黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

グルベローヴァVol.2「後宮からの誘拐」のタイトルへの疑問

2024-12-19 11:56:42 | オペラ

モーツァルトのオペラ「後宮からの誘拐」は、そのタイトルが疑問。普通、「誘拐」というと、悪者が被害者を力尽くで、又はだまして連れ出す行為である。だが、このオペラは、トルコの太守の後宮に監禁されているヨーロッパ人女性をヨーロッパの男が助け出す話である。「解放」であって「誘拐」とは真逆のようにも思える。

原因は原題である。ドイツ語で「Die Entführung aus dem Serail」。この「Entführung」が「誘拐」だと言うのである。果たして「誘拐」だけか?他の意味はないのか?例えば、このオペラを「後宮からの逃走」と訳す人もいて、やはり「誘拐」に違和感を持ってる人だと思うが、そうした「逃走」の意味はないのだろうか?独和大辞典にはなかった。ネットのドイツ語のページを見てみたが、やはり、この言葉はハイジャック等の犯罪的な行為を意味するもののみのようである。

ところで、このオペラの粗筋を述べているドイツ語のページを見たら、「ヨーロッパの男が『die Entführten zu retten 』を決心した」とあった。「die Entführten」とは件の「Entführung」の元の動詞である「entführen」(誘拐する)の過去分詞が名詞化したものであり、「誘拐された人達」の意味である。そして「zu retten」は「to rescue」すなわち「救出」である。つまり、トルコの太守に誘拐された人達を救うことを決心した、というのである。「entführen」(誘拐する)が「retten」(救出する)に置き換わっている。それならガッテンである。すると、このオペラが「誘拐」と言ってるのは「後宮への誘拐」?だが「aus dem Serail(out of the harem)」はどう読んでも「後宮から」である。すると、太守が誘拐したヨーロッパ人女性を誘拐仕返したというのがこのオペラのタイトルであると言わざるをえない。

ところで、泥棒に盗まれた物を盗み返す行為は窃盗罪にあたる(泥棒の占有を侵害した、という理由で)。同様の視点に立ったらどうだろう。後宮から連れ出す行為は、太守から見れば犯罪であって、それは「誘拐」である。そう考えたとき、初めてこのタイトルに納得するのである。そう言えば、このオペラのラストは、脱出が失敗してとっ捕まったヨーロッパ人の男女4人を太守が許して帰国させる。なかなかの人格者として描かれている。そんな人格者の目を盗んで逃げ出す行為を犯罪行為に擬すこともあながち不当ではないかもしれない。ということで、疑問は(無理やり)解消した。

因みに、「誘拐」という言葉は、日常用語的には被害者を力尽くで、又はだまして連れ出す行為の両方を含むが、刑法的には、前者は「略取」であり、後者が「誘拐」であり、両者を総合して「拐取」と言っている。

映画「アマデウス」にもこのオペラが出てくる。サリエリがソプラノ歌手に稽古を付ける場面で歌手が音階を歌うシーンがそのままこのオペラの「拷問のアリア」のシーンになるのである。なんとも秀逸である。再現するとこうである。

映画で歌手を演じているのは俳優で、実際に歌っているのはジューン・アンダーソンである。実際、ジェット・コースターのような音階だらけの超絶技巧を要求するアリアである。私が誰でこのアリアを聴きたいかと言えば、それはもちろんグルベローヴァである。オペラになだれこんだ後、高いドをずーっと伸ばすのだが、これをピアニッシモで歌うのがグルベローヴァなのである。

因みに、映画では、件のソプラノ歌手はサリエリのお気に入りなのだが、モーツァルトに寝取られることになる。

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K溜めの痕跡

2024-12-19 08:09:51 | 歴史

以前、当ブログの川シリーズのVol.8で花畑運河を特集した際、花畑運河は中川と隅田川のショートカットで、これを開削したおかげで江戸と北関東間の水運が大変栄えたという話をした。で、何を運んだかというと、北関東からは農作物であり、江戸からは下肥ということであった(見事なリサイクルに感嘆したのであった)。

ただ、腑に落ちないことがある。昔は、どこでもかしこでも下肥が当たり前で、私が小学生の頃、修学旅行で箱根に行ったときも道中「田舎の香水」がよく香ったものである。だが、臭うということは、危険物であることのシグナルである。肥料にするありがたい物がなぜ臭うのだろうか。

このことに関して、最近、「なるほど」とガッテンした話がある。たしかに「下肥」は「未処理」だと寄生虫がいて有害である。だから、神様は臭いをつけて人が近寄らないようにしたのであろう(進化論的に言えば、平気で近寄る人が淘汰され、近寄らない人が残ったのである)。そのような有害物質であっても発酵させることによって無害にすることができる。すなわち、発酵時の高温によって寄生虫が死滅するのである。その発酵タンクがK溜めだったというわけである(「K溜め」=「下肥」と「溜池」を足して語幹を抽出したもの)。

そのような有り難いK溜めもちっとも見なくなった。最後に見たのは、まだ実家にいた頃。丘の上の住宅地が切れた先に一個だけぽつねんとあったヤツである。当時の空中写真を見るとその辺りは思いのほか農地が広がっていた。そうか、この農地をぽつねん一個でまかなっていたのか、と拝みたい気分になった。現在の空中写真を見ると、その辺りにも宅地化の波が押し寄せてきている。当然ながら想い出のK溜めらしきものは写ってない。ブラタモリではよく川や池の痕跡を辿っている。果たして現地をつぶさに調査すればK溜めの痕跡を見つけることができるだろうか。住宅開発者にとっては「不都合な真実」であろう。なお、空中写真から私が密かにこの辺り?と睨んだところは駐車場になっている。家を建ててないのはやはり開発者にもやましい気持ちがあったのだろうか。

そのブラタモリは、来年の春からレギュラー放送が復活するそうである。めでたいニュースである。

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