まず対応が遅い政府に文句のメールでもいれましょう。メールを送る国民が数千万人の規模になればどんな無能な政府でも動かざるを得ないのだから。政府の自浄作用は期待できない以上、国民の怒りという圧力をかけて政府のケツを叩かなければ、あの10万円の給付金すら実現しなかったでしょうし、現在の政府の支出はなおもジョボすぎてどうしようもない。
そういう主張をする者を巷ではクレクレ君と揶揄しているだが、緊急事態なのである。何のために今まで税金を払ってきたのか?我慢も度を越せば奴隷という誹りをうけることになる。その怒りはやがて同じ国民に向いてしまう。というか現にそうなっている。本来の怒りは政府に向くべきはずなのに、自粛警察などという国民間闘争になってしまっている。すでに政府の強制的な自粛(?)で経済的損失を、うけた休業者の自殺も発生してしまってるのに、何がクレクレ君なのか?本当は暴動を起こしてもいいレベルまできてしまっているのだが、、、。
今回の投稿の趣旨はそこではない。
まあ上記の趣旨が政府への圧力になり、政策に反映されればそれはそれで良いのだが、その結果が期待できない場合は、その事に頼ってたらバカをみることになる。従って、上記の趣旨がまったく通らなかった場合のことも想定した人生設計をしなければならないだろう。
先日、youtubeにて荒俣宏さん出演のラジオ番組「ラジオ版学問のススメ」を聴いた。
1時間の対談ラジオの番組と長いのだが、先般私が「自己紹介」の記事の中で書いたものに親和性が高い内容だったので、のめり込んでしまい、あっというまに聴き終えてしまった。
今後はこういう生き方も模索していかないと正気を保っては生きていけないのだろうという感想をもった。「0点主義」の本はまだ読んでいないが、幼少の頃からこれを実践した荒俣宏を真似るかどうかはともかく、高校生以降の人や大人全般に関してこの0点主義を持っている人は少ないのだろうとは思う。学問を出世や経済的収入につながる手段として学ぶという近視眼的功利主義の時代はもはや終焉を迎えつつあるのだろう。すくなくともこの緊急事態宣言以降の世の中は、その時代の終焉に加速を促すものであることは確かだろう。平均的には、我々は親の世代の収入を超えることはなかったし、我々の子は我々の世代の収入を超えることはおそらくないだろう。
学問を収入や栄達の手段と捉える限り、勉強しても昔と比べて実入りが少ないという事となり、勉強する動機が弱くなる。馬がニンジンを目の前にぶら下げて走り続けられたのは、そのニンジンが美味いからであろうが、現在のニンジンは昔ほど美味くないから走り続けられない。功利主義の行き詰まりはそこにある。
そういう経済的な功利主義によって、人の行動を強いることはもはや難しい時代となってきた。昨今ミニマリストというライフスタイルを志向する人が現れたのもそういうことと無関係ではあるまい。
この0点主義と道教という二つの書籍に興味を持った。今度本屋に見に行こう。図書館はいまだ空いていない。こういう時こそ図書館は開けとくべきだとおもうんだが、、、、。