里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

野呂往還を歩く (1)

2011年12月12日 | 歴 史
備陽史探訪の会」が、新市町柏に通じる山道“野呂往還”を数回に分けて踏破する計画で、第1回目の戸手駅から柏城跡まで歩く参加者を募集していた。

以前に「その昔、藤尾の鉱山から戸手に至る“野呂往還”という銀を運ぶルートがあった」と聞いて探索した事があったが、その時には肝心な所がイマイチ分からなかったので、渡りに船で参加した。
〔今回歩いたコース〕
1.戸手駅
2.信岡家住宅
3.大佐山白塚古墳
4.柏の牛地蔵道標
5.柏北観音道標
6.蛇切峠(じゃきりとうげ)
7.柏観音寺
8.観音山城跡
9.甲山城跡
10.村境の道標
11.大坊福盛寺(だいぼう ふくじょうじ)
12.仁王門
1.JR福塩線・戸手駅前に集合。
野呂というのは、山の尾根のなだらかな所
 を指し、往還は主要な道路を指す。
 今回歩く野呂往還は、神石郡坂瀬川から
 新市町戸手までの尾根道で、昭和30年代
 まで使われていた。 今は途中が不明や不
 通になった場所もあるが、周辺の遺跡など
 を見ながら、何回かに分けて走破する』
という事であった。  何だか面白そうだ!
2.信岡家住宅
先ず最初に、戸手駅北西のすぐ近くにある信岡家住宅を訪ねた。

家は、代々品治(ほんち)郡戸手村の庄屋で、現存する主家など8件が国の登録有形文化財として指定されている。

江戸時代後期の庄屋信岡平六(名は祐義)は、自費で戸手用水を造ったり、千田村庄屋河相周兵衛の呼びかけに応じて銀50貫を拠出して福符義倉の設立に参加し、飢饉に喘ぐ農民を救済したという。
上戸手の艮神社境内には、信岡平六の頌徳碑が建てられている。
3.大佐山白塚古墳
戸手川沿いに北上し、大佐池の手前で右折。
約800m進むと古墳に上がる階段に到着する。

古墳群は大佐山(標高:188m)の山頂より僅かに南に下がった場所で、一番高い所へ1号墳があり、その下方に更に6基がある。
7世紀前半の古墳時代終末期に築造されたと考えられているが、その時代の古墳は1基だけのものが多く、複数あるのは珍しいのだそうだ。
画像中央上部は古墳群の中で最大の1号墳で、右端中央に白く見えているのは2号墳。
1号墳は大佐山白塚古墳と呼ばれ、1辺が12m、高さが4mの方墳で、内部主体は巨大な花崗岩の切石を用いた奥行7.8m、幅1.8m、高さ2.3mの横穴式石室で、石室中央に間仕切があり二室に分れているのが特徴。

白塚という事から嘗ては壁面に漆喰を塗っていたと考えられているが、現在では石と石との隙間に痕跡が見られる程度。

古墳群はいずれも南向きに開口していて、眼下には嘗て支配していたであろう芦田川沿いの平野が見える。
被葬者としては、中央の王族や官人を当てる説もあるが、地元の有力豪族達とも考えられている。
4.柏の牛地蔵道標
野呂往還と言うのは、駅家町新山の野呂地区を通る事からその名がついたそうで、野呂地区へは帰りに寄る事にして柏集落の方向へ更に北上した。

お地蔵さんの台座には、
 東 ふくやま
 西 一宮
 南 とて(とで)
と書いてあるそうで、この左右(東西)の細い道路が嘗ての野呂往還だったらしい?
5.柏北観音道標
柏集落へ入る直前で左折すると、その先の峠の頂上に観音堂があり、そのお地蔵さんには、
 東 福寺
 西 一宮
と書かれているそうで、先ほどの牛地蔵道標の所から一宮方面へ進み、ここに出て白線のように直進するのがどうやら野呂往還らしい?
6.蛇切峠(じゃきりとうげ)
緩やかな峠を上ると道路わきに、
蛇切七五三帳之古跡
と刻まれた石碑が立っていた。

七五三」というのは、しめ縄の別名だが、昔、厄や禍を祓う結界として張っていたらしい?
先ほどの柏北観音堂脇の説明板には、
「蛇円山に住んでいた大蛇がこの峠を通って府中の七つ池の大蛇に会いに行く途中よく人間を飲み込んでいたので、この峠で大蛇を待ち伏せて退治し、爾来蛇切峠と呼ばれている」
と書かれていた。
「その後、七つ池の大蛇が怒って仕返しに人を飲み込むなどの悪事を働いたので、近くの青目寺の住職が人形に爆薬を仕掛けておいて、それを食べさせて大蛇を退治した。 七つ池には、大蛇が苦しんで草木をなぎ倒した蛇すりと呼ばれる場所があり、青目寺には今でも大蛇の頭骨が寺宝として残されている」
という話もあるそうだ。
7.柏観音寺
大坊福盛寺の奥の院だそうで、千手観音が祀られていた。
8.観音山城跡
柏北観音堂脇の説明板によれば、
「中世(鎌倉時代・室町時代)に、観音寺山を中心に付近の山々に築かれた、国内でも有数の大規模な山城群の城跡を柏城跡と呼ぶ。
柏村一帯は、現在の新市地域を中心に備後南部に勢力を持っていた宮下野守(宮氏惣領筋の一つ)の本拠地であると共に、中世の街道の関所として機能していたと考えられる。 それ故に柏城を舞台に何度も合戦が行われた」  
という。
観音寺山の山頂の宝篋印塔
応仁の乱が備後地方へも拡大し、宮氏などの国人衆は西軍方につき、東軍方の山名是豊(備後・安芸守護職)に反抗して1471年から足かけ3年に及んで戦ったが敗北。 その後、復活してこの石塔を供養の為に建立したと考えられている。
その後は、1521年に南下して来た尼子氏を迎え討つなどするも、1541年には尼子方につき、惣領家は遂に滅びてしまった。
9.甲山城跡
観音寺山の山頂から尾根伝いの東北には、山城群の一つである甲山城跡が見える。
行って見たが、木が茂っていて何も見る事が出来なかった。
尾根上には6ヵ所の郭が連続して築かれているそうだ。
10.村境の道標
柏の牛地蔵道標の所まで引き返し、そこから左折して東にある大坊福盛寺に向かう。
これが野呂往還だと言う事であったが、直ぐに舗装道路になってしまい野呂往還かどうか分からなくなってしまった。
この道標はその途中の峠の頂上にあり、昔の下安井村(西)と新山村(東)の村境だ。
11.大坊福盛寺
本尊は千手観世音菩薩。
大坊(大きな僧坊)という名前がついているだけに、大同元年(806年)に日大上人が天台宗として開基した当時は、境内に12の小寺院を有する名実共に備後の名刹だったそうだ。
後に、覚ばん上人の時に高野山直結の真言宗となり、皇室の祈願寺ともなって隆盛を極めたというが、現在は本坊が残っているのみ。
裏山の宝篋印塔
裏山の山頂はお椀状に窪んでいて、その中央に宝篋印塔があり、鬼の釜という木札が立てかけてあったが、その由来については?
大坊南の集落
境内から南に集落が見えるが、これが野呂往還の名前の由来の野呂集落らしい。
12.仁王門
福盛寺より約800m下った所にある仁王門で、ここが福盛寺の入口だとすると大坊と称するのもハッタリではないらしい。 それにしても、
「本尊の千手観音が、仏法弘通の為に天竺から岩の船に乗って、穴の海(現在の神辺、府中平野)を経て、服部大池の西の刈山に着いた。岩船はいまに残っている」
という伝承もあるそうだが、こちらは眉唾だ。

と言った具合に約10kmを歩いたが、色々な遺跡や、お寺に伝わる大蛇の頭骨や仏がインドから乗ってきた岩船などの怪しげな話を楽しませて貰った。
それにしても、肝心な野呂往還についてはその一部しか解明できなかったのが少し残念だ。  次回から、柏集落から更に北に向かって歩くらしい。 今から楽しみだ!