ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

小村井香取神社・梅の花・亀戸天神・スカイツリー

2017年01月11日 22時54分18秒 | 自宅周辺探索

1月11日午前10時から12時まで仕事でしたが、あまりに天気が良いので周辺を散策しました。昨年、梅の花がきれいだった小村井の香取神社に行ってみました。梅は小村井梅園にちなんでいるようです。

香梅園(こうばいえん):江戸時代にあった梅の名所「小村井梅屋敷梅園」を、小村井香取神社の境内の一画に再現。85種類、120本の梅の木が所狭しと植えられており、珍しい品種もあるので、品種の札を一つ一つ確かめながら鑑賞するのも趣がある。

赤の二種類、白が一種類咲いていました。紅千鳥姫千鳥

白は玉牡丹のようです。

香取神社拝殿

★ランドマーク小村井香取神社永萬元年(1165)の葛西御厨の文書、応永5年(1398)の葛西御厨注文等に鎮守村名が見られ、平安時代の末期、当地開拓のために千葉県香取郡から六軒の人々が移住し、小村井の氏神様として鎮守しました。
大正5年頃まで、老樹鬱蒼と繁茂し円形の森林をなし、鳥類はもとより狸の類も巣を作り、隣地には小村井梅園が存して、明治43年頃までは四季の遊びの場所ともなりました。
現在の御社殿は、昭和29年の建立で、本殿は流れ造り、拝殿は入母屋流れ造りの総桧造りです。

こちらは大変珍しい浮彫の狛犬です。

拝殿の左手に諏訪神社

諏訪神社の手水場(文政11年(1828)製造?)が墨田区の文化財になっています。手水鉢は神仏を礼拝するにあたって、参拝者が手を洗い、口をすすぐための器であり、その行為のことを「手水を使う」ともいいます。この習慣は古代から行われていた「斎戒沐浴」の名残で、水で心身の罪や穢れを清める、「禊」を簡略化したものと考えられます。
そのために本堂や社殿の前には必ず水を満たした盥や「手水桶」「手水鉢」などが常備されています。
現在化鳥神社境内の諏訪社前にある手水鉢が「禊盥」と刻まれていることは、江戸時代後期の篤信社たちがただ単に手を洗うだけではなく、こうした禊の習慣をよく理解したうえで神前に奉納している貴重な例といえます。
この禊盥の右側面には「文政11年(1828)戌子6月吉祥日」、左側面には「星塢奏鐘書」、裏面には「氏子中」と能筆で刻まれています。
かつては本殿前に据えられていたものです。(墨田区教育委員会)

拝殿の右後ろには三峰神社がありました。

脇に建っていた苔むした燈籠があったので撮ってきましたが、調べて見たら「文政十三年」銘石燈籠でした。

神楽殿越しに東京スカイツリーが見えます。

スカイツリーが見えたので近くまで行ってみました。

帰りがけに、亀戸天神の梅はと思い寄ってみました。正面の鳥居のところの梅だけ咲いていました。天神さんからもスカイツリーは良く見えます。

境内では蠟梅が咲いていました。

蠟梅の後ろの椿の花に目白が止まって花の蜜をついばんでいました。

自宅に戻って昼食と昼寝をしてから、今度はいつもの猿江御恩賜公園にリハビリウォーキングに出かけました。

猿江公園のミニ木倉からのスカイツリーです。

公園ウォーキングが終る頃には一番星が出ていました。

これは昨日1月10日に撮った東京タワーです。

 

 

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亀戸・龍眼寺

2015年05月31日 23時38分04秒 | 自宅周辺探索

歩くのが困難で、出歩くのも大変ですが、閉じこもっていても良くならないので自転車で出かけてみました。この間開門時間過ぎて入れなかった龍眼寺に行きました。

龍眼寺山門です。萩寺の名で親しまれている龍眼寺の境内入口正面左には、 榎本其角、大納言家長郷、正面右には、 松尾芭蕉の句が彫られていました。

龍眼寺のHPより

「天台宗 慈雲山 無量院 龍眼寺 (萩寺):龍眼寺創建は応永2年(1395年)、良博大和尚が観世音の夢告とおり、柳島辻堂の下に眠る観世音をまつり、村に流行していた疾病を平癒し、慈雲山無量院柳源寺と号しました。

その後、寺の湧き水で洗顔すると目がよくなると眼病平癒の観世音として信仰を集め、龍眼寺と改名しました。江戸初期には、住職が百種類もの萩を諸国から集めて境内に植えたことから、通称“萩寺”として多くの文人墨客が訪れ、「江戸名所図会」には萩を愛でる人々で賑わう様子が描かれています。

境内に咲く四季折々の花々は、訪れる人の心を和ませ、松尾芭蕉、落合直文など文人墨客の句碑が昔の風情を偲ばせます。」と書かれていました。

亀戸七福神の布袋さんが祀ってあります。

 

本堂です。

夢殿を模し、八聖(正)道にちなんだ八角のお堂、八正道とは、理想の境地に達するために実践する正しい行いや生活態度のことだそうです。。

地蔵堂:子護八起地蔵尊(ねごやおきじぞうそん)が安置してあるそうです。

不動堂:願い事がある方は、護摩木にお書くようになっていました。ひとつ300円でした。庚申塔があるはずでしたが見当たりませんでした。萩の花はまだ少ししか咲いていませんでした。

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旧中川・白髭神社・アオスジアゲハ

2015年05月11日 00時17分48秒 | 自宅周辺探索

閉じこもりで脚の筋肉が衰えるのが心配で、自転車で出かけてみました。立っているのも大変というような状況ですが、自転車には乗れるので少し散策してみました。旧中川の岸辺の道を散策しました。白ツメ草とヒメジオンです。ヒメジオンにアオスジアゲハがとまっていました。土手の方を見たら神社が見えたので向かいました。白髭神社でした。参道にいろいろな花が咲いていました。ムラサキランやアヤメ。

本殿です。

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錦糸公園・千種稲荷

2015年05月04日 21時29分43秒 | 自宅周辺探索

いつもテニスをしていたコートのある錦糸公園を散策してみました。錦糸公園は関東大震災の後に作られたようです。立派な門柱がありました。由緒書きがありました。

昭和52年に隣の亀戸に越してきてから利用させていただいています。

当公園は大正12年(1923年)に発生した関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として隅田公園(台東区、墨田区)、浜町公園(中央区)と並んで計画されたものだそうです。

元々は帝国陸軍の糧秣厰倉庫であったが公園として整備され、昭和3年(1928年)7月18日に開園されています。戦時中は空襲からの避難所としての役割や戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用されました。こと昭和20年(1945年)3月のの東京大空襲では、1万余の遺体が当公園に仮埋葬されたとのことです。戦後は人々の憩いの場として使われるようになり、次第に体育館や噴水池などが整備されました。また公園の北側には隣接して長く精工舎(SEIKO)の工場がありましたが、再開発によりオフィスや飲食店などが入った商業施設「オリナス」が平成18年(2006年)にオープンしました。錦糸公園もそれにあわせて再整備されました。門柱もこの楠も昭和3年の開園時からあるものでしょうか。錦糸町駅に近い入口の所にこんな社があります。

千種稲荷(ちぐさいなり)です。ここは、 徳川四代将軍家綱の時代(寛文~延宝)に治水工事が行われその後、柳島村の守護神として祭られたと伝えられています。
 明治時代になっても、この稲荷神社は保護されて郷土の守護神として残されました。
 その後陸軍糧秣廠本所倉庫をこの地に建設したとき、敷地内にあった稲荷神社を取り払ったところ再三火災が発生した。そこで旧位置に稲荷社を再建して祀ったところ不思議にもその後火災はまったく起こらなかったという。 大正十二年の震災はもちろん、昭和二十年の空襲にもなんの被害もなく多くの人が境内に避難し戦火を逃れたという。ことだそうです。現在は錦糸公園の中に祀られている。

詳しい由来記が書かれていました。

 *陸軍糧秣廠(りくぐんりょうまつしょう)・・・陸軍の兵隊の食料や軍馬のまぐさをたくわえた役所
お稲荷さんのところからスカイツリーもよく見えます。

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5月のバラ

2015年05月01日 12時31分32秒 | 自宅周辺探索

メーデーの日ですが、ほとんど歩行困難なので、参加できません。天候につられて団地のバラを撮ってみました。団地の植栽部の皆さんが手入れをしてくれているものです。

昨日はリハビリで出かけたので、スカイツリーと大横川親水公園を通り抜けてきました。コデマリやいい匂いする小さいバラの花が咲いていました。

つつじも満開でした。

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