Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

コロナ下のオリンピックに思うこと。

2021年07月22日 22時18分00秒 | 世間話
私は先の戦争中には生まれていないけれども、昨今のコロナ自粛の雰囲気を体感して、少し戦争中のとこがわかったような気がする。

日本は、我慢をする文化があると言っても良い。そして、私も彼も我慢しているんだから、あなたも我慢しなければならない。という全日本我慢選手権大会を半ば強いられる社会がそこにはある。

コロナだから自粛を。県をまたいで移動してはいけません。マスクを必ず着用。出かけないで。緊急事態宣言につき。ワクチンを!

これって、欲しがりません勝つまでは、と何が違うんだろうか。

共通しているのは、こういう状況で個人的な動きをすると、直ちにワガママだと批判されることである。
しかもコロナ自粛はもうまる2年の我慢を強いられているので、国民はピリピリしている。そのストレスは他人に向けられることになる。
  海開きで、他県の人(東京)が遊びにきているのをニュースでやってるのを見たが、あれも叩かれるのだろう。オリンピックの強行も叩かれる。バッハの発言も叩かれるし、小山田の過去のいじめ問題でも徹底的に叩かれる。しまいにはニュースキャスターが叩かれるのを恐れて、じぶんの幼少の頃のいじめのような経験を自ら暴露してしまう。西村の銀行に圧力をかけてもらう発言も叩かれ、ウガンダの選手が勝手に選手村を抜け出して難民申請するのも叩かれ、選手団がナンタラ式とかいう選手村からでないルールを破って国民と接触する行動も叩かれる。ワクチンを撃たない人間も叩かれる。

世界ではLGBTに異論があるハンガリーがEUに叩かれ、人種差別だのなんだので叩き続ける。

郷に入れば郷に従えという言葉があるが、バッハや選手団には通用しなかった。彼らは日本的社会をきちんと理解していたのならば、バッハは迎賓館で宴を催すことは空気を読んで事前に辞退しただろうし、選手団も選手村からは一歩も出ないだろう。

彼らには、欲しがりません勝つまでは、というスローガンは理解不能なのだろう。

そして我が国民は、戦争中のこのスローガンをコロナ下においても同様に全国民に強いている。

東日本大震災のときは、これを「絆」という言葉で表現したし、かつては「村八分」という言葉で表していた。そして今日「欲しがりません勝つまでは」というのが新たに付け加えられた。

良い悪いではなく、我々の国民性はこのようなところにあるということを知っておかねばなるまい。

俺たちは我慢をしているんだから、お前を我慢をしなければならない、という無言の空気や圧はこの国ではとてつもなくでかい。それが「世間」とか「世間体」「常識」と言われているものだ。

それから外れたものは、我々は徹底的につまはじきにするという癖があることを知っておく必要はある。

憲法改正、LGBT、差別問題、さまざまなことが声高に叫ばれているが、この世間というものの息苦しさについて問題視し、声高に改正を叫び運動をするものは、我が国にはほとんどいない。



陰謀論2

2021年06月06日 11時38分00秒 | 世間話
最近やたら陰謀論という言葉を目にする。
結論から先にいうと、人々が組織(国、メディアなど)からもたらされる情報について信じなくなってきたのだろう。理由は至極簡単である。そいつらはウソをつくという事が分かってきたから。

この事に目をつぶって、枝葉末節の議論をしても仕方ない。

さて陰謀論についてだが、事例には事欠かない。2001年世界貿易センタービルテロ事件。日航機123便墜落事故。ナチスのガス室など。

陰謀があったとする議論も、陰謀など荒唐無稽だとする議論も、第三者から見ると極端に見えるのには多分意味がある。これは上から目線で言っているのではない。冒頭に書いたように、「人々が組織からもたらされる情報に不信感を持っている」場合、情報をもたらす組織側と、もたらされる受け手との間に、ひとつの極端な傾向が現れるものである。それは、

自己正当化と利用されてなるものかという不信との間の対立である。

これは善意の自己正当化も含むし悪意も含む。同時に善意の不信と悪意の不信も含む。なにを善悪と定義するかはおいておく。
組織の自己正当化とは、あるいみ弁明であり、ある意味プロパガンダである。「陰謀論など荒唐無稽だ」と強く主張する背景としては、そんな作り話で我々組織が貶められてたまるか、という憤りの弁明である側面があることは認める。これを善意の正当化と呼ぶことにする。しかしながら組織は自己正当化をきらびやかに印象づけるために誇張した弁明を時に行う。それは弁明を聞いた側が、その物語を強烈に印象づけられるという目的の為だ。これは少々厄介な問題である。善意であれ悪意であれ、物語は注目されるために誇張される傾向がある。その効果を我々はプロパガンダと呼んでいるのだが、プロパガンダはなにも組織側だけにあるのではない。
陰謀論を唱える側が、しばしば「全部なかった」とか「一件もなかった」という主張をすることがある。揚げ足を取られることもしばしばあるこの主張だが、唱える側はそれもある程度は承知でやっているのかもしれない。
例えばある人が不当に貶められたとする。懲役1年の罪がそれこそ死刑に値する罪であると貶められたとする。冤罪ではなく、罪の軽重の問題だ。この者はどのように主張し戦うのだろうか?
①わたしは本来は懲役1年です!
②わたしは無実です!
という二つの戦い方があるが、一般に裁判という形式を取る場合、ほぼ全てが②の形式で戦うことになるだろう。
それは前述した「全部なかった」という陰謀論側の主張と構造的にはかわらないものである。これと似た構造は、交渉においても現れる。
いくらで売る?いくらで買う?
売り手「70万で売る」(落とし所は50だろうな)
買い手「30万でしか買えない」(落とし所は50くらだろうな)
いわゆる駆け引きである。

陰謀論側は、不当に貶められた認定された事実の汚名をそそぐために、可能な限りの減刑の論理を展開する。だから「全部なかった」という展開になりがち。

陰謀していることを疑われた組織側は、不当に貶められた疑惑をそそぐために、可能な限り相手の論理の荒唐無稽さを印象付ける論理を展開する。だから「無知の戯言」という展開になりがち。

言論に駆け引きが行われているのであるが、駆け引きが存在する理由は冒頭にも書いた不信感である。

不信感は売買交渉の例の時に書いたように、利益に直結する不信感もあるし、主張の信念や学問的態度の一貫性がゆらぐという名誉に関わるものもある。

世界貿易センタービルのテロを米国政府は事前に知っており黙殺した、とする陰謀論は、まさに国に対する国民の不信が反映している。
国側は冤罪か、あるいは自国の軽犯罪が不当に重罪として喧伝されることへの強い弁明として「そんなことは『まったく』ない」と反論する。これは陰謀論者に対する不信が反映している。

不信がある社会において、
ごめんなさい、の次に来るものは「許さん、どうしてくれる」であり、「なら賠償だ」だからである。

テレビなどで、昨今「日本のここがすごい」とか「日本は遅れている、もうダメだ」という言説。某国が「慰安婦がどーの」などの喧伝に対する我が国の反論。
「ヘイトスピーチだ」に対する、それは差別じゃない、酷いことをしてるから白い目で見られるのは当たり前とか。これらの枝葉末節な議論に通底することは、

他者に対する不信感。

不信感を不当に煽る勢力もあれば、過去からの不信の積み重ねで信用を失った勢力もいる。そのどちらも持っている勢力もいる。別に勢力で区切らずに、個人においてもおなじであろう。

契約書が分厚くなるのも、条約の文言に解釈の余地を大きく残すのも、約束に公正証書をまくのも、裁判が三審制であるのも、憲法が存在するのも、たぶん不信の成せる技なのだろう。

キリスト教は神を信じることと愛を説く。神にしてもひたすらの盲信を説き、不信は許されない。人々に不信を許さない教義をあえて人が作った理由は、これが争いを生むと思ったからなのか?
そして、その不信を利用して教団の利益に誘導した勢力が、結果として平和につながる方便を破壊したという事実。
宗教が怖いのか?はたまた人間が怖いのか?





麻生のバカ

2021年05月23日 02時00分00秒 | 世間話
1〜2分聴いたら嫌気がさした。
誰かこいつを黙らせて欲しいものである。自民党はもう一回下野したほうがいいんじゃないだろうか。

「義務教育は小学生まででよいのではないか?だれが微分積分や因数分解やサインコサンタンジェントなんか使う?」などと知性のかけらも無いことをよりにもよって政策を決めたり法律を作るものが軽々しく言うなんて。

どうせこういう浅はかな人の頭の中での「役に立つ」という言葉の意味は、働いて金を稼ぐ為に(役に立つ)とか、そういう意味だろう。

だとすると、およそ教養なんてものは役に立たない最たるものであろうし、学問においても地質学や植物学、言語学や歴史学、考古学や文学も役に立たない。

仕事をして金を稼いで税金を納めるだけのマシーンでも作りたいのか?このバカは。

そういう生活スタイルだけを求めるのにストレスがかかった世の中になってきたから、ゆとりをもった生活とか時間が自由になる働き方とか、カネよりも、自由や時間を欲する国民が多くなってきたのではないのか?
つまりは政治家の怠慢である。生きづらい社会をつくっておいて、それで良いとか言ってるだけにとどまらず、生きづらい社会をもっと加速させようとする言説を吐く。猛省を促したい。

物事を役に立つと役に立たないと分ける行為そのものが、人間を不自由にしていることを自覚していない。

役に立とうが立つまいが、人間が情熱を燃やせるものであれば、それが仮に経済に寄与しようがしなかろうが、その人間にとってはリアルな現実であり、リアルな充実である。
麻生や私自身が微分積分を使わなかったとしても、それに興味があるであろう人が存在しうる以上、その選択肢をいたずらを奪うのはよろしくない。
しかも麻生は、やりたいやつがやればいい、やりたくなければやらなくてもよい、とか教育を受ける者の自由意志を尊重しているようだ。そういうのはそもそも教育ではない。自分の意思に従い行う勉強というのは教育ではなく学びである。麻生は教育と学びをごっちゃにしているのだ。

しかも義務教育についての誤解もありそうだ。義務教育とは、親がこどもに教育を受けさせる義務がある、ということである。つまり子供の気づきの機会を親がいたずらに奪うなというものである。

  勉強を子供の判断に委ねるのであれば、「何で掛け算なんか学ばなきゃいけないんだ?」という大人になったら抱かないであろう疑問を、子供は未熟であるがゆえに抱いてしまう。このことをどのように考えているのだろうか。

  食べ物の好き嫌いをこどもの判断に委ねるのであれば、偏った食べ物しか食べなくなるリスクがある。色々な味の経験をした上で、それでも嫌いというのならともかく、未熟なものの判断に委ねるようないけんを垂れ流すこの男の言説は信用できない。

  別に微分積分だろうが、漢文だろうが、文学だろうが、ただの例に過ぎないんだろうが、学問に対する無理解と無知がそういう意見を垂れ流させるのだろう。
  こういう人間は、たとえばピカソの絵とか、芸術分野のような、自分の理解が及ばない事柄に対しても、臆面もなく意味がないとか、役に立たないとかいうのだろう。自分の知識不足や経験不足を「意味がない」と切り捨てていることとほぼ同義であり、自分の知らないことについて実は深遠なものがあるのではないか?というリスペクトが微塵もない。なんと傲慢なことか。

  あるいは教育というものを舐めている証左であろう。ここをこう変えれば、教育はもっと良くなるというように、単純に物事を考えているんだろう。まるで故障した箇所を直せば、機械は元通りに動くというように、、、単純に、、、。

 教育というのはどこまでも「押し付け」である以上、学びとは一線を画しているし、であるからこそ慎重に考えなければならないことだ。麻生のように軽々しく、こんなものはこうしたらいいんですよ、と軽薄に答えられる類のものではない。

  すると現代の人は、すぐ
じゃあどうすればいいんですか?

と問う。その問い自体も軽薄なのだ。
どうしたら社会は良くなりますか?とか
どうしたら戦争がなくなりますか?という問いも、みんな軽薄な質問なのである。
役に立つものはなんですか?という質問と同類なのである。
  世の中には言葉で説明してわかるという事柄は意外と範囲が狭いのである。「大人になればわかる」という言葉の意味するものは、そういうことだろう。字句どおりに成人すれば分かるということを指しているのではない。「子供の心を忘れてしまった大人」という言葉の意味するも同様だ。
だが人は言葉で説明すればわかると思い込んでいるフシがある。



記事は「見出しで判断するとエラいことになる」

2021年02月11日 23時08分00秒 | 世間話

森喜朗の発言のおおよその内容と、釈明会見での記者とのやりとりを↑の記事で読んでみた。
読んだ後の感想だが、テレビで森を叩いた報道姿勢とこの全文のやり取りを私なりに比較してみたらテレビが如何に大袈裟に物事を捉え、それを拡散し、その後の森叩きが如何に執拗なのかと気付かされた。

森の↑の全文を読んでみると、彼は言葉を慎重には選ばない話し手であるということがすぐにわかる。悪い言い方をすると、言葉をテキトーに使っているとも言えるわけで、揚げ足を容易に取れる話し方である。

かつて森は、日本は神の国という発言をして叩かれた。なんでこの発言が叩かれたのか私は今でもわからない。この発言を問題だとして叩いたマスコミはなんで神の国が問題発言だったのかを当時は報道したのかもしれないが、私はそれを覚えていない。


さて、森の発言から森の考えていることを推測すると、だいたいにおいて以下のようなことがわかるとおもう。
①山下は頑張っているが、これから大変である。
②理事会での会議をまとめるのは容易ではないので森から山下へ助言をした。
③女性は会議が長くなるから、時間を決めて議論しないとまとめるのが難しい。
④とはいえ女性は優秀である。わたしも話は長いと付け加える。
⑤タレントの聖火ランナーにはファンが集まるのはいいが、現行のコロナ下ではいろんな問題が出かねないから慎重に色々と決めていかなければならない。
⑥①〜⑤までの様々な問題があるので、山下さんは大変だ。是非頑張って欲しい。

おまけ  橋本や竹田元会長も頑張っておられたという擁護。NHKのかつて叩かれた籾井会長も頑張っていると擁護。

つまり森の意図は、コロナ禍においてオリンピックの準備をするのは困難が多く、それを竹田元会長に代わって行うのは大変である。それはマスコミの攻撃を受けないようにということもあるし、国民のオリンピック開催への不安による反対の攻撃を受けないようにということもあるが、そういう対外的なことだけではなく、理事会での議論や決め事なども、無限に時間があるわけではないから、それらの取りまとめの指揮を携わることも大変だと説く。さらにタレントの聖火ランナー起用でファンが詰めかけてコロナ禍に拍車がかかることなども懸念して、大変であることと、一生懸命取り組んでいる方々を労う発言は随所に見られる。
そして、竹田、籾井、橋本はすべてテレビに不祥事のあった人として報じられているが、森はその人たちの名前を出して尽力していることをあえて発言し、かれらの不祥事は本当は不祥事ではなかったと擁護したい意図を感じる。

そういえばロンドンブーツの田村が「田んぼを走ればいい」という発言を受けてか、あるいは森の「女の話は長い」発言をうけて、聖火ランナーを辞退したそうだが、↑の本文を読めば、田んぼを走るという意図は、ファンが詰めかけてコロナ感染を避けるための案をださなければならないという主張として普通は読める。しかし当の本人の田村淳はたぶんこの↑の全文を読んでいなかったのだろう。芸能人は人気商売でファンもあつまるから田んぼをはしれ(田舎を走って人集めしろ)というように解釈したのだろう。

報道という言葉を扱うプロが、発言の行間を読むことなく、その話し手の意図を読み解くのでもなく、まるで言葉狩りのように、あるフレーズが出たからアウトな発言とか、けしからんとか、好意的に見ても頭が悪いとしか思えない。悪意的にみるなら、人を陥れるためにやってるとしか思えない。


私は今の自民党は大嫌いだし、次の選挙で負ければいいと思っているし、森はどちらかと言うと嫌いな政治家ではあるが、彼の発言を意図的に曲解して貶めるという卑怯なやり方はしたくない。
自分の見たいものだけをみたければ、彼を叩くのに便乗すればいいが、さすがに全文を読んでみたら、テレビの解釈のほうが極端でおかしいということに気がついた。



仮想通貨とやら

2021年01月06日 13時13分00秒 | 世間話
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN04AHH0U1A100C2000000

ビットコインに代表される仮想通貨の価値が上がったニュースやネットに取り沙汰されている。正確には仮想通貨の価値を上げようとネットで散々取り上げている勢力がいて、それに乗せられている人がいる。
  このニュースはその価値が暴落したものだが、当然と言えば当然の帰結だろう。

  これは株式の仕手のやり口とおなじであろう。投機商品にはいつもこの手のものがつきまとってくる。

  結論から先にいえば、仮想通貨という通貨システムは膨大なエネルギーの消費の上に成り立っているシステムである。考えられないほどの大量の電気と熱によって成り立っているこのシステムが保つはずがないというのが私の意見だ。以下に仮想通貨のマイニングにおける資源浪費について説明しよう。

  仮想通貨にはマイニングというものがあり、それはコンピュータによって仮想通貨の取引などを絶え間なく演算しつづけるために行わなければならないものだ。詳しい説明は割愛するが、コンピュータがある難しい演算を解くことによって、仮想通貨による報酬が貰える。これがマイニングによる仮想通貨の「掘る」という行為である。
マイニングをするコンピュータは基本マイニング専用機であり、他の用途には転用できない。消費電力はモノにもよるが、だいたい一台あたり1600wくらいのものが多い。電子レンジやドライヤーやアイロンが1000w位であることを考えると消費電力は高いことがわかるだろう。
  仮想通貨を掘るための演算には難易度があって、これは時が進むごとに上がっていく。つまり今日よりも来月のほうが基本は難しくなる。マシンが変わらなければ難易度が時とともに上がっていく以上、演算による報酬は下がっていく。報酬をあげるにはマシンの性能を上げるために、あらたにマイニングのコンピュータを買わなければならない。そして良い性能のコンピュータの消費電力は基本は高い。

とある仮想通貨の話だが、150台のマシンを24時間365日やすまずにマイニングさせたおおまかなデータを以下に記す。

150台×650w/h 
開始当初の収入  約700万円
開始当初の電気代  約150万円

半年後

収入 約180万
電気代150万

工事費などやメンテ費は除く。コンピュータ一台の値段が仮に30万だとして150台で4500万である。開始当初の収支が700-150で550万だとして、半年後は180-150の30万とする。演算の難易度は時とともに上がることを前提とすると、初期投資を回収できないことになる。

こういうことはマイニングではザラにあることである。

さて問題です。仮想通貨は誰にとって得なのでしょうか? 為替で売り買いする人?マイニングする人? 

答えは、マイニングの機械を作っている業者(cpuを作っている会社も含む)、その電気代を徴収する電力会社、そしてマイニングの仕掛け屋であろう。
株式では、非公開株を上場するという触れ込みで資金を集めるということをよくやる。この儲け話に人は飛びつくが、仕掛け人のほうがもっと儲かるし、その株式を発行する会社も儲かる。仮想通貨でもそれがあって、仮想通貨は取引所で取引されるために格上げされるひつようがあるのだが、それは株式と同じような非公開株が上場するようなものだ。
  一時期ガクトコインという仮想通貨が、それをやって資金集めの儲け話としてガクトをつかって大々的にやっていた。あの通貨はたしか取引所にはあがらなかったか(そういう詐欺もある)、もしくはあがったとしても通貨がカスみたいな値段で、結局は投機した人が大損をしたという結末だったが、そういうことで儲ける勢力もいるのである。

ちなみに仮想通貨やマイニングの機器などは、中国がかなりのシェアを持っている。アメリカも持っているらしいが、中国のシェアの方が上である。さて、金はどこに流れ込んでいるかお分かりだろうか?

さらに中国では、自国内に仮想通貨の取引所は存在しない。つまり自国のなかでは仮想通貨は流通させていない。にもかかわらず、中国国内には仮想通貨のマイニングの工場は数多ある。電気代がどこの国に落ちるのかお分かりだろうか?

150台のマイニングの機械の電気代が月180万ほどもするという事実。そしてその電気を作るために火力発電をうごかす。こんな通貨決済システムを動かすために、膨大なエネルギーと熱を放出しているわけである。

通貨とは決済システムである。お札を刷って市場に流通させる、電子通貨にして市場に流通させる(◯◯payとかいうアレ)、仮想通貨にして流通させる。全部決済システムだが、それにしては仮想通貨はその流通を維持させるためにエネルギーを使いすぎるではないか。構造としてはもたないものが、宣伝では仮想通貨ビットコインはこれから15倍に上がる!とか平気で書いている。ウソつけ!PCメーカーと仕手筋と電気会社が国民一人一人から金を掠り取ろうという魂胆が見え見えである。
あぁ、そういえば太陽光賦課金ということで、国民全員からお金を吸い取って、メガソーラーとかの買取42円とかやって、ソフトバンクが儲けた話があったが、あんな構図とよく似てるよなー。ちなみに今東京電力では1000wの値段は約24円です。それを42円で15年も買い取らせるという政策を打ち出したのは時の政府です(民主党菅内閣)

皆さま、資本家に搾取されないように気をつけましょう。









AEROWATCH

2020年11月09日 19時09分00秒 | 世間話
写真の懐中時計は蓋が両開きのスケルトン。メーカーはスイスのエアロウォッチ社のものである。現在国内で買うと定価では37万円するとか。現地の価格では2220スイスフラン(27万円)だそうである。
こんな高級な懐中時計をなぜ私が所有しているのかといえば、この時計は買った当時は6万円だったからだ。
おそらく2002年ごろと思われる。スイスのチューリヒかインタラーケンで購入。あの頃からは価格が4倍以上になったわけである。

シェイクスピアの4大悲劇の一つ オセロー

2020年10月12日 13時44分00秒 | 世間話
ボードゲームのオセロの名前の元となったシェイクスピアの文学作品オセロー。
私、不惑の歳をこえてからも、これまでシェイクスピアの名作を読んでこなかった。
「まるでロミオとジュリエットだな」というように、ある出来事を名作に喩えて会話をすることがあるが、実はそのロミオとジュリエットすら読んでいない。ドラマやアニメなどで引用されたり、パロディに使われたりしているので、我々は実際に読んでもいない作品についても、なんとなく話の筋が分かっていて、しまいには会話の喩えにまで使ってしまうほどである。
つまり、よく知らないモノを喩えに使って話をしているワケで、これは内容の無い会話をしているのと本質的には同じである。

ところで文学というのは一般的には芸術と同じように「高尚」ということにされている。
これも先ほどの「読んでもいないのに」という話と同じく、よくわからないが難解でとっつきにくいモノという曖昧なイメージの会話であり、その後に続く言葉は「私には難しいからよくわからない」と敬遠するための方便として使われる。つまり、文学は高尚で...と話しをする人は、社交辞令で興味のない話を敬遠しているというワケである。なので、いかに文学が高尚なのかをその相手に語ったところで、それは野暮というものだである。相手はそういうことを期待しているわけではない。

空気を読むというのはなかなか難しい。我々は時々、相手の言う言葉をまに受けてしまって、そのセリフの真意を測りそこなって、迷惑な長広舌を披露してたりする。

他人と会話をする時は、言葉と空気の双方を読まねばならぬが、自分の内なる心と対話をするときはどうだろう?
やはり同様に字義通りの解釈と空気はあるだろう。やりたくないモノについては高尚という言葉で片付けて逃げるということも自分自身はしたりする。悪くすると、あんなものは、と蔑んだりして逃げる。
  共通しているのはどちらも、たいしてやってみないのに、というものだ。よしんばやってみたとしても、自分には合わないとか理解できないという対象に対してはそれをする。
  ブランドモノで着飾った人を見て、あんなモノ!、ということはできるが、やってみたとしてもその意見が変わらなかったとして、そこで言う「あんなモノ」というセリフにはいったいどういう意味があるのか?
  ブランドモノは人気がある。私には全く興味がないとしても、それに興味を持つ人々は大勢いる。つまりブランドには一般的には価値があることは認めなければならない。私が認めなかろうが一般的にはその価値は存在するのである。単に私が「あんなモノ」と断じて無理解なだけにすぎない。

つまり「高尚」という言葉と「あんなモノ」という言葉に潜む意味は、空気を読む意味において、本質的には同じことを言っている。ただ、違う点があるとすれば字義であり、かたや無理解なものに対して「高尚」とまつり上げ、かたや「あんなモノ」と貶める。
どちらが大人の対応かは火を見るよりも明らかである。
なので他人に興味のない話題について、その人が「それは高尚だからちょっとぉ、、、」という人というのは大人である。自分の理解しえぬことも一般には価値があるということを知っており、それでかつそれを肯定的に認めるゆえに、高尚と言ってくれているのである。
私も知らないことに出会ったときに、そのような対応ができる大人ではありたい。全然できてませんけど。。。


さて、高尚ついでにもう一つ。
現代の小説と古典の名作があったとして、後者は高尚とよく言われるが、前者はなかなかその恩恵に与れない。それはまるで、今売上を上げている商店と、老舗の商店のようですらある。不朽の名作というが、不朽とは歳月をかけた結果として朽ちてないものを指す言葉なので、やはり時を超えても一般的な広く受け入れられるようなモノは、高尚という称号を受けやすいということだろう。

逆説的に考えるなら、失敗のないようなものを買おうと思ったら、老舗の店にいけばよい。失敗のない本を借りようと思えば古典を借りればよい、となる。
ただしそれは無難な、消極的態度とも言える。現代に売れている、あるいは流行っているモノは将来において高尚という称号を受けるかもしれないし、受けないとしてもその時その時点において、買い手に最高の喜びを与えるならば、それは無難である商品の選び方と比べれば、はるかに喜びは大きいものである。
  従って「高尚」という言葉に潜む意味というのものは、不朽ではあるが無難であり、それがすなわち自分にとって最大の喜びを与えてくれるものとは保証できないモノとも言える。

ただし「高尚」という称号を賜ったモノは、それが文学であれ、ブランドモノであれ、それが「高尚とされている事実によって」またはそれが「ブランドとされている事実によって」価値が高いという極めて逆説的な意味も持っている。
  つまり、ブランドモノはブランドだからいいモノというイメージ。高尚なものは高尚だからいいモノというイメージである。
   これは冒頭に書いたように、読んでもいないのに。とか、買ってもいないのに。持ってもいないのに。とかの話と同じである。そう、読んでもなく、持ってもいないにも関わらず、その高尚とかブランドという言葉がイメージとして燦然と輝き、それだけで価値になるという錯覚である。
  この錯覚は結構重要なのだ。なぜならシェイクスピアに話は戻るが、シェイクスピアはもはやブランドと同じ高尚なモノと一般的には認識されている。つまり、シェイクスピアの作品といわれるだけで価値が高いと錯覚している。
  この錯覚を持っている人が、いまだシェイクスピアの4大悲劇全てを読破していないとしよう。高尚でありたいと願う(錯覚する)私は、なぜかは知らねどシェイクスピアの4大悲劇を「読まなければ」という気にさせてくれるのである。
  つまり、錯覚によって能動的態度を私に取らせてくれているわけだ。この効能は認めなければならない。

冒頭で私は「高尚」という言葉は空気であり、そしていま錯覚ともかいた。しかし、錯覚によって私に能動的態度を取らせたことは現実である。
空虚な言葉や錯覚から、能動的行動という現実につながる奇妙。「称号」というものはそういう力のあるものだったりもする。

長い前置きだった。ここまでオセローのことは一言を触れていない。

もうご存知のように、オセローをどう読むか、どういう感想を持つかというのは、もはや共通したものはない。しかし、共通する錯覚は持ちたいという気持ちがある。それが優れた評論というものなのかもしれない。

ここまで書いておいて、私はオセローの評論はせずに筆を置くのであった。

おわり

アマゾンプライム会員に勝手に登録されていた。

2020年07月01日 14時14分00秒 | 世間話
これで2度目の誤認登録である。
1回目の入会に気付いたのは、クレジットカードの明細をチェックしていた時のこと。この時は2ヶ月も支払っており、1ヶ月分は返金されたので、500円の損失だったが、「まあ仕方ないか」と請求はしなかった。今思えば、この時キッチリと請求しておくべきだった。
2回目は、2日前にアマゾンを通じて図鑑を買ったのだが、本日メールをチェックしていたら、アマゾンプライム会員入会ありがとうございますとか、訳の分からんメールが届いていたことで気付いた。

1回目のミス?があったので、アマゾンで買うときには、誤ってプライム会員に登録しないように気を付けて購入処理をしてたのだが、なんでまた入会してたんだろうと訝しむ。
初回はともかく2回目であるから、これは私の不注意とはもはや思えなくなった。まさか勝手に入会させられているのではあるまいな?という疑問が湧く。
そしてネットで同じような症状の人がいるか調べてみると、、、、、、いるいる。
検索ワードに「勝手に入会」というものがあるくらいだ。

で、真相というと、


これである。ここでみぎの「次に進む」を押すと、めでたくプライム会員に入会である。なんだそりゃ?
『次に進む(登録する)』というボタンがアマゾンプライム会員入会のボタンのようで、入会せずに購入手続きにすすむには、画面中央下にある青いリンク先である「アマゾンプライムに登録しない」というボタンを押さないといけないらしい。

こんなの騙す気満々ですやん。

アマゾンドットコムにおける文法では、黄色いボタンというのは、購入手続きの「次に進む」「確定」「カートに入れる」などの一連の手続きをスムースに示唆するためのインターフェースである「はず」である。
それが「次に進む(登録する)」などという手続きのボタンのように思わせる文面で、プライム会員にさせてしまうという悪辣なことをするとは。。

これがいかに悪辣なのかは、もう一度上の画像全体を見て欲しい。
「今すぐプライムに登録すると云々、、」
という文章の後に、次に進む(登録する)というボタンがある訳だ。つまり、「アマゾン側では全然騙していませんよ。そのように誤読するあなたに問題があるんじゃありませんか?」というアマゾン側の対抗弁論が、この画像からすでに読み取れるわけである。(ただし事後だが。その事後であることもアマゾンの狙いなんだろう)
おそらく私の主張するようなクレームや場合によっては訴訟などを、アマゾンはかなり受けているのではないかと思われる。それに対するアマゾン側の対応が、プライムの特典を使わなければ、返金に応じるという対応でもあり、または、、ここで私が妄想した「あなたの誤読では?」という対抗手段である。

私としては、会員にならずに購入手続きに進むボタンが、青いリンク先のコレであるという時点でギルティである。黄色ボタンがプライム会員登録というのは悪意がある。そして、それを指摘された場合には、上の画面全体を見たときに、アマゾン側の主張、すなわち「いや、これは購入手続きではなくて、あくまでアマゾンプライム会員の登録の是非を聞いているだけの画面ですよ」という主張にも、一応矛盾しないような作りになっていることである。そういう作りになっているそのことことそが悪辣なのである。

なぜなら、「返金に応じる」、「そういう作りになっている」、という点はつまり、
気付かないでずーっと月額500円を払い続ける人に対してアマゾン側は、「意図的に」注意を喚起しないわけである。
つまりそのような「誤解に基づく登録」における支払いに対して、アマゾンは大した注意喚起をしないどころか、(気付けば)返金に応じるという行為をすることによって、気付かなければその支払いは喜んで受け取るというわけであるからだ。

老人は支払い続ける。必ず支払い続ける。なぜなら、確実にプライム会員に知らないうちに入会させられ、クレジットカード明細やメールをきちんとチェックしない限りは毎月500円を知らず知らずに吸い取られていくからだ。
しかもこの月500円というのが絶妙な金額で、手続きの面倒くささを考えれば、「まあ500円なら仕方がないか」などと思わせることが出来るギリギリの金額が500円という額である。私が冒頭に仕方がないか、と500円諦めたのはまさにこれである。老人なら手間の面倒さを考えればなおさらのことであろう。

そして、このアマゾンプライム会員の解約だが、解約のためには、解約のボタンをなんと3回も押さないといけないのである。
ボタンを1回、あるいは2回目を押しただけで、ブラウザを閉じてしまう人もいるのではないか?

結論だが、一体アマゾンは何を売っているのだろうか?
この件からわかることは、
アマゾンにとっては「誤解」というものも商品なのだ。しかも気付かなければ、それは月額500円の商品なのである。
こんな誤解を解こうとしないということは、それはもう嘘をついているということと同義である。

携帯電話会社も、老人にタブレットをタダと称して契約させ、通信料の月額5000ナニガシの金額をボッタくるという手法とするが、あれと同じような構図である。
誤解を商品にしてやがる。ネットにおいては誤解はいまや商品だ。それが世界的にトップ企業であるアマゾンもそうなのだから、アマゾンという会社はやはりロクなものではないし、人間の悪意というのはある意味底知れぬものがある。



BLACK LIVES MATTER に対する諸々のはんのうについて

2020年06月08日 14時07分00秒 | 世間話
https://news.yahoo.co.jp/byline/daisukekawasaki/20200607-00182173/

スマホアプリの「スマートニュース」からの記事である。最近、スマートニュースを読んでいて感じるのは、記事の一つ一つの文面が長文になっていることが多い。

コロナによる緊急事態宣言以降にこの傾向は顕著な気がする。私も政府に対して、国民に対する補助がシブチンなこともあり、同様に長文で感情をまくし立てた。なのでこの傾向も同じことなのだろう。つまり必死というか一生懸命、または感情的になっているのである。

著者はこういう。
【「差別はやめましょう」と諭して仲裁するような運動――では「まったく」ない。】と。
同時にこうも言う【これは「怒りの」運動だからだ。不正義を正すための「戦い」だからだ。】

言わんとしていることはわかる。この事件を、いつもニュースで流れるようなお題目的な「かわいそう」「ひどい」という事で片付けたくはないのだろう。つまりここに一生懸命さが現れていることはよく分かる。

そして「この問題は対岸の火事ではない」といういつものお題目が出てくる。人類皆兄弟、日本人だから関係ないという態度は許されないというような強い主張がついている。無言でいることは「人の尊厳に対する根源的冒涜行為を容認する」ことになると主張している。

言いたいことはわかる。それだけ必死なのだろう。自分の近しい対象に対する冒涜があった場合には、私もこれと同様のことを言うかもしれない。著者にとっては黒人問題は、人類の普遍的な人権に対する冒涜行為と捉え、他人事ではなくて明日は我が身、もしくはこれに賛同しないものは不正義だと言わんばかりである。必死さゆえの感情的な意見の吐露である。

その感情は尊重できなくはないが、この感情が「同一の意見をもて!」という強制力を伴った物言いになったときには、注意が必要である。

不正義を見過ごすものは不正義だ。だから正義の言動をしなければならない。

著者の主張はかならずしもこうではないだろうが、こういう解釈の余地が強い表現をとっている。おそらくは感情的になっているからであろうが。
これの何が問題かといえば、著者はたぶん気づいていないのかもしれないが、どんなに善意から発生した意見であっても、「同一の意見をもて!」とやった瞬間に、そこに悪が入り込むのである。
善とか悪とかはただの言葉である。善悪論争で問題になるのは、いつも「同一の意見をもて!」という事を、善悪両陣営が行なっているからだろう。

別にこれをやめろとは言わない。なぜなら自分の最も大切な家族や自分自身が冒涜的立場に置かれて隷属を余儀なくされた場合には、「自分は今の境遇から解放されるべきだ」という強い意志を、まわりに同調させようとするはずだから。その点において、「同一の意見をもて!」という正義を自分は持つ事になり、従って著者の意見を完全には排除はできないのである。

問題は、どこまでを一人称、二人称としての問題と捉えるかである。
一人称や二人称の「虐げられた」という感覚は、私にとっては大事件である。私が虐げられたのは勿論として、(私にとっての)あなた、君という近しい存在が虐げられることは大事件なのである。

やばい論理展開を私が今やっていることは自覚している。この主張は、私の意図とは違った解釈を他人に与える危険性があることは承知しているが、一応最後まで述べさせてほしい。

さて、これが三人称、つまり彼、彼らになるとどうだろう?地球の裏側で、報道されることもなく、知らされることもなく起こる虐げられた事件については、我々は知らなかったりもしている。

つまり、ここで私がいう二人称と三人称というものの違いは、どれだけ親しい間柄かということも言っているが、同時に、どれだけ世界で起こっている情報を知っているか、そしてそれを知った時にどの程度二人称のような気持ちになることが出来るか?
ということである。

両親の死と知人の死と赤の他人の死とでは、自分に与える影響は異なる。これは理屈ではなく感覚である。本当は世界のどの人たちとの間でも、二人称の気持ち(つまり両親を失った時のような気持ち)になれたら素晴らしいとは思う。そういう気持ちをもっても損をしない社会が世界に広がっていれば、そうなりたいとかなりの割合の人が思っているだろう。

記事はこのように続く

~ひとまず、前編はここまでだ。後編にて「制度的人種主義」の本質および、いかに日本が「ある種のレイシズム」の総本山であるのか、解説してみたい。】

論法構成は以下の通り。

●黒人差別の事件があった。
●これを差別で片付けてはいけない。これは人の根源的冒涜行為の問題
●他人事は不正義。同じ意見をもて!
後編の予測
●制度的人種主義はナショナリズム。
●日本が「ある種の」レイシズムの総本山

この論法はどうも眉唾だ。
この論法をみると、今回の黒人の事件をきっかけにして、最後の「日本がある種のレイシズムの総本山」という主張こそが著者の主張の中心ではないか?と疑いたくなってくるのだ。

著者の記事を好意的に解釈するのであれば、かれは世界の人々全てを二人称のように考えていることになる。この前提から出発するのであれば、彼の怒りはわかるし、かれが「同一の考えをもて!」というような気持ちを押し付けるのも無理はないと思う。

しかしだとすれば、著者はこの社会では生きていけないだろう。この世の不公正を被る人間を、二人称で考えていたら、経済活動などそもそも罪深くて行うことはできないだろう。先進国は他の発展途上国を経済的には割合の違いはあるが利得を貪っているきらいがある。差別で片付けることなく、そこまで問題を拡大するなら、そう断じざるを得ない。


「同一の意見をもて!」
このイデオロギーによって、どれだけの血が流されたのか。

勿論、今回のアメリカで起こった出来事は、我々にはある問題を突きつけたことは確かである。そういう意味では対岸の火事ではない。しかしその問題の感じ方は、人によって大きく異なる。人によっては重く、深く受け止めるだろうし、場合によっては世界の見え方が変わってしまうということもあるだろう。
しかし、理屈でもって
これが正しいから、同一の意見をもて!とやると、その切実な願いはとたんに、いつものイデオロギーに落ち込むのである。



人のふり見て我がふり直せ。
というところかもしれない。








罪と罰 読了

2020年05月31日 05時33分00秒 | 世間話
泣いた。読んでて泣いてしまった。人間は清濁が常に人格の中に同居し、濁の人間のおぞましい悪性が描かれるが、同時に清の人間の神性も描かれている。人間の悪性を暴露した話というのは、現在ではうんざりするほどあらゆる物語の中で取り上げられる。いわばお腹いっぱいのニヒリズムである。しかし、そんな人間にも考えられないような清い美しい行いをするという「希望」もこの作品は読み手に信じさせてしまう。いわゆるファンタジーとも言える内容を含んだ作品だ。

だめだ。どたいこの作品を言葉で説明したところで、表現しきれるものではない。

ただ、この作品は後世の様々な作品に影響を与えた事は確かである。
まったく順序は逆なのだが、この作品を読んでいてデスノートを思い出した。デスノートの原作者は、この罪と罰という作品を必ず読んでいるハズである。デスノートにおける主人公の思想や考え方、または苦悩などは、この罪と罰という作品の濃いエッセンスをかなり薄めたものとして読める。少年漫画だからしかたがない。罪と罰を薄めずにそのまんま漫画で少年雑誌に乗せることはまあ無理である。

次に、やはり夏目漱石や芥川龍之介などの明治の文豪の筆致のような暗い影を落とす作品のにおいが至る所でするのである。もちろんドストエフスキーがそれらに影響されたわけではなく、漱石や芥川のほうが影響されたほうだろうが。。。

あとはロシア人という民族性をこの物語から伺い知ることが出来る。ドイツ人が書いた魔の山、またはファウストなどの登場人物たちと、ドストエフスキーの登場人物、世界観はかなり異なったものである。ただし19世紀の共通したにおいというものはあり、共通点も多い。それは漱石の作品にも同じものを感じることができ、19世紀という世界がどういうものであったかを垣間見ることはできる。

あとは前回も書いたが、やはり理性と身体の問題。
そして裏切りという「罪」と、殺人という刑法上の犯「罪」の違い。
良心の呵責による「罰」と、法律によって裁かれるという「罰」の違い。
そしてその異なる罪と異なる罰における贖い方の違い。すなわち悔恨・更正なのか禁錮・拘束なのか。

このあたりにくると、神の摂理である自然法と人間の作った(人間社会の自由を制限・調整する)法律という異なるルールというテーマもこの作品に見いだすこともできることになり、いわゆるホッブス、ロック、ルソーなどの近代国家思想の話としての解釈も可能になる。

そうなると、クラシックロマン派作曲家のワーグナーの作品「タンホイザー」におけるテーマとの近似性も現れてくる。彼のこの作品が1840年代に書かれたことをみると、やはりドストエフスキーの時代とほぼ同じではないか。そして、かたやドイツ。かたやロシアである。

そして、この罪と罰の時代のロシアでのドイツ語というものの位置付け。作品の中に、やたらドイツ人、ユダヤ人、そしてドイツ語などがでてくるが、なぜこの時代のペテルブルクの人の中に「ドイツ」というものがでてくるのか、ということについてはこの時代の歴史背景をしらねば深くは理解できないという仕組みにもなっている。
(そもそも皇帝エカテリーナはドイツ人であることや、ペテルブルクという都の名前がドイツ語読みであることを知らなければ、このあたりの事情については気づかないだろう)

あとはこのような貧民街での娼婦という世界。これは現在のインドなどで似たような光景を目撃することができるだろう。インドに貧乏旅行したバックパッカーの旅行記などをみると、この罪と罰における貧民街と娼婦の住居などは、とても近しい雰囲気を感じるからだ。

この作品には、ひとりあきらかに1人だけ濁をもっておらず、清のみしかもたないというファンタジーな女性が出てくるのだが、こういう人間が実在していて欲しいという希望が感じられる。このようなキャラクターは、ヘタをすると作品そのもののリアリティを壊し、ファンタジーをして読者に「嘘だこんなの」と思わせることになり、結果作品をダメにしてしまうという危うさがあるが、この作品はその塩梅が極めてうまく、ギリギリのところで成立させていると思う。
ただ、一番のリアリティをもっているのはやはり主人公であり、上記したファンタジーの女を本物とすれば、主人公の行いは偽物だが本物に限りなく近い。この主人公もややファンタジー的な側面があるが、我々凡人が目指すことができる最高の到達点はおそらく主人公クラスにおける善性だろう。女性ほうのクラスはもはや神である。この作品の唯一人間くさくない人物である。(つまり、やや嘘だ!こんなやつぁいないと感じさせてしまうものがある)

そういう意味では、罪と罰という作品は
リアリティ文学というよりは、ややファンタジー寄りである。これはもちろん褒め言葉である。


ドストエフスキー 罪と罰

2020年05月30日 00時56分00秒 | 世間話
図書館が再開したので、さっそく本を借りる。今回は文学of文学、ドストエフスキーの罪と罰。上下巻で結構分厚い。
今日、上巻を一気に読み終えてしまったのだが、これは読みやすい。トマスマンの魔の山もこれと同じかこれより分厚い本だったが、あれは正直きつかった。
今回の罪と罰は、訳者の工藤誠一郎もうまかったのだろう。とても素晴らしい翻訳だとおもう。とはいえ、まだ上巻までしか読んでない。が、半分読んだだけでもこの作品は名作だと分かる。ドストエフスキーは人間のこころというものを実によく知っている。主人公の心理描写や、その他の大勢の人々の心理がことごとくリアルであり、同時に清い。自分もこういう人物でありたい、という希望を作品の登場人物に見出してしまう。どんな終わり方を迎えるかはわからないが、ひとついえることは、この本はどういう内容か?と問われた時に、説明するのが不可能だということだ。
様々な読み方ができる。ただ予感として感じる1つのテーマとしては、「頭(意識)で考えた事などは、行動で体験・経験に比べれば、はるかに矮小であり独善である」ということである。
この作品は、身体というものをかなり重視していることは読んでいてわかる。主人公は頭脳明晰ではあるが、身体はまるでダメである。しかし身体を通じて、主人公は思考では得られなかった数々の経験をつみ、人格が変わる。教養小説の極みである。

ザリガニ取り

2020年05月25日 12時59分00秒 | 世間話
子供が市役所の裏にある広場に行ったら、なんと家族連れが沢山いた。うちの県は特別警戒都道府県だが、さすがにみんな自粛に疲れているのだろう。特に子供などは自然な生き物なので、表に出て飛び回らないと心身ともに不健康になり弊害もでるだろう。
広場の池でたむろしてる人達がなにをしてるのかというと、手製の竿を使ったザリガニ釣りである。写真はその釣果だ。

子供はザリガニを飼育したいらしく、ザリガニは何を食べるの?と質問してくる。私が子供の頃は、ザリガニを釣るのにザリガニの身を使ってたので、ザリガニが何を食べるのかということについては共食い以外に知らないのにハタと気がついた。
ネットで調べると雑食のようで、煮干し、魚の切り身、イトミミズなどの動物性のものから、レタス、ほうれん草、水草までの植物性まで幅広くエサにすることができるそうだ。

子供はザリガニを、池の水をいれた2リットルのペットボトルの口を切った容器に入れて持ち帰ってきた。早速バケツに移し替えたが水量が足りない。そこですこし水を足すことにして水道水を足したが、、、、

あれ?水道水って消毒してたが大丈夫か?という基本的なことに水を足してから気がついた。


早速ネットで調べたら、カルキ抜きをしてない水道水ではザリガニは死ぬと書かれていて狼狽した。カルキ抜きはバケツの水を日光の下に5時間ほど晒してやると抜けるようだが、そのまえに死んでしまうかもしれない。そこで広場の池に逆戻りして池の水と泥を取ってきた。これで一安心。


分かったこと。

つくづくつまらない大人になってしまった。ザリガニの生態もロクに知らないのである。何を食べるのか知らない。水道水が毒であることも忘れてる。ザリガニの呼吸がえら呼吸であることも調べないと分からない。カルキ抜きというものがあるということもはじめて知る始末。

情報化社会のくせに、そういう情報についてほぼなにも知らないのである。結果的にそのことを子供から教わった。
ザリガニ取りや飼育の知識はカネにはならないし、社会ではほとんど役に立つことはないだろう。しかし人生を豊かにするには必要な知識であるに違いなく、それらを知らないのである。つくづく教養の無さを思い知ったわけである。


養老孟司の話の書き起こし。

2020年05月23日 03時12分00秒 | 世間話

養老孟司


自然=人が意識的に作らなかったもの。

意識的に設えたものは全部自然じゃ無いですね。意識的なもの。

実は人も自然なんですよ。どういう意味かって、意識的に作られていませんから。

意識的に作った部分とそうで無い部分を区分けしていかないと、僕のいう自然が理解できない。だから自然にどう向かい合うかってのは、実は自分が自然であるということをうっかりすると忘れちゃうんですよね。で、自分が自然であることのいちばん典型は身体なんですよ。

0.2mmの受精卵が食べることによって大きくなった。ということは完全に自分で周囲と繋がっちゃてるんですよ。物質的に考えたら。その感覚は今はゼロですよ。それね、昔の人はあったんですよ。だから土から生まれて土に還るって言ってた。その感覚がない人が、だから、自然と人間が対峙していると、こう考えちゃうんですよ。

全然違うそれは。お前さんどこにいるんだよって話で。一部に過ぎないでしょ。要するに自然が物質でできているとしたら、その一種の結節点みたいになっていて、ね、まわりはずーっとこう曖昧になっていて、そこになにかかたまりができているんですよ。あっちこっちに。その塊がアンタでしょ、て話で。その塊はいずれほどけちゃうんですよ、死んで。別の部分は別の人に入ってるかもしれない。だから、そっちから考えると世界は繋がっちゃってるから、自然という言葉は消えちゃうんですね。

で人工的なものは意識的なもので、自然と対立するのは意識的なものといったでしょ。で、意識そのものは、実は自分で主導権を持ってないんですよ。つまり、意識があるときはね、意思があるから、なにかを自分がやってると思うわけでしょ。体も自分が動かしていると思っている。だけど、意識そのものが出てくるときは、朝、目が覚めるわけでしょ。これ意識が目が覚めようと思って覚めてんじゃないんだよ。だから目覚ましがいるんじゃないですか。じゃあどこから意識が出てくるかっていったら、ひとりでに出てくる、これは体の都合でしょ。寝るときも完全にそうで、しっかり意識して寝ようと思ったら目が覚めますよ。ね、ひとりでに寝る、なくなるんです。だからなんと、意識って自らの主導権を持っていないんです。ところが意識が一旦出てきちゃうと、つまり目が覚めちゃうと、てめえがやってると思ってるんだよ、意識は。そうでしょ。やってないよ頭殴られたら消えちゃうもん意識。

だけどその意識主導でやってきた結果が今の世界でしょ。で僕がいちばんよく分かりやすく「ああすればこうなる」的だろって。ああすればこうなる、こうすればああなるってのが意識ですから。


都会なんて典型的でそういう意味では不自然でしょ。そう、意識的なものしか置かないんですよ。これはもう驚くべきもんで。だから本当によくいうんだけど、銀座のね、道に石ころ落ちてないでしょ。おちてたら怒られるんだよ。誰かがけっつまづいて転んで足の骨おると、銀座だったら区役所が告訴されるんですよ。僕が山行って虫取りに行ってさ、石にけっつまづいて転んで足の骨折ったら、気をつけて歩きなさい、って怒られるだけだよ。でしょ。で世界の見方が全然違っちゃうんだよ都会と田舎では。だからその意識的な世界ではそういう、できるだけ無意識なものが世界中に満ちているってことを、気づかせないために、人の作ったものしか置かないって暗黙の前提が出てくるんですよ。だから、マンションに住んでて、たとえば丸の内の会社に通っている人ってのは、1日のうちにおそらく意味のないものを見ないんですよ。


1番問題なのは、感覚から入るものが非常にこう限定されてしまっているというところに、問題を感じているんで、これ、無意識ですから。

感覚から入るものをね、基本的に無視してしまうってのが人間の特徴なんですよ。そして、一旦抽象化しちゃうと。だからその、入るところをどんどん削っていってもあんまりわかんない。冷暖房完備の部屋に閉じこもっていれば分かるけども、まわりにおいてあるものは全部、意味のあるもの、人が使うもの。気温は変わらない。お日様は動かない。


ここにいれば風が吹くし、鳥の声がするし、これ、どんどん光うつってますよ。いどうしてますよね。それ嫌いでしょ今の人。講演会なんかいくと、全員がだって閉じ込められて座っているもん。全部一定でしょ周り。それなにをしてるのかって考えると、感覚を遮断してるんですよ。


いまさ、そこに書いてるから、白って書いてみなさいよ。漢字で。白でしょ?それ黒だもん。それ屁理屈じゃないんだよ。だから猫に字を教えられないんですよ。わかります?動物は感覚が先だから、だから、黒ペンで白って書いたら、彼らは頑として黒と読んじゃうだよ、まず。人間はそれを無視できんるんだよ、なんと。黒字で書いてなにが白だよって言わないんだよ、人間は。そのくらいメチャクチャな生き物なんです。それで万物の霊長とか言ってんだからさあ。そこで落とされているのは実は素直に感覚から入ってくる、こういう。

で、それがどういう影響を与えるんですかって、必ず聞くんだまた。バカが。それが理屈で言えるんだったらもう。。。わかるでしょ。黒が白になってんだからさ。そこを禁止しなきゃいけないよ、もう。




特別定額給付金

2020年05月21日 23時03分00秒 | 世間話
特別定額給付金の申請用紙が届いたのでさっそく記入して郵便箱に投函してきました。もらわないほどに奇特な人にはなれませんでした。

問題は何に使うかである。
社会的な発言としては「使って経済を回す」であろうが、
個人的な発言としては「不安だから貯蓄」となってしまう。

申請前は前者の考え方が優勢で、あぶく銭として使ってしまおうと思っていたが、申請後の今は心は後者の考えに傾いている。

これだから「自分」というものは信用ならない。定額給付金がイメージとしてあまり現実感を持っていなかった時には、あぶく銭だから経済回す為に使おう、使うなら国内の製品に金を落とそう、などと殊勝な考えをしていたものだが、しかしいざ申請用紙がとどき、給付が現実のものとして見えてきた時に、前者の考えを実行に移すには躊躇を覚えているのである。やはり貯金か?そう考えている自分がいる。
おそらく実際に現金が振り込まれたときの現実に直面した時には、さらに考えが確信に変わるだろう。すなわち貯金に意思が固まってしまうということである。

#10万円  で記事を書くつもりで、いまスマホで記事を入力しているのだが、ふとそんなことが心のなかによぎってしまった。

ほんとはもっと気楽に「焼肉でも食いたいな。写真のようなタン塩を頬張って・・・」などと書こうと思ったが、どうもそれは今の心境としては正しくない。

今の心境として感じることは、やはり自分はカネというモノに対して、ただならぬ執着があるということである。

オードリーの春日が、お金を使わないで生活することが楽しい、と言っていたが、あの心境は多分そういうことなんだろうとおもう。あれはそうすることにより、心の安定を買っているのだろう。不安を払拭する為にお金を使わないで生活しようとすることが染み付いてしまったのであろう。
それは一見素晴らしいように見えるが、おそらくは形を変えた執着なのだろう。なぜなら私はかなりの部分で、春日のそのあり方に共感しているし、同時に春日のしている事を似たようなレベルで実践もしているからだ。
しかしそれは、あくまで貯蓄で安心を買っているだけであり、もし未来にそのお金が紙切れになったとしてご破算になったときに、はたして平静でいられるか?と言われれば答えはNOである。
アリとキリギリスの話ではないが、アリは無欲なのではない。厳しい冬の前に、不安を払拭するためにセッセと貯蓄をしていたわけである。いかにアリとしても、その冬のときに貯蓄が突然にして消えてしまったときには平静ではいられまい。アリの餌はお金と違って実態だから消えるということはないが、もしも餌がお金のように実態出なかったとしたら、冬にいきなり消えてしまうということもありうる。そうなるとキリギリスと共に死ぬことになる。

なので、お金に対する執着がどの程度なのか?ということは、このような緊急事態には感覚にハッキリと教えてくれる。つまり自分は何者なのか?何に執着し何に頓着しない人間なのか?ということをマザマザとみせてくれる。

この感覚を持つ人は日本人では案外多いのではないだろうか?日本が仏教の国であることと関連性があるかもしれないが。

ゲームをやってても、この癖は現れる。クラフト系のゲームなのだが、資源を集められるだけ集めて、収納できなくなるので、さらに収納スペースをつくり、資源を集める。その繰り返しである。貯めることで安心を買っているのだろう。つまり不安の裏返しで、同じことをしているのだ。

このことは我が国がデフレであることと無関係ではあるまい。仏教の国である事もあるが、災害国である我が国は、いつも不安と隣り合わせであった。台風で川が増水し資源が失われ、母屋も壊され、地震で壊滅する。地震に伴い火事で資源が奪われ、といったように、いつも安心・安定を得るために、この国の人たちに貯蓄という文化は根付いている。
逆にいうと、安全・安心という執着が強いがゆえに、貯蓄の象徴であるカネに執着するのかもしれない。

仏教では執着は苦しみを生み出す元という。かといって信仰宗教にカネを「浄財」とか説伏されて、うまく利用されて喜捨させられるのも真っ平御免である。そんなものは仏教ではない。

仏教の本質はどう執着とケリをつけていくかにあるだろう。愛を「失うことを恐れる執着」と言い切った仏教は、たしかにキリスト教には無い世界観と着眼点を持っている。吾唯足知という言葉も執着に関する格言であり仏教に通づるものがある。

どう執着と付き合っていくか。そこを考えさせた特別定額給付金でした。








捏造報道これいかに

2020年05月21日 02時49分00秒 | 世間話
https://asagei.biz/excerpt/16271

このご時世に、国民の気の緩みを報道したいが為に、よりにもよって3月の映像を5月17日の映像と偽って流したのが「バイキング」なる番組である。

いくら視聴率を稼ぐためとはいえ、こんな事までするとは。「こんなに気が緩んでるなら、まだ緊急事態宣言の解除はできない」と、政治家がこの番組をみて感じてしまうのでは?

たしかに世は休業をしててもテレビ局は休業しない。みんな家に引きこもってるから視聴率は爆上げだろう。じゃあちょっと盛ってやれ、と捏造まで及んだのはないか?

人というのは、いつの時代でもどんな状況でもこういうことをする人は後を絶たない。

1番怖いものは何か?という質問に、著名人はこう答えたという。
「人間」と。
たしかに人間は怖い。自分がテレビのお偉いさんだとして、金が入るのならひょっとしたら捏造に手を染めてしまうかもしれない。人間は状況で変わる。自分が変わらないと思い込むのは傲慢なのかもしれない。先の世界大戦は、人間が状況で変わるということの良い証左であろう。

危ないのは人間である、ということを知っておいた方がいいという話である。