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ピサの斜塔より傾斜度で勝ってるトルコのミナレット

2016年11月02日 | 観光
11月3日 東部エルズー県の12世紀のモスクのミナレット(尖塔)が、有名なピサの斜塔と比較されています。

 Hurriyet

エラズー県アラヤプラク地区にあるハルプト・ウル・モスクの赤レンガのミナレットは、現在、6.8度傾いていて、ピサの斜塔より1.3度大きく傾いています。北西イタリアの世界遺産を管理する組織によると、ピサの斜塔の傾斜度は5.5度だそうです。

セルチュク時代のこのモスクは、中庭を持った最初のモスクで、1157年、アルトキズ王朝のファフレッティン・カラアスラン王によって建てられました。アルトキズ王朝は11~12世紀、この地方を統治していました。ピサの斜塔は、その17年後、ピサの大聖堂の鐘楼として建てられました。このミナレットは、ライバルのピサの斜塔のような名声を得ていませんが、長年、エラズーを訪れる人々を魅了してきました。

「この2年間、1日4回、傾斜計でミナレットの傾斜を計ってきました」と、近くのフラト大学でトルコ・イスラム美術史を研究するイスマイル・アイタチさんは言いました。「最後に測定した傾斜は6.8度でした。2年間、計りつづけましたが、塔の傾斜は2年間、変わっていません。傾斜は土壌の変化や地震で起こったと推測できます」


報道の自由に対するヨーロッパの“レッドライン”をトルコ首相は軽視

ビナリ・ユルドゥルム首相は、報道の自由に対するヨーロッパのレッドライン(越えてはいけない一線)を軽視し、日刊「ジュムフリエト」紙のトップ・スタッフをテロ容疑で拘束したことに対する欧州議会の議長の意見を拒否しました。(11月2日の頁参照)。

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11月1日、ユルドゥルム首相は国会で、公正発展党(AKP)のメンバーたちに、報道の自由に関するヨーロッパの批判は気にしないと言いました。「トルコは集中砲火や脅迫に負ける国ではない。トルコは国民の力によって責任を果たしていく」

欧米は昨今のトルコの動きに懸念を表明し、欧州議会のマーティン・シュルツ議長はツイッターで、「トルコは表現の自由に関してレッドラインを越えた」と書いています。「ムラト・サブンジュ編集長とジュムフリエトのジャーナリストたちの拘束で、トルコはまた、表現の自由に関してレッドラインを越えた」

ユルドゥルム首相はヨーロッパのダブル・スタンダードを非難し、欧州議会がPKK(非合法組織クルド労働者党)のプロパガンダを許したことを指摘しました。また、10月31日、ジュムフリエト紙の報道が、7月の未遂クーデターを引き起こす助けとなったという告発によって、警察は、この国の世俗主義者が樹立した柱である「ジュムフリエト」紙の編集者とトップ・スタッフを拘束しました。

「わが国は報道の自由に関して、問題はありません。しかるに、われわれがテロとの戦いに踏み出すと、ヨーロッパはいつも報道の自由を持ち出してくる。司法が、なにものにも介入されず、その義務を果たすのを、ヨーロッパは認めるべきです」と、首相は言っています。


「ジュムフリエト紙はわが党のレッドラインだ」とCHPの広報係

テロを支援した容疑で日刊「ジュムフリエト」紙に対して始まった警察の手入れは、共和人民党(CHP)にとってレッドライン(許容できない一線)だと、最大野党CHPの広報係は言い、「手入れは公正発展党(AKP)とフェトフラー・テロ組織(FETO)の共同作戦だ」と主張しました。

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ジュムフリエト紙の手入れを非難するCHPのボケ広報係


「ジュムフリエトに対する捜査はAKPとFETOの共同作戦です。ジュムフリエトはわが党のレッドラインです。わが党は一歩も後退しません。わが党は降伏しません」と、セリン・サイエク・ボケ広報係は、11月2日、同党の中央幹部委員会会議で言いました。

「ジュムフリエト紙はふつうの新聞ではありません。この新聞は共和国建設の歴史の記念碑であり、建設者アタテュルクの意志を記念するものです。ジュムフリエトはウーウル・ムムジュ、タネル・クシュラル、バフリエ・ウチョク(1990年代に暗殺されたジャーナリストたち)の新聞です。ジュムフリエトは共和国の力であり体制です」と彼女は言いました。

「ジュムフリエト紙に対する攻撃は、わが共和国への攻撃です。AKP体制がジュムフリエトを攻撃しているのは、偶発的なことではありません。前進を信じる民主主義者は、ジュムフリエトをAKPのファシズムに降伏させません」ボケ報道係は今回の手入れを非難し、ジュムフリエトを捜査したムラト・イナム検事は、FETOのメンバーとして裁判を受けたと指摘しました。

「検察はジュムフリエトがFETOに与する罪を犯したと主張しています。しかし、捜査を行った検事は、FETOのメンバーとして裁判を受けた人物です。彼はFETOのメンバーとして告発されながら、逮捕されず、仕事をしています」と彼女は言いました。

「ジュムフリエト」紙は、トルコ共和国建国の翌年の1924年、ケマル・アタテュルクの親友ユヌス・ナディ・アバルオールによって創刊されました。


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