Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

コロナ下のオリンピックに思うこと。

2021年07月22日 22時18分00秒 | 世間話
私は先の戦争中には生まれていないけれども、昨今のコロナ自粛の雰囲気を体感して、少し戦争中のとこがわかったような気がする。

日本は、我慢をする文化があると言っても良い。そして、私も彼も我慢しているんだから、あなたも我慢しなければならない。という全日本我慢選手権大会を半ば強いられる社会がそこにはある。

コロナだから自粛を。県をまたいで移動してはいけません。マスクを必ず着用。出かけないで。緊急事態宣言につき。ワクチンを!

これって、欲しがりません勝つまでは、と何が違うんだろうか。

共通しているのは、こういう状況で個人的な動きをすると、直ちにワガママだと批判されることである。
しかもコロナ自粛はもうまる2年の我慢を強いられているので、国民はピリピリしている。そのストレスは他人に向けられることになる。
  海開きで、他県の人(東京)が遊びにきているのをニュースでやってるのを見たが、あれも叩かれるのだろう。オリンピックの強行も叩かれる。バッハの発言も叩かれるし、小山田の過去のいじめ問題でも徹底的に叩かれる。しまいにはニュースキャスターが叩かれるのを恐れて、じぶんの幼少の頃のいじめのような経験を自ら暴露してしまう。西村の銀行に圧力をかけてもらう発言も叩かれ、ウガンダの選手が勝手に選手村を抜け出して難民申請するのも叩かれ、選手団がナンタラ式とかいう選手村からでないルールを破って国民と接触する行動も叩かれる。ワクチンを撃たない人間も叩かれる。

世界ではLGBTに異論があるハンガリーがEUに叩かれ、人種差別だのなんだので叩き続ける。

郷に入れば郷に従えという言葉があるが、バッハや選手団には通用しなかった。彼らは日本的社会をきちんと理解していたのならば、バッハは迎賓館で宴を催すことは空気を読んで事前に辞退しただろうし、選手団も選手村からは一歩も出ないだろう。

彼らには、欲しがりません勝つまでは、というスローガンは理解不能なのだろう。

そして我が国民は、戦争中のこのスローガンをコロナ下においても同様に全国民に強いている。

東日本大震災のときは、これを「絆」という言葉で表現したし、かつては「村八分」という言葉で表していた。そして今日「欲しがりません勝つまでは」というのが新たに付け加えられた。

良い悪いではなく、我々の国民性はこのようなところにあるということを知っておかねばなるまい。

俺たちは我慢をしているんだから、お前を我慢をしなければならない、という無言の空気や圧はこの国ではとてつもなくでかい。それが「世間」とか「世間体」「常識」と言われているものだ。

それから外れたものは、我々は徹底的につまはじきにするという癖があることを知っておく必要はある。

憲法改正、LGBT、差別問題、さまざまなことが声高に叫ばれているが、この世間というものの息苦しさについて問題視し、声高に改正を叫び運動をするものは、我が国にはほとんどいない。



ワクチン接種と反ワクチン

2021年07月09日 09時58分08秒 | 歴史

医師の主張は、統計的なデータと死亡率によって、ワクチン接種による副作用のリスクよりも未接種によるウイルス感染死亡のほうが割合が高いから、ワクチンは打つべきだというものである。この他にも、集団でワクチンを一斉に打ち、できる限り他人にウイルスを感染させないという行動が重要とも説く。
これを世間では「ワクチン派」と括っている。

一方ワクチンによる副作用や副作用による死亡を恐れ、ワクチン接収を見合わせるあるいは接種をしないと決めた人々もいる。
これを世間では「反ワクチン派」と括っている。

ネットではワクチン派と反ワクチン派の対立が顕著にあらわれているが、この現象はいったい何なのかを考えてみる。

①「ワクチン派」「反ワクチン派」で一括りにすることについて

括る(くくる)というのは、さまざままもの、バラバラなものを一つにまとめるという意味である。つまり人の意見は十人十色でバラバラ。このままでは主張があいまいに過ぎるので、(乱暴だが)一つにまとめるという便宜である。つまり都合の良い思考の省略である。
言葉というのは、あるものを括ったり、一線を引いたり、区分けしたりして、別々に分類しようとする性質がある。これは都合の良いこともあるが、都合の悪いことも当然ある。


②人間は自分を依怙贔屓してみる癖がある

自分のツバは汚くないが、一旦外に出したツバは汚く感じる。理屈では滅菌してたら汚くないことになるが、それでも汚く感じる。人間には理屈では割り切れない感情・好き嫌いというものが存在する。それで自分の行動を変えちゃうのである。理屈とは違った行動に走るということである。


③ワクチン派は主に臨床データ・統計を根拠あるいは理屈にして主張している。反ワクチン派は理屈はあるけれど、感情または好き嫌いで打たないと主張していることについて

こういう論調はすぐに「こっちは正しい」「あっちは間違っている」という方向に議論が行きがちだ。良い悪いではなく、人間は理屈と感情の両方を持っているということは知っておかねばならない。忘れてしまうから「こっちは正しい」というような「基準」があたかも存在するかのような認識になってしまう。ある人が意見を言うとき、その人の中でどのくらいの割合で理屈と感情を織り交ぜて主張しているのだろうか。これはグラデーションのように境目は本来は存在しない。その時々の適度な理屈と適度な感情を織り交ぜて意見をだしている。


さて、ワクチン派と反ワクチン派の闘争?だが、彼らはいったい何と戦っているのだろうか?
たぶん良し悪しなのだろう。人間は理屈と感情というものを持っているということを忘れてはいないだろうか?
理屈と感情をあわせもっているということを前提として考えてみると、反ワクチンの感情と、そしてワクチン派の感情は何を主張したいのかを考えてみる。

まず。反ワクチン派の人が思っていることは、医師に対してまたは臨床的なデータや統計の結論に対して不信感を持っているということだろう。副作用とは現在までに確認されている副作用であり、未だ認知されていない潜在的あるいは長期的に作用する副作用について明らかにされていない。しかし言葉は、一括りにするので、現在における副作用は何%。死亡率は何%。感染率は何%と区切る。区切らないと分析ができないので当然だが、分析から落っことしたモノがたしかにそこにはある。未だ確認されてない副作用、これが落っことされている。それがどの程度あるのかは知らない。しかし医師やデータ・統計に関する不信感が、統計リスクを無視しても「打たない」と主張するほどに、不信感があると考えた方が、この騒動に説明がつくのではないか?

一方で、ワクチン派の思っていることは、なんで曖昧な感覚に依存して
「打たない」という行動にでるのか。バカなんじゃないか?と感情的に思っていることだろう。先ほども書いた通り、人間は理屈と感情を併せ持つ生き物であるのだが、理屈に傾いた人は感情を軽視したり、感情が理解できなくなったりすることがある。その理解できないことも本当は理屈で考え抜いて結論を出さなければならないのだろうが、人間は理屈と感情を併せ持つ生き物なので、おもわず「バカなんじゃないか?」という感情的な結論をだしてしまうわけだ。

つまり、「良い悪いではなく、人間は理屈と感情の両方を持っているということは知っておかねばならない。」というこのことを両方とも忘れいてるのである。