツェ湖群国立公園向かう。プリトヴィッツェ国立公園内にあるホテルに到着したのは、午後5時をまわっていた。この日の移動はこれで終わり。まさに今回の旅行の集大成ともいえる一日であった。
さて、今日の一日の始まりは朝のスヴェティ・ステファンである。我々はこの旅行の当初から中頃にかけて、アドリア海沿岸を北から南に時間をかけて下ってきたが、今日はそれの逆コースである南から北へ一気にあがるのである。これまで見てきたコトル、ドブロブニク、アドリア海沿岸をもう一度通過する。すでにブログで公開した写真と同じ構図のものが以下に出てくることになるが、この日の景色は非常によく、取り直した写真の方が良く仕上がっている。
そして、これまで数日間かけて走ってきた道を、一日で逆再生するかのように一気に遡るのは、ノスタルジーが喚起されて、私の中では非常に印象深い想いとなったのである。
ここはコトルの南側。我々は北上しているので、景色は以前の南下していた時とは違い、反対側からみた風景となっている。空と海が青い。ギリシャでエーゲ海の一部を見たが、個人的にはアドリア海の方が遥かに美しく感じた。
コトル湾の一番狭くなっている箇所を撮影する。山の緑が湾の水に反射して面白い。
絵の具でも流したかのように、嘘くさい青さの水だが、本当にこんな色をしている。
以前、公開した構図とまったく一緒の場所で撮った写真。この日の空は驚くほどクリアーであった。
この日になってコトルの本当の美しさに気付くのだった。
どこにカメラを向けても、絵になってしまうのがコトルの凄いところである。
コトルを通過し、モンテネグロ国境を越えてドブロブニクへ。写真はドブロブニク手前の風景。モーターボートの航跡が海にいつまでも残っている。波はほとんどなく、非常に穏やかである。
青い、ひたすら青い。
ドブロブニクの町。
この青さはいったい何なのだろうか?
対岸の小山に城壁が見える。あれは以前カキを食べたStonの町である。ここの海は浅瀬なので、海は青ではなく、バスクリンのような水色になっている。
飛び地からボスニア・ヘルツェゴビナ国境のネウムを越える。写真はその付近のものである。パノラマ写真として編集してあります。
国境の町ネウムを越えて、アドリア海沿岸をひたすら北上する。沿岸部は写真のようにアドリア海を上から見下ろすような場所も多い。
幹線道路上にある何気ない風景でも、絵になってしまう。
海岸線にはほとんど砂浜もなく、山が海に浮いているな地形が続く。だが浜辺はエメラルドグリーンに染まる。不思議。
水の透明度は異常。船が飛んでいるようにすら見える。
この後、アドリア海沿岸から内陸部に入って行き、いよいよプリトヴィッツェ湖群国立公園向かう。プリトヴィッツェ国立公園内にあるホテルに到着したのは、午後5時をまわっていた。この日の移動はこれで終わり。まさに今回の旅行の集大成ともいえる一日であった。
例によって弾丸行軍で、アルバニアの国境を通過してモンテネグロへ入国。自国は夜となっていた。写真はアドリア海沿岸にある豪華ホテル「スヴェティ・ステファン」の夜景である。夜なので全景が良く分からないと思う。次回に朝の写真をUPします。
我々はこの近所にあるアパルトメントに泊まった。
我々はこの近所にあるアパルトメントに泊まった。
この国の歴史もなかなか凄い。アルバニアは第二次世界大戦末期、ソ連とレジスタンス運動によって、ナチスドイツを追い出して国土を回復する。首相に就任したエンヴィル・ホッジャは筋金入りのスターリン主義路線を採る。彼は、東ドイツのウルプリヒトと勝るとも劣らないスターリン信奉者である。ホッジャ政権下のアルバニアは同じ社会主義国家でありながら、独自の社会主義路線を歩みソ連と対立したチトー政権のユーゴスラビアとまず断交し、次にスターリンの死後、最高責任者となったフルシチョフがスターリン批判を行うと、ソ連とも外交を絶つ。そして中国に接近しマオイズムにハマり、文化大革命の影響を受けて、アルバニアでは宗教を否定して無神国家を宣言する。しかし毛沢東の死後、中国が改革開放路線に転換すると、中国も批判するようになる。こうして社会主義陣営の中でも孤立していき、ついに1980年代には鎖国状態に至るのである。
さて、写真のコンクリートの建造物だが、これはトーチカ(防衛陣地)である。これもホッジャの時代にアルバニア全土に作られたもので、数は50万個以上もあるという。
ホッジャの死後、1990年代に入り、アルバニアは改革開放路線に転換し市場経済が導入されるが、国民の大半がネズミ講などにはまり、アルバニア経済は破綻する。2000年以降は少しずつ経済も回復しつつあるが、未だに欧州では貧困な国である。
というように、アルバニアという国はなかなかイタイ国家なのである。近年はそうでもないのだろうが、1940年~1990年頃までは、政治的にも経済的にもかなりイタイ国家であった。
写真はビデオから静止画に落としたものである。アルバニアの、とある町中の風景の一角である。ここが東南アジアのどこかだと言われても、違和感なく見られるのではないだろうか?これでも道路はアルバニアの中ではまだキレイに舗装されている方である。アスファルトの敷いていない幹線道路はとても多い。この写真でも路肩にはアスファルトが敷かれておらず、道と歩行者道路の間はジャリ道になっているが、この光景はアルバニア全土で共通して見られるのである。いわば標準なのだ。
さて、写真のコンクリートの建造物だが、これはトーチカ(防衛陣地)である。これもホッジャの時代にアルバニア全土に作られたもので、数は50万個以上もあるという。
ホッジャの死後、1990年代に入り、アルバニアは改革開放路線に転換し市場経済が導入されるが、国民の大半がネズミ講などにはまり、アルバニア経済は破綻する。2000年以降は少しずつ経済も回復しつつあるが、未だに欧州では貧困な国である。
というように、アルバニアという国はなかなかイタイ国家なのである。近年はそうでもないのだろうが、1940年~1990年頃までは、政治的にも経済的にもかなりイタイ国家であった。
写真はビデオから静止画に落としたものである。アルバニアの、とある町中の風景の一角である。ここが東南アジアのどこかだと言われても、違和感なく見られるのではないだろうか?これでも道路はアルバニアの中ではまだキレイに舗装されている方である。アスファルトの敷いていない幹線道路はとても多い。この写真でも路肩にはアスファルトが敷かれておらず、道と歩行者道路の間はジャリ道になっているが、この光景はアルバニア全土で共通して見られるのである。いわば標準なのだ。
ギリシャ北東部の町イオアニナを朝一番で出発し、ついにギリシャ―アルバニア国境に到着。ここでギリシャ側のチェックで時間がかかる。係官が女性だったという事もあるが、アルバニアはかつて欧州の最貧国といわれた鎖国国家であった。今でも経済状況は苦しい国である。自然、チェックが厳しくなるのも分からない事ではない。
普通はパスポートと自動車保険(グリーンカード)を提示すれば、出国の儀式は終わる。しかし、ここでギリシャの係官はやたら車を調べるのである。車の製造ナンバー(ナンバープレートではない)はどこだ?といいながら座席のシートの下なども探し出す。レンタカーの契約書の提示まで求められた。そしてレンタカーの後ろに貼ってある「HR」というステッカーを見て、「これはどこの国のものなのか?」と聞いてくる。私が「クロアチアだ」と答えると、係官は「いやいやHRとなっているではないか。」という。このやり取りには正直あきれた。クロアチアという国が現地の言葉で「Hrvatska」ということくらい、ヨーロッパ人であれば知っていると思ったのだ。私が「それはフルヴァーツカ・・・」というと、「あぁ」という顔をしてやっと分かったらしい。いったい何処の国だと思ったのだろう。それにしても、アジア人にヨーロッパの国の名称を説明されるというのは、いったいどういうことだろう(笑)
さて、この係官がなかなか融通の利かない面倒な女(失礼)で、レンタカーの契約書を提示した後、裏に書いてある英語表記のレンタカーの規約を細かく読んできたようで、イチャモンを・・・もといツッコミを入れてきた。曰く「規約のここに、このレンタカーは外国では運転できないことが書いてある」というのだ。私の拙い英語力で、その規約の文章をみてみると、たしかにそんなようなニュアンスの文章が書いてある。しかし、私はこれまでボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビア、コソボ、マケドニアの5カ国の国境を問題なく通過してきた。そしてレンタカー屋の職員も、そんなことは一切説明してはいなかった。それを係官に伝えると、「でも本当はダメなのよ、気をつけてね」と言われてしまった。
どうもこのレンタカーの契約では乗り入れ禁止国というのがあるのか、それともそもそも国外に乗り入れることが禁止なのか。これは今でも真相が不明である。インターネットでクロアチアのレンタカー旅行記などを見て調べていた時にも、そんな情報はなかった。2003年にドイツでレンタカーを借りたときにも、国外に乗り入れたが問題はなかった。やはりシェンゲン協定加盟国じゃないとダメなのか?しかし、もし国外への乗り入れがダメだとすると、ザグレブで借りたレンタカーは、飛び地であるドブロブニクには厳密的には行けないことになる・・・という事を、頭のなかでずーっとと考えていて、どうも釈然としなかったのだが、それ以上のお咎めもなかったので、係官の気が変わらないうちにサッサと国境を後にしてアルバニアに入国した。
写真は国境を越えてから1キロも行かない場所。まっすぐに伸びた道、青い空がきれいだったので撮影した。
この日も晴天に恵まれた。しばらく運転していると、街道沿いになにやらコンクリートの小さな建物がいっぱいある。
これについての詳細は次回に書きます。
普通はパスポートと自動車保険(グリーンカード)を提示すれば、出国の儀式は終わる。しかし、ここでギリシャの係官はやたら車を調べるのである。車の製造ナンバー(ナンバープレートではない)はどこだ?といいながら座席のシートの下なども探し出す。レンタカーの契約書の提示まで求められた。そしてレンタカーの後ろに貼ってある「HR」というステッカーを見て、「これはどこの国のものなのか?」と聞いてくる。私が「クロアチアだ」と答えると、係官は「いやいやHRとなっているではないか。」という。このやり取りには正直あきれた。クロアチアという国が現地の言葉で「Hrvatska」ということくらい、ヨーロッパ人であれば知っていると思ったのだ。私が「それはフルヴァーツカ・・・」というと、「あぁ」という顔をしてやっと分かったらしい。いったい何処の国だと思ったのだろう。それにしても、アジア人にヨーロッパの国の名称を説明されるというのは、いったいどういうことだろう(笑)
さて、この係官がなかなか融通の利かない面倒な女(失礼)で、レンタカーの契約書を提示した後、裏に書いてある英語表記のレンタカーの規約を細かく読んできたようで、イチャモンを・・・もといツッコミを入れてきた。曰く「規約のここに、このレンタカーは外国では運転できないことが書いてある」というのだ。私の拙い英語力で、その規約の文章をみてみると、たしかにそんなようなニュアンスの文章が書いてある。しかし、私はこれまでボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビア、コソボ、マケドニアの5カ国の国境を問題なく通過してきた。そしてレンタカー屋の職員も、そんなことは一切説明してはいなかった。それを係官に伝えると、「でも本当はダメなのよ、気をつけてね」と言われてしまった。
どうもこのレンタカーの契約では乗り入れ禁止国というのがあるのか、それともそもそも国外に乗り入れることが禁止なのか。これは今でも真相が不明である。インターネットでクロアチアのレンタカー旅行記などを見て調べていた時にも、そんな情報はなかった。2003年にドイツでレンタカーを借りたときにも、国外に乗り入れたが問題はなかった。やはりシェンゲン協定加盟国じゃないとダメなのか?しかし、もし国外への乗り入れがダメだとすると、ザグレブで借りたレンタカーは、飛び地であるドブロブニクには厳密的には行けないことになる・・・という事を、頭のなかでずーっとと考えていて、どうも釈然としなかったのだが、それ以上のお咎めもなかったので、係官の気が変わらないうちにサッサと国境を後にしてアルバニアに入国した。
写真は国境を越えてから1キロも行かない場所。まっすぐに伸びた道、青い空がきれいだったので撮影した。
この日も晴天に恵まれた。しばらく運転していると、街道沿いになにやらコンクリートの小さな建物がいっぱいある。
これについての詳細は次回に書きます。
結論から先に言うと、ギリシャ行き計画は一言でいうと「もったない事をした」である。ギリシャにはメテオラ修道院がある、それは知っている。ギリシャにはミコノス島がある、それも知っている。パルテノン神殿以外のギリシャ神殿も数多くあるだろう。しかし、我々はそれらを全て吹っ飛ばした。ギリシャで観光したのはなんとこの神殿だけだったのである。すぐさま北へ進路をとり、車を走らせたのだった。向かう先はクロアチアである。いくらアテネのパルテノン神殿が目的でギリシャに行ったとはいえ、それではあまりに勿体無い。・・・と思う人は多いだろう。
しかしである。誰が当初からギリシャに行くと予定していただろうか?ギリシャ行きが決まったのは、この旅行の最中であり、従ってまともな計画など何一つない。下調べもほとんど無いのである。さらに日付は既に8月29日であり、しかも前日の28日から走りっぱなしの徹夜状態なのだ。9月3日はザグレブにいなければならない。パルテノン神殿を観光して、すでに午後になろうとしている。ここで一泊すると、ギリシャ出発は30日になる。30、31、1、2の4日間でザグレブまでの約2000数百キロを走破せねばならない。アクシデントが起こったらその旅程を完走することは無理になる。
それにである。考えても見て欲しい。この旅行はどこまで行っても「クロアチア旅行記」であり、「バルカン半島一周旅行」ではないのだ。既にクロアチアとは六日目にして離れている。流石に調子に乗りすぎた。少しでもザグレブとの距離を縮めておく必要がある。従って、我々はほぼ必然的にギリシャではココ以外の観光は諦め、進路を北に向ける必要があった。
ただ、まったく同じ道を引き返すのは勿体ないので、我々が選んだ道は以下の様なコースとなった。
白線のコースである。即ち、アテネから西に向い、コリントスを通ってペロポネソス半島に入り、海岸線を走ってパトレーの都市の手前にある海峡大橋を渡って北進する。都市イオアニナを通過して、アルバニア国境を越えるというものである。
さて、昼にアテネを出発したが、疲労のせいもあってイオアニナの町でダウン。ここで長々長い8月28日~8月29日の二日は終わる。この二日間で走行した距離は実に1600キロ。そのうち1300キロは私が運転した計算になる。
しかしである。誰が当初からギリシャに行くと予定していただろうか?ギリシャ行きが決まったのは、この旅行の最中であり、従ってまともな計画など何一つない。下調べもほとんど無いのである。さらに日付は既に8月29日であり、しかも前日の28日から走りっぱなしの徹夜状態なのだ。9月3日はザグレブにいなければならない。パルテノン神殿を観光して、すでに午後になろうとしている。ここで一泊すると、ギリシャ出発は30日になる。30、31、1、2の4日間でザグレブまでの約2000数百キロを走破せねばならない。アクシデントが起こったらその旅程を完走することは無理になる。
それにである。考えても見て欲しい。この旅行はどこまで行っても「クロアチア旅行記」であり、「バルカン半島一周旅行」ではないのだ。既にクロアチアとは六日目にして離れている。流石に調子に乗りすぎた。少しでもザグレブとの距離を縮めておく必要がある。従って、我々はほぼ必然的にギリシャではココ以外の観光は諦め、進路を北に向ける必要があった。
ただ、まったく同じ道を引き返すのは勿体ないので、我々が選んだ道は以下の様なコースとなった。
白線のコースである。即ち、アテネから西に向い、コリントスを通ってペロポネソス半島に入り、海岸線を走ってパトレーの都市の手前にある海峡大橋を渡って北進する。都市イオアニナを通過して、アルバニア国境を越えるというものである。
さて、昼にアテネを出発したが、疲労のせいもあってイオアニナの町でダウン。ここで長々長い8月28日~8月29日の二日は終わる。この二日間で走行した距離は実に1600キロ。そのうち1300キロは私が運転した計算になる。
アテネに午前10時頃到着。車を降りるとすごい湿気と熱気を感じる。湿度は日本並みである。ヨーロッパは全体的に空気が乾燥しているが、ギリシャは例外で蒸し暑い。ギリシャは地政学的にはヨーロッパの端に位置する国である。トルコは小アジアと呼ばれており、そこはもうヨーロッパではない。そのトルコと隣り合わせの国が、ここギリシャである。
さて、徹夜状態だが、そんなことはお構いなしでパルテノン神殿を観光する。残念ながらパルテノン神殿は修復中であり、足場が建っていて景観が多少損なわれている。
この日は快晴。パルテノン神殿の丘は白い岩山であり、太陽光を反射してまぶしい。あっという間に日焼けをしてしまいそうな程に太陽光が強い。観光客のほとんどがサングラスをかけていたが、西洋人でない我々ですら流石にサングラスが欲しくなったほどである。しかも徹夜明けなので、なかなかつらい。
2400年の歴史のあるパルテノン神殿。流石に世界的な観光地だけあって、人の数がとにかく多い。完全に観光地化されてしまっており、2400年前の遺跡という雰囲気は残念ながらあまり感じない。入場料金はかなり高く、たしか2000円くらいはしたと思う。
パルテノン神殿は、エジプトのピラミッドと同じで一生に一度は見ておきたい所であった。来て見てわかったのは、アテネという町は自分が想像したよりも遥かに大きな都市であったということだ。市内地図は持っていたが、それでもパルテノン神殿を探し出すのには苦労した。5人くらいの道行く人に聞いて、なんとか到着したのである。
さて、徹夜状態だが、そんなことはお構いなしでパルテノン神殿を観光する。残念ながらパルテノン神殿は修復中であり、足場が建っていて景観が多少損なわれている。
この日は快晴。パルテノン神殿の丘は白い岩山であり、太陽光を反射してまぶしい。あっという間に日焼けをしてしまいそうな程に太陽光が強い。観光客のほとんどがサングラスをかけていたが、西洋人でない我々ですら流石にサングラスが欲しくなったほどである。しかも徹夜明けなので、なかなかつらい。
2400年の歴史のあるパルテノン神殿。流石に世界的な観光地だけあって、人の数がとにかく多い。完全に観光地化されてしまっており、2400年前の遺跡という雰囲気は残念ながらあまり感じない。入場料金はかなり高く、たしか2000円くらいはしたと思う。
パルテノン神殿は、エジプトのピラミッドと同じで一生に一度は見ておきたい所であった。来て見てわかったのは、アテネという町は自分が想像したよりも遥かに大きな都市であったということだ。市内地図は持っていたが、それでもパルテノン神殿を探し出すのには苦労した。5人くらいの道行く人に聞いて、なんとか到着したのである。
例によって写真はビデオから落とした静止画。
コソボ首都プリスティナまではあと30キロ程。運転していると、奇妙な光景が飛び込んでくる。なんと、夜遅くのコソボの道端にヒッチハイカーがいるではないか。世の中には我々の予想を遥かに超える猛者がいるものだ。彼らに比べれば、私のやっていることはまさに潜入ゴッコに違いない。しかし・・・あんたら、いつか死ぬぞ。
スピード標識がある。戦車の制限速度は40キロらしい。
さて、ようやく車はコソボの首都プリスティナに着いた。時刻は既に夜の9時頃。だが、我々はこんな恐ろしげな国で一泊するつもりは毛頭ない。だが流石に腹が減ってきた。このままメシ抜きでコソボを走り抜けるのは不可能なので、首都プリスティナのメイン通り沿いにあるレストランで晩飯兼夜食を摂ることとなった。その通りの名前は「ビルクリントン通り」。コソボ紛争で1999年にアメリカ主導のNATOが空爆を実施してくれてありがとう、という意味で命名された「らしい」。このようにコソボの人口の大半を占めるアルバニア人は、アメリカが大好きのようである。現在のコソボ共和国の首相ハシムは元コソボ解放軍(KLA)のリーダーであった。KLAの所業といったら・・・、解放軍というよりも・・・テ○リスト集団に近い。勝ったテ○リスト集団である。戦犯の多いこと多いこと。というわけで、コソボにいるアルバニア人というのは、なかなかの恐い人たちで、いつ問題をおこさないとも限らないのである。
さて、その通りに面したイタリアンレストランでピザを食ったが、これがなかなか美味かった。周りのお客が我々を珍しそうな目で見ている。しかし店内は至って平和である。日本の軽食屋と雰囲気は変わらない。ここだけを見ると、とてもNATOが暫定統治している国とは思えない。
食事も終わり早速出発。目指すは一直線にマケドニア国境である。実はここから先のコソボの映像と、マケドニア国内の映像はまったく無い。運転して既に12時間以上も経っており、誰もが疲れていたのである。
時刻は深夜に入り、日付は8月29日と変わった。コソボ―マケドニアの国境を無事通過する。マケドニア。この国は英語表記ではFYROMというが、これは「The Former Yugoslav Republic of Macedonia(マケドニア旧ユーゴスラビア共和国)」の略称である。マケドニアが国連加盟を申請するとき、国名を「マケドニア共和国」としたのだが、ギリシャがこれに猛反対した。これは歴史的な経緯と政治的な問題による。マケドニア旧ユーゴスラビア共和国に住むいわゆるマケドニア人は、古代マケドニア人の子孫でもなんでもない。彼らは中世スラブ人の末裔であって、独立した地域が、古代マケドニアの領土の中の地域を多く含んでいただけである。そういう意味ではギリシャも大差はない。ただギリシャは、すでに自国の州名にマケドニア名を使用しているのである。そう、ギリシャはマケドニアの領土的野心を警戒したわけだ。しかも古代マケドニア王に、あのアレクサンダー大王がいる。政治的にも歴史的にも対立しているわけである。
そのマケドニアを超特急で通過して、いよいよギリシャ国境に入った。
Eos5D EF24-105m F4Lにて、車内より撮影。
これまでの道を、私は一人で延々と運転してきたが、マケドニアの国境を通過した途端に、安心したのか急にドッと疲れが出た。運転を家人に代わってもらい、私は助手席へ行く。写真は助手席から撮ったギリシャの高速道路である。流石は先進国、高速道路もキレイなものである。街頭が明るい。マケドニアの高速道路の街頭はほとんどなく、ギリシャのそれと比べるとはるかにオソマツであった。夜の道路をみただけでも経済格差がよく分かる。コソボなんて、高速道路なんてほとんど無かった。いつしか降っていた雨も止んでいた。
コソボ首都プリスティナまではあと30キロ程。運転していると、奇妙な光景が飛び込んでくる。なんと、夜遅くのコソボの道端にヒッチハイカーがいるではないか。世の中には我々の予想を遥かに超える猛者がいるものだ。彼らに比べれば、私のやっていることはまさに潜入ゴッコに違いない。しかし・・・あんたら、いつか死ぬぞ。
スピード標識がある。戦車の制限速度は40キロらしい。
さて、ようやく車はコソボの首都プリスティナに着いた。時刻は既に夜の9時頃。だが、我々はこんな恐ろしげな国で一泊するつもりは毛頭ない。だが流石に腹が減ってきた。このままメシ抜きでコソボを走り抜けるのは不可能なので、首都プリスティナのメイン通り沿いにあるレストランで晩飯兼夜食を摂ることとなった。その通りの名前は「ビルクリントン通り」。コソボ紛争で1999年にアメリカ主導のNATOが空爆を実施してくれてありがとう、という意味で命名された「らしい」。このようにコソボの人口の大半を占めるアルバニア人は、アメリカが大好きのようである。現在のコソボ共和国の首相ハシムは元コソボ解放軍(KLA)のリーダーであった。KLAの所業といったら・・・、解放軍というよりも・・・テ○リスト集団に近い。勝ったテ○リスト集団である。戦犯の多いこと多いこと。というわけで、コソボにいるアルバニア人というのは、なかなかの恐い人たちで、いつ問題をおこさないとも限らないのである。
さて、その通りに面したイタリアンレストランでピザを食ったが、これがなかなか美味かった。周りのお客が我々を珍しそうな目で見ている。しかし店内は至って平和である。日本の軽食屋と雰囲気は変わらない。ここだけを見ると、とてもNATOが暫定統治している国とは思えない。
食事も終わり早速出発。目指すは一直線にマケドニア国境である。実はここから先のコソボの映像と、マケドニア国内の映像はまったく無い。運転して既に12時間以上も経っており、誰もが疲れていたのである。
時刻は深夜に入り、日付は8月29日と変わった。コソボ―マケドニアの国境を無事通過する。マケドニア。この国は英語表記ではFYROMというが、これは「The Former Yugoslav Republic of Macedonia(マケドニア旧ユーゴスラビア共和国)」の略称である。マケドニアが国連加盟を申請するとき、国名を「マケドニア共和国」としたのだが、ギリシャがこれに猛反対した。これは歴史的な経緯と政治的な問題による。マケドニア旧ユーゴスラビア共和国に住むいわゆるマケドニア人は、古代マケドニア人の子孫でもなんでもない。彼らは中世スラブ人の末裔であって、独立した地域が、古代マケドニアの領土の中の地域を多く含んでいただけである。そういう意味ではギリシャも大差はない。ただギリシャは、すでに自国の州名にマケドニア名を使用しているのである。そう、ギリシャはマケドニアの領土的野心を警戒したわけだ。しかも古代マケドニア王に、あのアレクサンダー大王がいる。政治的にも歴史的にも対立しているわけである。
そのマケドニアを超特急で通過して、いよいよギリシャ国境に入った。
Eos5D EF24-105m F4Lにて、車内より撮影。
これまでの道を、私は一人で延々と運転してきたが、マケドニアの国境を通過した途端に、安心したのか急にドッと疲れが出た。運転を家人に代わってもらい、私は助手席へ行く。写真は助手席から撮ったギリシャの高速道路である。流石は先進国、高速道路もキレイなものである。街頭が明るい。マケドニアの高速道路の街頭はほとんどなく、ギリシャのそれと比べるとはるかにオソマツであった。夜の道路をみただけでも経済格差がよく分かる。コソボなんて、高速道路なんてほとんど無かった。いつしか降っていた雨も止んでいた。
本日の写真も全てビデオから落とした静止画である。
「Eos5D写真三昧」というタイトルのくせに、前回に引き続き5Dの写真を一枚もUPしていないのであるが、この8月28日~29日の二日間の行軍は、私にとって記録的な大強行軍であり、ほとんどの時間を運転に費やしたために、カメラで撮影する時間がなかった事を、まずは言い訳しておきます。
ibar川が右手に見える。ibar川は西から東に流れており、我々はibar側の北側の川沿いを西から東に向かって走っている。やがてibar側を南側に横断する橋が見えてきた。この橋を渡れば、もうコソボである。時刻は午7時頃である。
橋を渡ってしばらく走ったところで検問があった。パスポートを見せると検問所の男はこう言った。「ここから一キロメートル先にNATOがいる。そこに行け」
NATOである。そう、あのNATOだ。北大西洋条約機構のNATOである。ibar川からコソボ側地域は、国連コソボ暫定行政機構(UNMIK)の管轄下にある。一キロ先に、実質的な国連軍たるNATOの検問所があるのだ。
写真は一キロ行った所のUNMIK管轄下にある検問所。検問所での写真撮影はご法度であるが、勇敢にもビデオ撮影した。写真がピンボケで曲がっていることについてはご容赦いただきたい、これが限界である。
なかなかの厳重態勢である。UNの装甲車が見える。バリケードもあり、有刺鉄線もある。停戦状態にあるとはいえ、緊張感を感じる。これを見てしまうと、いままで陸路で越えてきた国境検問所など駅の改札口並に見えてしまう。いよいよコソボ入国である。
検問所の出口の写真である。実はこの後も何度も検問で止められることになる。
ここでも検問を受ける。軍備的には一番物々しい所であった。左側の柵の中には戦車数台、装甲車が多数が止まっている。場所はkosovskaMitrovicaの町の数キロ手前である。
コソボの警察。車内に二人の警官が乗っていた。エンジンも掛かっておらず、ライトも点けていない。見張りですか。
「Eos5D写真三昧」というタイトルのくせに、前回に引き続き5Dの写真を一枚もUPしていないのであるが、この8月28日~29日の二日間の行軍は、私にとって記録的な大強行軍であり、ほとんどの時間を運転に費やしたために、カメラで撮影する時間がなかった事を、まずは言い訳しておきます。
ibar川が右手に見える。ibar川は西から東に流れており、我々はibar側の北側の川沿いを西から東に向かって走っている。やがてibar側を南側に横断する橋が見えてきた。この橋を渡れば、もうコソボである。時刻は午7時頃である。
橋を渡ってしばらく走ったところで検問があった。パスポートを見せると検問所の男はこう言った。「ここから一キロメートル先にNATOがいる。そこに行け」
NATOである。そう、あのNATOだ。北大西洋条約機構のNATOである。ibar川からコソボ側地域は、国連コソボ暫定行政機構(UNMIK)の管轄下にある。一キロ先に、実質的な国連軍たるNATOの検問所があるのだ。
写真は一キロ行った所のUNMIK管轄下にある検問所。検問所での写真撮影はご法度であるが、勇敢にもビデオ撮影した。写真がピンボケで曲がっていることについてはご容赦いただきたい、これが限界である。
なかなかの厳重態勢である。UNの装甲車が見える。バリケードもあり、有刺鉄線もある。停戦状態にあるとはいえ、緊張感を感じる。これを見てしまうと、いままで陸路で越えてきた国境検問所など駅の改札口並に見えてしまう。いよいよコソボ入国である。
検問所の出口の写真である。実はこの後も何度も検問で止められることになる。
ここでも検問を受ける。軍備的には一番物々しい所であった。左側の柵の中には戦車数台、装甲車が多数が止まっている。場所はkosovskaMitrovicaの町の数キロ手前である。
コソボの警察。車内に二人の警官が乗っていた。エンジンも掛かっておらず、ライトも点けていない。見張りですか。
画像は地図以外は全てビデオから落とした静止画である。
渓谷を抜けると雨が降り始めた。そして大渋滞に陥る。原因はトラックの接触事故で、30分以上も足止めを食うことになった。折角ギリシャ行きを決めて、走り出した日だと言うのについていない。渋滞で途方にくれていると、同じく渋滞待ちの男が我々に声をかけてきた。
男「どこへ行くのかね」
私「ギリシャに行くのさ」
男「事故渋滞だが、あと20分もすれば復旧する。で、どの道を通ろうとしているんだい?」
私「この道さ」(といって、昨日私が検討したルートの地図を男に見せる)
男「これは遠回りだ。コソボを通れ」
私「コソボは危険でしょう?」
男「いや、そんなことはない。大丈夫だよ」
話によると、この男はオーストラリア人らしい。モンテネグロ人が言うならまだしも、同じ外国人に言われてもねぇ、と思ったが、その男、あまりにも自信満々に大丈夫、安全だと繰り返す。たしかにコソボを通れば、かなりのショートカットになる。
旧ルートが、昨晩私が計画したルート。新ルートは、オーストラリアのオッサンが薦める道である。たしかにオッサンの言う道を選べば、ギリシャ入りの距離はかなり短縮される。しかし、このコースだとコソボ、マケドニアを通過する事になる。 ブルガリアは去年(2007年)にEUに加盟しており、遠回りだがこのルートのほうがはるかに安全なのを私は知っている。この旅行の出発前に、私は外務省の海外安全ホームページでコソボの情勢も見ており、コソボの危険度が一ランク引き下げられたのも知っている。
http://www.anzen.mofa.go.jp/info/info4.asp?id=180#header
しかしである。引き下げられたとは言え、それは4段階のレベルの中で「3」から「2」に引き下げられたのである。「4」はイラクやアフガニスタンがランクインする危険度である。「3」はチベットやアルジェリアの北部などにランクインされている。コソボが「2」に引き下げられたのは2008年8月5日である。それまでは「3」だったのだ。引き下げられてから、まだ20日ほどしか経っていない。
さて・・・どうする。個人的には行ってみたい気もする。コソボは2008年の2月に独立をしたばかりだ。日本がコソボを独立国として承認したのは、それから1ヶ月後の3月だ。独立してから半年しか経っていない。ここで家人と作戦会議。採決の結果、満場一致でコソボ入りが決定してしまったのである。
セルビア国境の数キロ手前の風景。バルカン半島にはイスラム人も数多く住んでいる。左の尖がった塔は、イスラムの教会。
モンテネグロ―セルビアの国境。ピンボケで申し訳ない。いよいよ我々はセルビアに入国し、コソボに入る。
セルビア入国を果たす。ここからコソボ国境までは20キロ程しかない。クロアチアのレンタカーで、セルビアに入るというのも、なかなか勇気がいるものである。ミロシェビッチが死んでからまだ二年しか経たない。カラジッチが捕まったのは先月(2008年7月末)である。セルビアもまだまだ安定しているとは言い難い。
まもなくコソボ国境である。日は沈み、夜の帳がおりてゆく。ちょっと怖い。
渓谷を抜けると雨が降り始めた。そして大渋滞に陥る。原因はトラックの接触事故で、30分以上も足止めを食うことになった。折角ギリシャ行きを決めて、走り出した日だと言うのについていない。渋滞で途方にくれていると、同じく渋滞待ちの男が我々に声をかけてきた。
男「どこへ行くのかね」
私「ギリシャに行くのさ」
男「事故渋滞だが、あと20分もすれば復旧する。で、どの道を通ろうとしているんだい?」
私「この道さ」(といって、昨日私が検討したルートの地図を男に見せる)
男「これは遠回りだ。コソボを通れ」
私「コソボは危険でしょう?」
男「いや、そんなことはない。大丈夫だよ」
話によると、この男はオーストラリア人らしい。モンテネグロ人が言うならまだしも、同じ外国人に言われてもねぇ、と思ったが、その男、あまりにも自信満々に大丈夫、安全だと繰り返す。たしかにコソボを通れば、かなりのショートカットになる。
旧ルートが、昨晩私が計画したルート。新ルートは、オーストラリアのオッサンが薦める道である。たしかにオッサンの言う道を選べば、ギリシャ入りの距離はかなり短縮される。しかし、このコースだとコソボ、マケドニアを通過する事になる。 ブルガリアは去年(2007年)にEUに加盟しており、遠回りだがこのルートのほうがはるかに安全なのを私は知っている。この旅行の出発前に、私は外務省の海外安全ホームページでコソボの情勢も見ており、コソボの危険度が一ランク引き下げられたのも知っている。
http://www.anzen.mofa.go.jp/info/info4.asp?id=180#header
しかしである。引き下げられたとは言え、それは4段階のレベルの中で「3」から「2」に引き下げられたのである。「4」はイラクやアフガニスタンがランクインする危険度である。「3」はチベットやアルジェリアの北部などにランクインされている。コソボが「2」に引き下げられたのは2008年8月5日である。それまでは「3」だったのだ。引き下げられてから、まだ20日ほどしか経っていない。
さて・・・どうする。個人的には行ってみたい気もする。コソボは2008年の2月に独立をしたばかりだ。日本がコソボを独立国として承認したのは、それから1ヶ月後の3月だ。独立してから半年しか経っていない。ここで家人と作戦会議。採決の結果、満場一致でコソボ入りが決定してしまったのである。
セルビア国境の数キロ手前の風景。バルカン半島にはイスラム人も数多く住んでいる。左の尖がった塔は、イスラムの教会。
モンテネグロ―セルビアの国境。ピンボケで申し訳ない。いよいよ我々はセルビアに入国し、コソボに入る。
セルビア入国を果たす。ここからコソボ国境までは20キロ程しかない。クロアチアのレンタカーで、セルビアに入るというのも、なかなか勇気がいるものである。ミロシェビッチが死んでからまだ二年しか経たない。カラジッチが捕まったのは先月(2008年7月末)である。セルビアもまだまだ安定しているとは言い難い。
まもなくコソボ国境である。日は沈み、夜の帳がおりてゆく。ちょっと怖い。
画像はビデオ動画から静止画におとしたもの。
岩場の渓谷を走る。岩山の頂上までは車のフロントガラスに納まらない。それほど切り立っている。にもかかわらず、落石防止のネットはまったく無い。ネットが無いほうが写真的に映えることも良く分かる。しかし、つい安全管理は?と思ってしまうのは、それは私が日本人だからだろうか?確かにそうかもしれない。日本人の安全に対する考え方は過敏であり、時には病的ですらあるかもしれない。安全面を強化するために、この道の山にネットをつけたらどうだろうか?私はこの道を走らなかったかもしれない。だが、あまりにも危険すぎれば、同様にこの道を通らないだろう。問題はどの辺で折り合いをつけるか、である。そう考えると、モンテネグロのこの措置は、結構適切なのかもしれない。まぁ、日本ではまず考えられないだろう。それは日本が地震大国だからという理由だけではないハズだ。
ところで、しばらく走っていると、渓谷の川原に何かが落ちている。あれはなんだろう。
車、それも大型車の残骸である。形状からするとバスか?付近に慰霊碑と花が手向けてあった。おそろしや・・・。
見よ、この補強もしていない、ただくり貫いただけのトンネルを。天井の石がそのうち落ちまっせ、コレ。
岩場の渓谷を走る。岩山の頂上までは車のフロントガラスに納まらない。それほど切り立っている。にもかかわらず、落石防止のネットはまったく無い。ネットが無いほうが写真的に映えることも良く分かる。しかし、つい安全管理は?と思ってしまうのは、それは私が日本人だからだろうか?確かにそうかもしれない。日本人の安全に対する考え方は過敏であり、時には病的ですらあるかもしれない。安全面を強化するために、この道の山にネットをつけたらどうだろうか?私はこの道を走らなかったかもしれない。だが、あまりにも危険すぎれば、同様にこの道を通らないだろう。問題はどの辺で折り合いをつけるか、である。そう考えると、モンテネグロのこの措置は、結構適切なのかもしれない。まぁ、日本ではまず考えられないだろう。それは日本が地震大国だからという理由だけではないハズだ。
ところで、しばらく走っていると、渓谷の川原に何かが落ちている。あれはなんだろう。
車、それも大型車の残骸である。形状からするとバスか?付近に慰霊碑と花が手向けてあった。おそろしや・・・。
見よ、この補強もしていない、ただくり貫いただけのトンネルを。天井の石がそのうち落ちまっせ、コレ。
モンテネグロの首都ポトゴリッツァから、北に走ること30キロ。渓谷を車で走っていると、山の中腹から湯気のようなものが立ち込めている。よく見ると、それは煙で山火事が起こっているのだ。そういえば、クロアチアで山火事注意の看板をいくつもみた。そして、今になってみて気付くのだが、クロアチアの所々で木々や地面が黒焦げになっていた地域がいくつもあった。当初は野焼きかと思っていたが、さすがにこの規模の野焼きはなかろう。あれも山火事であったに違いない。
普通なら人だかりができるものだが、いたって平穏静かなものである。主要道路のちょっと上方が燃えているのである。消防車が来る様子もない。この季節の山火事は、この地域では日常茶飯事なのかもしれない。それはこの後、確信に至ることになる。
この写真は、ビデオから静止画に落としたものである。
先ほどの山火事を見てから、車を走らすこと数十分。これは別の場所での山火事である。なんと道路にまで火が迫っているではないか。しかも我々の通り道である。ハリウッドのスタント運転を私にやらせようと言うのか。(笑)
先ほどの道を通過してから撮影した写真がこれ。よく見ると、手前の地面が黒焦げである。木の焼ける「パチパチ」という音がすく近くに聞こえる程だ。写真の美しさ的には、まったく価値の無いものだが、すごい体験をさせてもらったものである。
普通なら人だかりができるものだが、いたって平穏静かなものである。主要道路のちょっと上方が燃えているのである。消防車が来る様子もない。この季節の山火事は、この地域では日常茶飯事なのかもしれない。それはこの後、確信に至ることになる。
この写真は、ビデオから静止画に落としたものである。
先ほどの山火事を見てから、車を走らすこと数十分。これは別の場所での山火事である。なんと道路にまで火が迫っているではないか。しかも我々の通り道である。ハリウッドのスタント運転を私にやらせようと言うのか。(笑)
先ほどの道を通過してから撮影した写真がこれ。よく見ると、手前の地面が黒焦げである。木の焼ける「パチパチ」という音がすく近くに聞こえる程だ。写真の美しさ的には、まったく価値の無いものだが、すごい体験をさせてもらったものである。