カン・ドンウォンに会いたい

カン・ドンウォンに会えたら想い残すことは無いと思っていました。
でも、違った…また、会いたい…

夢見るようなM

2011-08-14 20:21:26 | M

昨日から田舎に行ってきました 

 

東京に近いのに携帯の電波も通じない田舎 

クーラーもなくておいしい野菜があるところ

 

な~んにもすることが無くて

時間がゆっくり流れるところ・・・ 

 

 

元気になって返ってきました~ 

また、ガンバロ~

 

 

 

 

 

 

 


<過去記事 >

夢みるようなようなスタイルの饗宴

イ・ミョンセ監督表現主義の極点、見慣れない夢みるようなスタイルの饗宴

 2007.10.24 翻訳サイト使用

 http://hanimovie.cine21.com/Articles/article_view.php?mm=009003000&article_id=15098

 

 

 

<M>はあたかもイ・ミョンセ監督が描き出そうとするdreaMとMagicの綴りMの積集合が作り出したような題名だ。誰でも自身が見た夢を正確に思い出すことは大変なことで、その夢というのは超現実的な魔術と同じようなものなのでその二つはあたかもお互いを照らす鏡とも同じだ。Mという綴りが見せる正確な左右対称の形もこれと妙に合う。 イ・ミョンセ監督自らも“映画を見て大きな混沌に陥る経験をするだろう”としながら“その混沌から目覚めた時本当に良い夢を見たという気がしたら良いだろう”と話すのを見るとイ・ミョンセ監督のカメラを使った‘夢の解釈’であると言えるだろう。それはまた、最近の韓国映画の全般的な流れと批評談論の中でパク・クァンス、イ・チャンドン監督に代表される写実主義傾向の大勢に向かった当代最高のスタイリスト イ・ミョンセ監督のこだわりのような反撃だと言うこともできるだろう。 もう一つ注目することはそれほど比重は大きくないが(?) キム・ポヨンを除けばカン・ドンウォンはアン・ソンギ、パク・チュンフン、ソン・ヨンチャン、キム・ヘスに続きイ・ミョンセ監督映画に二回以上主演で登場した俳優になった。 恐らく過ぎ去った歳月に逆らおうとする監督自身の回春のペルソナが若い俳優の表情にあるといえないだろうか。

若き天才ベストセラー作家ミヌ(カン・ドンウォン)はかなり長い間一字も書くことができない創作の苦痛に苦しめられている。 裕福で魅力的なフィアンセウネ(コン・ヒョジン)との結婚を控えていて、うらやましい人生のように見られるがそのように彼はいつも自分自身との戦いを繰り返している。 彼はいつからか一人でいても誰かとずっと一緒にいるようだという感じを拭うことができない。 そのようなある日、彼はあたかも何かに惹かれたように、あるみすぼらしい路地にあるルパンバーのドアを開けることになる。 そこで彼は10余年前に別れた初恋であり彼を追っていた視線の主人公ミミ(イ・ヨニ)に会う。 そのようなミヌの最近の行動に不安を持ったウネはひょっとして彼が浮気をしているのではないかと疑って‘ミミって誰?’と尋ねるがミヌは新しい小説とだけ話す。 そのようにミヌはまったく絡みを解くことはできない小説の糸口を見つけるために、完全に忘れて過ごした昔の恋愛の跡を探るためにさまよいを繰り返す。

中略

まるで、以前になかった映画を作るという態度で映画本来の‘言語’を探索するイ・ミョンセ監督の実験は変わらない。 扇風機を利用して人物の音声を乱して、表と違った自身の本音を表わす場面も、編集なしでワンテークで処理する場面はかなり新鮮だ。 そのようにほとんどすべての場面が夢みるようないろいろな夢幻的なテクニックでいっぱいである<刑事Duelist>よりかえってそのスタイルに対する実験と捜査がさらに強い。 オープンカフェがある街までのセットが完成したイ・ミョンセ監督は細かい光の一筋まで直接掌握しようとする態度でミヌの夢の中に入る。 普通の監督が話す‘現場での不確実性’が映画に反映されるということは少しもないようだ。 そのようにイ・ミョンセ監督はあたかも映画の中のこれ以上1行も書くことができないミヌになったように、毎場面孤独な自身との戦いを行っているようだ。 その過度な装いがたびたび粗野になるけれども、今の韓国映画が悩んでみなければならない点であることは明らかだ。

 

 

コメント (6)
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