Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

アテネ到着

2008年09月30日 23時51分31秒 | クロアチア旅行記2008年8月
アテネに午前10時頃到着。車を降りるとすごい湿気と熱気を感じる。湿度は日本並みである。ヨーロッパは全体的に空気が乾燥しているが、ギリシャは例外で蒸し暑い。ギリシャは地政学的にはヨーロッパの端に位置する国である。トルコは小アジアと呼ばれており、そこはもうヨーロッパではない。そのトルコと隣り合わせの国が、ここギリシャである。
 さて、徹夜状態だが、そんなことはお構いなしでパルテノン神殿を観光する。残念ながらパルテノン神殿は修復中であり、足場が建っていて景観が多少損なわれている。



この日は快晴。パルテノン神殿の丘は白い岩山であり、太陽光を反射してまぶしい。あっという間に日焼けをしてしまいそうな程に太陽光が強い。観光客のほとんどがサングラスをかけていたが、西洋人でない我々ですら流石にサングラスが欲しくなったほどである。しかも徹夜明けなので、なかなかつらい。



2400年の歴史のあるパルテノン神殿。流石に世界的な観光地だけあって、人の数がとにかく多い。完全に観光地化されてしまっており、2400年前の遺跡という雰囲気は残念ながらあまり感じない。入場料金はかなり高く、たしか2000円くらいはしたと思う。



パルテノン神殿は、エジプトのピラミッドと同じで一生に一度は見ておきたい所であった。来て見てわかったのは、アテネという町は自分が想像したよりも遥かに大きな都市であったということだ。市内地図は持っていたが、それでもパルテノン神殿を探し出すのには苦労した。5人くらいの道行く人に聞いて、なんとか到着したのである。

コソボ首都プリスティナ

2008年09月30日 01時16分57秒 | クロアチア旅行記2008年8月
例によって写真はビデオから落とした静止画。
コソボ首都プリスティナまではあと30キロ程。運転していると、奇妙な光景が飛び込んでくる。なんと、夜遅くのコソボの道端にヒッチハイカーがいるではないか。世の中には我々の予想を遥かに超える猛者がいるものだ。彼らに比べれば、私のやっていることはまさに潜入ゴッコに違いない。しかし・・・あんたら、いつか死ぬぞ。



スピード標識がある。戦車の制限速度は40キロらしい。

さて、ようやく車はコソボの首都プリスティナに着いた。時刻は既に夜の9時頃。だが、我々はこんな恐ろしげな国で一泊するつもりは毛頭ない。だが流石に腹が減ってきた。このままメシ抜きでコソボを走り抜けるのは不可能なので、首都プリスティナのメイン通り沿いにあるレストランで晩飯兼夜食を摂ることとなった。その通りの名前は「ビルクリントン通り」。コソボ紛争で1999年にアメリカ主導のNATOが空爆を実施してくれてありがとう、という意味で命名された「らしい」。このようにコソボの人口の大半を占めるアルバニア人は、アメリカが大好きのようである。現在のコソボ共和国の首相ハシムは元コソボ解放軍(KLA)のリーダーであった。KLAの所業といったら・・・、解放軍というよりも・・・テ○リスト集団に近い。勝ったテ○リスト集団である。戦犯の多いこと多いこと。というわけで、コソボにいるアルバニア人というのは、なかなかの恐い人たちで、いつ問題をおこさないとも限らないのである。
 さて、その通りに面したイタリアンレストランでピザを食ったが、これがなかなか美味かった。周りのお客が我々を珍しそうな目で見ている。しかし店内は至って平和である。日本の軽食屋と雰囲気は変わらない。ここだけを見ると、とてもNATOが暫定統治している国とは思えない。

 食事も終わり早速出発。目指すは一直線にマケドニア国境である。実はここから先のコソボの映像と、マケドニア国内の映像はまったく無い。運転して既に12時間以上も経っており、誰もが疲れていたのである。

 時刻は深夜に入り、日付は8月29日と変わった。コソボ―マケドニアの国境を無事通過する。マケドニア。この国は英語表記ではFYROMというが、これは「The Former Yugoslav Republic of Macedonia(マケドニア旧ユーゴスラビア共和国)」の略称である。マケドニアが国連加盟を申請するとき、国名を「マケドニア共和国」としたのだが、ギリシャがこれに猛反対した。これは歴史的な経緯と政治的な問題による。マケドニア旧ユーゴスラビア共和国に住むいわゆるマケドニア人は、古代マケドニア人の子孫でもなんでもない。彼らは中世スラブ人の末裔であって、独立した地域が、古代マケドニアの領土の中の地域を多く含んでいただけである。そういう意味ではギリシャも大差はない。ただギリシャは、すでに自国の州名にマケドニア名を使用しているのである。そう、ギリシャはマケドニアの領土的野心を警戒したわけだ。しかも古代マケドニア王に、あのアレクサンダー大王がいる。政治的にも歴史的にも対立しているわけである。
 そのマケドニアを超特急で通過して、いよいよギリシャ国境に入った。



Eos5D EF24-105m F4Lにて、車内より撮影。
これまでの道を、私は一人で延々と運転してきたが、マケドニアの国境を通過した途端に、安心したのか急にドッと疲れが出た。運転を家人に代わってもらい、私は助手席へ行く。写真は助手席から撮ったギリシャの高速道路である。流石は先進国、高速道路もキレイなものである。街頭が明るい。マケドニアの高速道路の街頭はほとんどなく、ギリシャのそれと比べるとはるかにオソマツであった。夜の道路をみただけでも経済格差がよく分かる。コソボなんて、高速道路なんてほとんど無かった。いつしか降っていた雨も止んでいた。

コソボ潜入

2008年09月28日 20時55分16秒 | クロアチア旅行記2008年8月
本日の写真も全てビデオから落とした静止画である。
 「Eos5D写真三昧」というタイトルのくせに、前回に引き続き5Dの写真を一枚もUPしていないのであるが、この8月28日~29日の二日間の行軍は、私にとって記録的な大強行軍であり、ほとんどの時間を運転に費やしたために、カメラで撮影する時間がなかった事を、まずは言い訳しておきます。

ibar川が右手に見える。ibar川は西から東に流れており、我々はibar側の北側の川沿いを西から東に向かって走っている。やがてibar側を南側に横断する橋が見えてきた。この橋を渡れば、もうコソボである。時刻は午7時頃である。
 橋を渡ってしばらく走ったところで検問があった。パスポートを見せると検問所の男はこう言った。「ここから一キロメートル先にNATOがいる。そこに行け」

NATOである。そう、あのNATOだ。北大西洋条約機構のNATOである。ibar川からコソボ側地域は、国連コソボ暫定行政機構(UNMIK)の管轄下にある。一キロ先に、実質的な国連軍たるNATOの検問所があるのだ。

写真は一キロ行った所のUNMIK管轄下にある検問所。検問所での写真撮影はご法度であるが、勇敢にもビデオ撮影した。写真がピンボケで曲がっていることについてはご容赦いただきたい、これが限界である。
 なかなかの厳重態勢である。UNの装甲車が見える。バリケードもあり、有刺鉄線もある。停戦状態にあるとはいえ、緊張感を感じる。これを見てしまうと、いままで陸路で越えてきた国境検問所など駅の改札口並に見えてしまう。いよいよコソボ入国である。



検問所の出口の写真である。実はこの後も何度も検問で止められることになる。



ここでも検問を受ける。軍備的には一番物々しい所であった。左側の柵の中には戦車数台、装甲車が多数が止まっている。場所はkosovskaMitrovicaの町の数キロ手前である。



コソボの警察。車内に二人の警官が乗っていた。エンジンも掛かっておらず、ライトも点けていない。見張りですか。

事故渋滞

2008年09月27日 02時05分24秒 | クロアチア旅行記2008年8月
画像は地図以外は全てビデオから落とした静止画である。
渓谷を抜けると雨が降り始めた。そして大渋滞に陥る。原因はトラックの接触事故で、30分以上も足止めを食うことになった。折角ギリシャ行きを決めて、走り出した日だと言うのについていない。渋滞で途方にくれていると、同じく渋滞待ちの男が我々に声をかけてきた。

男「どこへ行くのかね」
私「ギリシャに行くのさ」
男「事故渋滞だが、あと20分もすれば復旧する。で、どの道を通ろうとしているんだい?」
私「この道さ」(といって、昨日私が検討したルートの地図を男に見せる)
男「これは遠回りだ。コソボを通れ」
私「コソボは危険でしょう?」
男「いや、そんなことはない。大丈夫だよ」

話によると、この男はオーストラリア人らしい。モンテネグロ人が言うならまだしも、同じ外国人に言われてもねぇ、と思ったが、その男、あまりにも自信満々に大丈夫、安全だと繰り返す。たしかにコソボを通れば、かなりのショートカットになる。



旧ルートが、昨晩私が計画したルート。新ルートは、オーストラリアのオッサンが薦める道である。たしかにオッサンの言う道を選べば、ギリシャ入りの距離はかなり短縮される。しかし、このコースだとコソボ、マケドニアを通過する事になる。 ブルガリアは去年(2007年)にEUに加盟しており、遠回りだがこのルートのほうがはるかに安全なのを私は知っている。この旅行の出発前に、私は外務省の海外安全ホームページでコソボの情勢も見ており、コソボの危険度が一ランク引き下げられたのも知っている。
http://www.anzen.mofa.go.jp/info/info4.asp?id=180#header
 しかしである。引き下げられたとは言え、それは4段階のレベルの中で「3」から「2」に引き下げられたのである。「4」はイラクやアフガニスタンがランクインする危険度である。「3」はチベットやアルジェリアの北部などにランクインされている。コソボが「2」に引き下げられたのは2008年8月5日である。それまでは「3」だったのだ。引き下げられてから、まだ20日ほどしか経っていない。
 さて・・・どうする。個人的には行ってみたい気もする。コソボは2008年の2月に独立をしたばかりだ。日本がコソボを独立国として承認したのは、それから1ヶ月後の3月だ。独立してから半年しか経っていない。ここで家人と作戦会議。採決の結果、満場一致でコソボ入りが決定してしまったのである。



セルビア国境の数キロ手前の風景。バルカン半島にはイスラム人も数多く住んでいる。左の尖がった塔は、イスラムの教会。



モンテネグロ―セルビアの国境。ピンボケで申し訳ない。いよいよ我々はセルビアに入国し、コソボに入る。



セルビア入国を果たす。ここからコソボ国境までは20キロ程しかない。クロアチアのレンタカーで、セルビアに入るというのも、なかなか勇気がいるものである。ミロシェビッチが死んでからまだ二年しか経たない。カラジッチが捕まったのは先月(2008年7月末)である。セルビアもまだまだ安定しているとは言い難い。



まもなくコソボ国境である。日は沈み、夜の帳がおりてゆく。ちょっと怖い。

渓谷の風景

2008年09月25日 13時55分56秒 | クロアチア旅行記2008年8月
画像はビデオ動画から静止画におとしたもの。
岩場の渓谷を走る。岩山の頂上までは車のフロントガラスに納まらない。それほど切り立っている。にもかかわらず、落石防止のネットはまったく無い。ネットが無いほうが写真的に映えることも良く分かる。しかし、つい安全管理は?と思ってしまうのは、それは私が日本人だからだろうか?確かにそうかもしれない。日本人の安全に対する考え方は過敏であり、時には病的ですらあるかもしれない。安全面を強化するために、この道の山にネットをつけたらどうだろうか?私はこの道を走らなかったかもしれない。だが、あまりにも危険すぎれば、同様にこの道を通らないだろう。問題はどの辺で折り合いをつけるか、である。そう考えると、モンテネグロのこの措置は、結構適切なのかもしれない。まぁ、日本ではまず考えられないだろう。それは日本が地震大国だからという理由だけではないハズだ。



ところで、しばらく走っていると、渓谷の川原に何かが落ちている。あれはなんだろう。



車、それも大型車の残骸である。形状からするとバスか?付近に慰霊碑と花が手向けてあった。おそろしや・・・。




見よ、この補強もしていない、ただくり貫いただけのトンネルを。天井の石がそのうち落ちまっせ、コレ。

山火事

2008年09月24日 01時25分46秒 | クロアチア旅行記2008年8月
モンテネグロの首都ポトゴリッツァから、北に走ること30キロ。渓谷を車で走っていると、山の中腹から湯気のようなものが立ち込めている。よく見ると、それは煙で山火事が起こっているのだ。そういえば、クロアチアで山火事注意の看板をいくつもみた。そして、今になってみて気付くのだが、クロアチアの所々で木々や地面が黒焦げになっていた地域がいくつもあった。当初は野焼きかと思っていたが、さすがにこの規模の野焼きはなかろう。あれも山火事であったに違いない。



普通なら人だかりができるものだが、いたって平穏静かなものである。主要道路のちょっと上方が燃えているのである。消防車が来る様子もない。この季節の山火事は、この地域では日常茶飯事なのかもしれない。それはこの後、確信に至ることになる。



この写真は、ビデオから静止画に落としたものである。
先ほどの山火事を見てから、車を走らすこと数十分。これは別の場所での山火事である。なんと道路にまで火が迫っているではないか。しかも我々の通り道である。ハリウッドのスタント運転を私にやらせようと言うのか。(笑)



先ほどの道を通過してから撮影した写真がこれ。よく見ると、手前の地面が黒焦げである。木の焼ける「パチパチ」という音がすく近くに聞こえる程だ。写真の美しさ的には、まったく価値の無いものだが、すごい体験をさせてもらったものである。

強行軍の始まり1 (七日目:8月28日)

2008年09月23日 00時50分43秒 | クロアチア旅行記2008年8月
前日の閣議決定(?)の後、私は地図とにらめっこをして、今後のギリシャ入りのルートの検討に入った。一応おおまかに立てたルートの計画は、以下の様なものであった。

まずモンテネグロの首都Podgoricaを通過し、E65-E80号線を北上し、Moraca川沿いの渓谷を走り、Bijelo Poljeを通ってモンテネグロ国境を越えてセルビアに入り、UziceとCacakを抜けてNisを通過し、ブルガリアの首都Sofiaを経由してギリシャに入るというものだった。(地図の白線のルートがそれである)
 ギリシャに入るためには、二カ国を渡らないと行けないのである。なんとも壮大なプランになってしまった。

このルート案を、前日の夜に完成させて、その夜はぐっすりと就寝。翌日8月28日、七日目の朝。ホテルで朝食を摂り、早速出発する。

(後に、この計画から大幅に逸脱したルートに変更される事になろうとは、この時は予想だにしていないのである)



写真は、Podgoricaを通過して、Moraca川沿いの渓谷に差し掛かった辺りである。

Cetinjeにて一泊

2008年09月22日 16時48分58秒 | クロアチア旅行記2008年8月
Lovcen山の麓で日が暮れたので、近郊で宿を探す。Cetinjeの町で、3人部屋で80ユーロ(約13200円)というものがあったので、そのホテルで一泊することにした。写真はビデオから落とした画像で、Cetinje中央部である。



画像は同じくビデオからのもの。Cetinjeにある小さいマーケットである。
この夜、ホテルに帰ってから作戦会議を開く。内容は、明日以降の旅程についてである。既にクロアチア、モンテネグロの主だった見所は廻った。この後どうする?

1:モンテネグロの2000メートル級の山々をドライブし、ボスニア・ヘルツェゴビナに寄ってモスタルの町を見るというコースにするか。
2:それともセルビアの首都ベオグラードを抜けてハンガリーに入り、田園風景を見るコースにするか。
3:あるいは、このまま一気に南下して、ギリシャのアテネを目指すか。
 
 私が立てた当初の計画は1である。ところがこの旅行中、家人から3の可能性についてたびたび言及され、盛り上がった事もあった。旅程としては1がもっとも優雅に廻ることが出来る。2は多少強行軍になる。3は半ば無謀な旅程である。なにしろここCetinjeからギリシャのアテネまでは片道約1000キロもあるからだ。ところが衆議の結果、3が採択されたのである。この日は8月27日(六日目)の夜である。翌日28日に出発するとして、9月2日にはザグレブで飛行機に乗らなければならない事を考えると、28日~1日までの5日間の時間がある。5日で往復2000キロ走っても、辿り着くのはここCetinjeである。ここからザグレブまでさらに戻らねば飛行機に間に合わない。Cetinje~ザグレブの距離は約900キロ。要するに5日で2900キロを走る計算になる。一日に約600キロ走る、それがコース3の内容である。それが今まさに採択された。キ印である。スラブの毒気にあてられたのか、この旅程はよほどのキ印でないと選ばない(笑)。
 旅行はここから、完全なるアドリブと化した。今までもかなりアドリブだったが、それなりのレールには乗っていたワケで、どこで何を見る、ということはだいたいは決まっていた。今やそのタガは完全にはずれたのである。



翌朝(28日)の朝のホテルの中にある売店の風景。ホテルの部屋もそうだったのだが、なんとなく社会主義的名残を感じないだろうか?普通売店にはPOPやポスターで商品を訴求をするものだが、この無機質な売店はどうだろう?
 観光地コトルを見たときには感じなかったが、観光地とは縁遠いここCetinjeを見ると、多少クロアチアとは違った一面を垣間見ることが出来る。

山頂の建物

2008年09月22日 03時08分43秒 | クロアチア旅行記2008年8月
石造りの建物の内部はこうなっている。二つの石造は、モンテネグロの典型的な伝統衣装をまとった男女という事だった。
そんな事よりも気になるのは、写真の右下にいる子ネコである。




・・・寝てる。ちょうど段差があるところで寝てる。この段差の場所ではかえって寝にくいのではないかと思うのだが、一向に構わない様子だ。モンテネグロのネコでした。



建物内部の一室に入ると、ご覧の通り。なるほど、入場料の大半はこの建設に対する費用なのか。余計なものを作ったものである。イコンというタイルを敷き詰めたモザイク天井が、正教会のドームなどに良く見られるが、これも同じようにして作られている。歴史的価値などまったくないのに、贅沢に作ったものだ。日本の公共建設の無駄遣いと本質的に何ら変わらないのではないか?もったいない。



モザイクの拡大写真。モンテネグロの経済もまだまだ発展途上だろうに・・・。こんな所に金をかけちゃって。

Lovcen山頂に到着

2008年09月21日 03時38分03秒 | クロアチア旅行記2008年8月
山頂付近の駐車場に到着し、あとは徒歩で山頂に行くしかない。山頂へは駐車場から石階段を登っていかなければならないが、これが結構キツイ。およそ300階段くらいは登ることになる。平地なら大したことはないのだが、ここは海抜1500メートルくらいあるので、空気が多少薄い。
 山頂付近には石造りの建物があり、山頂へ最後の道を塞いでいる形で建っている。ここから先に行くには料金がいるという。料金は忘れたが、たしか一人3~5ユーロ(500~800円)取られた。写真は料金を払って入った山頂の一角。360度のパノラマ風景が一望できる。写真では表現できないパノラマの美しさがあった。
 ところで写真を良く見て欲しい。ここにはなんと手すりが無いのだ。眼下は崖である。突風が吹いて飛ばされたら一巻の終わりである。たしかに手すりが無いほうが邪魔な障害物がない分、写真を撮るのには好都合だが、安全管理というものの考え方が日本とはまるで違う。今まで事故が起きなかったのだろうか?



山頂からはるか向こうに見える山々を撮影した。多少逆光ぎみになっているが、もやがかかって面白い雰囲気の写真になった。



写真はビデオから落とした静止画を連結したパノラマ画像である。

コトル近郊の山「Lovcen」へ

2008年09月20日 16時02分47秒 | クロアチア旅行記2008年8月
コトルの城壁沿いの山道を登って、城塞まで行きたかったのだが、家人の「あんなに歩くところは勘弁してくれ」という反対にあって、やむなく断念。そこでコトル近郊にある山「Lovcen」頂上まで車で登ることにした。写真はその途上からのものである。湾の右側でわずかにでっぱっている町がコトルである。既に多少紅葉が始まっている。



この写真は、ビデオ画像から静止画に落としたものである。家人の持つソニーのハンディカムである。車の中からの撮影なので、フロントガラスがフィルターになって景色が緑がかっている。この道もsvetiRokの道と同様に、鉄製のカードレールではなくて、石のガードレールで所々が歯抜けになっており、しかも低いのだ。景色は申し分ないのだが、ちょっと怖い。



山頂に向かう途中、近くの山から白い煙がのぼっていた。まさか山火事では・・・?

コトル到着

2008年09月20日 01時56分52秒 | クロアチア旅行記2008年8月
モンテネグロの名所コトルに到着。
モンテネグロに入ると、運転マナーがクロアチアとはまるで違うことに気付く。
一言でいうと、クロアチア人の運転は荒い。飛ばし屋が多いし、クラクションはやたら鳴らす。これがモンテネグロに入ると、車はあまり飛ばさない。荷物を積んだトラックに至っては、時速40キロくらいでテレテレ走っており、渋滞を引き起こすほどである。交通の取締りが厳しいのか、それとも国民性なのか、クロアチアに比べるとゆったりとしている。
写真はコトルの旧市街付近にある城塞である。この写真では見えにくいので、下に拡大した写真をUPする。



omisでもstonでもそうだったが、アドリア海沿岸に建てられた城塞は異常なくらい堅牢に造ってある。山の上に建っているだけでも十分なのに、なぜ山に城壁を張り巡らすのか。病的なくらい徹底している。それだけ中世のアドリア海湾岸都市というのは儲かったのかもしれない。だとすると、ビザンティン帝国・ヴェネチア共和国やオスマン帝国がアドリア海沿岸に影響力を持ちたかった気持ちも良く分かる。要するに、戦国時代の堺のような都市がアドリア海にはゴロゴロあったという事なのだろう。



旧市街にある教会。屋根の十字架を見ると、「キ」のようなマークになっている。これは八端十字架と呼ばれ、スラブ系の正教会で用いられている。ギリシャ正教会ではほとんど使われていない。

湾岸都市に異常なまでの城壁を張り巡らす癖を持つ、スラブの人たちの、信仰の対象である十字架が、「キ印(笑)」なのにはある意味得心がいくかもしれない。(爆)
 これは冗談。

モンテネグロ入国 (六日目:8月27日)

2008年09月19日 03時26分43秒 | クロアチア旅行記2008年8月
8月27日。この日はいよいよクロアチアの国境を越え、モンテネグロ共和国に入る。入国審査は実にアッサリしたものだった。さて、この国はつい2年ほど前まで「セルビア・モンテネグロ」と呼ばれ、現在のセルビア共和国と連邦を築いていたが、2006年に国民投票を行いモンテネグロとして独立する。コソボを除けば、最も独立が遅かった国である。
 ここで、ユーゴラビアの名称の歴史を簡単に振り返ることにする。ここバルカン半島では、20世紀から21世紀の間に何回かユーゴスラビアという名称を冠する国家が出現している。まず最初のユーゴらしきものは、第一次世界大戦終結時にさかのぼることができる。第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国は解体され、バルカン半島にはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国が成立した。これは南スラブ人王国の構想によって成立した国で、1929年のユーゴスラビア王国の前身である。
 ユーゴスラビア王国は、第二次世界大戦のナチス侵攻により王がロンドンに亡命、実質的に滅亡する。大戦末期にチトー率いるパルチザンがナチスを実力で追い出す。チトーは王の帰国を拒否、亡命政権も否認してユーゴスラビア人民共和国を打ち立てる。1963年にはユーゴスラビア社会主義連邦共和国に変わる。連邦はスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国とボイボディナとコソボの2つの自治州によって構成された。しかし1980年にチトーが死ぬと、分離独立の機運が一気に高まる。1991年から92年にかけてスロベニア・クロアチア・マケドニア・ボスニア=ヘルツェゴビナが相次いで独立する。残った国(セルビア・モンテネグロ・コソボ)で連邦を組み、1992年にユーゴスラビア連邦共和国が設立された。そして2003年、ユーゴスラビア連邦共和国は解体。セルビアとモンテネグロはゆるやかな共同国家となる。これが「セルビア・モンテネグロ」である。そして2006年、モンテネグロで独立の国民投票が行われ、規定値を満たしモンテネグロは独立する。この後2008にソコボも独立することになるのである。

ユーゴスラビア王国の時代は、第一のユーゴ。
チトー政権下のユーゴスラビアから1991年のスロベニア・クロアチアの独立までの時代は、第二のユーゴ。
スロベニア・クロアチア・マケドニア・ボスニア=ヘルツェゴビナ独立後のユーゴ連邦を、第三のユーゴ。または新ユーゴ。

ユーゴスラビアという名称の国は、主にこの三つに分類される。そして2003年に「セルビア・モンテネグロ」という共同国家になった時点で、ユーゴスラビアという名前の国家は消滅したと言って良い。

このような流れで見てみると、モンテネグロの独立は非常に遅かったということが分かる。ほとんど最後まで、セルビアと行動を共にしたのである。にも関わらず、モンテネグロの風景、町並みや暮らしぶりの水準を見ると、クロアチアのそれとあまり変わりない。写真はRisanからKotor(コトル)の間に位置するperast近郊である。



コトルは地図を見れば分かるように、湾の奥に位置する町である。途中、非常に狭い水路を通ることになる。湾岸の道は回りこんでいるために、移動に時間がかかる
ため、この狭い水路あたりの場所には連絡船が通っている。私は景色を堪能するために、この連絡船には使わなかった。



湾内に小さな建物がある島々が見える。その後ろには上述した狭い水路が写っている。右の山と左に少しだけ見える山の間にある水路が、地図上にある一番狭い水路である。この湾内の景色はまさに絶景である。この日はガスがかかっていて、写真的にはクリアーではないが、それはそれはキレイな所である。

ドブロブニク旧市街の夜景

2008年09月17日 19時56分11秒 | クロアチア旅行記2008年8月
昼間と同じ通りを夜に撮影。時刻は夜中の12時を既に回っている。それにしては人が多い。地面は濡れているわけではない。昔からの人の往来の多さの為に、地面の石は磨かれてしまっているのである。それが夜のライトに反射して、このような写真になるのだ。



こちらは路地裏の写真。写真の上側には十字架がライトアップされているのが写っているが、この十字架はスルジ山頂に建っているものである。黒い空に浮かび上がる白い十字架。なかなか美しい。