リハビリのために自転車で旧中川の逆井の渡しの先まで行き、堅川河川敷公園の中を通って猿江公園まで戻りました。
途中の五の橋の下に歌川国貞の浮世絵が展示されていました。自転車を降りて写真を撮ってきました。
五の橋のところに案内があります。
歌川国貞は生まれてから亡くなるまで亀戸周辺で過ごしていたようです。。
★ランドマーク歌川国貞:歌川国貞
没年:元治1.12.15(1865.1.12)
生年:天明6(1786)
江戸末期の浮世絵師。江戸生まれ。姓は角田,名は庄蔵,のちに肖造と改める。画号に五渡亭,香蝶楼,豊国襲名後は一陽斎など。父庄兵衛は,江戸本所五ツ目の渡船場を経営。初代歌川豊国に入門し,初筆は文化5(1808)年の合巻『鏡山誉仇討』で,錦絵の上限作は文化6年3月とされる。早熟の才を発揮して,合巻挿絵,錦絵では役者絵,美人画に活躍する。文化(1804~18)末から文政期(1818~30)にかけての作品では,役者絵で「大当狂言之内」,美人画で「星の霜当世風俗」「今風化粧鏡」などが才能と意欲に溢れた好シリーズ。合巻挿絵では,文化12年初編刊行の柳亭種彦作の『正本製』が好評で,文政12年初編刊行の種彦作『偐紫田舎源氏』は大ヒットする。後者の主要人物と場面を錦絵化した「源氏絵」は,国貞錦絵の売り物となった。弘化1(1844)年には絶大な人気を背景に2代豊国を称したが,すでに豊重が2代豊国を襲名していたため,今日では3代目に数える。このころから「誂織当世島」など,版画技術の高度化と相まって画風は華美で精緻となるが,晩年にかけては全体的に濫作による質的な低下は否定できない。ただ,最晩年に錦昇堂から刊行された役者大首絵のシリーズは,画業の集大成としての気迫に満ちたもの。国貞は浮世絵の大衆化に乗じて膨大な作画量を誇り,広重,国芳ら他の歌川派の絵師と共に,江戸末期の浮世絵界を牽引した。鈴木重三「国貞・国芳・英泉」(『浮世絵大系』10巻)
亀戸にはお墓や碑などがあるので、これまでに撮った写真を集めてみました。
墓地は亀戸光明寺です。
二世と豊国と書かれていますが、実際は三世が正しいようです。
光明寺本堂、この横の所に墓がありました。
墓の前面奥に歌川、手前は五渡亭と書かれています。
亀戸天神の境内には国貞の碑がありました。
国貞の浮世絵
亀戸天神初詣
亀戸天神藤
不忍池 蓮花
国立図書館 錦絵で楽しむ江戸名所より