ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

ゆらぎ

2009-11-25 15:50:36 | Weblog
瀉血でもしたい気持ちが続いている。
でも、喀血はしたくない。つらそうだから。

なんだか仰々しい音楽が聞きたくなって、マーラーの「復活」を流している。
久しぶりに聴くと、思っていたよりもずっと繊細な曲で驚いた。
記憶を上書きしなければ。

朝、仕事場に着いたら、ほわほわした音楽が流れていて、
「ああ、この世には、こんな世界もあったよなあ」という気分になった。
その人は、いつも脱臼したような音楽を聴いている。
私とは、まったく音楽の趣味が重ならない人だ。

先日、別の友人と音楽に関係する話をしていたときに、
その人が「ゆらぐ」という言葉を使った。
きっとピアノを弾くと、その人は「ゆらぐ」のだろう。

確か、小林秀雄さんが「モオツアルト」で「ゆらぎ」という言葉を使っていた。
その文章を読んだ後にモーツアルトの曲を聴いて、
「なるほど」と思ったことがある。
そして、私がモーツアルトを聴いても、いまひとつ「いい」と思えなくて、
どちらかというと好んで聴かないのは、
この「ゆらぎ」のせいなんだ、とも思った記憶がある。

そしてずっと、音楽と接して「ゆらぐ」ことについて考えている。

私は音楽を聴いたり、ピアノを弾くと、頭の中に光のイメージがやってくる。
木の葉に日の光が反射しているところ、
月光が水面に揺れているところ、
たまに、macのスクリーンセーバーのようなイメージのときもある。

すべてが一刹那の重なりで、
大好きな曲を聴いているときは、
その光の重なりが一点に集約して、自分の一番深いところに、
すーっと落ちて行くような気持ちがする。
その「落ちる」感覚を得られるかどうかが、私にとっての「好き」の境界線だ。

もし「ゆらぐ」という言葉が、最初に私の頭に到来する光のイメージに近いのなら、
なんとなくわかったような、通じたような気持ちになって嬉しい。
もしかしたら、ゆらいだ状態のまま純粋に音の世界に遊べる人が音楽家で、
音の天才なのかもしれない。

以前、天才と言われているピアニストが弾いたラフマニノフの
ピアノ協奏曲第2番のCDを聴いた。
ただ純粋に音と向き合っている姿がとても美しくもあり、
「人生それだけじゃないだろう!」と、言いたくなる反感も
同時に覚えたことがある。

私は音楽に救いを求めることが多いけど、
私が求めているような音に出会うことはとても稀で、
いつも欠乏気味な気持ちがする。
この飢餓感も、これはこれで自分なりに楽しもうと思う。