ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

与楽寺(北区田端)江戸名所図会めぐり

2018年07月21日 22時57分48秒 | 江戸名所図会めぐり

東覚寺を散策してから与楽寺向かいました。だいたいの地図を頭に入れていたので、記憶に沿って歩いて行きました。

江戸名所図会の右下のところに輿楽寺六阿弥陀と書かれています。

雲がかかっているところが田端切通しでそれを横切って歩いてくるとこの標識に出合いました。

★ランドマーク与楽寺坂:坂の名は、坂下にある与楽寺に由来しています。『東京府村誌』に「与楽寺の北西にあり、南に下る、長さ二十五間広さ一間三尺」と記されています。この坂の近くに、画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。芥川龍之介は書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂がする」と書いています。平成5年 東京都北区教育委員会

入り口は坂を昇るのか下るのか迷い一瞬登りかけましたが、気をとりなして下りました。当らしい山門が見えました。

★ランドマーク与楽寺:真言宗豊山派寺院で、宝珠山地蔵院と号し、与楽寺の創建年代等は不詳ながら、弘法大師が寺院をこの地に建立したのが始まりだと言われています。慶安元年(1648)には寺領20石の御朱印状を拝領、京都仁和寺の関東末寺の取締役寺を務めていたと言われ、江戸六阿弥陀4番、御府内八十八ヶ所霊場56番札所、豊島八十八ヶ所霊場6番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場21番札所でとなっています。

入り口は脇道で、境内に入る手前に弘法大師像や

札所を示す石碑や

六阿弥陀第四番の仏塔などがありました

切絵図にも六アミダ四番と書かれています。我が家の近くに常光寺があるので、調べてみました。

★江戸六阿弥陀とは:江戸六阿弥陀は、行基菩薩が一夜の内に一本の木から六体の阿弥陀仏を刻み上げた阿弥陀仏だといい、阿弥陀仏作成を依頼した長者が六ヶ所に寺を建立、六体の阿弥陀仏を一体ずつ安置したと言われています。

1番西福寺:(北区豊島2-14-1) 西方浄土に生まれ出る徳利益を授ける

2番恵明寺:(旧延命院足立区江北2-4-3) 家内安全・息災延命の御利益を授ける寺

3番無量寺:北区西ケ原1-34-8 福寿無量に諸願を成就させる

4番与楽寺:北区田端1-25-1 我ら一切の者に安える

5番常楽院:調布市西つつじヶ丘4-9-1(旧下谷広小路)に一家和の福徳を授ける寺

6番常光寺:江東区亀戸4-48-3 未来は明を放つ身を得させる

猫の足あと より


★ランドマーク賊除地蔵の伝承地:与楽寺は、江戸時代には二十石の朱印高を拝領する寺院で、境内には、四面に仏を浮彫にした南北朝時代の石の仏塔があります。また、阿弥陀如来は女人成仏の本尊として広く信仰を集め、六阿弥陀参詣の第四番札所ともなっています。本尊の地蔵菩薩は秘仏となっていますが、次のような伝承がありました。

 「ある夜、盗賊が与楽寺に押し入ろうとしましたが、どこからともなく、多数の僧侶が出て来て盗賊の侵入を防ぎ、遂に、これを追い返してしまいました。翌朝、本尊の地蔵菩薩の足に、泥のついているのが発見され、地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになりました。これより本尊の地蔵菩薩は、賊除地蔵と称されるようになりました。」

これが与楽寺の賊除地蔵伝説です。釈迦が入滅してから56億7000万年後に弥勒が現れるまでの間は、人々を救済する仏が存在しない時代とされますが、地蔵菩薩は、この時代に、みずからの悟りを求め、同時に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道の迷界に苦しむ人々を救うと信じられてきました。

 江戸時代になると地蔵菩薩は、人々の全ての願望を叶える仏として信仰されるようになり、泥足地蔵・子育地蔵・田植地蔵・延命地蔵・刺抜地蔵というように各種の地蔵伝説が生み出されました。与楽寺の賊除地蔵も、これらの地蔵伝説の一つとして人々の救済願望に支えられて生み出されたものといえます。

平成元年三月 東京都北区教育委員会

関東大震災の遭難被災者供養塔がありました。大正13年9月起工と書かれています。

境内にはいろいろな建物がありました。本堂

阿弥陀堂阿弥陀堂の水盤

石仏、仏塔もいろいろとありました。

山の上まで墓石が建っています。

鐘楼です。

井戸もまだ使っているようです。

 

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東覚寺(北区田端)江戸名所図会めぐり

2018年07月20日 22時52分42秒 | 江戸名所図会めぐり

江戸名所図会では八幡宮の隣は東覚寺となっています。

江戸名所図会、左手にあるのが東覚寺です。

赤紙のモンスターのようなものがありました。

説明書きでは赤紙仁王尊となっています。

★ランドマーク赤紙仁王尊:石造金剛力士立像(赤紙仁王)

東京都北区指定文化財(有形民俗文化財) 平成10年4月28日指定

石造金剛力士立像は、全身に赤紙が貼られているので、通称赤紙仁王とも呼ばれています。身体の悪い人が、疾患のある部分に赤い紙を貼って祈願すれば、病気が回復すると信じられ、現在も、なお、祈願する人が絶えません。横の草鞋(わらじ)は、祈願して病気の回復したとする人々によって供えられたものです。

 寛永18(1641)年8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって江戸市中に流行していた疫病を鎮めるために造立されたとつたえられます。

 赤紙仁王は、江戸時代の末期までは、田端村の鎮守である八幡神社の社前にありましたが、明治維新の神仏分離を契機に、別当寺であった東覚寺の境内に移され、以後、都内に現存する比較的古い時代の石造の仁王像としても広く知られています。

 仁王像は赤紙が貼られてが埋め尽くされています。また、願いがかなった人は草鞋を奉納する習わしのようで、草鞋がたくさん吊るしてありました。

説明版には

東京都北区指定有形民俗文化財

 赤紙仁王(石造金剛力士立像)

”参詣客が赤色の紙を貼るため‘赤紙仁王’の名でよばれるようになった東覚寺の金剛力士立像は、吽形像の背面にある銘文から、寛永18年(1641)8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって造立されたことが分かります。一説によれば、当時は江戸市中で疫病が流行しており、宗海は、これを鎮めるために造立したのだそうです。

参詣客が赤紙を貼る理由は、そのようにして祈願すれば病気が治ると信じられてきたからで、具合の悪い部位と同じ個所に赤紙を貼るのが慣わしです。また、祈願成就の際には草鞋を奉納すべしとされています。ただし、赤紙仁王に固有のこうした習俗が発達したのは明治時代のことで、その背後には、仁王像を健脚や健康をかなえる尊格とみなす庶民独自の信仰があったと考えられます。なぜなら、かつて日本各地には病気平癒を祈願して行う類似の習俗があったからです。そのため、赤紙仁王は、文化形成における庶民の主体性や独自性を強く表現した作品でもあるのです。

なお、赤紙仁王は、江戸時代の末までは田端村の鎮守である八幡神社の門前にありました(左図)。しかし、明治初期の神仏分離を機に、かつて東覚寺にあった九品仏堂の前に移され、以後はそこで人々のお参りをうけてきました。また、平成20年10月には、道路拡張工事のため従来の位置から7メートル後方に移動し、平成21年8月に竣工した新たな護摩堂とともに、今後の世に趨勢を見つめてゆくことになりました。”

平成21年9月東京都北区教育委員会 と書かれています。

 

 東覚寺の門前、八幡神社との塀沿いにはこんな石仏がありました。

 東覚寺の山門です。

ランドマーク東覚寺:東覚寺は真言宗豊山派。白龍山寿命院と号し、本尊は不動明王像です。東覚寺は、延徳3年(1491)源雅和尚が神田筋違に創建、根岸への移転を経て、慶長年間(1600年頃)に田端の地に移転したと伝えられます。江戸時代には、寺領7石の御朱印状を拝領したといいます。御府内八十八ヶ所霊場66番札所、豊島八十八ヶ所霊場66番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場29番札所、谷中七福神の福禄寿です。

山門を入った左手に

観音菩薩が建っています。

鼓翼平和観音像です。鼓翼これは読めませんでしたが説明書きによると「はばたき」と読むようです。

本堂です。

切絵図で説明されている九品仏・仁王尊二番や西国二十九番丹後松尾などの石碑が並んでいます。中央は庚申塔です。

右手に進むと子育・水子地蔵尊

奥には

犬猫の墓や古い石仏などがありました。

この石碑は読めませんでした。

庭にはハスの花が配置されていました。

こちらは新しそうです。

次の与楽寺に向かいます。切通しを渡りますが、手前に坂道があります。駅から歩いてきてこの坂を上りかけましたが、この坂道が東覚寺坂のようです。

★ランドマーク東覚寺坂:田端切通しにそって台地へ上る急坂で、昔は田端八幡神社の別当寺東覚寺墓地への参道で「東京府村誌」に「長さ二十間、広さ一間三尺」と記されている。寺の前には2基の大きな仁王の石像があり、病のある部分に赤紙を貼ると、病がなおると信仰されており、谷中七福神の1つ、福禄寿も祀ってある。蜀山人の狂歌「むらすずめさはくち声もももこえもつるの林の鶴の一声」の碑がある。

現在はリハビリウォーキングを兼ねた「ランドマーク探し」ということで、出たとこ勝負のように、特に調べずに現地に行きますが、赤紙仁王のように思わぬものに出合うことができます。なかなか歩くのが大変ですが、次が見たくて歩く気力がわいてきます。

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田端八幡神社(北区田端)江戸名所図会めぐり

2018年07月19日 22時49分31秒 | 江戸名所図会めぐり

鍼灸治療に曙橋にいったついでに、新宿に出て田端に向かいました。田端の駅の近くに江戸名所図会に描かれている神社と寺があるので、暑かったのですが訪れてみました。江戸名所図会より田端八幡宮 中央に八幡と書かれています。

田端駅は山の向こう側にあるので、北口を出て切通しを抜けて、山の裾のところを右に曲がると参道に到着します。片手杖で歩きながら山の上だったどうしようかなどと考えながら切通しを抜けました。参道

北区の案内板がありました。

★ランドマーク田端八幡神社:この八幡神社は、田端村の鎮守として崇拝された神社で、品陀和気命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)を祭神としています。神社の伝承によれば、文治5年(1189)源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されたものとされています。別当寺は東覚寺でした。
現在東覚寺の不動堂の前にたっている一対の仁王像(赤紙仁王)は、明治元年(1867)の神仏分離令の発令によって現在地へ移されるまでは、この神社の参道入口に立っていました。江戸時代には門が閉ざされていて、参詣者が本殿前まで進んで参拝することはできなかったらしく、仁王像のところから参拝するのが通例だったようです。
参道の中程、一の鳥居の手前には石橋が埋められています。これは昭和初期の改修工事によって暗渠(あんきょ)となった谷田川(やたがわ)に架かっていたもので、記念保存のためにここへ移されました。
社殿は何度も火災等に遭い、焼失と再建を繰り返しましたが、平成4年(1992)に氏子たちの協力のもとで再建され、翌年5月に遷座祭が行われて現在の形になりました。境内には、稲荷社のほかに田端冨士三峯講が奉祀する冨士浅間社と三峰社があり、冨士浅間社では毎年2月20日に「冨士講の初拝み」として祭事が行われています。東京都北区教育委員会

富士塚と三峰神社稲荷神社

富士塚を登って拝殿のところに出ました。手水舎です。脇にこんな石像がありました。

 拝殿と狛犬です。

 拝殿

帰りはこの階段を下りました。

下から見たところです。

次に隣にある東覚寺を訪れました。わたし彩(いろ)の「江戸名所図会」~大人の塗り絵~より

八幡神社の左手奥が東覚寺入り口のところに赤紙仁王像があります。

切絵図では東覚寺が中心になっています。

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寛永寺中堂(台東区上野桜木)江戸名所図会めぐり

2018年07月18日 08時22分45秒 | 江戸名所図会めぐり

昨年7月にも上野の山をリハビリサイクリングで散策しましたが、肝心の寛永寺の中堂を見ていなかったので、それを目標に向かいました。昨年は青い線で不忍池から山を登りましたが、今回は鴬谷の方から陸橋を一気に登りました。かなり急な坂なので、自転車を押して登ります。陸橋の上から鶯谷の方を見ています。

こちらが寛永寺中堂(本堂)です。

★ランドマーク寛永寺本堂:寛永寺(かんえいじ)は、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。

徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。野戦争の碑

現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところである。

上野の山は、幕末の慶応4年(1868年)、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となったことから、根本中堂をはじめ、主要な堂宇はこの時焼失し、壊滅的打撃を受けた。明治維新後、境内地は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年(1873年)には旧境内地が公園用地に指定されるなどして寺は廃止状態に追い込まれるが、明治8年(1875年)に再発足。もと子院の1つの大慈院があった場所に川越の喜多院(天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし、ようやく復興したものの、寺の規模は大幅に縮小した。

第二次世界大戦の空襲では、当時残っていた徳川家霊廟の建物の大部分が焼失した。上野戦争で焼け残り、第二次世界大戦の戦災もまぬがれたいくつかの古建築は、上野公園内の各所に点在している。(ウイキペディアより)

寛永寺銅鐘
台東区登録文化財 平成18年3月登載

 本銅鐘は、青銅製鋳造。大きさは、総高177.2センチメートル、口径91.8センチメートルあります。厳有院殿(四代将軍家綱)の一周忌にあたる延宝9年(1681)5月8日に廟前の鐘楼に奉献されました。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと伝えられます。ちなみに、本銅鐘が元々掛けられていた厳有院殿廟の鐘楼は、戦前まで残されており国宝に指定されていましたが、空襲により焼失してしまいました。現在本銅鐘は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されています。
 作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(十七世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住していました。延宝元年(1673)から貞享3年(1686)にかけて、銅鐘を中心に十七例の作例が知られています。その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており、将軍家との関係が深かったと思われます。
 本銅鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつです。

境内にはいろいろな史跡がありました。

★慈海僧正墓 (じかいそうじょうはか):墓石の正面中央に、聖観音菩薩の像を彫り右側には「当山学頭第四世贈大僧正慈海」左側に「山門西塔執行宝園院住持仙波喜多院第三世」、背面に「元禄六年癸酉二月十六日寂」と刻む。
 慈海僧正は、学徳をもって知られ、東叡山護国院、目黒不動、比叡山西塔宝園院、川越仙波喜多院を経て東叡山凌雲院に入った。東叡山は、寛永寺一山の山号で、一山を統轄、代表する学頭には凌雲院の住職が就任することを慣例としたという。学頭は、また門主・輪王寺宮の名代をつとめうる唯一の有資格者であり、学頭の名のとおり宮や一山の学問上の師でもあった。慈海版として知られる『法華経』『薬師経』の翻刻や『四教義算注』『標指鈔』三十巻の著作がある。
 寛永元年(一六二四)目黒で生誕。七十歳で没した。没後、公弁法親王の奏請によって大僧正の位が贈られた。墓は、初め凌雲院内にあったが、昭和三十三年東京文化会館建設のため寛永寺に移った。

鬼瓦

 

蟲塚です。

★了翁禅師塔碑:了翁は号、諱名を道覚といい、黄檗宗の僧である。出羽国雄勝郡に生まれ、幼い頃から僧門に入った。承応年間(1652-55)隠元禅師に師事し、のち諸国を巡錫している途中、夢の中でたまたま一種の薬法を修得し、これを錦袋円と名づけて、江戸上野不忍池の池畔に店舗を営んだ。数年にして数千両を得、江戸大火に際し、罹災民の救済に私財を投じ、さらには経典七千巻を購入して経庫を造ってこれを寛永寺に寄贈した。天和3年(1683)には勧学院を建てて教育に尽力、その功によって輪王寺宮より勧学院権大僧都法印に任じられた。宝永4年(1707)5月没。ときに78歳。昭和43年10月1日建設(東京都教育委員会)

以前の中堂は江戸名所図会の不忍池からも見えていました。

現在の噴水の所のようです。

 

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不忍池蓮見Ⅱ(台東区上野公園)江戸名所図会めぐり

2018年07月17日 23時15分24秒 | 江戸名所図会めぐり

昨年もハスの花を見に来ましたが、今年も同じように散策してみました。今年は寛永寺中堂を散策してから到着しました。

中島弁天堂と不忍池です。ここから寛永寺の中堂も見えています。昔の中堂は今の動物園の前の噴水の所にあったようです。

蓮の花は江戸時代から有名で江戸名所図会にも描かれています。

キャプション

不忍の池は江府(えど)第一の蓮池なり。夏月に至れば荷葉累々として水上に蕃(はん)えんし、花は紅白色をまじへ、芬々人を襲ふ。蓮(はちす)を愛するの輩(ともがら)、凌晨(しののめ)をことさらの清観とす。

小林清親 不忍池

今の時期はハスでいっぱいですが冬は蓮が枯れるので弁天堂がよく見えます。

弁天堂に行く道の所でとりました。谷中七福神が見えます。

不忍池の蓮

不忍池は、上野公園の南西部にある周囲2キロメートルの池。天海僧正(1536 - 1643)は、この池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえた中島を築造し弁天堂を建てた。江戸時代以来、文人墨客の集う蓮の名所として知られ、その壮観さは訪れる人々を魅了してきた。

東側から見ています。

池に入り込むようなハス観察ゾーンの歩道があります。

蓮の花の「見頃時間は早朝」
咲く時間は朝だけ(特にキレイなのが早朝)、昼以降は閉じてしまいます。

昼咲いているのは

◆1日目、早朝ほんの少し開きますが、昼頃には花を閉じます。
◆2日目、早朝から開き始め、キレイな満開の花を咲かせ、昼になると花を閉じます。
◆3日目、早朝から開き始め最大に開花しますが、花の色は薄く力強さもありません。昼頃閉じ始めそのまま夜をむかえます。
◆4日目、朝完全に開き切りますが、閉じる力もなく全ての花は散ってしまいます。

4日目の花のようです。咲いているが花びらが散りつつあります。つぼみは朝は咲いていたもののようです。

ということで、機会があれば早朝のハスを見たいと思っています。

 

 

 

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