EF24-1405mmF4L
18時間の乗車と一言でいうが、これは成田~ヨーロッパの飛行時間よりも長い。面白いのは電車の様相である。午後1時近くに出発した時は、車内は活気にあふれていた。会話が弾み、食事も朗らかに、そしてゲームにも興じる。その風景は中国もヨーロッパも同じである。何よりも凄いのは異邦人に対する興味である。この列車には、日本人は…いや外国人は私しかいなかったであろうと思う。この車両には、ではない。この列車には、である。駅の待合室でもそうだった。日本人はまず見ないし、外国人もそうそう列車を使わない。観光地ではかなりの数の外国人とすれ違うが、鉄道ではとんと見かけなくなる。私が外国人だと分かると、そして日本人だと分かると、もう質問攻めである。どこへ行った?何歳だ?結婚しているのか?どこへ行くんだ?何日くら滞在するんだ?などなど、筆談を交えて取り留めの無い会話であるが、それが2~3時間くらい続く。だが流石に18時間も続きはしない。昼間の列車の様相はこのように明るい。だが、乗車も10時間くらい経つと、車内の様相は変わってくる。皆疲れきってくるのだ。そりゃそうだ。いくらインフラの整っていないのが当たり前の中国といっても、やはり18時間の乗車はキツい。体力的なものはところ変わっても同じものらしい。ちょうど夜の24時を回る頃には、みな座席でコックリ、コックリとクビを振りはじめる。横になって眠れない苦痛は、かなりのものである。眠ろうにも体勢が維持できないので、途中で倒れそうになって目が覚めるのだ。それを4~5回ほど繰り返すと、眠りたいのに眠れないというイライラと疲労がドッと出るのである。深夜の車内は異様なほど、皆憔悴しきっており、言葉を発するものは誰もいなくなる。だが列車は走り続け、時折駅に停車して乗客の乗り降りがある。深夜に列車に乗り込むお客は、あまり愉快なものではないだろう。とにかく車内が暗いのだ。照度が、ではない。車内の空気がどんよりと、重く暗いのである。目を明ける、足を動かすのも億劫な乗客が殆どだからだ。列車に10時間以上も滞在するというのは、思いのほか疲れるのである。これはなかなか文章では説明しづらい。
写真は昼間の外の風景。列車は陝西省をこえて甘粛省に入る。甘粛ではこのような風景はどこでも見られるものだ。山間が深く、黄土を含んだ河が流れる。
さて甘粛省といわれる所はどこにあるか?
この地図の赤い線で囲んだ場所が甘粛省である。画像の右下に「西安市」と書いてあるのが見えるだろうか?列車はそこから蘭州をぬけて、武威をこえて、酒泉まで行く。めざす目的地の嘉峪関は、酒泉からさらに西に40キロぐらい行ったところにある。さて甘粛は、ご覧の通り、非常に細長い回廊をもった省である。この細い回廊を河西回廊という。
秦・漢の時代、甘粛は「涼州」と呼ばれていた。宋の時代に甘州と粛州の二つの州ができて、後年それらが一つに纏められて「甘粛」となったようである。この地は昔からモンゴル系、回教徒などが多い地域であり、遊牧民の文化などもかなり流入している、いわば中国らしくない地域である。秦・漢の時代の西の領土の端はこの州であり、甘粛最西部にある「敦煌」から先は、もう外国であった。
秦・漢と匈奴の長きにわたる勢力戦いは、オルドス地方(現在の内モンゴル自治区)と、ここ甘粛において頻繁に起こっていたのである。匈奴の命脈が絶たれたのは、漢の武帝が張騫を西の大月氏を派遣して同盟を結んで匈奴に共同戦線を張った事と、ここ河西回廊を通って西域(敦煌まで)を切り取ったことが原因とされている。この道は交易・経済のルートだったので、いくら遊牧民の匈奴とはいえ、いや遊牧民だからこそ、物資の交換などの交易を必要としていた。つまり匈奴は補給戦を絶たれて、そして負けたのである。
だがこの地は、その後も遊牧国家によって取られたり、取り返したりを繰り返した。漢族による限界線、すなわち漢族の共同体の限界線は実はここなのである。現在の中華人共和国は、ハプスブルク帝国のように多民族国家である。ハプスブルクの支配者層たるゲルマン民族が、オーストリア周辺くらいまでのごくごく小さい領域までの範囲しか支配できていなかったように(ハンガリーやユーゴスラビアなど、ハプスブルクは広範囲の帝国を築いていた)、中国も漢族という支配者層がいる範囲の西側の限界線は、ここ甘粛なのである。
さて、先ほど「武帝が張騫を大月氏に派遣して、これと同盟を結び」ということを書いたが、「大月氏」とは「おおつき氏」と読むのではない。そんなプラズマ教授のような名前の国ではなく「だいげっし」と読む。この「大月氏」というのが遊牧民族名なのか国家名なのかは良く分かっていない。匈奴・鮮卑・モンゴルというのも、これも同じで「民族名」か「国家名」という区別は、この時代においては極めて曖昧な存在であった。つまり、匈奴に属していた遊牧民族も、鮮卑に仕えれば、それが「鮮卑人」になるわけだ。後のモンゴル帝国をみれば明らかなように、彼らは様々な遊牧民族を「モンゴル」という統一した呼び名の下に結集させた。大月氏も、規模の違いはあるにせよ、これと同じ状況であったと思われる。言語的にはテュルク、イラン、チベット、モンゴルのいずれか?ということになっているが、良くわかってはいない。
ただ、「月」という漢字が置かれているのは興味深い。私はテュルク系の言語の人間が支配者層に多かったのではないかと推測している。なぜなら「テュルク」は「トルコ」の事を指した言葉で、このテュルク系民族は、古代においては中央アジア~東北アジアの一体に広がっていた。近年「トルクメニスタン(西トルキスタン)」「トルコ共和国」「東トルキスタン(ウイグル自治区)」という国があるが、これらの国の国旗には「三日月」が描かれている。テュルクのトレードマークは「三日月」なのである。そうすると「大月氏」の「月」という文字は、やはりテュルクと見るのが正しいのではないか?と思うのである。
このように、甘粛という場所は古代から戦略的・地政学的にも極めて重要な地であった。それは現在においても変わらない。甘粛省と隣接している省は「内モンゴル自治区」「寧夏回族自治区」「ウイグル自治区」「青海省(かつてのチベット。本当はチベット自治区はここまであった)」である。漢人とそれ以外の民族の境に位置している省。それが甘粛である。簡単にいえば、ここは漢人が他民族から切り取って自分の領土にした地域であり、風土、景色、文化などは、完全に非中国、すなわち外国である。それはこの後にUPしていく写真をみれば良く分かっていただけると思う。お楽しみに!
さて、この若干イケメンの好青年は、私が西安駅の待合室で知り合った西安出身の中国人である。彼は日本語がなかなか上手い。以前にも書いたが、iphone3GSを持つ金持ちである。彼は働いていないので、おそらく両親が金持ちなのだろう。この時間帯は既に夜の21時は回っている。この時点で乗車してから9時間は経とうとしているが、その表情はさわやかで崩れてはいない。不思議なもので、会話をしていると長時間乗車している疲労をあまり感じなくなる。彼の席は隣の車両だったが、夜になって遊びにきたようだ。
この時になって気づいた。そうか、彼に翻訳を頼めば、昼間の中国人との会話も、筆談ではなくて、もっと濃密にできただろうに…、と。そこで、また2時間程、彼という通訳を使って中国人とのしばしの会話に華をさかせた。この席で、彼と意気投合し、「ウルムチで26日に会おう」という約束をした。彼は一足先にウルムチまで行ってしばらく滞在する。私は4、5日後にウルムチに行く。つまり4、5日後にウルムチの駅で再会しようという事になった。私がウルムチに向かう列車の切符を買って、その発車時刻が分かったら、彼に電話するという手はずになったので、彼の電話番号を聞き出した。
さて、中国で電話をかけるという、またやったことのないことに挑戦することになったが、それは後日の話である。とりあえずは、ウルムチでの再開を約束した。
次回予告!
ついに甘粛の西側、嘉峪関に来る。
そこはもう、中国的なものは殆ど感じさせない砂と瓦礫の大地の世界だった。北京から2500キロも離れた場所にそびえる「シルクロードにある万里の長城の姿とは??」
乞うご期待!
18時間の乗車と一言でいうが、これは成田~ヨーロッパの飛行時間よりも長い。面白いのは電車の様相である。午後1時近くに出発した時は、車内は活気にあふれていた。会話が弾み、食事も朗らかに、そしてゲームにも興じる。その風景は中国もヨーロッパも同じである。何よりも凄いのは異邦人に対する興味である。この列車には、日本人は…いや外国人は私しかいなかったであろうと思う。この車両には、ではない。この列車には、である。駅の待合室でもそうだった。日本人はまず見ないし、外国人もそうそう列車を使わない。観光地ではかなりの数の外国人とすれ違うが、鉄道ではとんと見かけなくなる。私が外国人だと分かると、そして日本人だと分かると、もう質問攻めである。どこへ行った?何歳だ?結婚しているのか?どこへ行くんだ?何日くら滞在するんだ?などなど、筆談を交えて取り留めの無い会話であるが、それが2~3時間くらい続く。だが流石に18時間も続きはしない。昼間の列車の様相はこのように明るい。だが、乗車も10時間くらい経つと、車内の様相は変わってくる。皆疲れきってくるのだ。そりゃそうだ。いくらインフラの整っていないのが当たり前の中国といっても、やはり18時間の乗車はキツい。体力的なものはところ変わっても同じものらしい。ちょうど夜の24時を回る頃には、みな座席でコックリ、コックリとクビを振りはじめる。横になって眠れない苦痛は、かなりのものである。眠ろうにも体勢が維持できないので、途中で倒れそうになって目が覚めるのだ。それを4~5回ほど繰り返すと、眠りたいのに眠れないというイライラと疲労がドッと出るのである。深夜の車内は異様なほど、皆憔悴しきっており、言葉を発するものは誰もいなくなる。だが列車は走り続け、時折駅に停車して乗客の乗り降りがある。深夜に列車に乗り込むお客は、あまり愉快なものではないだろう。とにかく車内が暗いのだ。照度が、ではない。車内の空気がどんよりと、重く暗いのである。目を明ける、足を動かすのも億劫な乗客が殆どだからだ。列車に10時間以上も滞在するというのは、思いのほか疲れるのである。これはなかなか文章では説明しづらい。
写真は昼間の外の風景。列車は陝西省をこえて甘粛省に入る。甘粛ではこのような風景はどこでも見られるものだ。山間が深く、黄土を含んだ河が流れる。
さて甘粛省といわれる所はどこにあるか?
この地図の赤い線で囲んだ場所が甘粛省である。画像の右下に「西安市」と書いてあるのが見えるだろうか?列車はそこから蘭州をぬけて、武威をこえて、酒泉まで行く。めざす目的地の嘉峪関は、酒泉からさらに西に40キロぐらい行ったところにある。さて甘粛は、ご覧の通り、非常に細長い回廊をもった省である。この細い回廊を河西回廊という。
秦・漢の時代、甘粛は「涼州」と呼ばれていた。宋の時代に甘州と粛州の二つの州ができて、後年それらが一つに纏められて「甘粛」となったようである。この地は昔からモンゴル系、回教徒などが多い地域であり、遊牧民の文化などもかなり流入している、いわば中国らしくない地域である。秦・漢の時代の西の領土の端はこの州であり、甘粛最西部にある「敦煌」から先は、もう外国であった。
秦・漢と匈奴の長きにわたる勢力戦いは、オルドス地方(現在の内モンゴル自治区)と、ここ甘粛において頻繁に起こっていたのである。匈奴の命脈が絶たれたのは、漢の武帝が張騫を西の大月氏を派遣して同盟を結んで匈奴に共同戦線を張った事と、ここ河西回廊を通って西域(敦煌まで)を切り取ったことが原因とされている。この道は交易・経済のルートだったので、いくら遊牧民の匈奴とはいえ、いや遊牧民だからこそ、物資の交換などの交易を必要としていた。つまり匈奴は補給戦を絶たれて、そして負けたのである。
だがこの地は、その後も遊牧国家によって取られたり、取り返したりを繰り返した。漢族による限界線、すなわち漢族の共同体の限界線は実はここなのである。現在の中華人共和国は、ハプスブルク帝国のように多民族国家である。ハプスブルクの支配者層たるゲルマン民族が、オーストリア周辺くらいまでのごくごく小さい領域までの範囲しか支配できていなかったように(ハンガリーやユーゴスラビアなど、ハプスブルクは広範囲の帝国を築いていた)、中国も漢族という支配者層がいる範囲の西側の限界線は、ここ甘粛なのである。
さて、先ほど「武帝が張騫を大月氏に派遣して、これと同盟を結び」ということを書いたが、「大月氏」とは「おおつき氏」と読むのではない。そんなプラズマ教授のような名前の国ではなく「だいげっし」と読む。この「大月氏」というのが遊牧民族名なのか国家名なのかは良く分かっていない。匈奴・鮮卑・モンゴルというのも、これも同じで「民族名」か「国家名」という区別は、この時代においては極めて曖昧な存在であった。つまり、匈奴に属していた遊牧民族も、鮮卑に仕えれば、それが「鮮卑人」になるわけだ。後のモンゴル帝国をみれば明らかなように、彼らは様々な遊牧民族を「モンゴル」という統一した呼び名の下に結集させた。大月氏も、規模の違いはあるにせよ、これと同じ状況であったと思われる。言語的にはテュルク、イラン、チベット、モンゴルのいずれか?ということになっているが、良くわかってはいない。
ただ、「月」という漢字が置かれているのは興味深い。私はテュルク系の言語の人間が支配者層に多かったのではないかと推測している。なぜなら「テュルク」は「トルコ」の事を指した言葉で、このテュルク系民族は、古代においては中央アジア~東北アジアの一体に広がっていた。近年「トルクメニスタン(西トルキスタン)」「トルコ共和国」「東トルキスタン(ウイグル自治区)」という国があるが、これらの国の国旗には「三日月」が描かれている。テュルクのトレードマークは「三日月」なのである。そうすると「大月氏」の「月」という文字は、やはりテュルクと見るのが正しいのではないか?と思うのである。
このように、甘粛という場所は古代から戦略的・地政学的にも極めて重要な地であった。それは現在においても変わらない。甘粛省と隣接している省は「内モンゴル自治区」「寧夏回族自治区」「ウイグル自治区」「青海省(かつてのチベット。本当はチベット自治区はここまであった)」である。漢人とそれ以外の民族の境に位置している省。それが甘粛である。簡単にいえば、ここは漢人が他民族から切り取って自分の領土にした地域であり、風土、景色、文化などは、完全に非中国、すなわち外国である。それはこの後にUPしていく写真をみれば良く分かっていただけると思う。お楽しみに!
さて、この若干イケメンの好青年は、私が西安駅の待合室で知り合った西安出身の中国人である。彼は日本語がなかなか上手い。以前にも書いたが、iphone3GSを持つ金持ちである。彼は働いていないので、おそらく両親が金持ちなのだろう。この時間帯は既に夜の21時は回っている。この時点で乗車してから9時間は経とうとしているが、その表情はさわやかで崩れてはいない。不思議なもので、会話をしていると長時間乗車している疲労をあまり感じなくなる。彼の席は隣の車両だったが、夜になって遊びにきたようだ。
この時になって気づいた。そうか、彼に翻訳を頼めば、昼間の中国人との会話も、筆談ではなくて、もっと濃密にできただろうに…、と。そこで、また2時間程、彼という通訳を使って中国人とのしばしの会話に華をさかせた。この席で、彼と意気投合し、「ウルムチで26日に会おう」という約束をした。彼は一足先にウルムチまで行ってしばらく滞在する。私は4、5日後にウルムチに行く。つまり4、5日後にウルムチの駅で再会しようという事になった。私がウルムチに向かう列車の切符を買って、その発車時刻が分かったら、彼に電話するという手はずになったので、彼の電話番号を聞き出した。
さて、中国で電話をかけるという、またやったことのないことに挑戦することになったが、それは後日の話である。とりあえずは、ウルムチでの再開を約束した。
次回予告!
ついに甘粛の西側、嘉峪関に来る。
そこはもう、中国的なものは殆ど感じさせない砂と瓦礫の大地の世界だった。北京から2500キロも離れた場所にそびえる「シルクロードにある万里の長城の姿とは??」
乞うご期待!