リハビリを兼ねて五本松から
冨岡八幡宮まで自転車で散策しました。
古地図で見るとこのようになっています。この時代はまだ、小名木川橋が架かっていませんでした。江戸名所図会より
深川の末、五本松といふところに船をさして 川上とこのかわしもや月の友 芭蕉
広重『江戸名所百景』[小奈木川五本まつ]
五百羅漢寺への道標です。
横道の四目橋通で亀戸天神に行くと書いてあります。船から上がって亀戸天神を目指すということだったのでしょうか。
五百羅漢寺にはこの川を左の方へ行きます。
今の小名木川橋です。
目的は富岡八幡宮でしたが、裏道を通ってたどり着いたのはえんま堂でした。
日本最大の閻魔大王座像 (全高3.5m 全幅4.5m 重量1.5t 寄木造り)平成元年 現在のゑんま座像を建立
19のご祈願に対しお賽銭を投入すると、仏様より様々な説法を聞くことが出来るシステムを日本で初めて採用したゑんま像。おゑんま様の除けと封じの御利益は特別なものとして有名で、江戸三えんまの一つとして庶民の信頼を集めています。お賽銭を投入して説法を聞いてきました。
本堂
法乗院光照殿
法乗院ゑんま堂は、寛永6年(1629年)深川富吉町(東京・江東区)に創建され、同18年に現在地に移りました。開山は覚誉憎正、本山は十一面観音で有名な大和長谷寺です。 当山は、弘法大師四国八十八ヶ所霊場の写し霊場として、江戸時代中期の宝永年間(1751-64)に江戸に設けられた御府内八十八ヶ所の第74番目札所であり、江戸三えんま『深川ゑんま堂』として古くから人々に親しまれてきました。 江戸の時代には、当山正面に通じる道にゑんま堂橋(史跡)が架けられ、現在の清澄通りがなかった当時は、深川の中心道だったと伝えられています。 また、里俗に為永春水『春暁八幡佳年』、河竹黙阿弥『梅雨小袖昔八丈』などの江戸町人気質を盛り込んだ代表的江戸文芸や芝居の作品中にも当山は描かれており、当時の様子を伺い知ることが出来ます。
曽我五郎の足跡石:足跡石は、歌舞伎に縁深い当山に移されたもので、若くして一生を父の仇に終始した曽我兄弟の五郎が老母を背負い、工藤祐経の菩提と老母父の仇の報告をした帰りに残されたものと言い伝えられています。
区の案内図に近くに冬木弁財天があるというので向かいました。
次に冨岡八幡宮に向かいました。ここは前にも訪れています。http://blog.goo.ne.jp/sa194520131207/e/a53b21843485dd0d4807e4ed57c9650c
夏の大祓の茅の輪が飾ってありました。
江戸名所図会大人の塗り絵より
『五元集』 永代島八幡宮奉納 汐干なり尋ねてまゐれ次郎貝 其角 社内柏戸多き仲にも、二軒茶屋とよぶものことに名高し。
立ちならぶときはのまつもいろそへてをさまる御代はながき代のてら 仁和寺宮
狛犬
この近くに不思議な岩がありました。
広重 江都名所 深川冨岡八幡
広重 江都名所 深川八幡の森
浮世絵のようになっています。当時は海が近かったようですね。
こちらは伊能忠敬です。千住大橋で芭蕉がどこを渡るか迷っていたとの像を見たときに出発点は冨岡八幡だと勘違いていたのは、この像を前に見たからでした。