ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

甲子園から尼崎

2014年08月21日 10時23分43秒 | 訪問地周辺散策

関西出張の2日目は尼崎が訪問先です。午前中の時間を利用して、念願の甲子園球場の高校野球観戦に行ってみました。近くに訪問施設があり年間1-2回は甲子園に訪れるのですが中に入ったのは初めてです。ちょうど第10日目の第二試合沖縄尚学と二松学舎大付属のが始まるところでした。二松学舎の3塁側の特別自由席1500円を購入して観戦しました。午後から尼崎で仕事なので、5回終了、二松学舎の5:4で球場を後にしました。

2006年の球場改装でシンボルだったツタが取り外されましたが、再移植して5年少しは見られるようになっていました。

阪神電鉄甲子園駅も改装中です。左手の出口専用階段は使えるようになっていました。素朴さを残していた駅もリニューアルされるようです。阪神電車の特急に乗ると尼崎は一駅です。

尼崎の施設の訪問時間までに少し時間があったので、昼食に駅そばを食べて寺町に行ってみました。甲子園に行くときに、電車から寺が見えたのでそちらの方向に行ってみました。こんな看板が出ていました。興味があったので時間の許す限りと思って散策しました。

最初は全昌寺、狭いお寺さんと思いましたがちょっと寄ってみました。尼崎は阪神淡路大震災の被害も大きかったようです。案内書きをみて、曹洞宗で永平寺や總持寺に関係するお寺さんということで、この1年でいずれの所にも行っているので興味を持ちました。隣は本興寺です。本興寺(ホンコウジ)は、日隆上人の開基による法華宗本門流の寺院で、京都府の本能寺、千葉県の鷲山寺、静岡県の光長寺と並ぶ四大本山の1つです。1420年(応永27)現在の尼崎城本丸跡に開創されたといわれています。1617年(元和3)尼崎藩主戸田氏鉄が尼崎城を築城する際に、現在の寺町に移転されました。

 本興寺には貴重な文化財が多く残されています。なかでも室町・桃山時代の建造物である「開山堂」「三光堂」「方丈」、日蓮上人御所持の「太刀銘恒次(数珠丸恒次)」、日隆上人自ら開眼した御木像「木造日隆上人坐像」、これらは国の重要文化財に指定されています。その他に県・市の指定文化財や美術品など、宝物殿に納められている寺宝は、毎年11月3日(文化の日)に開かれる「虫干会」で一般公開されています。とWEB上で紹介がありました。奥が深く散策してみました。こちらは開山堂です。さらにこれは大方丈です。いずれも重要文化財だそうです。こちらは電車から見えて興味を持った三重塔です。本興寺三重塔こちらはまだ最近に建てられたもののようです。(昭和四十九年 1974年建立、鉄筋コンクリート製、銅板葺、一辺 5.76m)。

ここで時間いっぱいになったので、駅のロッカーに置いてあったバッグをとり、着替えて訪問施設に行きました。

施設は少し駅から離れていて途中にアーケードの商店街が続いています。帰りがけにアーケードに入ってみました。

経験からアーケードの商店街の端には神社仏閣があると思われるので、駅から遠くなりますが散策してみました。ところがどこへ行ってもそのようなものが見当たりせんでした。家でいろいろと調べてみると面白いネット記事に出合いました。

実はこの辺は戦後の闇市の名残なのだそうです。その商店街、「三和〔さんわ〕に行ったらなんでも揃〔そろ〕う」と言われたものだそうです。人々が「三和」と呼ぶのは、「新三和商店街」「三和本通り」「三和市場」あたりのことで、それぞれに異なった生い立ちを持っています。一番の古株は、戦前にできた三和市場(公設市場)で、あとのふたつは、戦後まもなく玄番〔げんば〕北之町付近に生まれた闇市がそのルーツと言えます。
 なかでも新三和商店街は、衣料品や雑貨を扱う店々を中心に親しまれてきました。阪神出屋敷駅に近く、商店街北側には国道電車が通るなど利便性がよく、また周辺には南部の工場で働く人々の住宅があって、昭和20年代から40年代の頃まで、市内はもとより近隣市からも買い物客が押し寄せました。
 新三和商店街が広がる玄番北之町の一角には、闇で鮮魚の卸売りを始めた池田清一〔せいいち〕が建立したという、天龍神社があります。もともとこの地を守っていた白龍(白い巳〔みい〕さん)のお告げによって祀〔まつ〕られたと言われ、以後この商店街の守り神となっています。またかつての魚の闇市の面影をしのばせる石畳も、商店街の通路からは裏通りにあたる、倉庫となっている一角に今も残っています。

と書かれていました。天龍神社は見ませんでしたが、阪神電車のガードをくぐって前に進むと、だんじりの神社にたどり着きました。貴布禰神社です。こちらは北口ということです。中には白龍さんの言い伝えや白波稲荷神社などが合祀されていました。こちらが本殿です。貴布禰神社は全国に約460社(その内、福岡140社、大分94社)あり、総本宮は京都・鞍馬の貴船神社。伝承によると「神武天皇の皇母・玉依姫命は雨風の国潤養土の徳を尊び、その源を求めて、黄船に乗り、瀬戸内から尼崎、淀川、鴨川を遡り、その川上貴船川の上流のこの地に至り、清水の湧き出ずる、霊境吹井を認めて、水神を奉斎す」とある。この尼崎とは旧社地(長洲)と推察される。
京都の貴船神社は表記が違うが、これは明治4年に太政官達を以て変更されたもので、それまでは気生嶺・気生根・木生嶺・木生根・黄船・貴布禰・木船と諸書に見られる。降雨、止雨を司り、降った雨を地中に蓄えて適量湧き出させる働きを司る神様。水は万物の命の源であり、水がなければあらゆる生物は命を維持することができない。片時もおろそかにすることができない大切な水を供給する水源の神様である。ということらしいです。

ここがアーケードの目的と思って帰路に着きましたが、どうもあまり関係なかったようです。駅の近くでは前回も寄った尼崎戎神社です。こちらも一昔前は相当賑わったのではないでしょうか。今も年間50万人が集まるとかいてありますが。こちらは、見ざる言わざる聞かざるです。

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