大横川親水公園を散策していると、法恩寺橋に出合いました。法恩寺に寄ってみました。ここも、長い間前を通るのみで中へ入ったことがありませんでした。
法恩寺のPHより:開山は本住院日住上人、開基は太田道灌公であります。道灌公が江戸城築城≪長禄二年(一四五八年)≫に当たり丑寅の方に城内鎮護の祈願所として本住院を建立、資高の代、本住院を法恩寺と改称したのであります。山号を平河山と称するのは、当時この附近を平川村と称したことによるものです。又、当山には秀吉、家康共に小憩され、朱印地も与えられました。
家康が江戸に入り城内拡大に当たり、慶長十年当山は神田柳原に移転し、その後谷中清水町に移され再度元禄八年に幕府により現在の地に移りました。境内は輪奥の美を整え宗門における関東の触れ頭として現在でもその威勢を誇っております。太田道灌の碑
太田道灌の略歴:生年は1432(永享 4)
没年は1486(文明18. 7.26)
◇室町中期の武将・歌人。幼名は鶴千代麿・源六郎、初名は持資(もちすけ)のち資長(すけなが)、法名は道灌、通称は左衛門大夫・備中守。太田資清(すけきよ)の子。相摸国の人。
扇谷(おうぎがやつ)上杉家の執事で、政真・定正(さだまさ)を補佐する。
築城・兵馬の法に長じ、1457(康正 3,長禄元)年、江戸城を築く。ほかに川越・岩槻(いわつき)・鉢形の諸城を築く。江戸城に文庫を設け、和歌を飛鳥井雅世に学び、『慕景集』がある。
1476(文明 8)山内上杉家の内紛(顕定の家臣長尾景春の乱)を鎮圧する。扇谷上杉家の勢力増大を恐れた山内上杉顕定方の讒言(ざんげん)により、相摸国大住郡糟谷で主君定正に殺される。
碑には次の逸話に出てくる有名は山吹の話:鷹狩の最中に俄(にわ)か雨にあった太田道灌(おおたどうかん)(1432~1486)から蓑(みの:当時の雨具)を求められた農家の少女、紅皿(べにざら)は庭に咲いていた山吹(やまぶき)の一枝を差し出しただけでした。その枝には古歌
七重八重(ななえやえ)、花は咲けども山吹の、みのひとつだに無きぞ悲しき
中務卿兼明親王(かねあきらしんのう)( 914~ 987)の意味が込められていました。家臣から「実の」と「蓑」が懸けられているのだ、と教えられた道灌は、無学を恥じて和歌を勉強し、後に紅皿を江戸城に呼んで和歌の友としたという話です。
法恩寺橋のせせらぎに鴨
墨田区硬式テニス大会の運営で、大横川親水公園テニスコートに行きました。ここは、緑のクレーコート2面をつぶして北斎館を建てるということでここに作られました。2010年1月に開設された人工芝のコートです。大横川親水公園は、大横川の流れている一帯は付近にあった工場などからの地下水の汲み上げにより地盤沈下が激しい地域であっため、天井川になり、低い土地では川から水が溢れると浸水する危険がありました。また、大雨で濁流が流れ込むと酸欠で魚が死に、腐敗して悪臭を放つような状態でした。これを埋め立てて親水公園として整備されたものです。公園としては1993年4月1日に開園しました。業平橋の北から竪川の合流地点まで約1.8kmが埋め立てられ、せせらぎや樹木などが新たに生まれ、親水公園として大きく変わりました。。
テニスコートは竪川の合流点の手前にあります。
運営の途中、親水公園の最も北側のを業平橋のところまで行ってみました。そこはツリーの足元になります。コートを囲む住宅の屋上にはバラが咲いていました。
コートの脇の花です。
今日会った動物です。
出かけに錦糸町で三毛猫に会いました。近寄ったら道路に出ていきました。
コートの手前では
鴨が一羽泳いでいました。
親水公園の途中には二羽が盛んに羽繕いをしていました。
いつも通っているクリニックは墨田区役所の前のアサヒのビルにあります。区役所の北側は隅田公園となっています。そこに面して牛島神社があります。撫で牛が鎮座しています。まだ一度も入ったことがありませんでした。由緒:神社の名前は、両国・向島の本所一帯が天武天皇の時代(701~764)に国営牧場が設けられ牛嶋といわれていたことに由来しているといわれています。
創建は、貞観年間(859~877)に慈覚大師が須佐之男命を郷土の守護神として迎えたのが始まりといわれています。その後平安末期に、源頼朝が房州千葉から挙兵して隅田川を渡ろうとしましたが、水位が高く渡ることができなかったときに、千葉胤常が神社に祈願したところ、無事渡ることができたことに感謝して、頼朝は神社に多くの土地を寄進したといわれています。その後も北条氏や江戸時代には江戸城の鬼門守護の社として幕府から寄進を受け、本所地区の総鎮守にもなっていました。
牛嶋神社は牛御前社とも呼ばれていますが、これは慈覚大師が通りかかったとき、一人の古老が「師わが為に一宇の神社を建立せよ、若し国土の悩乱あらば、首び牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わして、天下の安全の守護たらん」と託宣したことから天文年間(1532~52)に牛御前と改称したといわれています。境内には「撫で牛」があり、体の悪い部分を撫で、牛の同じ部分を撫でると、病気がなおるといわれ、体だけでなく、心の病にも効き目があり、また「撫で牛」に涎かけを奉納し、その涎かけを生まれた子供にかけると健康に育つともいわれています。
五年に一度の大祭では、鳳輦(牛車)を中心とする古式豊かな行列が氏子五十町安泰祈願巡行します。この神幸祭は、今日では珍しく黒雄和牛が神牛となり鳳輦を曳いています。隅田公園の日本庭園と隣り合わせです。
由緒:隅田川沿いにある公園で、墨田区側の左岸は向島1、2、5丁目の面積約8万平方メートルの広さを誇ります。春には屈指の桜の名所となり、夏には隅田川花火大会が行われます。公園内の庭園は水戸徳川邸内の池等、遺構を利用して造られています。関東大震災後で屋敷が全壊するまで代々ここに住んでいたと伝えられますが、その後隅田公園の区域に取り込まれ、日本庭園へ姿を変えました。
アオサギと鴨
まくらばしこの枕橋は、隅田川に注ぐ現・北十間川に架かる橋ですが、江戸時代はこの川は源森川と呼ばれ、この橋も源森橋という橋でした。池波正太郎作の鬼平犯科帳にもこの源森橋が登場しますが、江戸時代はこの川が本所の端でもあったようで、この橋を渡ると、そこはうっそうとした森が広がっていたようです。昭和3年11月に架けられた橋で、創架は寛文2年(1662年)です。源森橋の北に水戸藩の下屋敷(現隅田公園)があり、そこに入る掘割に新小梅橋という小橋が並んであったため、ふたつ並びし枕橋と小唄にも謡われていました。明治8年に俗称の「枕橋」が正式名となり、源森橋の名は東隣りの無名の橋(水戸街道にかかる橋)に譲りました。
親柱はビール樽の形だそうです。区役所とアサヒビールのビル、住宅棟は、アサヒビールの工場があったところです。 慈覚大師:円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。
宗派:天台宗山門派
寺院:立石寺、中尊寺、壬生寺、大慈寺、延暦寺その他全国に凡そ700箇寺といわれる。
師:広智、最澄、元政、義真
自宅周辺散策の4カ所目は普門院というお寺さんです。ここも40年近く脇を通っていたのに、一度も寄ったことがありませんでした。普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永2年(1522)三股(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合うあたり、現足立区千住)城中に創建され、元和2年(1616)に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になったといわれています。
江戸時代の地誌「絵本江戸土産」には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。 亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。と書かれています。
伊藤左千夫の墓があるようです。
持経観音の銅像これがそうでしょうか。
観音菩薩(かんのんぼさつ)の教えは、「いつどこからはいっても良く、身につけるのも自由、出るのも自由。浅いから無学ということもなく、深いから教養があるというものではない。ましてや身分や宗派の違いなどどうでもよい」という「普門の精神」にもとづいて説かれるものだそうです。
通りかかった近所のおばさん言っていましたが、歴史あるお寺さんなので、もっと手入れしたらよいのにと思いましたが、亀戸にこんなうっそうとした森があるのが良いという人もいたそうです。誰にも邪魔されないので、ネコものんびり寝ていました。ちょっと近寄ったらうるさそうに顔をこちらに向けてくれました。
亀戸七福神の毘沙門天が収められているところのようです。
亀戸水神を見てから、常光寺に寄ってみました。
七福神にはあまり興味がないのですが亀戸七福神のひとつ寿老人が祀られているそうです。
境内には六阿弥陀道道標がありました。江戸六阿弥陀詣の6番目霊場ということで、六阿弥陀詣は春と秋のお彼岸に行基作の6体の阿弥陀像を参詣することで、江戸時代の人にとっては行楽の一つであったそうです。他の5か所は、西福寺、無量寺、与楽寺(以上北区)、恵明寺(足立区)、常楽寺(調布市)となっています。
由緒書きには「本道標は、塔身・基礎より構成され、塔身の正面に「南無阿弥陀佛」、左側面に「自是右六阿弥陀道」と陰刻があります。
また、右側面の刻銘から、延宝7年(1769)2月15日、江戸新材木町(現中央区日本橋堀留町1丁目)の「同行六十人」により建てられたものとわかります。
本道標は、江戸六阿弥陀詣に関する最古の道標であるとともに、区内に現存する道標としても最古のものです。また、江戸で広まり亀戸にも札所のあった六阿弥陀信仰とその札所巡礼といった地域的特色を示すものとしても貴重な道標といえます。」とありました。