https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73439
記事はほとんど読むに値しない。自粛警察をファシズム的と断じ、今回のコロナの外国人への入国制限を人種差別と断じて、日本に対するネガティブキャンペーンを展開しているのである。
何のために? そりゃまさにドイツなどの欧州や米国が、自分達こそまさに人種差別やファシズムと非難されるような事をしているニュースが国際的に取り上げられているのであり、それから目をそらす為に極東にある他国日本に対して、同様のことがあたかもあるかのように宣伝しているのである。
つまり確信犯的な工作の記事に対して反論する試みをしているのわけで、野暮と言えるが我慢ならぬ。
自粛警察はたしかに問題はあるが、それを自国の人間が怪しからんというのならともかく、外国人や外国に発信するためのスポークスマンが言うのは我慢できない。
それは工作的だからである。必ず外国にとっての政治的意図があるからだ。もしくはそれがなかったとしても、単に外国を盲目的に礼賛しているカブれているか、である。
東日本大地震による共同体的絆と、自粛警察はいわばコインの裏表である。ある面における美が、一方の面では醜に写るだけだ。こんなものをファシズムという著者は工作が目的ではなかったら、頭が悪いとしか言いようがない。たとえそれがフンボルト大学を出ているとしてもである。
記事の中にあるファシズムの実験とやらも噴飯ものだ。ナチス式服従とナチス的ポーズを強制させて、ファシズムの証明をはかろうとするなんて。
そんな事を実験しなくても、国家や文化の鋳型に嵌められた人間は、その国やその文化の人のようになるのは当たり前のことではないか。日本に住めば鋳型によって日本人的になるし、アメリカに住めばアメリカ的になる。それだけのことだ。
ドイツがナチスに傾いたのは、ナチス式服従とそのポーズにあるのではない。そういうのは枝葉の鋳型であって、警察官の格好をさせれば警察官らしくなるというだけの枝葉の証明にすぎぬ。かれらがファシズムに傾いたのは、ドイツの国家や文化の鋳型もあれば、19世紀後半から20世紀前半のヨーロッパの環境という鋳型もある。反ユダヤ主義はナチスの専売特許ではなく、19世紀〜20世紀のヨーロッパやロシアでは非常に顕著だった。ユダヤ人=汚い資本家という思想は、真実はともかくとしても当時から広く認識されていた。加えて19世紀末にはすでに社会主義思想と貧富の差が蔓延していた。
それはドストエフスキーの小説を読めば、いかに人民が閉塞した空気に包まれているかということがよく分かる。加えて第一次世界大戦でドイツは負け、巨額な賠償金を科せられた。
当時のこのような鋳型がナチスを生んだと見たほうがより説得力がある。
にもかかわらず枝葉のナチス式ポーズや自粛警察という表面的な現象のみを取り上げて、これこそファシズムの兆候だ、などと騒ぐのは、学歴ある著者としては「それを知っててなお言っている」としか思えない。
冒頭の
「要するにネガティブキャンペーンでしょ? 外国の政治的問題をそらすために、そこまで我が国を貶める必要がどこにある?」
というわけである。
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