Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

10:車内

2010年09月27日 04時33分17秒 | 中国旅行記2010年8月
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18時間の乗車と一言でいうが、これは成田~ヨーロッパの飛行時間よりも長い。面白いのは電車の様相である。午後1時近くに出発した時は、車内は活気にあふれていた。会話が弾み、食事も朗らかに、そしてゲームにも興じる。その風景は中国もヨーロッパも同じである。何よりも凄いのは異邦人に対する興味である。この列車には、日本人は…いや外国人は私しかいなかったであろうと思う。この車両には、ではない。この列車には、である。駅の待合室でもそうだった。日本人はまず見ないし、外国人もそうそう列車を使わない。観光地ではかなりの数の外国人とすれ違うが、鉄道ではとんと見かけなくなる。私が外国人だと分かると、そして日本人だと分かると、もう質問攻めである。どこへ行った?何歳だ?結婚しているのか?どこへ行くんだ?何日くら滞在するんだ?などなど、筆談を交えて取り留めの無い会話であるが、それが2~3時間くらい続く。だが流石に18時間も続きはしない。昼間の列車の様相はこのように明るい。だが、乗車も10時間くらい経つと、車内の様相は変わってくる。皆疲れきってくるのだ。そりゃそうだ。いくらインフラの整っていないのが当たり前の中国といっても、やはり18時間の乗車はキツい。体力的なものはところ変わっても同じものらしい。ちょうど夜の24時を回る頃には、みな座席でコックリ、コックリとクビを振りはじめる。横になって眠れない苦痛は、かなりのものである。眠ろうにも体勢が維持できないので、途中で倒れそうになって目が覚めるのだ。それを4~5回ほど繰り返すと、眠りたいのに眠れないというイライラと疲労がドッと出るのである。深夜の車内は異様なほど、皆憔悴しきっており、言葉を発するものは誰もいなくなる。だが列車は走り続け、時折駅に停車して乗客の乗り降りがある。深夜に列車に乗り込むお客は、あまり愉快なものではないだろう。とにかく車内が暗いのだ。照度が、ではない。車内の空気がどんよりと、重く暗いのである。目を明ける、足を動かすのも億劫な乗客が殆どだからだ。列車に10時間以上も滞在するというのは、思いのほか疲れるのである。これはなかなか文章では説明しづらい。

写真は昼間の外の風景。列車は陝西省をこえて甘粛省に入る。甘粛ではこのような風景はどこでも見られるものだ。山間が深く、黄土を含んだ河が流れる。



さて甘粛省といわれる所はどこにあるか?
この地図の赤い線で囲んだ場所が甘粛省である。画像の右下に「西安市」と書いてあるのが見えるだろうか?列車はそこから蘭州をぬけて、武威をこえて、酒泉まで行く。めざす目的地の嘉峪関は、酒泉からさらに西に40キロぐらい行ったところにある。さて甘粛は、ご覧の通り、非常に細長い回廊をもった省である。この細い回廊を河西回廊という。
秦・漢の時代、甘粛は「涼州」と呼ばれていた。宋の時代に甘州と粛州の二つの州ができて、後年それらが一つに纏められて「甘粛」となったようである。この地は昔からモンゴル系、回教徒などが多い地域であり、遊牧民の文化などもかなり流入している、いわば中国らしくない地域である。秦・漢の時代の西の領土の端はこの州であり、甘粛最西部にある「敦煌」から先は、もう外国であった。

秦・漢と匈奴の長きにわたる勢力戦いは、オルドス地方(現在の内モンゴル自治区)と、ここ甘粛において頻繁に起こっていたのである。匈奴の命脈が絶たれたのは、漢の武帝が張騫を西の大月氏を派遣して同盟を結んで匈奴に共同戦線を張った事と、ここ河西回廊を通って西域(敦煌まで)を切り取ったことが原因とされている。この道は交易・経済のルートだったので、いくら遊牧民の匈奴とはいえ、いや遊牧民だからこそ、物資の交換などの交易を必要としていた。つまり匈奴は補給戦を絶たれて、そして負けたのである。
だがこの地は、その後も遊牧国家によって取られたり、取り返したりを繰り返した。漢族による限界線、すなわち漢族の共同体の限界線は実はここなのである。現在の中華人共和国は、ハプスブルク帝国のように多民族国家である。ハプスブルクの支配者層たるゲルマン民族が、オーストリア周辺くらいまでのごくごく小さい領域までの範囲しか支配できていなかったように(ハンガリーやユーゴスラビアなど、ハプスブルクは広範囲の帝国を築いていた)、中国も漢族という支配者層がいる範囲の西側の限界線は、ここ甘粛なのである。

さて、先ほど「武帝が張騫を大月氏に派遣して、これと同盟を結び」ということを書いたが、「大月氏」とは「おおつき氏」と読むのではない。そんなプラズマ教授のような名前の国ではなく「だいげっし」と読む。この「大月氏」というのが遊牧民族名なのか国家名なのかは良く分かっていない。匈奴・鮮卑・モンゴルというのも、これも同じで「民族名」か「国家名」という区別は、この時代においては極めて曖昧な存在であった。つまり、匈奴に属していた遊牧民族も、鮮卑に仕えれば、それが「鮮卑人」になるわけだ。後のモンゴル帝国をみれば明らかなように、彼らは様々な遊牧民族を「モンゴル」という統一した呼び名の下に結集させた。大月氏も、規模の違いはあるにせよ、これと同じ状況であったと思われる。言語的にはテュルク、イラン、チベット、モンゴルのいずれか?ということになっているが、良くわかってはいない。
ただ、「月」という漢字が置かれているのは興味深い。私はテュルク系の言語の人間が支配者層に多かったのではないかと推測している。なぜなら「テュルク」は「トルコ」の事を指した言葉で、このテュルク系民族は、古代においては中央アジア~東北アジアの一体に広がっていた。近年「トルクメニスタン(西トルキスタン)」「トルコ共和国」「東トルキスタン(ウイグル自治区)」という国があるが、これらの国の国旗には「三日月」が描かれている。テュルクのトレードマークは「三日月」なのである。そうすると「大月氏」の「月」という文字は、やはりテュルクと見るのが正しいのではないか?と思うのである。

このように、甘粛という場所は古代から戦略的・地政学的にも極めて重要な地であった。それは現在においても変わらない。甘粛省と隣接している省は「内モンゴル自治区」「寧夏回族自治区」「ウイグル自治区」「青海省(かつてのチベット。本当はチベット自治区はここまであった)」である。漢人とそれ以外の民族の境に位置している省。それが甘粛である。簡単にいえば、ここは漢人が他民族から切り取って自分の領土にした地域であり、風土、景色、文化などは、完全に非中国、すなわち外国である。それはこの後にUPしていく写真をみれば良く分かっていただけると思う。お楽しみに!



さて、この若干イケメンの好青年は、私が西安駅の待合室で知り合った西安出身の中国人である。彼は日本語がなかなか上手い。以前にも書いたが、iphone3GSを持つ金持ちである。彼は働いていないので、おそらく両親が金持ちなのだろう。この時間帯は既に夜の21時は回っている。この時点で乗車してから9時間は経とうとしているが、その表情はさわやかで崩れてはいない。不思議なもので、会話をしていると長時間乗車している疲労をあまり感じなくなる。彼の席は隣の車両だったが、夜になって遊びにきたようだ。
この時になって気づいた。そうか、彼に翻訳を頼めば、昼間の中国人との会話も、筆談ではなくて、もっと濃密にできただろうに…、と。そこで、また2時間程、彼という通訳を使って中国人とのしばしの会話に華をさかせた。この席で、彼と意気投合し、「ウルムチで26日に会おう」という約束をした。彼は一足先にウルムチまで行ってしばらく滞在する。私は4、5日後にウルムチに行く。つまり4、5日後にウルムチの駅で再会しようという事になった。私がウルムチに向かう列車の切符を買って、その発車時刻が分かったら、彼に電話するという手はずになったので、彼の電話番号を聞き出した。
さて、中国で電話をかけるという、またやったことのないことに挑戦することになったが、それは後日の話である。とりあえずは、ウルムチでの再開を約束した。





次回予告!
ついに甘粛の西側、嘉峪関に来る。
そこはもう、中国的なものは殆ど感じさせない砂と瓦礫の大地の世界だった。北京から2500キロも離れた場所にそびえる「シルクロードにある万里の長城の姿とは??」
乞うご期待!

政治の話

2010年09月24日 15時10分45秒 | 政治 経済
日中関係がキナ臭くなってきた。それが危ないというつもりは毛頭ない。日本がまともな政府であるならば、今後もっとキナ臭くなるであろう。それは当然な事だ。なぜならこれまでが宥和しまくってきて、そしてついに自国の領土・主権まで大きく侵されようとしている、いや、侵されているからだ。これ以上宥和するのであれば、これはもう「私はあなたに領土も差し出します」と言っているに等しい。または「領土をちらつかせたら、経済的な宥和をします」というヤクザにミカジメ料を払う状態に等しい。実際日中関係というのはずっとキナ臭かったのだ。それにフタを閉めてこちらが譲歩しまくった結果がこれだ。ナチスが台頭する時代に、イギリスのチェンバレン首相が対独宥和政策を進めて非難の的になったが、あれを笑う資格は残念ながら我が国にはない。チェンバレンが宥和政策を採ったのは、対独戦争の時間稼ぎとして軍備を整える時間稼ぐ為だった。日本はこれのまさに逆を行った。憲法の縛りによって、自衛隊は定義上でも実質的にも軍隊ではなくなっている。それが、集団的自衛権の行使も出来ない事実に現れている。ならば軍事費の増大になってこれを補うかと思いきや、軍事費は減額の一途をたどっている。これでは、全く時間稼ぎにすらなっていない。弱体化への時間稼ぎである。いまや日本の弱体化は極まった。中国は満を持して、覇権を求めて挑戦状を叩きつけてきたのである。

このブロク「Eos5D写真三昧」の趣旨は、「デジタル一眼レフ初心者が写真を公開する無謀なブログ」であることは重々承知している。だが、今やノホホンと中国旅行記を書いているワケには行かなくなったのである。旅行記の趣旨は写真の公開もあるけれども、その国の魅力を写真と出来事によって伝えることである。旅行の素晴らしさとその国に対する素晴らしさを、多くの人に知ってもらおうというのが、私のブログにおける旅行記の目的である。だが、今回の件で正直中国の魅力などは伝えたくなくなった。これから日が経つにつれて、一層その思いは強くなるであろう。今後の対応を予測すると、そうとしか思えないからである。というのは、「中国旅行の魅力を伝える」行為が、「中国礼賛」と捻じ曲がって捉えられることに、私は我慢できないからである。そんな捉え方をするアホはいないだろう、と言うかもしれないが、この国にはそういったアホがまだ多いのである。これは親中に限らず、反中にもそういったアホがいるのだ。
政治においては徹底的に中国を批判・罵倒をするが、旅行についてはその国の魅力を伝える。これを「ダブルスタンダード」と捉える輩がいて、私はそれらの誤解を私は恐れるというか、忌避したいのである。これを完全に切り分けることの出来る人はいないのだが、(なぜならあまりにも関連しすぎている部分もあるから)可能な限り理性によって抑制したい。そう私は考えているのである。
そこで、今回は「閑話休題」と題して、中国の政治の話をすることになった。ブログのカテゴリーにも「政治」というジャンルを特別に儲け、旅行記とはまったく違うスタンスで徹底的に中国を批判・罵倒しようと思う。この「閑話休題」は、今後の中国の動向次第では「閑話休題2」「3」が更新されるかもしれない。目的は前述したとおりアホの誤解を解くためだが、それ以外にも私の思想信条という点もかなり大きい。というか、こっちの方がたぶん大きいのである(笑) なので時折、感情的な文面になる場合があるが御容赦いただきたい。

それにしても危なかった。私は8月に中国に行ってよかった。これが9月半ば以降であれば、拘束されていたのは私かも知れない。なにしろ中国は国内法でフジタ社員の4人を捕らえたというが、あの国の法に対する考えは、古代の文書「十八史略」に登場する人間の法に対する考えと、根本ではなんら変わっていないからだ。すなわち法を恣意的に運用するのである。例えば、私が前回UPした西安の駅のホームの写真。あれなんか「軍事施設」と強弁することができる。もうなんでもアリである。


さて、現在尖閣諸島においては、未だ中国の漁船が20隻以上も操業しているらしい。まともな推理力があれば、これは国家の指令を受けて行っているということが明白であろう。だれが逮捕されるリスクをしょって行くものか。要するに、これは中国の国家を挙げた「尖閣諸島の領有権問題への格上げ」を狙った政治戦略である。すでに中国は対日経済制裁に入っている。レアメタルの禁輸、セレモニーのドタキャン。民間契約のドタキャン。ただし禁輸を国家政策として行っている事が証明されてしまうと、WTOのルール違反になるから、中国はこれには関与していないと逃げ口上を打っているのだが、こんなの中国政府が企業に圧力・命令を出していると子供でも気づく。
中国は近代国家ではない。近代国家というのは憲法があって、行政・立法・司法の三権が分立し、主権者(権力者)の恣意的な権力の行使を、理性とシステムによってある程度押さえ込もうとする、自律型のモラルをもった国家モデルである。しかるに中国共産党は、超法規的な存在で、憲法の上に位置しているのである。なにものにも掣肘されないのだ。曰く、共産党が国家を「指導」するのだそうだ。つまり中国は構造的に、中国共産党が行政権も立法権も司法権も介入できるということになる。これは「近代国家」の政治体制ではない。もっとも近い政体は「独裁」あるいは「王政」あるいは「軍政」である。


さて、尖閣諸島における問題の正しい対処は分かりきっている。まず尖閣諸島は我が国の領土である。領土内で犯罪行為が行われたらどうなるか?そりゃ逮捕される。東京で中国人が犯罪を犯したら逮捕される。だが、この比喩は本質的には正しくない。正しくは、東京で中国政府の意向・命令を受けた工作員が、国家を揺るがすような犯罪を行った…が正しい。そりゃ当然逮捕される。それだけでは済まない、という事になる。スパイ行為、もしくは破壊活動と同じくらいの内容なのだ。
さて、日本は近代国家なので国内で行われた犯罪については、国際問題がどうであろうが、行政がどうであろうが、独立した司法が法に則って処理をするワケである。それが最高裁判所のような大きいところではなく、一地方の裁判所であろうともである。一地方であろうが「主体的な決定権」が与えられているのである。日本が親中的であろうが、反中的であろうが、その恣意を極度に抑えて、法による対処を厳正に行う。これが法治国家であり、近代国家の要諦でもあるのだ。さて、我が国の政府は「国民の生命・財産を守る」ことが果たすべき機能であり、役割である。ならば、一刻も速く軍艦を尖閣諸島に派遣して、領土侵犯をして「日本の財産を奪っている」行為に対して、これを駆逐せよ。軍事衝突になってもやむを得ない。トルコとギリシアがそうであったように、利権と主権がからんで軍事衝突になることはよくある。軍事衝突と戦争の間にははるかな距離がある。軍事衝突などその程度の事である。これをしなかったからガス田問題にもなった。法で「それはできない」と判断するなら、そんな法は一刻も早く改正せよ。憲法が足かせなら、一刻も早く改憲せよ。中国が対日経済制裁をしてくるのだったら、こちらも対中経済制裁を行え。経済制裁とは、相手を苦しめることもできるが、同時に自分も苦しいものなのだ。このチキンレースに負けたものは外交の負けとイコールになる。さて、問題はこの闘争で漁夫の利を得るアメリカの存在だ。アメリカとしては、そういう戦略がもっともアメリカにとっての利になることを十分承知しているハズだ。故に、今回の事件は、裏でアメリカが何らかの形で糸を引いている可能性も十分考えられる。政府に集まる情報は私よりも質・量ともに膨大なものがあるはずで、その情報から、それらの駆け引きは読めるであろうから、その全てを解消する方向で動かねばならぬ。いずれにせよ、軍備は増強するべきである。「軍備増強(公共投資)」である。
経済面だけでは外交を有利には持っていけない。北朝鮮が国力の低さと反比例するかのごとく外交の交渉力があるのは何ゆえか? とにかく軍備を増やせば、軍関係のモノの受注が増える。雇用が増える。軍産複合体を作ろうというのではない。対GDP比20%まで上げろといっているのではないのだ。現在はたかだが1%である。これを3%くらいにしても構わない。ちなみに、軍備が膨らみすぎて倒れそうな国の軍事費の対GDP比は25%以上である。外に敵も抱え、内に反乱の可能性を抱え…という国である。サウジアラビアなどがこれに該当する。

温家宝が恥知らずにも国連総会で「主権がなんだ」とほざいたが、ここ近年の東シナ海付近のすべての事象は、尖閣諸島領土問題化に格上げが狙いである。それはこの地下に眠るガス田だけではなく、そのさらに地下に眠る1000億バレルほどある石油の埋蔵量を狙っているのである。この埋蔵量はイラクの石油埋蔵量に匹敵する規模である。1970年に中国は突如尖閣諸島の領有権を勝手に主張し始めた。理由は前年に国際調査において、この地に石油が眠っていることが確認されたからである。

こう考えると、今回の件とは関係ない話だが「南極の基地」とやらの本質が見えてくるようだ。


それなりの対応方法は見えている。どうしたら良いかという方向性も読めている。にも関わらずそれが性急に実現しないというのはもどかしい。一昔前は、こういう事を言うと「右翼」といわれていたのだから、つくづく昔の日本は「極左」だったのだろう。というか「左翼」ですらない。左翼・右翼というのは本質において「国の為」という思いが入っているものだが、こと我が国の「左」は、入っているのは「利己」だけ。
選ぶ国民も、まともな選定眼をもたんかい!!猛省を求めたいところである。




尖閣沖衝突、中国人船長を処分保留で釈放
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100924-OYT1T00677.htm


記事を書いている途中で釈放だってさ。裁判ナシで釈放だって。
これで日本の近代国家思想、民主主義は死んだ。

9:中国人親子

2010年09月23日 15時46分54秒 | 中国旅行記2010年8月
西安出発の日。向かう先は西域「嘉峪関」である。嘉峪関は北京から2000キロ以上離れている所だが、そこにも万里の長城は続いている。万里の長城の最果てをかねてから見たい。それが今回の旅行の目的の一つでもあった。
さて、写真は西安駅での一コマである。中国人の娘と父親である。どこの国に行っても子供はカワイイ。子供はめずらしいモノには興味津々で、異邦人たる私と私が持っているカメラをマジマジ見ていた。娘はスレていなかったので、まあ可愛かった。そこで親子でバチリとカメラを撮る。
この写真、よくよく見てみると、父親の顔がだれかに似ているのが分かる。チュートリアルの福田にソックリな顔である。現地にいた時には気づかなかったが、こうやって撮った写真を改めてみてみるとよく似ている。



多少恥ずかしがっているのか、それともポーズを取っているのか、なかなか良い表情の写真が撮れた。



さて、本日は西安発~嘉峪関着の列車に乗る。所要時間は18時間。長い。しかし寝台車の切符は買えなかったので、硬座で18時間を耐えるしかない。出発時刻は10時のハズだったが、列車到着が遅れている。写真の中の電光掲示板に書いてある「晩至」というのは、遅れているという表示であるが、どの列車も次々と「晩至」に変わっていく。この国では始発でない限り、まず長距離列車は定刻どおりに出発できない。「晩至」の表記の後に時間が書いてあるが、私の乗る列車は、もともと10時27分の発車であった。それが11時に変更され、11時半に伸び、最終的には12時半となるのである。ムカつくのは、その遅れの時間を小出しにして知らせることである。11時に変更するときに、すでに11時なんかには着きっこないことは鉄道員は知っているハズである。だが小出しに11時と掲示板上に表記される。そして10時50分頃に、11時30分とまた小出しに変更される。そして11時15分くらいになると、12時30分と「元々から分かっていた遅れ」をここで初めて公表するのである。
この待合室では、およそ10本の列車の時刻は表示されていたが、その10本の中の実に6本くらいは「晩至」に次々と変更されていった。私の乗る列車は最終的には2時間遅れで到着する。
以上の内容から分かる通り、この国では列車移動による予定は立たない。乗り換えなんて怖くて出来ないのである。この国で私が感じたのは時間の流れがゆっくりであるという事である。この国を旅行するときは、かなり時間に余裕をもったスケジュールを立てることをお薦めする。この列車の遅れについてカリカリしてはいけない。これにカリカリするようでは、中国でのほぼ全ての事にカリカリすることになるからだ。高品質、高サービス、時は金なり、これらは先進国日本などの高度経済国では常識的な感覚だが、時間における貴重さの概念が我が国と中国では異なる。これは東南アジアの発展途上国でも同じことだが、なにをするにしても時間がかかるというのは、効率において極めて問題があるわけで、よって経済発展に対しても大きな支障がでるということであって、後進国の後進国たる所以であるので仕方が無い。
旅行にもし「高インフラ的な快適さ」を求めるのであれば、中国の内陸部には行かない方が良いかもしれない。上海あたりでは、おそらくこういうトラブルはないであろう。内陸・西域の旅行は「優雅」でも「インフラ的快適」でもないが、異文化や西洋化されていない風土を味わうことにおいては「快適」である。

この待ち時間中に、日本語のできる中国人と知り合った。彼は中国人の中では金持ちのようである。しかも年も若く20代だ。アイフォーンの3GSを持っているくらいである。日本にも行った事があるようで、日常会話程度の日本語ならば理解できる。彼も硬座席らしいのだが、行き先は私よりも遠いウルムチである。所要時間はおよそ28時間。28時間もよく硬座に座って行こうと考えたものである。彼とは乗車してからも会話が続き、後日ウルムチで合流しようと約束をした。彼についての話については、また次回の記事で機会があったら書こうと思う。



これが天下の西安駅のホームである。うーん古い。西欧の田舎の駅とちょっと似ている。今日の西安という都市は、意外と田舎なのか?しかし西安市区人口は420万人ほどいるので、大都市だと思うのだが…。



いよいよ18時間の乗車の旅が始まる。
とにかく、中国の列車には一人旅の外国人は殆どいないので、必然的に中国人の注目の的になってしまう。まぁ話しかけられるわ話かけられるわ。彼らは中国語しか出来ないが、まぁ話しかけてくる。私も筆談で応酬する。そんな事が2~3時間は続く。

8:兵馬俑

2010年09月18日 03時49分12秒 | 中国旅行記2010年8月
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ご存知、有名な兵馬俑の写真です。結論を先に言おう。これほど写真で見た風景のイメージと、実物との差を感じなかった観光地を私は知らない。まんまである。「どうせ幕張メッセみたいな展示場の中に、土に埋まった兵馬俑が綺麗にならべられて展示してあるだけだよ」と行く前には思っていた。実際に見てみてもその通りであった。

さて、この兵馬俑。元々は着色されていた。鎧の色は黒で紫の縁取りが入っている。秦の正規軍は黒かったワケだ。発掘直後はこの色が残っていたが、空気に触れたらあっという間に風化して、ごらんのような土くれの色になってしまったらしい。空気に触れても大丈夫なように保存する技術がまだ確立されていないという事なので、発掘は現在中止されている。よって始皇帝の石棺の場所も当然まだ土の中であり、どういう形でどういう色だか分かっていない。



さて、この始皇帝陵の一部たる兵馬俑が発見されたのは1974年。まだ36年程度しか経っていないが、この発掘によって秦の部隊編成や民族構成などが随分明らかになってきているらしい。それによると、秦の軍団は様々な民族の混成部隊だったそうである。秦は長年西戎と抗争を繰り返していたので、おそらく西戎の民族も流入していたであろう。匈奴などのテュルク系の民族も入っていたに違いない。という事はやはり遊牧民特有の騎馬術に長けた者も多かったに違いない。春秋・戦国時代などに秦が蛮族呼ばわりされていたのを考えれば、やはり秦も胡人と深いかかわりがあったのだろう。
なお、展示されている兵馬俑は、あくまで始皇帝陵の一部に過ぎないという。これよりも地下には宮殿もあるという話である。そこにも相当な数の兵馬の俑がいるのだろう。風化防止の技術が確立されれば、秦の時代の文化や軍制その他のことがもっと明らかになるに違いない。副葬品なども出てくれば一層秦の時代の詳しいことが解明できるであろう。早くそういう日が訪れて欲しいものである。



こちらの写真を見れば、俑の実物大の大きさが分かるであろう。あれ?なんか現代人と同じくらいの大きさのような…。まぁ細かい事はおいておくとしても、注目すべきはやはり馬と人の大きさの対比である。現代のように交配が進んでサラブレッド化した馬とは違い、かなり小ぶりである。これではおそらく最高時速でも30キロ~40キロくらしか出ないだろう。



発見された銅剣である。紀元前220年頃には、まだ銅剣を使っていたらしい。鉄剣もあったはずであるが、銅剣もまだ駆逐されてはいなかったようだ。そりゃ弥生時代にも鉄製農具は使われていたから、中国に鉄剣も沢山あるに決まっている。ただ驚きなのは、その先進文化のはずの秦が、この時代まだ銅剣も使っていたという事実である。鉄の武器が兵士の隅々に至るほど、秦も鉄が安価に生産できなかったのかもしれない。



中国には「槍」と呼ばれるものが5種類あった。これまで文書などからその存在は知られてはいたが、ここ兵馬俑にて発掘されて初めてその存在が考古学的に実証されたのである。左から順に「戟」「矛」「」「殳」「戈」。全部、大体が「ほこ」を意味する言葉だが、その名前と形が違っている。「戟」は良く見ると西洋のハルバードのような形をしている。「矛」は現在の槍の形で、「」はやや大ぶりな槍。「殳」は先端のみが変わった形で尖った槍である。最後の「戈」はピッケルとそっくりである。この中で日本に伝えられたものは「矛」の形状のものだけである。戟や戈は、我々日本人から見ると馴染みのない武器である。中国発祥というよりは、むしろ大陸には広く分布していたものなのだろう。西洋に広まったものはハルバードになり、ピッケルになったのであろう。これらの武器の発祥の地がどこであったのかは分からないが、おそらくは中東・ペルシャあたりなのだろう。



こういうものを見ていると、改めて俑とハニワの関係などが思い起こされる。
精巧さにおいて、はるかにこちらの俑のほうが凌ぐが、東アジアの辺境である倭の国の墳墓に埋められた俑(ハニワ)のレベルは、あの時代にはあのくらいだったのであろう。それにしても、この一体一体に色が塗られていたというのだから凄いことである。

7:西安

2010年09月14日 19時27分36秒 | 中国旅行記2010年8月
電車は3時間遅れで西安に到着。
西安駅に着き、まず真っ先にしなければならない事。それは次の目的地までの切符を事前に買っておく事である。早速売り場へいくが、寝台車の切符はもうない。硬座のみである。仕方なく硬座の切符で我慢することにした。

次は早速宿の確保である。駅前でホテルの勧誘している女の人の押しがあまりにつよいので、とりあえず無視し続けるのもどうかと思い、話だけでも聞いてみる事にした。曰く宿代は160元(130元くらいだったかもしれない)だという。しかも駅から徒歩で5分くらいの場所である。非常にリーズナブルだったのでそこに決めた。
どうやら、この女の人はホテルの従業員ではない。一日バスツアーなどの旅行案内のスタッフであるようだ。彼女らは私のような旅行者を、さっさと安そうな宿に案内し、バスツアーに勧誘しようとしているワケである。私としても西安に兵馬俑を見にきたので、バスツアーを利用しようと考えていた。

結論から先に書こう。バスツアーは使ってはいけない。
バスツアーの寄る場所は、驪山北麓、おまけ、おまけ、おまけ、鴻門の会跡、兵馬俑です。このおまけを含めると実に5~6箇所回ることになりますが、このおまけが限りなくヒドイ。まず土産物屋2店に寄る。昼飯屋にも寄る(高い)。子供だましのテーマパークに連れて行かれる(世界七不思議ハリボテテーマパーク)。これがおまけの正体である。
さて、このバスツアーの値段だが、ここで私は騙されてしまったかもしれない。というか多分騙された。ツアーの料金はバス代とは別で、バス代は40元なのだが、ツアー料金は280元もするのである。勿論このツアー料金は、入場料金も含まれている。兵馬俑は90元。驪山はロープーウェイに乗るのだが、この入場料はいくらかは分からない。鴻門の会跡の入場料金も分からない。おまけの入場料金も分からない。だが5箇所で280元なら、ひとつ平均で50元だ、お得だ、と思わせる戦法だったのだ。実は兵馬俑以外はクソで、おまけに至っては、金を払うのもバカバカしいものであった。特に世界七不思議ハリボテ博物館(?)のヒドさといったら、筆舌に尽くしがたいほど陳腐で幼稚だ。こんなものは子供騙しですらない。子供ですら騙せないほどの代物である。バス代40元+ツアー代280元=320元(4160円)はまったくありえない。さらにキタナイ事に、このツアー代の徴収は、ツアーバスが走り出してから20分後ぐらいに行うワケである。バスが走り出す前にこの話がでれば、全てご破算にしてバス代40元すらも解約することも出来たと思うが、走り出してからだともう遅い。乗客は、私と、日本人のバックパッカー、韓国人のバックパッカー、そして中国人の家族4人の計7名であった。日本人と韓国人のバックパッカーは「話が違う」と言い出した。私とまったく同じ境遇である。彼らも40元で兵馬俑の往復バスとして利用したらしい。驪山も鴻門の会跡もどうでも良いのである。私もまったく同感だったので、彼らと野合して「兵馬俑にしか行かない」と一点張りを通し、バス代の40元だけで乗り切ろうとした。が、ツアーのガイドのねーちゃんは呆れたようにため息をつくばかりだ。ねーちゃんは英語が話せない。しきりに中国語でいろんなことを話すが、どうやらバス代だけの40元ではダメのようだ。兵馬俑の一点張りを続けると、しまいにはねーちゃんはご立腹のご様子である。「おいおい、逆切れかよ。ご立腹なのはこっちだっつーの」という思いでイッパイになったが、サービスレベルが低いのは中国に来る前から覚悟しておいたので、ジッと堪えながら交渉を続ける。だがまったくの平行線である。すったもんだの挙句、驪山と兵馬俑とおまけ(七不思議博物館)おまけ(西安歴史博物館?)で200元という事で妥協した。(この時点では七不思議と西安歴史博物館?のヒドさの正体を知らない。正式名称はナンタラ博物館という大層な名前になっているので、4箇所で200元という内容しか頭に入らなかった。兵馬俑が入場料90元なので、あとの三つが110元で見られる。つまり一つあたり35元程度で見られるという計算である。ガイドのネーチャンはかなり不服そうだったが、その姿を見ていると気分が悪くなるので、私はここから無関心を決め込むことにして相手にしないことにした。 結果的には、この後の結末を知っていたら、この時激怒していたハズであった。

さて驪山だが、この日は生憎の雨。驪山全体は雨と霧で視界がまったく悪く、観光としては見るべきものはまったくなかった。写真は大雨なので一枚も残っていない。

次に土産物1である。宝石・石屋である。すでに大勢のお店スタッフがツアー客を入り口で待ち構えている。ツアー客の7人よりも従業員数のほうが圧倒的に多い店で、買え買えオーラがほとばしっている。ガイドもつまらんところに連れてきたものである。

次にメシ屋に寄る。メニューも通常の1.5倍くらいの値段で辟易した。日本人と韓国人のバックパッカーと料理をシェアして極力安く済ませる。

次はいよいよ悪名高き「七不思議博物館もとい展示場」である。



中国西安の土地に、明らかに場違いな建物が建っている。



よくよくみてみると、写真には「世界八大奇跡館」と書いてあって世界7大ではなかったが、そんな細かい当方の間違いはどうでもよろしい。この奇跡館の内部はお化け屋敷のように暗く、うっすらと照明が当たっている程度である。理由はすぐ分かった。そうしないとハリボテすぎてただでさえ陳腐な作りが、もっと陳腐に見えて金を取れないからであろう。案の定、お客さんは我々以外には殆どいない。
ここを解説するのも馬鹿馬鹿しいことなのだが、要は世界の7不思議に兵馬俑をいれて、8大奇跡にしたのである。ちなみに7不思議とは、ピラミッド、アレクサンドリアの灯台、バビロンの空中庭園、ギリシャのゼウス像とか、そういったものである。それに自国中国の兵馬俑を取り入れているワケで、ジョークとしてもアトラクションとしても全然笑えない。

次に行ったのは、また土産物屋。

ここの土産物屋の棚の配置は失笑ものである。普通売店の棚の配置というのは、コンビニのような回遊性を考えて作るものだが、この店はどうやら回遊性よりももっと拘るものがあるらしい。まず図を見ていただこう。



汚いイラストで失礼。上の迷路のように一本道になっているのが棚である。入り口を入って、まず客は右側から商品棚を見る。そして棚をくまなく回る事によって、ようやくレジ付近から出られるのである。
彼らが意識している事柄は一目瞭然だ。「全部見ていってくれ」「なんか買ってくれ」「買わないで出て行かないでくれ」という無言の言葉を感じる。あまりの浅ましさと浅はかさに失笑するしかない。

土産物の次は、西安の歴史博物館?展示場?ハリボテ?である。ここも先ほどと同様に館の内部は暗く、うっすらと照明があたる程度である。金を取るならもっと金をかけろと言いたくなる。



写真はよく分からないと思うが、始皇帝の墓を再現したものである。細長い蛍光灯のような又ヘビのような地面の光は、始皇帝の墓に水銀の川が流れていたことを再現したものである。石棺の形と色は想像上のものだろう。始皇帝が眠る石棺が発掘されたという話は、少なくとも私は聞いたことがない。よってレプリカといえどもこんな形でこんな色で、こんな内装だったのかは一切分からないのである。物語というよりもおとぎ話レベルであり、学問的な価値は全くない。そのあまりの馬鹿馬鹿しさに、iphoneで撮影してしまった程である。

さて、この日11時から始まったツアーだが、このようなクソつまらない所と、お土産屋などを回った為に、兵馬俑に到着したのは午後5時だった。兵馬俑の閉館は午後6時。一時間でこの博物館を見てくれとガイドはぬかす。さらに待ち合わせ場所はココではなくて、チョット歩かせた場所にするという。こんな時間の少ない時にさらに時間を削る発言をしたのである。そらに集合場所も中国語でウダウダいっているので、位置がよく分からない。時間はどんどん過ぎていく。さすがにここで私はキレた。兵馬俑は私は少なくとも2時間は見ようと思ったのに、こんな下らないものを見させられて、肝心要のものが一時間という有様である。まさに本末転倒という言葉こそふさわしい。ガイドといっても、彼女は最初の観光場所から一貫して入場口から先へは一切中に入ってこないのである。解説なんぞしないのだ。バスの中でウダウダしゃべっているだけである。モタモタやっているので、「はやく入場券を買って来い!」「集合場所は、あそこでいいんだな、早くしろ」と怒りを爆発させて、ツアーの観光客の双方を完全シカトして、さっさと本命の博物館に入って行った。走らないと時間が勿体無い。走らせなければいけない状況を作ったガイドとツアーに心底腹が立った。他人を待っている余裕などはないのだ。西安に立ち寄ったのはただ「兵馬俑」を見るためだけといっても過言ではなかった。翌日の朝には西安を立つ。兵馬俑が見えなければ、西安に時間をかけて寄った意味が全くなくなる。そういう思いで一杯になり、心の余裕が失われていたのである。さて中国人の家族は、娘1人だけが兵馬俑を見たいとか言っており、両親は我々3人に(私、日本人と韓国人のバックパッカー)娘も一緒に連れて行ってくれと言う。
この時私は完全に無視状態だった。そんなのを一緒に連れてみていたら、それこそ時間がまったくなくなるのである。

その行為は後に「娘はどうしたんだ?一緒じゃないのか?」という話になり、揉め事に繋がるのであるが、もうそんなことはこの時は知った事ではなかった。ガイドのねーちゃんも、それに文句をいわない中国人家族にも正直うんざりしていた。この家族はひょっとしてサクラなのではないかともこの時は疑っていた程である。
さらに、ガイドのねーちゃんは信じられない事をサラっと言った。6時15分までは待つが、それ以降になったらバスは出発するとか言って、タイムリミットをつけやがった。「遅れてバスを逃したら自分で帰れ」という事である。「はぁぁぁ???」って感じだが、問答などしている暇はないのである。

午後6時ギリギリに1人バスに帰ってきたときに、その母親からツッコまれたが、「しらん」の一言で放っておくことにした。ガイドにも同様の質問をされたが、同じく「しらん」でほうっておいた。私は「娘を連れて行ってくれ」という要求に「YES」とは答えていない。それを説明するのももはや面倒くさかったので「時間がなかった」「私は走ってみて回ったので知らん」の一点張りを通した。10分くらい経っても一行は帰ってこないので、ガイドはまた不愉快モードになって、私になんか言ってくる。ここでまた、私はキレモードに入った。もう英語を使って話すのもバカバカしくなったので、日本語で文句を言うだけ言った。ガイドは私がキレたのを少々驚いたようで、これ以降には私に対してはおとなしくなった。よろしい、これが外国流だ。日本では私の行為ははなはだ「ワガママ」に当たるのだが、外国ではここまでやらないと付込まれる元となるからである。まずかったのは、キレするが遅かった事だ。200元払う時にやっておくべき儀式(キレること)だったと反省している。

というワケで、兵馬俑にもし行かれる方がいるなら、一つだけ提案したい。
一日バスツアーは止めておいたほうが良い。それは「気分が悪くなるから」という理由ではない。明らかに値段が高くつくことと、時間が無駄になるからである。

すでに中国の旅を終えた今となってみると、合計240元というのはとんでもない金額の高さであることが分かる。利用はしていないが、市内から出ているバスを利用すれば、兵馬俑まではおそらく片道5元とか7元くらいしかかからないはずである。3時間か4時間も時間があれば、入場料も含めて僅か100~105元くらいの間で兵馬俑を2時間以上も満喫することが出来るのである。
一般のバスを利用することは難しくはない。実際、この後の旅程において、私は様々なバスを使った。そのどれもが1時間乗っても10元は超えない金額で収まるのである。

兵馬俑の写真と内容については次号で紹介します。

6:北京西発西安行き

2010年09月11日 03時37分01秒 | 中国旅行記2010年8月
北京西発西安行き


iphone+動画編集

北京西~西安までの道のりはざっと1,300キロメートル。生まれて初めて寝台車に乗った。初めての寝台車が中国だったというのは奇縁と言うしかない。ここ2等寝台車は三段ベットが二つあり、計6つのベットがおいてあるコンパートメントだ。私の場所は2階。1階と私の対面の2階のベットは、中国人の家族の場所になっている。動画に写っている生足のオネーチャンは、その家族の娘である。とにかくこのオネーチャンはスタイルは抜群であった。
これから西安まで13時間の旅が始まる。



これが切符である。サイズは名詞よりも小さく日本の切符よりは大きい。値段は265元(3445円)であるが、値段の左側に何か見覚えのあるマークが…。日本の通貨のマークである「¥」が。どうやら中国では、これは「元」ということを意味しているらしい。元はローマ字表記で「yuen」(ユエン)である。なるほど、元も円も同じような読み方だ。

2010年8月18日 16:55発   16号車 14番の中段ベットである。




ところで、北京西駅の近くには吉野家がある。この国の大中都市の駅前には、ケンタッキーフライドチキンか、吉野家かマクドナルドがある。その中でもケンタッキーフライドチキンは圧倒的で、中国全土の駅前を網羅しているのでは?と思うほど多い。ちなみにケンタの中国語表記は「肯徳基」である。
さて外資系のケンタやマックの話はどうでもよろしい。我らが日本が誇る吉野家の話をしようではないか。結論から言えば、吉野家やケンタに代表されるファストフード屋の値段は安くない。私の頼んだのは牛丼のセットである。中国には牛丼「中盛」というものがある。なんだそれは?聞いたことがないぞ中盛って。なるほど、確かに大きさは並と大盛の中間くらいである。その中盛にドリンクがセットになって15元(195円)である。日本の感覚では安いと思われるだろうが、中国では勿体無い値段である。しかし、セットのドリンクがコーラ、それもペプシとは…。
味については、完全に吉野家である。中国に来たというのに、中華料理を食べない私…。この頃は、まだ中国に来たてであり、日本でニュースで騒がれた「メタミドホス毒ギョーザ事件」の記憶が生々しく残っているので、怖くて多国籍チェーン店しか利用できなかったのだ。



見よ!このオネーチャンの見事なスタイルを。思わず目が太ももに行ってしまうではないか!!

5:でかい

2010年09月09日 04時21分43秒 | 中国旅行記2010年8月
EF24-105mmF4L

紫禁城の入場料は、たしか60元。入場券売り場は、入場口のかなり手前にあるので注意していないと通り過ぎてしまう。一方入場口の近くにも窓口があるけれども、ここではチケットを販売しているのではなくて、音声ガイドの機器を貸し出している窓口である。音声ガイドは日本語のものもあり、40元を払えば借りられるが、機器のデボジットとして100元預けておかねばならない。この100元は機器を返したときには返ってくるのだが、中国ではこの「デポジット」という制度が広く行われていて困るのである。例えばホテルに泊まるときなども必要だ。一泊180元のホテルで、400元のデポジットというヒドイ金額を預けさせられたこともある。人民元をそんなに換金していない旅行者にとってはデポジットを払えないという局面でもでてくるだろうに。

それにしても一々建物がデカイ。いったい何なんだこれは?
一般大衆の度肝を抜く装置としてはやり過ぎなような気がする。北京西の駅といい、この紫禁城といい、スケールのデカさが違う。これが大陸いや中国クオリティーというものだろうか?しかも、この写真の建物はまだ紫禁城の本体ではない。そこに繋がる「門」に過ぎない。宮殿はこの太和門の先にあるというのだから驚きである。



太和殿、明の時代には皇極殿と呼ばれていた建物である。ここでは、即位式、結婚、朝会、葬儀などが行われた宮殿の中で最も重要な場所とされている。写真で写っている人々の大きさと広場・建物とを比べてみれば、この建物が如何に大きいかがお分かりいただけるだろうと思う。この故宮を見てまわるには、少なくとも2時間は必要である。じっくり見たいのであれば半日は用意すべきだろう。さらにリュックなどの荷物を背負って見るものではない。荷物はホテルに預けてから、じっくりと手ぶらでまわるのが賢いやり方だ。
ちなみに、私の場合はこの日の夜の宿はホテルではなく寝台車。よって荷物であるリュックサックを背負っての故宮観光である。リュックの重さは5キロほどに抑えたとはいえ、これをもって故宮をまわるのはシンドイ。辛すぎる。賢明な諸兄は是非とも荷物はどこかに預けておこう。なお、中国の駅には「コインロッカー」なるものは置いていない。人が管理している荷物預かり所のようなものはあったが、これがはたして預かり所なのか、それとも西洋のチッキのように荷物を目的地の駅まで送るというサービスの窓口なのかは不明である。ただ、これが仮に預かり所だったとしても、中国人がその荷物を管理するのである。そいつが、リュックを開けて貴重品を盗らないとも限らない。中国到着二日目でイヤな思いはしたくなかったので、結局私はこのサービスを利用しなかった。このように中国ではインフラが整っていないため、荷物は極力少なく、そして軽くしておく工夫をしておこう。



太和殿の玉座。正直ここの写真を撮るのはかなり大変だった。なにが大変かといえば、ここの撮影ポイントには常に人だかりの山ができているのである。中国人がこの玉座の写真を撮ろうと、おしくらまんじゅう状態になる。撮影ポイントは朝の満員電車なみの人口密度である。そのあまりの密度の為、巻き込まれた子供などは大変で、泣き出す子もいるくらいの凄まじさである。その人だかりは尽きる事がなく、写真を撮り終えたものが離れる頃には、また新しい観光客がそこに補充されるといったように、つねに大きな人だかりができていて一向に人が減る気配がないのである。また人ごみを掻き分けて撮影ポイントに到達したとしても、押し、そして押されるので、カメラが思うように固定できない。撮影してもブレた写真にしかならない。まるでこの玉座は、芸能人のトップアイドルが如きである。皆、我先にと写真を撮ろうと、押すわ押すわ押すわ。私も15枚くらい撮影したが、まともな写真はここにUPした写真だけである。この現象は太和殿が特別なわけではなく、この後ろにある中和殿においても同様な事が起こる。中国人も日本人と同じく、やはり撮影ポイントには群がるわけである。

さて「天子南面す」という言葉をご存知だろうか?これは日本の京の大極殿も同じなのだが、天子は南を向いて座っているという事である。これは紫微、つまり北極星あたりが世界の中心であり、天帝の所在地であるという概念と無縁ではないだろう。つまり天帝の所在である北から、反対の南をにらむという構図である。同時に北半球において、南というのは一日中光が入るという建物における暮らし易さという要因も入っているかもしれない。だが、この南面という概念は中国のみならず、東アジア・東北アジアを含む一帯に広がる概念でもある。それはどういうことかというと、中国の東北部、または北方には遊牧民の国が昔から存在し、様々な国家形成をしながら栄え、そして滅んでいく事を繰り返していた。匈奴という国がかつてあった。この国の軍政を見ると南面の関係が良く分かる。王の軍や政治の中枢は国土の中央に配置し、その東側には「左賢王」の治める国や軍を置き、西側には「右賢王」が治める国や軍を置く。ちょうど左賢王・右賢王が鳥の翼の両翼のように西と東に広がって配置されているのである。この配置は、匈奴の後に現れた遊牧民族国家である鮮卑や突厥、契丹、モンゴル帝国に至るほとんど全ての遊牧民族の編成に共通した特徴である。東を「左賢王」と呼んでいるのは、支配者が南を向いているからである。南を向いている支配者(中国では皇帝)から見た場合、左側は東にあたり右側は西にあたる。そして遊牧民の国家においては、常に重要な位置は右(西)よりも左(東)であった。それは匈奴が鮮卑に取って代わられ、鮮卑が柔然に、柔然が突厥に取って代わられる歴史の中で、取って代わる存在は、つなに巨大な遊牧民国家の左(東)側から現れているという地政学的状況と無縁ではあるまい。遊牧民国家においては左(東)の備えは常に重要と位置づけられていた。中国や日本の官制には「左大臣・右大臣」なるものがある。位は勿論左大臣が上位で、右大臣が下位であるのだが、これは「左賢王・右賢王」の関係と見事に対比している。遊牧民は常に南を見ていた。彼らが居住する地域のさらに北は極寒の土地である。故に彼らが領土として広がりをもつ範囲は東であり西であり、そして定住者の国家が存在する南であったワケである。翻って中国の歴史は、常に北方の脅威にさらされたものであった。中国における遊牧民の形質を持った人が打ちたてた王朝は、数えても「北魏」「隋」「唐」「金」「元」「清」と数多い。
まだ完全に証明はされてはいないが、つまり天子南面す、という言葉そして風習は、おそらく遊牧民の風習から発祥したものが中国に伝わったのだろうと思う。中国の国家が、その地政学上において、南面する意味が分からないからだ。そもそも始皇帝である「秦」の国も、北方の蛮族出身の色が強く、かなり遊牧民国家的な形質を多く持っているのである。さらに遊牧民の宗教観にも「天帝」すなわち「テングリ」の概念は古くから存在しており、何も天帝思想は中国の独創ではないことが分かる。そう考えれば「天子南面す」という概念の発祥がいったいどこに由来するのかについては、かなり有力な推測が導き出せるだろう。すなわち遊牧民族発祥説である。




4:天安門広場~紫禁城(故宮)

2010年09月06日 12時25分58秒 | 中国旅行記2010年8月
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北京の世界遺産その1である紫禁城に来たる。
紫禁城。その名の由来は「紫微」という天帝を表す言葉。もともとは北極星あたりの一帯を指す言葉だが、星が動かないので世界の中心という意味を持つ。「禁」は庶民の入場が禁じられているという意味を持つ。
この城は、もともとは元朝のクビライ・ハンが都を大都に建てたときに作られたとか作られないとか言われているが、現在の姿に近い形になったのは明朝の永楽帝が改築した後のことである。昔この地は、燕と呼ばれており、永楽帝が帝位に就く前の位は燕王であった。燕という文字に「北」という文字が入っているのは偶然ではない。古くは北京は「燕京」と呼ばれていた。というワケで、現在のような大きな宮殿の形になったのは15世紀以降で比較的新しい建物であり、中国4000年の歴史をここから見て取ることは出来ない。

中国の古い都は西安、洛陽、南京であり、華北は遊牧民に征服される歴史を繰り返してきた。モンゴル帝国「元」が朱元璋によってモンゴル高原まで追い出されたとはいえ、なおもその勢いは強いものがあった。紫禁城改築も万里の長城の改築も、そのような状況の中で行われた事業であり、北方の脅威は常にあったワケである。

写真は天安門広場から撮影したものである。天安門事件で有名な天安門広場。1989年にここに戦車が出動し、民衆を武力で鎮圧した。それが僅か20年前のことである。1949年には、この天安門の建物に毛沢東が現れ中華人民共和国の成立を宣言した、そういう場所である。ここには数多くの公安(警察)がいて、なかなか警備は厳重である。天安門西駅の地下鉄の出口から天安門広場へは、地下道で繋がっているが、広場に入るためにはX線検査機に荷物を通さなければならないという厳重ぶりである。駅や空港以外でX線検査機を見たのは、ここ天安門だけである。



さて天安門~紫禁城の場所だが、地下鉄の1番線の天安門東駅(赤い丸印)が最寄の駅である。地下鉄2番線は環状線になっているが、これは紫禁城を囲むように走っている。中国の地下鉄についてだが、実は2003年くらいまでは1番線、2番線くらいしか無かった。ここ7年くらいの間に残りの線は開通したことになる。



こちらは中国政府が発表する2015年までの完成図である。あと5年で出来るとはとても思えない計画である。2010年現在では、この計画の半分も達成できていないではないか。ちなみに地下鉄の料金は全線2元(26円)である。全ての駅に自動改札機はあるが、お札は殆ど認識しないので、使っている人民はほとんどおらず、結局切符発券の窓口で駅員が販売しているほうに長蛇の列が出来ているという有様である。
中国の紙幣は、綺麗なピン札から汚いくしゃくしゃになって破れそうな紙幣もある。汚いお札はどさくさにまぎれて押し付けられるので注意が必要だ。



これが天安門入り口。門の上にはハゲのオッサンの肖像画が掛かっている。この男は大躍進政策で千万単位の人民を餓死させ、文化大革命において人民を虐殺してきた元締め。アメリカ流に言えば「悪の親玉」である。改革開放政策に切り替えられ、毛沢東の政策は否定されたとはいえ、未だ天安門にはこの肖像画が奉られている。さて、門の屋根の真ん中あたりには中国共産党の「エンブレム」が取り付けられている。明、清の皇帝が住まう宮殿の門に、共産党のエンブレムが付いているというのも、考えれば違和感のあるものだ。城壁には五星紅旗がひるがえり、城壁には「中華人民共和国万歳 世界人民大団結万歳」と書かれている。なにが「世界人民大団結万歳」だと思ってしまう。ここには主語が書かれていないが、要するに「(中国を中心とする)世界人民大団結万歳」に違いない。門の入り口には公安が2~3人程いるし、それは天安門広場にも多数いる。そういう状況を見ると、一層「大団結万歳」なんて言葉は空々しく聞こえるものだ。
社会主義を唱えた統領が、帝国主義の象徴たる紫禁城の表門である天安門の城壁から手を振って中華人民共和国の成立を宣言する。それだけでも「?」が無数に付くというものだ。結局「相手変われど、主かわらず」ってことだ。こんな事を中国のブログに書いたら公安に捕まるかも知れないが、ここに自由な国日本なので、気兼ねなく書けるというものである。



どこの国でも同じ事だが、国家に仕える連中の態度は横柄というか偉そうというか、やる気がないものである。日本の警察官もそりゃヒドイものだが、こっちの公安もそれはヒドイ。中国は景色や人民はなかなか良いのだが、残念ながら「国家」がクソだ。早く民主革命が起こってまともな国になってくれる事を祈る。

それにしても中国の宮殿はスケールが違う。ここは宮殿につづく門に過ぎないが、その門ですらこんなに堅牢で大きいのである。京の羅城門どころの騒ぎではない。

3:中国電車事情

2010年09月03日 21時51分47秒 | 中国旅行記2010年8月
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中国の列車事情をここで一つ。
中国の長距離列車は全て指定席である。○月○日のこの時間の列車の切符と指定して窓口で買わないとダメなのである。さらに中国の鉄道駅は、飛行場のシステムと良く似ている。勝手にホームに入ることは許されない。乗車する列車がホーム到着して、初めてホームに入場することが許されるのである。それまでは「候車室」と呼ばれる駅の待合室で列車の到着を待たされるワケなのだが、この待合室には切符を持っていない人は入れないし、入るにはX線検査を受けなければならない。笑ってしまう事に、鉄道の駅で荷物をX線検査機に入れないといけないのだが、このX線検査をモニターで見ている係官はだれもいないし、そもそもモニターなどがない。だが、このX線検査機の周りには鉄道公安がおり、「荷物を検査機に入れろ」といつも言うのだ。先進国から来た人にとってはまさに子供だまし、いや中国人だましとでも言おうか。浮浪者対策?テロ対策?タダ乗り対策?私としては3番目の対策が最も大きいと睨んでいる。2番目のテロ対策だとすれば、モニターがないというのはあまりにもオソマツである。ひょっとしたら、この検査機は形だけX線検査機に模しただけで、X線など出ていないのかもしれない。なにせ、この検査機は全中国の駅(地下鉄も含む)に設置されているからである。そんな数のX線検査機を入れるカネがあるとは思えないし、あったとすればモニターを置くのは当然ではないか。
つまり、推論ではあるが、この検査機の目的の対象は我々のような外国人ではなく、自国内の中国人を対象にしていることは明らかである。とすると、駅構内に入れない、待合室に入るにも切符・X線の検査がいるという制約をつけている理由は、浮浪者対策とタダ乗り防止対策くらいしか理由としては考えられない。

中国の長距離列車の座席の種類は5つ。硬臥(一等寝台車)、軟臥(二等寝台車)、硬座(日本の各駅停車のような座席)、軟座(日本の特急のような座席)、無座(立ち)である。切符は発車の10日前から窓口売り出しているが、需要が多すぎで(列車の本数が少ないので)いつも切符は入手が困難な状況である。長距離列車の場合、硬臥、軟臥の寝台車の切符の入手が難しく、一日前などではまず手に入らない。その他の座席にしても、出発2~3時間前に買おうとするのは無謀である。私の場合、出発の10~13時間前に窓口で買うことが多かったのだが、それでも希望の切符はほぼ買えなかった。寝台車の切符を4回買おうとして、成功したのは2回のみである。
さて次に、切符の買い方である。切符売り場は中国語で「集票処」(集の下のつくりが「木」ではなく「口」になっている)である。窓口が開いている時間は午前7時~午後21時くらいである「らしい」のだが、意外とこの時間はあてにならない。午前6時くらいから開いている場合もあるからだ。さらに24時間空いている窓口が、駅の中に一つはだいたいある。だから窓口の勤務時間などはさほど気にかける必要はない。気にすべきことはむしろ切符入手の困難さである。
窓口での会話は英語はまず通じないので、筆談で行うことになるが、中国の切符売り場の窓口は、たいて長蛇の列が出来ているので、あらかじめ紙に書いたものを窓口の係官に渡さないと、窓口の係官が全く相手にしてくれないという可能性があるので注意が必要だ。しかも前述したように需要過多・供給不足なので、切符入手の倍率は非常に高いので、候補をいくつも書いておかねば、係官から「没有(メイヨー:ない)」と一蹴されて、追い出されるハメになる。なので、少なくとも第5希望くらいは書いて置かないと、希望する座席の切符どころか、切符そのものすら手に入らないということになりかねない。では、私はどのように紙に自分の候補を書いたのか?以下にそれ書くことにする。

第一候補
北京西→西安
T43/T46次   (列車番号)
軟臥 或 硬臥  (座席の種類)
 1張

  或

第二候補
北京西→西安
 1363次
軟臥 或 硬臥
 1張

このようにして、第5希望くらいまで書いておくのである。ここで「軟臥 或 硬臥)とあるが、これは「軟臥か硬臥」という意味であり、流動性をもたせた内容にしている。軟臥と一点張りで書いてしまうと、即座に「没有(メイヨー)」といわれて終わってしまう可能性があるからだ。そして第一希望と第二希望の間にも「或」という文字を挟んでいる。これによって欲しい切符は一枚とわかり、第一希望がなければ第二希望、第三希望でお願いするという意味が相手に伝わる。繰り返すが第5希望くらい書いておかないと、切符そのものが手に入らない可能性が高い。
なお、ここで書いた筆談の例は繁体字だが、中国では簡体字を使用しているので、「候補」とか「軟」「張」という文字は、ひょっとすると相手にわからないかもしれないので、簡体字で書くことをお薦めする。ここでは文字化けするのであえて書かなかった。

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さて、一夜明けて8月17日。予定ではこの日の夜には西安行きの夜行列車に乗ることになっている。そこで私は早朝の6時に起床して、駅の切符の窓口に向かう事にした。驚くべきことは、朝の6時にも関わらず人の通りが多い事である。日本の昼間のように人が歩いている。中国の人の多さに最初に気づいた瞬間であった。
写真は北京西駅の建物。とても大きな建物であるが、駅の周りの光景と状態は、目を覆うものがあった。まずその臭いである。駅周辺は公衆便所のような小便の臭いが立ち込めている。そして、駅の入り口の周りには大勢の座り込んだ人達がいるのだ。それは貧乏旅行者の風体の者もいれば、出稼ぎ労働者のようなものもいるし、浮浪者のようなものもいる。それらの人々は、地面に座り込んだり、ダンボールを敷いて寝転がっていたり、寝ていたり、疲れきった顔で座っていたりと様々であったが、衛生状態はあまりよろしくない。前述したように、切符を持たないものは待合室に入ることができないので、このように屋外で座っている人もいるのだろう。この人達は切符を買いそびれた人なのか、それとも切符をこれから買おうと待っている人なのか、それとも待合室に入って待つには早すぎる時間なので、時間をそこで潰しているか、どれなのかは分からない。多分、それらを全てひっくるめた人達なのだろう。私はこの時この光景を見て、旅行という非日常生活がぶっ飛んでしまったことを覚えている。「エラいところに来てしまったな」と半ば中国旅行を後悔しかかったことが記憶に残っている。

さて、窓口に来ると、そこは人、人、人で溢れ返っていた。午前6時にも関わらずである。窓口は1~25くらいまであり、1~20くらいまでの窓口が開いていた。その20のレーンにはそれぞれ30メートルくらいの人の列が既に出来ていたのである。思わず我が目を疑った。「嘘だろ、朝の6時でこの行列かよ!」と思った。これが中国かと、改めて思い知らされた。噂には聞いていた。ネットなどでも切符の窓口は混むと書いてあったのを見た。だから6時に来てみたのだが、それでも混んでいる。いや混みまくっている。20レーンの全てが30メートルの人の列を作っているとは想像すらしなかった。結局30分ほど待ってようやく窓口についた。手に入った切符は、第三希望のものだった。しかも一等寝台車は手に入らず、二等寝台車になったし、発車時間も21時ではなく16時のものになってしまった。恐るべし中国。予定が立たない。私の旅行計画は北京からウルムチまで列車で向かうというものだったが、はやくもその計画が遅滞なく実行できるかという点に、中国列車事情は大きな課題を突きつけてきたのである。


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駅のホーム。ここには3分くらいしか滞在できない。ここは始発駅だったので、比較的長くいられたので、写真をとる余裕があった。