いつもテニスをしていたコートのある錦糸公園を散策してみました。錦糸公園は関東大震災の後に作られたようです。立派な門柱がありました。由緒書きがありました。
昭和52年に隣の亀戸に越してきてから利用させていただいています。
当公園は大正12年(1923年)に発生した関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として隅田公園(台東区、墨田区)、浜町公園(中央区)と並んで計画されたものだそうです。
元々は帝国陸軍の糧秣厰倉庫であったが公園として整備され、昭和3年(1928年)7月18日に開園されています。戦時中は空襲からの避難所としての役割や戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用されました。こと昭和20年(1945年)3月のの東京大空襲では、1万余の遺体が当公園に仮埋葬されたとのことです。戦後は人々の憩いの場として使われるようになり、次第に体育館や噴水池などが整備されました。また公園の北側には隣接して長く精工舎(SEIKO)の工場がありましたが、再開発によりオフィスや飲食店などが入った商業施設「オリナス」が平成18年(2006年)にオープンしました。錦糸公園もそれにあわせて再整備されました。門柱もこの楠も昭和3年の開園時からあるものでしょうか。錦糸町駅に近い入口の所にこんな社があります。
千種稲荷(ちぐさいなり)です。ここは、 徳川四代将軍家綱の時代(寛文~延宝)に治水工事が行われその後、柳島村の守護神として祭られたと伝えられています。
明治時代になっても、この稲荷神社は保護されて郷土の守護神として残されました。
その後陸軍糧秣廠本所倉庫をこの地に建設したとき、敷地内にあった稲荷神社を取り払ったところ再三火災が発生した。そこで旧位置に稲荷社を再建して祀ったところ不思議にもその後火災はまったく起こらなかったという。 大正十二年の震災はもちろん、昭和二十年の空襲にもなんの被害もなく多くの人が境内に避難し戦火を逃れたという。ことだそうです。現在は錦糸公園の中に祀られている。
詳しい由来記が書かれていました。
*陸軍糧秣廠(りくぐんりょうまつしょう)・・・陸軍の兵隊の食料や軍馬のまぐさをたくわえた役所
お稲荷さんのところからスカイツリーもよく見えます。
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