黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

ハイドンのおじいさん(おもちゃの交響曲)

2024-12-09 15:35:18 | 音楽

「おもちゃの交響曲」は、私が小学校低学年の頃はハイドンの作とされていて、日本語の歌詞付きで音楽の教科書に載っていた。記憶と理性で再現すると、次のとおりである。

理性で記憶を修正したのは「おじさん」の部分である。すなわち、小学校低学年用なら16分音符は使わなかったろう、と思ったのである。記憶通りに記せば次のとおりである(その記憶は、その後この曲を実際に聴いたことにより上書きされたものだと思われる)。

このように、「じ」を二つの音符に乗せるため、ハイドンに対する悪気がなくても「おじさん」は「おじいさん」にならざるを得ない。ハイドンは、人を年寄り扱いしやがって、と怒るかもしれない。

根源的な問題として、日本語の歌詞を付けた人は、「ハイドン」=「おじさん」のつもりだったと思われるが、「ハイドンのおじさん」と言っちゃうと、日本語的には、ハイドンの父又は母の兄弟姉妹を指すのが自然である。

今日的な問題としては、どこかの偉い人が女性の大臣を「おばさん」と言ったのが問題視されたが、「おばさん」がダメなら「おじさん」もダメなはずである。

なお、ハイドンのお父上は大工さんだった。二世議員を問題視する立憲民主党の現代表は「よし!」と思うだろう。そのほか、シュッツもヴェルディも実家は宿屋だから代表は本望だろう。それに対し、代表が眉をひそめそうな例の代表はJ.S.バッハである。一族郎党音楽家だらけである。あと、モーツァルトのお父上のレオポルドや、ベートーヴェンの父と祖父も音楽家であった。

ところで、件の「おもちゃの交響曲」の作曲者については、その後、ハイドンではないという話になり、「レオポルド・モーツァルト(上記のモーツァルトのお父さん)が作曲したものをハイドンの弟のミヒャエル・ハイドンが編曲したもの」という説が最終結論だとずっと思っていた。ところが、現在では、エドムント・アンゲラーって人の作ということで落ち着いているらしい。いずれにせよ、レオポルド・モーツァルト作曲説は既に1951年に現れていたのに、1960年代の教科書にまだ「ハイドン作」と載せていて、いたいけな子供に♪ドー、ハイドン……と歌わせていた事実はいかがなものか?と今思うワタクシである。

因みに、ハイドン作として出版されたときのタイトルは「Kinder-Symphonie」(子供の交響曲)である。「おもちゃの交響曲」は英語圏で広まった「Toy Symphony」から来たものである。

前述の「おじさん」又は「おじいさん」の箇所のことだが、かりに私が裁判所に証人として出廷し、「おじさん」又は「おじいさん」のどっちだったかと聞かれて「おじさん」だったと証言した場合、偽証罪について主観説(記憶に反したことを言えば偽証罪になるという説)に立てば偽証罪が成立するが、客観説(客観的真実に反したことを言えば偽証罪になるという説)に立ち、かつ、実際に「おじさん」だった場合、偽証罪は成立しないこととなる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母ネタVol.5ペースメーカー(雉も鳴かずば打たれまい)

2024-12-09 11:05:35 | 家族

母が病院に通ったのはペースメーカーを入れていたからである。ペースメーカーを入れた人は、毎日血をさらさらにする薬(ワーファリン)を飲まなければいけないから、定期的に病院に行って薬をもらう必要があるのである(血液が金属に触れると固まるという話をなんかで聞いた。ワーファリンはそのために飲むんだな、と独り合点した)。

ペースメーカーを入れたきっかけは、「めまい」である。母は「めまいがする、めまいがする」と愁訴しては病院を渡り歩いたが、どこでも「異常なし」で追い返されていた。そんななか、「めまい」とは関係なさそうな心臓の欠陥が見つかった。病院はペースメーカーを入れることを勧めた。入れないとぽっくり逝く可能性があるという。そう言われたら普通の人は断れないだろう。まして、母は、何事も他人任せの人だったから断るという選択肢はなかった。

認知症は薬が飲めなくなって発覚する、と言われるが、母の認知症が発覚したのも薬がきっかけである。ある日、母から電話があって薬がなくなったという。え?決まった量より余計に飲んじゃったの?と思って病院に連絡したら、薬をもらいに行くはずの予約日を母からキャンセルしたという(母はそのことを覚えてなかった)。で、その日のうちに私が同行して病院に行き、後で私だけ診察室に呼ばれて先生が言うには「認知症だ、間違いない、この後大変なことになる」とのことだった(その予言は正しかった)。

認知症が進行して、施設でケアプランをたててもらうようになったのは(Vol.1参照)、この後のことである。その際、診療も施設に往診に来ている先生にしてもらうことになった。足腰の弱った母をタクシーに乗せて病院に行くのは重労働になっていたから往診の先生に診てもらえることは何にも増してありがたいことだった。そのために、病院の先生に、施設の先生宛の所謂「紹介状」を書いてもらう必要があったので、そのことを病院の先生に言うと、先生は事情を察してこころよく紹介状を書いてくれ……なかった。かなりお怒りになり、嫌みを並べ立てた。それでも、一応、紹介状を書いてくれた。

その後も、ペースメーカーの作動チェック等を元の病院でしてもらっていたので縁が切れたわけではなかった。そのうち、ペースメーカーの電池が寿命なので取り替えることになり、そのための手術を要するから2泊入院することになった。手術は無事成功。そのとき先生から「これまでペースメーカーはあまり作動してなかったようなので(つまり、心臓が元気でペースメーカーのサポートが不要だったので)、このたびは消費電力を抑えて13年もつようにした」と言われた。じゃ、なんのためのペースメーカーか?そもそも入れる必要があったのか?と納得のいかない私であった。

その翌日のことである。病院から電話があった。母が徘徊して手がつけられないから引き取ってくれ、という内容だった。だからって追い出すの?じゃ最初から1泊で良かったんじゃん、とここも納得のいかない私。とにかく、母を施設に連れ帰った。

施設の往診の先生は大変良くしてくれて大いに助かった。ただし、ときたま、その先生が来れないときがあって、代わりの若ーーい先生が来るのだが、その先生は、ちょっとでも異常があるとすぐに私に電話をしてきて「大きな病院に行って診てもらってくれ」と言う。え?おたくで分からないの?そのための往診じゃないの?しかも、それがゴールデンウィークにあたったりすると大病院も開いてない。途方にくれてるうちにいつもの先生と連絡がついて「それ、ウチで診察できるから(大病院に行く必要はない)」とのこと。でしょー?きっと、あの若い先生は自信がなくて判断できないもんだから大病院に行けと言ったんだと私は思っている。

母が「老衰」でなくなったのは、ペースメーカーの電池を交換して「13年持つ」と言われたその半年後である。

そういう母をみてきて、私が心に決めたことがある。ペースメーカーはどんなに勧められても絶対に入れない、ということである。そもそも母がペースメーカーを入れたのは「めまいがする」と愁訴したせいである。それがなければ、(結果的に)役に立つことがなかったペースメーカーなど入れずに済んだだろう。「雉も鳴かずば打たれまい」である。

最近、私もめまいらしきものを体験した。ああ、母が言っていたのはコレか?と思った。だからと言って大騒ぎして「雉になって打たれる」=「ペースメーカーを入れられる」ようなことはしない。それよりも、最近はめまいの専門外来ができてきたからそっちに行く方が百倍ましだと思う。駅へのバスの車窓からも「めまい」を謳ったクリニックが見えるから、よっぽどひどくなったらそこへ行こうと思っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする