ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

五本松からえんま堂、冬木弁天堂、冨岡八幡宮

2016年07月04日 23時06分26秒 | 歴史の小道

リハビリを兼ねて五本松から

冨岡八幡宮まで自転車で散策しました。

古地図で見るとこのようになっています。この時代はまだ、小名木川橋が架かっていませんでした。江戸名所図会より 

深川の末、五本松といふところに船をさして 川上とこのかわしもや月の友 芭蕉

広重『江戸名所百景』[小奈木川五本まつ]

五百羅漢寺への道標です。

横道の四目橋通で亀戸天神に行くと書いてあります。船から上がって亀戸天神を目指すということだったのでしょうか。

五百羅漢寺にはこの川を左の方へ行きます。

今の小名木川橋です。

目的は富岡八幡宮でしたが、裏道を通ってたどり着いたのはえんま堂でした。

日本最大の閻魔大王座像 (全高3.5m 全幅4.5m 重量1.5t 寄木造り)平成元年 現在のゑんま座像を建立

 19のご祈願に対しお賽銭を投入すると、仏様より様々な説法を聞くことが出来るシステムを日本で初めて採用したゑんま像。おゑんま様の除けと封じの御利益は特別なものとして有名で、江戸三えんまの一つとして庶民の信頼を集めています。お賽銭を投入して説法を聞いてきました。

本堂

法乗院光照殿

法乗院ゑんま堂は、寛永6年(1629年)深川富吉町(東京・江東区)に創建され、同18年に現在地に移りました。開山は覚誉憎正、本山は十一面観音で有名な大和長谷寺です。 当山は、弘法大師四国八十八ヶ所霊場の写し霊場として、江戸時代中期の宝永年間(1751-64)に江戸に設けられた御府内八十八ヶ所の第74番目札所であり、江戸三えんま『深川ゑんま堂』として古くから人々に親しまれてきました。 江戸の時代には、当山正面に通じる道にゑんま堂橋(史跡)が架けられ、現在の清澄通りがなかった当時は、深川の中心道だったと伝えられています。 また、里俗に為永春水『春暁八幡佳年』、河竹黙阿弥『梅雨小袖昔八丈』などの江戸町人気質を盛り込んだ代表的江戸文芸や芝居の作品中にも当山は描かれており、当時の様子を伺い知ることが出来ます。

曽我五郎の足跡石:足跡石は、歌舞伎に縁深い当山に移されたもので、若くして一生を父の仇に終始した曽我兄弟の五郎が老母を背負い、工藤祐経の菩提と老母父の仇の報告をした帰りに残されたものと言い伝えられています。

区の案内図に近くに冬木弁財天があるというので向かいました。

次に冨岡八幡宮に向かいました。ここは前にも訪れています。http://blog.goo.ne.jp/sa194520131207/e/a53b21843485dd0d4807e4ed57c9650c

夏の大祓の茅の輪が飾ってありました。

江戸名所図会大人の塗り絵より

『五元集』 永代島八幡宮奉納 汐干なり尋ねてまゐれ次郎貝 其角  社内柏戸多き仲にも、二軒茶屋とよぶものことに名高し。

立ちならぶときはのまつもいろそへてをさまる御代はながき代のてら 仁和寺宮

狛犬

この近くに不思議な岩がありました。

広重 江都名所 深川冨岡八幡

広重 江都名所 深川八幡の森

浮世絵のようになっています。当時は海が近かったようですね。

 

こちらは伊能忠敬です。千住大橋で芭蕉がどこを渡るか迷っていたとの像を見たときに出発点は冨岡八幡だと勘違いていたのは、この像を前に見たからでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中之郷から駒形堂(歴史の小道)

2016年07月01日 23時12分54秒 | 歴史の小道

吾妻橋のアサヒビールフラムドールで役所のOB会があったので参加してきました。ついでに本所あたりから周辺を散策しました。

ここは源光寺です。由緒書きは見つかりませんでした。

源光寺は、権大僧正光円法印(源頼光8代の子孫浅野四郎光俊)が慶長3年(1598)本所中之郷原庭町に創建、延享4年(1774)当地へ移転したということらしいです。

古地図にも載っています。

地図に書き込んだようなルートで散策しました。

本所新井町には「さらし井」があったようです。「荒井町五番地に有ったが今はない」源光寺のあるあたりは新井町になっています。

江戸名所図会より中之郷 さらし井「世の中は蝶々とまれかくもあれ 西山宗因」

源光寺の裏の華(花)厳寺を横目にみながら少し離れたところに

実相寺に着きました。

実相寺は、慶長2年(1597)日澄上人が創建し、越前朝倉義景に仕えていた熊谷安左衛門が熊谷家伝来の法華経の利益により白狐を助け、その縁により文殊菩薩を勧請したことから熊谷稲荷を祀っているということだそうです。

次は浅草通りを渡ったところに霊光寺がありました。

霊光寺は、開山は木食重譽上人靈光和尚で、初め草庵であつたが寛永三年寺院に列した。本尊の阿弥陀如来は増上寺中興の観智国師の時念佛でしたが、関東大震災で焼失したといいます。

ここから駒形橋に出ました。浅草側に見えるのが駒形堂fです。

『浅草寺縁起』によると、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)の兄弟が江戸浦(現隅田川)にて漁撈中、1躰の仏像を感得した。郷司土師中知(はじのなかとも)はこれを拝して、聖観世音菩薩さまのご尊像と知り、自ら出家、屋敷を寺に改めて深く帰依したと伝えられる。
  駒形堂は、観音さまが上陸された、浅草寺の草創ゆかりの地に建つお堂で、本尊は馬頭観世音菩薩。別名「こまんどう」とも呼ばれる。毎月19日にお開扉され、参拝できる。午前10時より法楽があり、4月19日は大祭。
  はじめは川に面して東向きに建てられたが、たびたび焼失の憂き目にあった。寛保2年(1742)の再建から、川を背にして西向きに建てられるようになった。現在のお堂は平成15年(2003)11月に建立されたもので、境内は日ごろ、地元町会の方々の手で整備されている。とのことだそうです。

物語をたどると、江戸名所図会より

浅草寺観音大士の出現ありしは、推古天皇三十六年戌子三月十八日なり。土師臣中知をおび檜前浜成の主従三人、 ここの宮戸川に網を下ろして、この本尊を得奉りしよし、縁起の中に詳らかなり。

まず観音様を引き上げます。

次に安置します。往古(そのかみ)土師臣中知および桧前浜成・武成等の主従、浅草川に網して観音大士の霊感得せし頃、 この地の草刈り集まりて藜をもて仮の御堂を作り、その内にかの本尊かの本尊を安置し奉りけるといひ伝ふ。 その旧跡はいまの東谷一の権現の地なり。草刈りは後、神に奉じて十社権現といつきまつれり。

ここが駒形堂のはじまりでしょうか。

江戸名所図会より駒形堂「この碑では江をあはれまぬ蛍かな 其角」

この碑とはこれでしょうか。

駒形堂からの風景、アサヒビールの本社のと東京スカイツリーが並んでみえます。

雷門に向かいました。

江戸名所図会のこれは雷門でしょくうか。節分会です。

江戸名所図会大人の塗り絵より

雷門、外国のお客様がたくさん見えました。

駒形橋に戻って隅田川に移りました。今日の会場の近くに如意輪寺と太子堂があります。中郷江戸名所図会 如意輪寺 神明宮、太子堂

 

六面地蔵です。

OB会が終って外に出るとフラムドールの魂が光っていました。

スカイツリーも見えます。

帰りがけに真下を通りました。

歴史の小道散策が終りました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

総泉寺・浅茅が原跡(平賀源内墓、お化け地蔵、妙亀塚)

2016年06月30日 22時42分07秒 | 歴史の小道

リハビリ病院の帰りに古地図にある総泉寺・浅茅が原跡を追ってみました。

総泉寺の上の道はそのまま明治通りになっているようです。

江戸名所図会大人の塗り絵より、手前が砂尾不動奥が総泉寺です。

明治通りを上野方面に向かっていたら平賀源内の墓石が建っていました。

平賀源内は、エレキテルの製作という程度は知っていたのでで寄ってみようと思いました。地図も持たずに自転車に乗っているので、実際の墓がどこにあるのかわからず周辺をぐるぐると散策していたらようやく見つかりました。

標札が建っています。この壁は築地塀ということらしいです。。

★ランドマーク平賀源内の墓平賀源内は享保十三年(1728)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年には諸説ある)。高松藩士白石良房の三男で名は国倫。源内は通称である。寛延二年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業面では成功しなかったが、物産開発に尽力した。物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などをおこない、エレキテル(摩擦起電機)を復元製作、火浣布(石綿の耐火布)を発明した。一方で風来山人・福内鬼外などの号名をもち、「風流志道軒伝」などの滑稽本や、浄瑠璃「神霊矢口渡」などの作品を残している。
安永八年(1779)十一月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で十二月十八日に病死、遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻む。後方に従僕福助の墓がある。
総泉寺は昭和三年(1928)板橋区小豆沢へ移転したが、源内墓は当地に保存された。昭和四年に東京府史蹟に仮指定され、昭和六年には松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。昭和十八年に国指定史跡となった。

塀の中に入ると入り口の石碑が建っていました。広い総泉寺のあった時はこの石碑が必要だったのでしょうか。

すぐ隣に小さい社が建っています。社の中に墓石が建っています。

墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻んであり、後方に従僕福助の墓があるということです。

これが従僕福助の墓でしょうか。

奥には裏には杉田玄白の造った碑銘があります。

一番奥にはこんな墓石がありました。

 

手水鉢

これは家紋でしょうか。

これは総泉寺の入口に建っていたお化け地蔵

源内墓から100m弱の所あります。古地図でみると総泉寺の前に浅茅が原が広がっている様子がうかがわれます。。

江戸時代の総泉寺は28,000坪あったそうです。

供養塔が建っていますが、総泉寺墓地境内諸佛為供養と書かれています。

常夜灯は寛政2年(1790年)10月と書かれています。

こちらは浅茅が原があった象徴、妙亀塚公園です。

★ランドマーク妙亀塚この妙亀塚のある地は、かつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていた。妙亀塚は、「梅若伝説」にちなんだ名称である。「梅若伝説」とは平安時代、吉田小将惟房の子梅若が、信夫藤太という人買いにさらわれ、奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去った。我が子を探し求めてこの地まできた母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵をむすんだ、という説話である。謡曲「隅田川」はこの伝説をもとにしている。
 塚の上には板碑が祀られている。この板碑には「弘安十一年戊子五月二十二日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものである。しかし、妙亀塚と板碑との関係は、明らかではない。なお、隅田川の対岸、木母寺(墨田区堤通)境内には、梅若にちなむ梅若塚(都旧跡)があり、この妙亀塚と相対するものと考えられている。

江戸名所図会大人の塗り絵より

妙亀塚、奥が玉姫稲荷神社です。

人めさへかれて淋しき夕まぐれ浅茅が原の霜をわけつつ 道興准后

浅茅が原にて あだし野や焼きもろこしのかはばかり 其角

                                     この辺別荘多し

こちらが墨田区側の

木母寺の梅若塚です。

江戸名所図会より、梅若丸七歳のとし比叡(ひえ)の月林寺をのがれ出て、花洛(みやこ)北白川の家に帰らんと吟(さまよ)ふて大津の浦に至りけるに、 奥陸(みちのく)の信夫の藤太といへる人あきびとのためにすかしあざむかれて、はるばるとこの隅田川に来ぬることは本文に詳らかなり。 ちなみにいふ、人買ひ藤太は陸奥南部の産なりとて、いまも南部の人はその怨霊あることを恐れて木母寺に至らざること、 矢口の新田明神へ江戸氏の人しじかりて詣でざるがごとし。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長昌寺(浅草)

2016年06月29日 18時04分04秒 | 歴史の小道

リハビリ病院の帰りに荒川区側に回り台東区を散策してきました。

古地図の隅田村から水神大橋を渡り明神・真崎稲荷(石浜神社)に寄って、

大祓の茅の輪が飾ってありました。6月30日に夏の大祓を行うそうです。

総泉寺跡の平賀源内の墓

お化け地蔵

に寄って浅茅ヶ原跡を辿って

長昌寺に出合いました。ここからら山谷掘今川(今は暗渠で隅田川の出口は白いコンクリートの所です)、に出てエックス橋の桜橋を渡って(三囲神社)墨田区側に戻りました。古地図にあるように今戸川の隅田側は三囲神社になっています。川と神社は高速道路で遮断されていますが。

こちらがこの日のメイン長昌寺です。

山門です。

★ランドマーク正漢音長昌寺当山は御府内日蓮宗の古跡にして延山に属せり。開山日寂上人は、始め浅草寺の住職にて、上古は天台の法流を汲んで寂海法印と号せしが弘安2年この所に於いて、日蓮上人の弟子日常承認と宗議を討論す。後に日蓮の宗風に帰し、弟子の礼を執れり、名を日寂と改め、後浅草に帰り、金竜を辞して庵を結び、妙昌寺(長昌寺)と号けて、ここに隠る。
このおり浅草寺より一寸八分閻浮檀金正観世音菩薩を移し安置す。

山門の脇に由緒書きがありました。

一寸八分の観音菩薩と書かれています。

本堂です。

日蓮宗寺院の長昌寺は、深栄山と号するそうです。元和年間(1615-1624)江戸幕府の有力な譜代大名酒井忠勝によって中興され、江戸時代には正観世音像が庶民の信仰を集めていたということだそうです。こちらが正観世音堂です。

毎月18日、一寸八分観音様のご縁日(ご開帳・ご祈祷・法話)があるようです。

この一寸八分の観音様お寺さんのHPより

銅鐘

★ランドマーク長昌寺銅鐘:台東区のHPより、長昌寺の銅鐘は、総高147センチメートル。享保5年(1720)に小幡内匠(たくみ)勝行という鋳物師が制作しました。小幡内匠(たくみ)勝行は、他に39点の金工製品にもその名を遺しており、中には旧増上寺徳川家霊廟の6代将軍家宣廟・7代家継廟・9代家重廟に造立された銅灯籠などもあります。しかし、長昌寺銅鐘を含め40点の制作年代は正徳2年(1712)から明和6年(1769)にかかる57年間にも及び、同一人物の遺品と断定することはできません。あるいは、親子2代など、複数の人物の制作とも考えられます。いずれにしても、小幡内匠勝行の名は、将軍家霊廟の灯籠を制作するほどに、当時を代表する鋳物師の一人として知られていたことは間違いありません。
また、銅鐘には長昌寺の歴史を刻んでいますが、その中には次のような伝説もあります。
 鎌倉時代後期頃、この寺にはすでに銅鐘がありましたが、隅田川の洪水によってこの銅鐘は河中に沈んでしまい、以来銅鐘が水没したあたりを「鐘が淵」と呼んだというものです。こうした伝説を「沈鐘(ちんしょう)伝説」といい、全国各地に語り伝えられています。現在、墨田区に遺る「鐘が淵」との関係はともかく、この銅鐘の銘文は、江戸時代にはこの付近にも「沈鐘伝説」が存在したことを教えてくれます。
長昌寺銅鐘は、江戸時代中期の代表的鋳物師の遺品であるとともに、長昌寺の歴史や沈鐘伝説を刻んでおり、今戸付近の歴史を知る上で貴重な文化財です。平成9年度登載

境内にある錢洗辨財天

長昌寺の銭洗弁財天は、白龍弁財天といわれています白蛇のご尊像です。観世音菩薩が衆生を救済するために白蛇のお姿であらわれたのです。
御利益は、長寿と財福・蓄財であり、当山の弁財天で紙幣や硬貨をお洗いになり、合掌礼拝をし、願いごとをしてください。」とお寺さんの案内に書いてあります。

恵みの観音様 製造年 文化年間。青銅製。

墓地

動物のお墓もありました。

木槿が咲いていました。

江戸名所図会大人の塗り絵より

長昌寺 宗輪芝と書いてあります。

境内に宗輪芝の書いてありましたが、写真を撮りませんでした。

下の所に煙が上がっているのは今戸焼の窯の煙です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅屋敷跡・やくしみち・祐天堂

2016年06月23日 23時01分51秒 | 歴史の小道

亀戸あさくさ古道に沿って散策しています。今回は梅屋敷跡の周りを見ました。

江東区登録史跡 梅屋敷跡 亀戸3丁目40、50~53付近 

 梅屋敷は、江戸時代から続く梅の名所でした。もとは本所埋堀(墨田区)の商人、伊勢屋彦右衛門の別荘で清香庵としていましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれるようになりました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これはまるで龍が大地に横たわっているように見えるところから、水戸光圀が命名したと伝えられています。また、8代将軍徳川吉宗も鷹狩の帰りにこの地を訪れました。江戸近郊の行楽地として、花の季節にはたくさんの人々でにぎわい、その様子は『江戸名所図会』『絵本江戸土産』(歌川広重)などの地誌にもとりあげられています。歌川広重はこの梅屋敷だけで十数種の版画を描き、とくに「名所江戸百景」の中の、太い梅の古木を手前にあしらった錦絵は傑作のひとつにあげられます。明治43年(1910)、大雨により隅田川沿岸はほとんど水に浸り、亀戸・大島・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園となりました。

ここに残る石標柱は、江東区創立10周年を記念して、昭和33年(1958)に建てられたものです。
 歌川広重 名所江戸百景 梅屋鋪

平成21年(2009)3月 江東区教育委員会

 

 歌川広重 東都名所 亀戸梅屋鋪図

 一立斎広重 東都名所 亀戸梅屋鋪全図

歌川広重 江戸自慢26景 亀戸梅屋鋪 見立梅かえ

歌川広重 梅屋鋪満花の図

歌川国貞(初代) 梅やしき 漬梅

と浮世絵にたくさん描かれています。

 

六字名号供養塔 伝 祐天書
     祐天堂由来

 昭和41年(1966)に設けられた当時の説明板等に拠りますと、その由来は、元禄年間に祐天上人が千葉方面に往来の途中、この付近の川の中や川岸に多くの水死者のあるのを見て、非常に心を痛め、その霊を懇に回向されました。
 その際に、これらの仏に戒名を与え祐天上人、自らが筆を取って石にその戒名を記された供養塔をここに残されました。
 後年、この供養塔を奉った祠が、この祐天堂であります。
 それ以来、この付近では水死者もなく、またこの付近の子供たちが水辺で遊んでいても溺れたためしが無かったと言い伝えられ、この付近に住む人々によって、水難除、安産、子供の守護の祠として崇め奉られ今日に至ります。(近年では、この祠に、交通安全祈願をなさる方も多いと聞きます。)
 また、毎年7月24日を由縁の日と定め、祐天上人の遺徳を仰ぎ精霊の供養を営む日と定められてまいりました。
 亀戸3丁目宮元町会 祐天堂保存会

木下川やくしみち道標
 高さ71センチのこの道標は、ここ境橋から、木下川薬師堂(葛飾区東四ツ木1丁目)へ至る木下川薬師道(現在の仲居掘通り)を示すものです。

 刻銘は、正面に   木下川
              やくしみち
       右側面に、 本石町
               賽暦十一年辛巳孟春
       左側面に、 あつまもり

あつまもりとは、吾妻権現社のことで境橋を渡った右手、北十間川沿いにありました。本石町は日本橋の町名で、この道標の建てられた賽暦11年(1761)頃には、きっと江戸町人の参詣が盛んだったことがうかがえます。
 亀戸3丁目宮元町会 祐天堂保存会

江戸切絵図で亀戸あさくさ古道を見て見ました。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする