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ハワイの歴史

2014年08月14日 21時30分54秒 | ハワイ旅行記2014

ハワイ。この地も苦難の歴史がある。19世紀、あの西洋列強による侵略の荒波。この荒波にさらわれた国は数多い。数多いというよりも、白人の生存しているテリトリー以外の地域ほぼすべては19世紀の列強の侵略の中で植民地とされていた。その中で、わが国は明治維新による不羈独立をスローガンに、西洋列強においつけおいこせで富国強兵に勤しみ、日露戦争に勝利した1904年をもってようやく関税自主権の回復を果たし、白人社会以外での奇跡の完全独立を達成した。しかし第一次大戦の勝利を経て西洋列強に肩を並べると、この黄色人種の近代国家は西洋列強に被害妄想のごとく警戒され、包囲網を築かれ、白人国家集団によって戦略的に壊滅させられた。いわゆる第二次世界大戦である。

さてハワイは、1778年にイギリス海軍士官であるジェームズ・クックによる「発見」以降、近代化の波に飲まれることになる。近代化の波というと聞こえはいいが、ようは西洋列強の侵略という名の荒波である。15世紀の大航海時代から東まわりでアフリカ、アラビア半島、インド亜大陸、インドシナ半島、インドネシア、オーストラリア、極東アジアまで400年をかけて西洋列強は極東のフロンティアまで進出した。西周りでは、アメリカ、南アメリカ、ハワイを経てフィリピンと進出し、最後のフロンティアは清であった。

クックは見事に討ち取られたが、西洋帝国主義はたびたびハワイに来航する。まるで黒船来航、ロシア軍艦来航などのわが国の歴史をみているようではないか。ハワイ国内はカメハメハによって1790年に統一を果たす。カメハメハは西洋列強の領土的野心を封じる先見性を持ち、イギリスを利用して西洋列強の侵略を食い止め1795年にハワイ王国を誕生させた。ハワイ諸島の完全統一はアメリカ人などによる強力もあって1800年頃に達成される。1819年にカメハメハが他界すると、ハワイは波乱の時代を迎える。1820年にアメリカ海外伝道評議会なる組織が宣教師をハワイに派遣し、未開な野蛮人であるハワイ人(とアメリカ人が思っている)を教化してみちびいてやろうという口実をもとに侵略の大義名分を掲げ、イエズス会がやった手法よろしく、宗教・教育・政治・経済の各分野に進出していった。こうして貨幣経済が発達したハワイは、外国製品の輸入によって負債が拡大する。1827年にはフランスのカトリック宣教師がハワイに上陸し、西洋列強のハワイ争奪戦の様相が現れる。1839年にイギリスのマグナカルタを参考にハワイ憲法が公布され立憲君主制となる。立法議会が開かれたが、西洋文化に戸惑うハワイ人をよそに、ハワイに帰化した欧米の外国人がハワイ政府の要職に就く様子が見られるようになる。1848年には土地法が制定、50年には外国人による土地私有が認められる。対外債務をまかなうため、ハワイ政府は土地の売却で負債を補うようになる。1862年までの12年間でハワイの3/4の土地が外国人の支配する土地となった。(ちなみに明治維新は1868年)

行政府はアメリカ系・イギリス系・先住ハワイ人の3種類がにぎっている。アメリカ系もイギリス系も帰化しているのでハワイ人だが、実質はアメリカ・イギリスにハワイが侵食されている図である。ハワイの王は親英が数代つづき、焦ったアメリカは極秘裏にハワイ王国の併合計画を始めた。1875年にアメリカとの互恵条約締結がなされる。この条約によりハワイの全ての生産品は非課税でアメリカへの輸出が可能となったが、第4条として「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない」との文言が組み込まれ、ハワイのアメリカ傾倒へ拍車が掛かることとなった。この条約は米や砂糖の生産業者などアメリカ国内において、合衆国の利益を損失するとして少なからぬ批判が噴出したが、帝国主義的拡張論者らにより、「その他の、より高次元な益がある」として反対勢力を押さえ込み、真珠湾の独占使用権を獲得することを条件として1887年11月に条約の更新がなされた。

1891年にリリウオカラニが王位に就き、山積する問題のうち、財政難打破の対策として宝くじやアヘンの売買を認可制度の下に許可するという法律を制定したが、この政策に対し、アメリカ系白人勢力から道徳的観点からの批判が噴出した。(まるで、どこかの国を見ているようである。もちろん清である)。こうした中もハワイの併合に対して、ハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立という具体的な計画は進められていた。

1893年ヘンリークーパーによってハワイ王国の終結及び暫定政府の樹立が宣言された。すでにアメリカ人の生命および財産の安全確保のため海兵隊164名がホノルル港へ上陸していた。政府・公文書館は占拠され、戒厳令が布かれた。ドールは暫定政府代表として各国の外交使節団およびリリウオカラニに対し、暫定政府の樹立を通達した。暫定政府樹立宣言後、ドイツ、イタリア、ロシア、スペイン、スウェーデン、オランダ、デンマーク、ベルギー、メキシコ、ペルー、イギリス、日本、中国といった国々が暫定政府を事実上の政府として承認した。しかし、リリウオカラニの抵抗や、アメリカ国内における女王支持派、およびスティーブンスの取った強引な手法に対する世論の反発などで、すんなりと併合にこぎつけられずにいた。この事実を知ったクリーブランド大統領は、スティーブンスの更迭を行った。

こうした状況からドールらは、クリーブランドの在任中の併合は不可能であると判断し、「過ちがあったのはアメリカ政府の機関であり、暫定政府とは無関係である。クリーブランド政権の要求は内政干渉に当たる」とした回答を12月23日に発表した。さらに、暫定政府を恒久的な政府として運営するため、ハワイ共和国と名を変え、1894年7月4日、憲法の発布と新しい国の誕生を宣言した初代大統領はドールが継いだ。(アメリカ人による権力争いによる内紛です)

1895年1月16日、王政復古を目指すハワイ人系の反乱があり、鎮圧に当たった政府軍に死亡者が出た。リリウオカラニはこの件に直接関与していなかったが、弾薬や銃器を隠し持っていたという理由で他の王族とともに反逆罪で逮捕された。こうしてリリウオカラニは王位請求を諦め、共和国への忠誠を誓い、一般市民として余生を送る旨の宣言書に署名した。

1898年1月のハバナで起きた暴動をきっかけとして、米西戦争が勃発する。この戦争は太平洋上のスペイン領土を巻き込み、そこに戦局を展開するための恒久的な補給地が必要であるとする世論が巻き起こる。アメリカはすでにハワイの真珠湾独占使用権を獲得していたが、これをより強固にするものとして俄然ハワイ併合派の声が大きくなった。そして7月7日、ウィリアムマッキンリー大統領はハワイ併合のための決議案に署名し、ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲された。1900年4月、ハワイ領土併合法が公布され、同年6月にハワイ領土政府が設立された。要職にはハワイ共和国下の官僚が就くこととなり、初代ハワイ領土知事として、元ハワイ共和国大統領であったドールが就任した。その後1900年基本法と呼ばれる新法が布かれ、ハワイにもアメリカの諸法が適用されることとなった。

いかがであろうか?これはどうみても「悪辣」な計画である。植民地をもたない国アメリカ?ハァ?という感じである。とにかくハワイは苦難な歴史がつきまとっており、それは現在ではつづいているということを認識しなければならぬ。

写真は真珠湾に浮かぶ戦艦ミズーリの艦橋からのもの。真珠湾の写真についてはまた後述する機会にゆずるとして、まずはハワイの歴史をこれで終わることにする。

 

 

 


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