久しぶりにテニスをしてアフターして、帰りに錦糸公園に寄ってみました。昨日までは1-2分咲きだったのが一挙に8分咲きになってしまいました。
そんなに散り急がなくてもと思っているのですが。明日は雨模様ということで、土曜日の今日皆に見てもらいたのかとも思ってしましました。
ついこの間雪に覆われたのに、
なんて時節の流れが早いのかとも思いました。
。
スカイツリーも花越しにきれいに見えました。暗いのでスマホではなかなかピントが合いませんでした。
久しぶりにテニスをしてアフターして、帰りに錦糸公園に寄ってみました。昨日までは1-2分咲きだったのが一挙に8分咲きになってしまいました。
そんなに散り急がなくてもと思っているのですが。明日は雨模様ということで、土曜日の今日皆に見てもらいたのかとも思ってしましました。
ついこの間雪に覆われたのに、
なんて時節の流れが早いのかとも思いました。
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スカイツリーも花越しにきれいに見えました。暗いのでスマホではなかなかピントが合いませんでした。
用事があったので、夕方雨の中を自転車で出かけました。帰りがけに雨に煙る梅まつりの亀戸天神に寄ってみました。
亀戸天神の由緒:HPより正保三年(1646)九州太宰府天満宮の神官でありました菅原大鳥居信祐公(道真公の末裔・亀戸天神社初代別当)は神のお告げにより、公ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもって、遠くは日光または盛岡などの諸国を巡り歩かれ 、そして江戸の本所亀戸村にたどり着かれ、村に元々ありました天神 の小さなほこらにご神像をお祀りいたしました。
当時徳川幕府は、本所の町を、江戸の大半を焼き尽くした明暦大火の被害による復興開発事業の土地とさだめ、天神様を篤く信仰していた四代将軍家綱公はその鎮守の神様としてお祀りするように現在の社地を寄進されました。
そして、寛文二年(1662)10月25日に太宰府の社にならい、社殿、回廊、心字池、太鼓橋などを営み、以来約350年後の今日まで東国天満宮の宗社として崇敬されてまいりました。と書かれてあります。
藤まつりには毎年のように来ていましたが、梅まつりには出かけたことがなかったような気がします。いろいろな梅の種類があるようです。
しだれ梅もいいものですね。
天神様の中に社がいくつかあります。赤と白
寒くて、それも傘を差しながら撮った写真の半分以上がピント外れでした。少しましなものを載せてみました。
23日にリハビリに行った帰りにスカイツリーを見たら「粋」カラーでしたので急いで橋まで行って撮りました。これで前に撮った「雅」と2色になりました。
これが粋です。
こちらが雅です・。
吾嬬神社から明治通を先に行って、最初の信号を左に曲がったすこし先に小村井香取神社がありました
香取神社は、旧下総の国の一宮の分社であり、平安時代末期、小村井の地を開拓する為に千葉県香取郡から6軒の人々が移住した後、この地の氏神様として鎮守したものだそうです。
参道の両側に梅園がありました。
江戸時代、南葛飾群小村井村の 小山孫一郎の梅園は、園内に富士山に似た築山・茶屋池・石などが配置され、辺り一帯には紅梅・白梅の木が多く植えられ、時期には大勢の
江戸庶民が花見に訪れたそうです。この梅園も俗に「梅屋敷」と呼ばれておりました。「臥龍梅」の亀戸・梅屋敷よりはるかに敷地も広く、3300坪に及んだそうです。
毎年、梅花の時期になると将軍のお成りがあり、園内には「御成り梅」といわれた梅の木もあったそうです。江戸末期の慶応3年に発行された 安藤広重の「絵本江戸土産」の中に、小村井梅園の図があります。
この梅屋敷は、亀戸の梅屋敷などと同じく、1910年(明治43年)の大水害で廃園となってしまいました。小村井梅園は、平成6年 かつての「梅屋敷」を忍んで香取神社境内に再開されたものです。
入り口左手の梅園の紅梅と白梅が少し花を咲かせていました。
本殿です。
連休の最終日はテニスを休んで自転車で散策しました。
前にスカイツリーを撮影した福神橋を渡ると右手に神社の石碑が見えました。
すみだの歴史や文化などを、人や地域、施策等を通して紹介する「ひと・まち歳時記」。今回は、「吾嬬の森伝説」に起源を発し、多くの区の文化財が保存されている吾嬬神社をご紹介します。
吾嬬神社は、正治元年(1199年)に当時の鎌倉幕府執権 北條 泰時の命により造営されました。吾嬬神社一帯は、かつて「吾嬬の森」と呼ばれ、古くから次のような伝説が残されています。
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定のため、三浦半島走水(はしりみず)(現在の浦賀付近)から木更津へ向かい海を渡ろうとした際、暴風雨に見舞われました。その時、妻である弟橘姫(おとたちばなひめ)が海に身を投じて海神の怒りを鎮め、尊は無事に房総へ渡ることができたそうです。その後、姫の箸(はし)などの遺品が吾嬬の森に流れ着き、尊がそれを祀る塚を造ったことが、吾嬬神社の起源とされています。また、尊が「あずまはや(わが妻は)」と妻の死を嘆いたことから、この一帯が「あずま」と名づけられたといわれています。
さらに、塚にさした姫の箸が成長し楠(くすのき)になったという伝説もあり、今も吾嬬神社の境内にその根と幹の一部が残っています。同様の伝説が東京湾沿岸に多いことから、吾嬬の森一帯はかつて、海岸線であったと考えられています。
吾嬬神社の境内には、明和3年(1766年)に建立された弟橘姫顕彰の「下総国葛飾郡吾嬬森碑」(しもうさのくにかつしかぐんあずまのもりひ)や天明3年(1783年)建立の「吾嬬神社縁起碑」(あずまじんじゃえんぎひ)があるなど、その歴史の重みを物語っています。
神社周辺は明治から大正にかけ吾嬬村、吾嬬町と地名を変えていきましたが、昭和41年、ついに「吾嬬」の文字は使われなくなりました。その後は、弟橘姫の故事を偲(しの)び、「橘」を読みやすくした「立花」が町名として使用されるようになりました。しかし、現在でも「吾嬬」は、小・中学校の校名等に使われるなど、広く住民に親しまれています。墨田区HPより
吾嬬神社の連理の楠
吾嬬神社境内の社殿東側にある神木のことを呼びます。ひとつの根から二つの幹が出たもので、明治時代末期までその威容を誇りましたが、大正年間には枯れていたことが写真資料からわかります。
吾嬬神社は、『葛西志』の中で吾嬬の森の神社としてすでに旧跡として認知されていました。『江戸名所図絵』や歌川広重の『江戸名所百景』には、連理の楠が描かれており、人々によく知られていたことがうかがえます。また、『本所雨やどり』には、この木の枝葉を煎じて飲むと諸病が癒えると信じられていたことが記されています。
枯れた根と一部の幹が垣根の中にあり、直径は2メートルをこえます。昭和38年に建てられた神樟の碑とともに保存されています。墨田区HPより
この狛犬は比較的小型の一対ですが、世話人10名と奉納者22名もの名前が刻まれています。
そのほとんどが築地小田原町(中央区築地6・7丁目)や本船町地引河岸(中央区日本橋本町)など日本橋の商人であることから、海運・漁業関係者とのつながりをよく表しているといってよいでしょう。
このことは吾嬬神社の由来に起因しています。
日本の神話に、日本武尊やまとたけるのみこと命が現在の東京湾を舟で渡っている時に海神の怒りに触れ、往生していた時に妻の弟橘媛おとたちばなひめが海に身を投げて海神の怒りを鎮めたという話があります。
この媛の品が流れ着いた所がこの地だったということです。
以来、海や川で働く人々の守護神として信仰されてきたわけです。
また、昔は地盤沈下していなかったため、この社の裏の「吾嬬の森」と呼ばれた森が小山のように広がり、海上からの好目標だったことも崇敬を集めた理由のひとつでしょう。
現在、鉄柵の奥にあるために近づくことはできませんが、かえって台座に刻まれた人名など、良い状態で保存されています。
平成9年3月
墨田区教育委員会
福神稲荷神社
御祭神:宇賀之魂之命、大国主之命、金山彦之命
当社は元亀戸四丁目地蔵川岸のほとりに鎮座していましたが(1922)吾嬬神社旧社務所の位置に有縁の地とし御遷座もうしあげました。その後第二次世界大戦の災禍をうけ周囲家屋他草木に到る迄焼け尽きた中この社殿全く無被害の不思議な現象に奇跡なりと御神徳に人々は驚異の目を見張りました。吾嬬神社復興事業(1946)執行の折社殿を現在の場所へ再び御遷座申し上げ此処に吾嬬神社と共に庶民の守護神とて奉祭申し上げて居ります。尚この奇跡の社殿を出来る限り永く保存して次世代に伝え様と略して印す次第であります。(境内掲示より)
吾嬬森碑
この碑は、明和3年(1766)に山県大貮が建てました。
碑文に日本武尊やまとたけるのみことの東征と、尊の妃・弟橘姫おとたちばなひめが入水して海神を鎮めたことなどを記して、姫の事蹟を顕彰しています。
このあたりは江戸時代から吾嬬の森とか、浮洲の森とも呼ばれて有名でした。
山県大貮は、医を業とし、地理・数学・兵法にも通じていました。
尊皇の志篤く、幕政を批判するなどのことがあり、ついに捕らえられて、明和4年死罪に処せられました。