アリゾナ記念館で戦艦ミズーリ以下、展示物を見てきた。
戦艦ミズーリ食堂
甲板
真珠湾攻撃の陣容と
爆弾と魚雷である。
アリゾナ記念館で戦艦ミズーリ以下、展示物を見てきた。
戦艦ミズーリ食堂
甲板
真珠湾攻撃の陣容と
爆弾と魚雷である。
クカニロコ・バースストーンズ。それは古代ハワイの王族女性が、ここの岩の上で出産したというパワースポットである。
オアフ島のヘソの位置といういわれる内陸の中心にこの場所はある。バスで片道1時間半。かつてハワイの王族がいたころ、この場所は一般人は立ち入りが出来なかったという。ツアーなども出ているという話もあるが、ホノルルのアラモアナショッピングセンターからバスが出ている。バス代は2時間までの距離なら2ドル。バースストーンズは入場料などはないので、ツアーなどを利用しなくても1人4ドルでバースストーンズ観光はできる。
バスの路線図は以上の通り。数年前の情報なので現在では変わっているかもしれない。アラモアナショッピングセンターにインフォメーションがあり、そこでバスの路線図はタダでもらうことができるのでチェックしておいたほうがいいだろう。
さて、バースストーンズへの行きかただが、まずは路線図の右下のWAIKIKIから52番のバスに乗れば、左のALA MOANA SHOPPING CENTER~DOWNTOWNを抜け、KALIHI、ARIZONA MEMORIALを経由してPEARLCITYを超えて、WAHIAWAに行く。WAHIAWAまでくればバースストーンズはもう目と鼻の先である。WAHIAWAの町を通過しようとすると右手にセブンイレブンがみえてくる。その先はうっそうとした森の中を道路はとっており、やがて川に架かる鉄橋を渡る。ここで窓際にあるロープを引っ張り、停車の意思表示をするのだ。ハワイのバスは日本と違って停車ボタンがなく、窓際にロープをひっぱるというルールになっている。
帰りのバスは反対車線のバス停で待てばよい。
酸化鉄をおびた赤土である。まるでアフリカの大地のようだ。
かつて王族が出産したパワースポット。ここがバースストーンの史跡である。われわれが訪れたときには岩の上に花が供えられていた。
オアフ島には「THE BUS」と言う名のバスが通っている。値段はたしか2時間までは2$で途中下車も可能、という設定だったとおもう。オアフ島には電車はない。電車を開通させようという試みはあるらしいが、それも空港とワイキキを結ぶくらいの間のものらしい。バス網はかなり充実しているらしく、アラモアナショッピングセンターのインフォメーションでバスの時刻表を無料で手に入れられる。THEBUSはハワイでショッピングをするために乗るのではない。ワイキキから少し遠くにあるアリゾナ記念館、ハナウマ湾、バースストーンなどに行くためのやや長距離の移動のときに使うのである。バスから降りたいときには、窓際にあるロープを引っ張ると「止まれランプ」が点灯する。日本のようにボタンを押すのではないので注意。
ショッピングで移動するときはトローリーバスを使うのだが、このトローリーバスは実はある方法を使うと乗車がタダになる。トローリーバスにはブルーライン、ピンクライン、グリーンラインなどの複数の線が走っているのだが、このトローリーはHISやJTB、JALなどのツアーもしくはクレジットカードに参加・加入している人ならタダで乗車できるのである。私はこの旅に備えてJTBのクレジットカードに入会した。JTBのカードを乗車するときに運転手に見せれば、ピンクラインに限り無料である。これは今回の旅ではまことに重宝した。ホテルとアラモアナショッピングセンターの間は何度も往復したが、片道2$をそのつど払うは勿体ないからである。ハワイにこれから行く方は、是非トローリーバスを無料で使えるようにをあらかじめ調べておくとよい。
約70年以上前の本日、すなわち1941年12月8日は日米開戦の日である。場所はハワイの真珠湾。真珠湾といっても東京湾のような大きな湾ではなく、水深が12メートルそこそこの浅く、そして小さな湾である。その湾の中に「フォードアイランド」という面積約173ヘクタールの島がある。帝国海軍が奇襲をしたのはまさにこのフォードアイランドに停泊する戦艦や巡航艦、そして駆逐艦に航空機である。真珠湾攻撃の内容については、後にアリゾナ記念館の記事の中で触れることにして、話題を変えよう。
まずは、恒例のハワイ旅行に関する費用の面と、手続きについて簡単に記そうと思う。時差は19時間。日本時間から1日引いて5時間を足せばハワイ時間になる。出発したのは8月5日の21:10。ハワイ時間だとこれが1日引いて5時間足すので8月4日の26:10である。すなわち8月5日の2:10ということである。航空会社は大韓航空。KE9051便であった。さすがに夏休みのまっさかりのしかもお盆間近のチケットは高い。4泊6日の旅行で可能な限りやすいツアーを探したのだが、燃油サーチャージ込みで16万円くらいかかってしまった。(2014年8月現在) そしてアメリカに入国するときには、まえもってESTAの申請をしておかねばならない。これは2001年のニューヨークテロの後、アメリカの入国検査はいっそう厳しくなり、ESTAというネット上の申請が義務化されたということだ。このESTAは旅行代理店でも手数料さえ払えばやってくれるが、個人でも申請は可能である。申請は15$かかるのだが、これを旅行代理店でやってもらうと申請費とは別に手数料が3200円もとられるわけである。今回私は兄の結婚式に出席するためのハワイ行きである。しかも、兄の友人の航空券の手配も仰せつかっている。そうなると、この手数料3200円は友人の数だけ発生するわけで、15$とは別に取られるなどバカバカしい。ネットで申請してみると、クレジットカード決済ではあるが、べつに難しくもなんともない。名前とパスポートナンバーくらいを入力すればすぐにすませられる仕事だ。
さらに旅行会社の旅行保険も代理店で手配できるが、これも自分で旅行保険をみつけて個別に手配したほうがオトクである。そもそも、最近のクレジットカードは旅行保険が付いているものも多く、初年度年会費無料というゴールドカードもあり、極端な話をすれば、海外旅行をする直前にそういうクレジットカードをつくっておき、旅行から帰国したらそのカードを退会すれば、旅行保険にお金をかける必要などないのである。
さて、今回はうちの嫁もハワイに行くことになったので、全て手荷物にできるかどうかが心配の種であった。私がこれまで一人で海外に旅行をしていたときはトランクケースなどという邪魔でかさばるモノはもったことがないのだが、嫁は持っていくという。そこで、トランクケースをもっていくにしても、どのくらいの大きさまでなら手荷物扱いになるのかを調べる必要にせまられた。結論からいうと、縦・横・高さの長さ(cm)を足した値が115以下であれば、それは手荷物として機内に持ち込んでよいというものであった。重量も10キロという制限がある。しかしこれはANAとかJALの例であり、航空会社によって、その制限もまちまちである。実際私がのった大韓航空の場合は、もっと規制がゆるかったと思う。合計150以下とか、重量も20キロまでというくらいの制限だった。
飛行機に乗ること6時間半。ついにハワイのオアフ島のホノルル空港に到着する。まっていたのは厳しい入国審査であった。ヨーロッパでは入国審査などは殆ど顔パスで通れるのだが、アメリカではそうはいかない。パスポートを出して、機械で指紋をとられて、旅行目的とか滞在日数とか滞在するホテルとか、何回くらいアメリカにきたことがあるかとかを聞かれるのである。普通のひとは、これを切り抜けたら晴れて入国できる。しかし、私はそうはならなかった。係員が「おまえはまて!あっちの部屋に行け」と、別室に送られてしまった。別室に送られた理由は、このときはわかなかった。帰国後に知ることになった。その理由は20年前に日食ツアーで南米のチリに行ったときの出来事であるらしい。そのツアーに参加したメンバーのほぼ全てが、米国に入国するときに別室行きになっていたと後日私は父から聞いた。父もこのツアーには参加しており、今回のハワイ入りよりも前に米国に入国したときにはやはり別室に連れて行かれた。真相はこうだ、1994年11月に南米チリの皆既日食ツアーは、成田からシアトル、フロリダを経由してチリに行くのだが、どうやらその時の添乗員がフロリダで出国手続きをやっていないにもかかわらず出国してしまったらしいのである。なんだそりゃ!?である。ホントかよ?でもある。しかし私を別室に連れて行って、私に尋問してくる係員の内容は、それが真相であるという確信を私に与えたのである。
係員曰く「お前は海から米国に入国したことがあるか?」「シアトルにいったことはあるか?」「東海岸のほうに行った事はないか?」などである。シアトルには二回ほどある。1回目はシアトルで降りて、二回目はチリの日食ツアーの乗り換えで。東海岸は「ない」と答えたが、フロリダは東海岸といえなくもない。海から米国に入国したことがあるか、という質問もどうもチリ日食ツアーの出国手続きのミスと関連性が高そうだ。ということで、別室で質問されたり待たされたりで45分くらい消化してしまった。せっかく手荷物で固めてきたのに思わぬところで時間を食ったのである。
ハワイ。この地も苦難の歴史がある。19世紀、あの西洋列強による侵略の荒波。この荒波にさらわれた国は数多い。数多いというよりも、白人の生存しているテリトリー以外の地域ほぼすべては19世紀の列強の侵略の中で植民地とされていた。その中で、わが国は明治維新による不羈独立をスローガンに、西洋列強においつけおいこせで富国強兵に勤しみ、日露戦争に勝利した1904年をもってようやく関税自主権の回復を果たし、白人社会以外での奇跡の完全独立を達成した。しかし第一次大戦の勝利を経て西洋列強に肩を並べると、この黄色人種の近代国家は西洋列強に被害妄想のごとく警戒され、包囲網を築かれ、白人国家集団によって戦略的に壊滅させられた。いわゆる第二次世界大戦である。
さてハワイは、1778年にイギリス海軍士官であるジェームズ・クックによる「発見」以降、近代化の波に飲まれることになる。近代化の波というと聞こえはいいが、ようは西洋列強の侵略という名の荒波である。15世紀の大航海時代から東まわりでアフリカ、アラビア半島、インド亜大陸、インドシナ半島、インドネシア、オーストラリア、極東アジアまで400年をかけて西洋列強は極東のフロンティアまで進出した。西周りでは、アメリカ、南アメリカ、ハワイを経てフィリピンと進出し、最後のフロンティアは清であった。
クックは見事に討ち取られたが、西洋帝国主義はたびたびハワイに来航する。まるで黒船来航、ロシア軍艦来航などのわが国の歴史をみているようではないか。ハワイ国内はカメハメハによって1790年に統一を果たす。カメハメハは西洋列強の領土的野心を封じる先見性を持ち、イギリスを利用して西洋列強の侵略を食い止め1795年にハワイ王国を誕生させた。ハワイ諸島の完全統一はアメリカ人などによる強力もあって1800年頃に達成される。1819年にカメハメハが他界すると、ハワイは波乱の時代を迎える。1820年にアメリカ海外伝道評議会なる組織が宣教師をハワイに派遣し、未開な野蛮人であるハワイ人(とアメリカ人が思っている)を教化してみちびいてやろうという口実をもとに侵略の大義名分を掲げ、イエズス会がやった手法よろしく、宗教・教育・政治・経済の各分野に進出していった。こうして貨幣経済が発達したハワイは、外国製品の輸入によって負債が拡大する。1827年にはフランスのカトリック宣教師がハワイに上陸し、西洋列強のハワイ争奪戦の様相が現れる。1839年にイギリスのマグナカルタを参考にハワイ憲法が公布され立憲君主制となる。立法議会が開かれたが、西洋文化に戸惑うハワイ人をよそに、ハワイに帰化した欧米の外国人がハワイ政府の要職に就く様子が見られるようになる。1848年には土地法が制定、50年には外国人による土地私有が認められる。対外債務をまかなうため、ハワイ政府は土地の売却で負債を補うようになる。1862年までの12年間でハワイの3/4の土地が外国人の支配する土地となった。(ちなみに明治維新は1868年)
行政府はアメリカ系・イギリス系・先住ハワイ人の3種類がにぎっている。アメリカ系もイギリス系も帰化しているのでハワイ人だが、実質はアメリカ・イギリスにハワイが侵食されている図である。ハワイの王は親英が数代つづき、焦ったアメリカは極秘裏にハワイ王国の併合計画を始めた。1875年にアメリカとの互恵条約締結がなされる。この条約によりハワイの全ての生産品は非課税でアメリカへの輸出が可能となったが、第4条として「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない」との文言が組み込まれ、ハワイのアメリカ傾倒へ拍車が掛かることとなった。この条約は米や砂糖の生産業者などアメリカ国内において、合衆国の利益を損失するとして少なからぬ批判が噴出したが、帝国主義的拡張論者らにより、「その他の、より高次元な益がある」として反対勢力を押さえ込み、真珠湾の独占使用権を獲得することを条件として1887年11月に条約の更新がなされた。
1891年にリリウオカラニが王位に就き、山積する問題のうち、財政難打破の対策として宝くじやアヘンの売買を認可制度の下に許可するという法律を制定したが、この政策に対し、アメリカ系白人勢力から道徳的観点からの批判が噴出した。(まるで、どこかの国を見ているようである。もちろん清である)。こうした中もハワイの併合に対して、ハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立という具体的な計画は進められていた。
1893年ヘンリークーパーによってハワイ王国の終結及び暫定政府の樹立が宣言された。すでにアメリカ人の生命および財産の安全確保のため海兵隊164名がホノルル港へ上陸していた。政府・公文書館は占拠され、戒厳令が布かれた。ドールは暫定政府代表として各国の外交使節団およびリリウオカラニに対し、暫定政府の樹立を通達した。暫定政府樹立宣言後、ドイツ、イタリア、ロシア、スペイン、スウェーデン、オランダ、デンマーク、ベルギー、メキシコ、ペルー、イギリス、日本、中国といった国々が暫定政府を事実上の政府として承認した。しかし、リリウオカラニの抵抗や、アメリカ国内における女王支持派、およびスティーブンスの取った強引な手法に対する世論の反発などで、すんなりと併合にこぎつけられずにいた。この事実を知ったクリーブランド大統領は、スティーブンスの更迭を行った。
こうした状況からドールらは、クリーブランドの在任中の併合は不可能であると判断し、「過ちがあったのはアメリカ政府の機関であり、暫定政府とは無関係である。クリーブランド政権の要求は内政干渉に当たる」とした回答を12月23日に発表した。さらに、暫定政府を恒久的な政府として運営するため、ハワイ共和国と名を変え、1894年7月4日、憲法の発布と新しい国の誕生を宣言した初代大統領はドールが継いだ。(アメリカ人による権力争いによる内紛です)
1895年1月16日、王政復古を目指すハワイ人系の反乱があり、鎮圧に当たった政府軍に死亡者が出た。リリウオカラニはこの件に直接関与していなかったが、弾薬や銃器を隠し持っていたという理由で他の王族とともに反逆罪で逮捕された。こうしてリリウオカラニは王位請求を諦め、共和国への忠誠を誓い、一般市民として余生を送る旨の宣言書に署名した。
1898年1月のハバナで起きた暴動をきっかけとして、米西戦争が勃発する。この戦争は太平洋上のスペイン領土を巻き込み、そこに戦局を展開するための恒久的な補給地が必要であるとする世論が巻き起こる。アメリカはすでにハワイの真珠湾独占使用権を獲得していたが、これをより強固にするものとして俄然ハワイ併合派の声が大きくなった。そして7月7日、ウィリアムマッキンリー大統領はハワイ併合のための決議案に署名し、ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲された。1900年4月、ハワイ領土併合法が公布され、同年6月にハワイ領土政府が設立された。要職にはハワイ共和国下の官僚が就くこととなり、初代ハワイ領土知事として、元ハワイ共和国大統領であったドールが就任した。その後1900年基本法と呼ばれる新法が布かれ、ハワイにもアメリカの諸法が適用されることとなった。
いかがであろうか?これはどうみても「悪辣」な計画である。植民地をもたない国アメリカ?ハァ?という感じである。とにかくハワイは苦難な歴史がつきまとっており、それは現在ではつづいているということを認識しなければならぬ。
写真は真珠湾に浮かぶ戦艦ミズーリの艦橋からのもの。真珠湾の写真についてはまた後述する機会にゆずるとして、まずはハワイの歴史をこれで終わることにする。
2014年 8/5(火)~8/10(日)の6日間、ハワイにいってきます。4泊6日の旅行です。
今回はJTB格安ツアーを探した。出発は5日の午後21:10分である。飛行時間は7時間半。時差は-19時間ということで、日本時間に5時間足してマイナス1日したものがハワイの現地時間である。従って日本の出発時刻は8/5午後9時10分であるが、現地の到着時間は飛行時間の7時間半があったとしても8/5午前9時50分となるのである。つまり2014年8月5日を2回経験するワケであるが、そのかわり2014年の8月9日と10日の一部は一度も経験することが出来ないのである。日付変更線を超えた瞬間に19時間は失われるのである。
さて、今回はどこまでいっても私の兄の海外挙式に出席するという名目での渡航である。故にこれまでの旅行記とは一線を画した性質のものである。さらに、今回は結婚後はじめての海外旅行であり嫁も伴って行く。以前のような弾丸・無謀行軍はもはや出来るはずもなく、いよいよ年貢の納め時か・・・ということをヒシヒシと感じる。
荷物についてだが、今回もリュックを背負い3.1キロにまでおさえた。これ以上軽くすることはおそらく不可能だろうと思われる。
それではいってきます。
来月ハワイに行ってきます。2010年以来4年ぶりの海外である。
しかしながら、8月のお盆前ということもありツアー料金はお高い。しかも今回は一人旅というわけではないのでこれまでのような弾丸旅行は組めない。クロアチア、スイス、中国とくれば、すわ次はついにインドか?と思いきやハワイである。というのも今回渡米(ハワイ)する目的は親族の結婚式のためである。本来はハワイなどという軟派なところではなく、「タジキスタン」とか「キルギスタン」とか「イラン」のような中央アジアを硬派に巡りたいものであったが致し方ないのである。
さて気になるお値段であるが、ネットで悪戦苦闘したものの4泊6日の旅程でホテル付き食事なしというもので、1人15万である。これが6月の出発であれば、1人8万くらいで行けるのだから2倍の値段であるわけだ。そして手続きをしていて知ったのだが、どうやら2009年以降米国に入国する際においては「ESTA」なる渡航認証を有料で申請しなければならないらしい。これが個人でネットで決済すれば14ドル(1500円)で済むのだが、旅行会社で代行でやってもらうと申請費+3500-4200円ほどもかかるらしい。
旅行保険などというものも、これまでは一切加入などはしなかったが、さすがに所帯をもつとそうもいかなくなる。そこでクレジットカードを作ることにした。今のクレジットカードは旅行保険とかも付いていて年会費初年度無料というものも多い。これなら実質タダで旅行保険に加入したようなものなのでこれを利用することにした。
ハワイは時差が19時間である。今回の旅行はどこまでも親族の結婚式のためであるので、これまでのような旅行記とは趣を異とするだろうと思う。しかし可能な限り、美しい写真と、値段実況と、そして歴史的能書きの講釈を加えてブログで公開しようと思います。