世に陰謀論なる言葉が存在する。この言葉の定義はどうやら陰謀という言葉とは違い、始めっからウソというニュアンスを含んだ否定的な言葉であるようだ。ウィキペディアからその説明を引用してみよう。
陰謀論(いんぼうろん、英: Conspiracy theory)または陰謀説(いんぼうせつ)とは、ある出来事や状況に対する説明のことであり、他にもっともらしい説明があるにも関わらず、邪悪で強力な集団や人物による陰謀や謀略が関与しているとするものである[2][3][4][5]。この言葉は、偏見や不十分な証拠に基づいているという否定的な意味合いを持って使用されることが多い
実際の陰謀は、たとえ非常に単純なものであっても、隠蔽するのは困難であり、日常的に予期せぬ問題が発生する[41]。対照的に、陰謀論では非現実的に陰謀が成功することが示唆され、陰謀の首謀者とされる集団(例えば官僚組織など)は、ほぼ完璧に近い能力と秘密主義に基づいて行動できるとされる。事象や状況の原因は、複雑な要因や相互作用する要因、および単なる偶然や意図しない結果などを排除するために単純化される。ほぼすべての発見は、首謀者によって意図的に計画されたものとして説明される[41]。
だそうである。トランプの主張している選挙の不正や、第二次世界大戦での日本軍が証拠を全て処分・焼却したから証拠はないが◯◯は事実であると主張することなどは、いわゆる陰謀論といわれている。(後者の日本軍の場合のケースは巷では陰謀論とはいわれておらず、真実などといわれており、それを主張したいものは頑として陰謀論とは認めないであろうが)
陰謀論という定義は、wikiの説明を読めば、その行間に「陰謀論者はバカだ」というニュアンスが強く漂っている。つまり陰謀論とは元々バカにした言葉なのだ。陰謀にはそのようなニュアンスはない。ただし陰謀+論 となると、とたんに否定的な言葉となる。
ああ、そういえば世間にはこれとよく似た別の言葉あることに気がついた。それは「歴史修正主義者」という言葉である。
歴史+修正+主義者とバラバラにするとそれぞれの単語には否定的ニュアンスはないが、歴史修正主義者となると、これは陰謀論のようにバカげたという否定的な意味になる。もうひとつあげるとネトウヨなんかもこれらと親戚筋の言葉で、ネット+右翼でまあ右翼という言葉は否定的ニュアンスをもつが、いまやネトウヨという言葉は、それこそネット+右翼という意味を超えて、オツムの弱いバカという定義にされてしまっている。
それにしても思うのは、いったい誰がこのような造語を作ったのか、またはそれを利用したのかということである。
これらの言葉は全て「レッテルを貼る」ために生み出された、あるいは利用された排他的な言葉であろう。陰謀はこの世には存在する。論説もこの世にはある。しかし陰謀論は「バカで荒唐無稽な意見」というように意味を矮小化している。そのように言葉を利用している。それはつまり、副次的作用として、陰謀という言葉の元々持つ意味そのものも矮小化させる働きもしている。これは、陰謀を行う側にとっては、陰謀を行なったとしても、それを陰謀論と揶揄しその存在をあたかも荒唐無稽のようにバカにして矮小化して、陰謀そのものを隠蔽する方向にも利用できる。(戦争中や平時での情報戦とか、あるいは世の治安が悪くなればこういう造語は乱発される)
つまり造語が生み出される背景というのは、だいたいにおいてはなんらかの意図に基づいた主目的と、副次的にあらわれる副作用の両方が働くのであろう。
さて、陰謀論の親戚語のような歴史修正主義者という言葉についても同様に考えてみよう。我々が中・高等学校で習った歴史のある箇所は、近年の史料あるいは考古学の発見などによって、書き換えられているものがある。1192作ろう鎌倉幕府と覚えたものだが、いまでは1185と習っているそうだ。これを歴史修正主義とは言わない。歴史+修正+主義という単語の結合の意味として歴史修正主義という言葉の意味を探るとするならば、1192を1185に修正するのは、間違いなく歴史修正主義である。しかし、陰謀論と同じくこの言葉は「レッテルを貼られた」言葉であり、造語である。1192を1185に変えたのは、バカで荒唐無稽ではないから、これを歴史修正主義といったら、学者におそらく怒られるだろう。
どうも世の中には、いい修正と悪い修正というものがあるらしい。学者の論説、あるいは学説が定説になってきたもので修正すれば良い修正になり、素人の論説や疑問に基づく仮説は、悪い修正になるのだろう。
善悪と書いたが、なぜなら歴史修正主義という言葉は、バカにされている否定的な言葉であり、悪いニュアンスをもつレッテルを貼られたことばでえるので、良い修正と悪いの修正の基準はこの世にあるらしいということになる。
しかしそうなると、あたかも学者の定説であるかの如く、金で買収でもされた学者が、それっぽく何かを我々素人に説いたとすると、その学者が今までの歴史観を修正した主張であっても、良い修正と演出することは可能である。また逆も然りで、定説に則っていた学説だとしても、金で買収された何者かが、その説を歴史修正主義と貶める演出をすることは可能である。
つまりは真実を歪曲することもできるし、ウソを真実だと捻じ曲げることもできてしまう。
一般的に、このような「あるようなことをないかのように」あるいは「ないことをあるかのようなことに」する活動というものを陰謀という。陰謀論ではなく陰謀である。
まったく陰謀論とか歴史修正主義とかネトウヨとか、言葉を混乱させる造語を人はよく作るものである。そういう造語を作る目的は、陰謀に使われている可能性があることは述べた。
はなしを最初に戻そう。
トランプの不正選挙の話である。
不正なんかあるわけがない、これは陰謀論だ、と安易に切り捨てる人がいる。不正があったことは間違いない、と安易に信じ切る人もいる。不正があったかもしれないし、なかったのかもしれない、と思う人もいる。私の立場は最後のものだが、しかし、、。
こうも猫も杓子も「陰謀論」とか「歴史修正主義」だと血眼になってレッテルを貼り貶めることに邁進してブレない論者をおおくテレビや言論などで見ると、その発言者のあまりの排他性をみるにつけて、
あれ?ここまでの排他性を病的に主張して相手を貶めるってことは、ひょっとするとそのこと自身によって、陰謀とか実はあるんじゃないの?と疑いたくなるものだ。
事実、歴史修正主義とか陰謀論とかを排他的に主張・展開している団体や個人は多い。差別のないところ、あるいは少ないところに、大きな差別があるかのように主張し、その主張が極めて排他的であるのもたまに耳にする。歴史修正主義に限定して言えば、ナチスの歴史に擁護的な解釈をドイツで学者が主張すると、その者は訴追されて失職してしまうという例がいくつもある。これは排他的な動きの一つである。
かりにこの学者の主張がマヌケなものであったとしても、無視するでもなく馬鹿にするだけでもなく、訴追して失職という排他性を実際に伴っているわけである。
ここまでこわばった排他性をみせつけられると、あれ?ひょっとして、、、ホントは、、、と疑いをもちたくなるだろう。
つまり一度政治的あるいは何かの力によって極悪党と認定されたものは、その後新たな史料や証拠に基づいたものがあったとして、その人の悪党性を詳細に認定し直したとする。その詳細の認定の結果は、これまでが悪党度1000だったものが、悪党度950になるようなものだったとする。
しかし、前住したように、この世にはないものをあるかのように、また、あるものをないかのように、という陰謀はあったりする。学者が学者の良心に従い、きちんとした証拠と史料をもってその学説を「修正」したとしても、その修正は歴史修正主義と貶められる陰謀の餌食になる可能性もあるし、逆もまた然りであるつまり悪党度1000を1500にするという修正もである。
つまり、なにが正しい修正で、何が修正主義なのかという判断。
なにが陰謀で、なにが陰謀論なのかという判断。
これらは容易に下せるものではない。
それを容易に、そして頑なな排他性をもって下す者がいたとしたら、その者の主張は甚だ怪しいと疑わざるを得ない。
それこそが学問に対するまじめな態度だと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます