ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

あれ、消えた

2009-11-21 22:25:44 | Weblog
書いたブログが、何らかの操作ミスで全部消えた。
ほとんど書きあがっていたのに。

きっと書くべきではなかったのか、
縁がなかったのか、
まあ、とにかく、そういう日だったのだろう。

そして、先ほど書いた内容とはまったく違うことを少し書く。

落ち葉の季節はすごく好きだ。
木がいろいろな色をまとっている。

数年前、母の墓参で10月の高野山に行った。
お寺の境内に、東京よりも少し早い秋が訪れていて、
庭一面に赤い落ち葉が敷かれていた。
とても美しかった。

来年は10月の三連休に、久しぶりに高野山へ行こうと思った。

大日経の認識論

2009-11-19 16:27:46 | Weblog
神変・大乗密教の奥義書 安達駿著、文芸社刊。

大日経は密教の根本経典だと聞いたことがあったので、読んでみようと思った。
著者は仏教の大家というよりは、修行者なのだと思う。
自身で霊感体質だとも言っている。
いろいろな経験を経て、そして、たぶん派閥やしがらみがないなかで、
自身の信念によって、大日経を訳し、注釈をつけている。

きっと、いろいろと批判する人もいるだろうけど、
この姿勢こそが仏教と対するときの根本姿勢だろうと思う。
お釈迦様も、自分の言葉を鵜呑みにするのではなく、
よくよく吟味し自分の頭で考えなさい、と言っている。
大日如来が語っているという大日経にも、当然そのように対するべきだ。

いつも仏教の経典を読んでいると、言葉はシンプルなのに内容がすごく難しくて、
読み終わってみると、さっぱり理解できていなかった、ということがある。
その理由のひとつは、仏教は経典を読むだけではだめで、
「行」をして体感しないと、言葉の背景にある世界観がつかめないからだと思う。

サンスクリットの原文から、なぜこの漢字をあてて訳したのか。
また、翻訳には必ず勘違いや間違いがあるものだし、原文との距離も必然的にうまれてしまうものだ。
ただ、ありがたがって字を目で追うだけではダメで、一言一句、本気で向き合う必要がある。
そして、本当に心の底から合点がいくかどうかを絶えず自分に問う必要がある。

私はまったく霊感体質ではないから、幽霊も見たことがなければ、何かが聞こえたこともない。
それに、頭でっかちでいろいろと考えるクセがあるから、
特定の教団に入って安心しながら修行する、なんていうこともできない。
まず、与えられた課題をとことん疑ってしまうから。

直観力も優れていないので、とてもではないが、密教体質ではないと自分で思うのだけど、
でもやはり、密教にいちばん惹かれる。
私が思い描く「自然体」のイメージは、密教に対するイメージと非常に近い。
なぜだろう。

線引きはどこだ

2009-11-18 16:57:27 | Weblog
先日、どこかのサイトに、
「大人が電車の中で飲み食いしていてみっともない。モラルの低下だ」という記事が載っていた。

そうそう。私も先日、似たようなことを考えていた。
なんで長距離列車の中では、みんな普通にお弁当を食べるのに、
いわゆる在来線でおにぎりにパクついてる人を見ると、違和感を覚えるのだろう、と。

新幹線の中で、お酒を飲んで大いびきをかいている人。
扉ぎわで、こっそりとおにぎりを食べている人。
キムチ教室の帰りで、電車中キムチ臭を漂わせてしまう人(これは、ある日の私)。

どこからがみっともなくて、モラルの低下なのだろう。
線引きはどこにあるのだ。

「日常生活において」というところが境界線なのかな。
そうすると、新幹線通勤している人が帰りの新幹線でお酒を飲んだり、お弁当を食べていたら、
これはモラルの低下、ということになってしまう。
でも、そんな人はたくさんいるし、みんな違和感を持っていないと思う。

在来線で、立って食べているから問題なのか。
でも、その人にとっては、それは日常使う通勤路ではなく、
たまたま遠出して、食事の時間を逃したのかもしれない。
やっぱり「日常生活」も尺度では使えないような気がする。

正直に言って、電車の中で立って食べている人を見ると、
私自身、あまりいい気持ちはしない。
でも、なぜいい気持ちがしないのか、という理由を考えて行くと、
見慣れないから、という理由しか思い浮かばない。
ああ、あと、こんなにホコリっぽいところで、よく食事をする気になるな、とは思う。
ただ、私も飴はなめるし、電車でまったく口に何も入れたことがないか、と考えると、
いやいや、そこまで潔癖ではありませんでした。となる。

どこまでがゆるされて、どこからが不快なのか、ということが、また気になってきた。

ただ、電車の中で化粧をしているのはイヤだ。
揺れるし、危ないと思う。
化粧が完了した顔はあまり注目してもらえないから、わざとやってるの?と、
意地悪なおばあさん発言をしたくなってしまう。
このセリフを実際に言ったら、そのほうがよっぽどモラルの低下だよなあ、と思う。

呼吸

2009-11-17 15:39:38 | Weblog
やはり人間の根本は呼吸か、と思った。
先週からの胃痛もようやくおさまってきて、
背もたれがない状況で一定時間座れるようになった昨晩、
久しぶりに座禅の姿勢で座り、ゆっくりと呼吸をした。

背骨にそってお尻から頭へ、頭からお尻へというイメージをもって、
ゆっくりゆっくり息を吸って吐いているうちに、
はじめは伸びなかった背筋や、
掛け違っているような感覚だったいろんな関節も、
もとの位置に、カシャンと戻っていった。

10分も続けているうちに、身体の隅々に酸素がまわって、
少しずつスキャンをしながら、内蔵や筋の位置を修正しているような気持ちになった。
単なるイメージトレーニングなんだけど、これがまた気持ちいい。
それに、深呼吸していると身体があたたかくなってくるし、
実際に血行がよくなっているんだと思う。

いい歳になったし、本格的にヨガを始めてみようかな。
でも、気合いをいれて「やるぞ」と思うと、だいたいが三日坊主になる。
DVDを見ながら真似をする、というのは、もっと無理だ。
どうもテレビやDVDは、私にとっては構えて対するもので、仰々しい。

そうか。朝やればいいんだ。と、一瞬思ったけど、
夜リラックスして眠りたいと思うので、やはり夜にあうツールがいい。
DSのソフトでも買うかなあ。
おお、DSをやる口実ができた。

仕事と日々・夢想と夜々

2009-11-16 15:09:32 | Weblog
ジャンケレヴィッチ 哲学的対話。仲沢 紀雄訳、みすず書房刊。

一日の最後に、眠りにつく前に、1章ずつ読み進めた。
問いや投げかけに対する回答として語られるジャンケレヴィッチの言葉は、
何とも秋の夜長にぴったりな雰囲気だった。

一度でいいから、実際にこの人と話をしてみたかった。
話をするのが無理だったら、ソルボンヌ大学で行っていた公開講座を聴講してみたかった。
フランス語はまったくわからないし、
ジャンケレヴィッチには、訳書をとおしてしか出会ったことがないけれど、
強く強くそう願う。

私にとっての一番の魅力は、
芸術と哲学を融合させているその接点の見つけ方と表現だ。

例えば、
「芸術家は、蝶が焔に対するように、直接のものとたわむれる。
曲芸のような危険な遊び。焔を直観で認識するには、
火の小さな舌先がおどるのを見るだけではなく、内側からその熱と一体になる必要があろう。
映像に、やけどという実存する感覚が加わらなければなるまい。云々」
という、わかりやすいものもあれば、

「終り、そして始まるすべてのもの、死にほかならない誕生、朝のぬるみと夜の神秘、
そして、それにもまして森の中の影の島は、音楽の王国に属する」
と、その先をずっと読んで行って、はじめて「こんな感じ?」と、聞きたくなるような文章もある。

さらっと、一度読んだだけでわかることは少なく、
何度も文章を読み返して格闘し、自分自身の感性をひろげる努力を強いられるような文章だ。

難解だし、向き合うのはつらいけど、でも、向き合いたいと感じる魅力がある。
そう、まるで、新しいピアノの楽譜の前に座った時のような気分になる。

それにしても、なぜ私が好きになる人は、
少し前の世代で、かつフランス語で書いていた人たちなのだろう。
シモーヌ・ヴェイユもジャック・デリダも、ジャンケレヴィッチも。
そして、みんなユダヤ系なんだな。

中国語は、学んでよかったと思うのだけど、
大学を卒業してからは、ぱったり中国関係の本を読まなくなり、
いまの興味の対象は、仏教と西洋哲学となると、
学ぶべき言語を実は誤ったのかもしれない、と、思えるときがある。

退化する

2009-11-14 23:32:11 | Weblog
火曜日の夜からずっと吐き気がひどくて、ほとんど家に閉じこもっていた。
風邪か、なにか悪いものを食べたのだろうか。
それともストレスか。

すっかりトイレの住人だったとき、つらいなあ、と思いながらも、
サルトルの『嘔吐』って、どんな内容だったっけなあ、とか、
『帝都物語』では、なんだか奇妙なものが口から出て来るシーンがあったよなあ、など、
具合が悪い自分を、一歩はなれて見ているもう一人の自分もいた。
きっと、最終的に追い込まれてはいなかったのだろう。

もう何年も前から、数ヶ月に一度、ものすごく胃の調子が悪くなる。
先日の半日ドックでは、まったく胃は健康だったので、
きっと病気ではなくて、そういう体質なのだろう。
こんなとき、いつも、定期的に毛玉をはくネコを思い浮かべる。
だから、そんな状態の自分に慣れていることもあって、
身体はつらいし、涙も出て来たけれども、精神的には比較的余裕があった。

ああ、でもこれ以上続いたら、さすがにイヤだな。
胃が悪いと背中も痛くなるし、座っているのもつらいのは面倒だ。

そして、家から出ないので足が退化する。
屋外の空気ってやっぱりいいと思う。
たまに家に閉じこもって鳥のさえずりを聞いているのは、幸せなことだけど、
やはり実際に外を歩いて感じることは、私にとっては大切だ。

とはいえ、少し復調気味の昨晩からずっと、
友人から借りたDS版ドラクエ4に熱中していた。
いやあ、よくできたゲームだ。みんなが騒ぐだけのことはある。
ロープレと言う名の格闘技、という感じではなくて、ちゃんとストーリーを楽しめた。
敵は、あまり強すぎないほうがいい。

このままドラクエ5もやりたいけど、
そうなると、引き続き家に閉じこもることになって、いよいよ足が退化するので、
明日は少しゲームをお休みしようか、お休みしなければ、と思っている。

好きなこと

2009-11-12 08:40:11 | Weblog
ここ数日、好きなことを考えている。
何をやっているときに楽しいと思うだろう、もっとやりたいと思うだろう。
一番飽きずにやってきたことは何だろう。

まず一番は読書。
真剣ではないけれど、なんとなく続けているのはピアノ。
何年かに一度、猛烈なブームが訪れるのはゲーム。
たまに、無性に話したくなるのは中国語。

読書とピアノは、似ていないようだけれど、私の中では似ている。
他人の言葉である文章や楽譜を、自分なりに読み解き、再構築する。
すぐに、すんなりと入れる場合もあれば、
何年も経ってから、「ああ、こういうことか」と合点がいくこともある。

ゲームと中国語は、一種のハイ状態をつくりだす、という共通点がある。
ゲームの場合、私はロープレがメインなので、
登場人物のセリフが面白いと、とても嬉しい。
ロープレでは、全員に話しかけていくものだから、
町にいる人やモンスターも含めて、クスッと笑えるような何かがあることを求める。

中国語も、私にとっては同じ。
中国人と話していると、日本人にはまったくない発想があるし、
私も中国語というロジックの中で話している時は、
日本語とは違う尺度で話すから、「ああ、なるほど」と、
自分の中の何かを再認識したりする。
つまり、私にとっては、日常とは違ったところで、
どちらかというと相手の世界観の中で、他人の感性にふれる、という共通の楽しみがある。

そして、ふと思った。
私は、働くことも大好き。
ここに書いたような楽しみがすべて詰まっているのは、「働くこと」だと思うし、
みんなが真剣だから、いろいろな刺激がある。

そろそろ、もう一度、仕事で真剣勝負してみるかな。

騒音

2009-11-10 18:26:19 | Weblog
今日も、会社の中はとても静かで、いろいろなことが前向きに考えられる
とてもいい一日だった。

うっかり感覚を開放していた帰り道。
駅のホームで、あまりの音の多さにびっくりした。

人の靴音、咳払い、携帯を開けたり閉じたりする音、電車の音にアナウンス。
部活帰りの女子高生や、サッカー日本代表の話をしている男子大学生の話し声。
いつもは何気なく聞き流していた音が、ぐさぐさ刺さってきた。

本に集中しようとするのだけど、できない。
心頭滅却すれば・・・、と思ったけど、無理。
ちょうど読んでいたところが、ドビュッシーのつぶやくような音の表現のところだったから、
またこれもよくなかったのだろう。
どれこもれもが、フォルテシモの音の不連続な連続に聞こえた。

地元の駅で電車をおりたら、一気に気分が悪くなった。
暗い道を歩いていたら、遠くを歩いている人の足音も鮮明に聞き取れた。
防犯上は、いいのかもしれない。

今日は、すごくビックリしたのだけど、
でもやはり、私は人の距離感というか、全体的な群衆の蠢いている雰囲気というか、
そういったものが好きなので、東京で暮らしたいと思う。

いい夢を見た

2009-11-10 10:57:56 | Weblog
いまふと思い出した。
昨晩の夢の中で、とてもいい歌を聞いた。
「ああ、気持ちいいなあ。いい歌だなあ」と思って、よくよく考えたら、
自分でつくった歌だったことに気づいて感動する、という、
夢ならではの恍惚感に満ちた内容だった。幸せな人間だ。私は。

漠然としたイメージのほか、
歌詞のことばやメロディーも、もうまったく覚えていないのだけれど、
いまの私の心境をこえる何かが、その歌の中に詰まっていたことを覚えている。

最近ひんぱんに気持ちよく中国語を話している夢や、
夢のなかでいい音楽を聞いている夢を見る。
先週は特に月がきれいだったので、
むかし読んだ李白の詩を思い出しながら眠りについたら、
のびのびとしたいい気分の夢を見る回数が多かった。
月光を映す水晶を眺めるなんて、学生時代以来だ。

いっぽう、ゲームに熱中して寝る寸前までやっていた日は、
悪夢を見る確率が高い。私の場合は。
どんなにまったりとしたゲームをやった後であっても、
どうも騒がしい夢を見てしまう。

ゲームが悪いと言っているのではなくて、これは特性のためだと思う。
ゲームは多かれ少なかれ目標があるものだから、
自然に私の中の狩りの本能が目覚めてしまって、せかされるのだろう。
これがゲームの楽しさでもあるわけなので、自分で加減をするしかない。

あとは、どのゲームであっても、
「ここをもっとこうしてよ」というフラストレーションがある。
このゲームの本筋からはそれたところから生ずる欲求不満を、
どうやら私は、ずっとあれこれ考えてしまうようなのだ。

これを解消するには、どんな方法があるのか。
自分で工夫すればいいのか、それに費やす時間と労力はどうだ。
ゲームを作る側の想像力の問題じゃないか。
使う人にとってどうだろう、ということをもっと考えなかったら、
いくら夢があるストーリーでも惜しいじゃないか。など。

確かに、こういうことを考えるのは好きだけど、
でも寝ているときは解放されたいと思う。
ただでさえ、仕事で大きな問題が発生したときは、
夢の中でいろいろとシミュレーションをしてしまう。
そのおかげで翌日うまくいくことは結構多いから、助かってもいるけど。

ということは、私にとって、仕事もゲームも脳の使い方が同じなのか。

はかどった

2009-11-09 16:43:39 | Weblog
今朝は、都内のJR線のダイヤが大きく乱れていて、いつもよりも通勤に時間がかかったけど、
なんだかイライラもせず、読書もすごくはかどった。

朝は一番集中力があるので、本当は自分が一番好きなことをやりたい。
つまり、読書や空想をしたい。
でも、普段は仕事をしなければならならず、
やっと時間ができる夜には、すでに頭の芯が疲れていて、思うように没頭できなくなっている。
それがいつももどかしい。

だから、私のせいではなくて、通勤に時間がかかるのは、実は嬉しい。
月曜の朝なんて、ただでさえ仕事に行きたくないのだから、
実は、なかなか会社にたどりつけないのは、私にとってはラッキーなのだ。

今日の会社は、いろいろな原因があって人が少なく、
すごく静かで、仕事がいつもよりもずっとずっとはかどった。
集中してやれば、こんなに短時間で終わる。
いつもダラダラと愛想笑いをしたり、相づちをうっているから、時間がかかるのだ。

そういえば、小さい頃から絶対無理だと思っていた職業は、
幼稚園や小学校の先生だった。
人の世話を焼くのがとても苦手なので、なるべく一人で籠って仕事がしたい。
打合せと個人作業の時間は、はっきりと区別したい。

メールと電話と社内でのおしゃべりをほぼ同時に進行するなんて、
これはもう人間のキャパをこえていると思う。
聖徳太子は、一度にたくさんの人の話を聞けたというけど、すごい人だったんだなあと思う。