文芸誌の小説を読んでわくわくしたのは、実に何年ぶりのことである。昨年は一年間、週三回更新の短歌のマラソン・ブログを担当していたから、そちらで目いっぱいだった。文芸誌の小説を読んでいる暇などなかった。
早助よう子の小説は、まず文章が、こちらの意表を突いて来る。思わぬ方向から言葉が飛んできて、何だかよくわからないままに次に引っ張られる。
口をきかない主人公の少女と交流する「兎声」(うさぎこえ)という人物は、いつも浜にいる。その人物を最初に紹介する文章は、次のようなものだ。
「不安の道にあえて踏み込みからだをなげだし、まきこまればらばらに流されてずうっといくと線が途切れた先に小屋を見つけることがある。小屋のなかにはたまに誰かがいる。でかい頭陀袋をひいていたりぼろきれを体にまいていたり痩せて裸足だったり口をもぐもぐさせていたり垢だらけだったりする。兎声はその小屋の中にいるひとに似ている。出口と入り口がある一直線の時を生きていないひと特有の、としの読めない風貌。子どものような背丈をし子どものような顔をして頭ばかり大きい。夏のひどく暑いときと真冬の雪がふぶくようなときをのぞけば年がら年中浜にいる。」
こうやって詩を書くように小説の文章を書くことが許されるなんて、うらやましい。小説は、米騒動から関東大震災にかけての時代を背後の設定として置きながら、怪力の女仲仕の母親が、一人で暴発して米商人の主人を銃で撃つというような活劇も含みながら、荷役犬にまたがる少女の姿のイメージが、すでに幻想小説の趣を持つものだ。かと言ってまるで荒唐無稽でもなく、登場人物は、皆そういう人間がかつていたという現実感を保持している。読んでいる時の印象は、多和田葉子や中上健次の小説を読んでいる時の感じに近いが、土俗的シュールリアリズムとでも言ったらいいか、裏日本の関西弁がなかなかきいていて、場面の転換も早く、しかも語られる風俗が、見たことのない物珍しさを持っている。綺想に近いものが、大切に取り出されている。その手つきがいいと思う。
途中語り手がポリフォニーの効果をねらってか複数化する描写があるのだが、全部がうまくいっているようには見えなかった。でも、なぜかとても心をひかれるのである。たとえば次のような描写。
「わたしは布団を頭から被り自分がただひとりであることを恥じる。おれは一体なぜひとりなのか。おれがおれの群れのなかにいて例えば八人も九人もおれがいればいいのに。もしおれがひとり欠けてもここにおれの代わりのおれがいますと叫んで母の恐怖をやわらげることができたらいいのに。おれはなぜ群れじゃないのか。わたしは次の瞬間、布団をはねのけて立っていた。」
言葉が運動していって、それが作者の内臓感覚のようなものと密接に照応し合いながら、次のプロットをつむぎあげてゆく。無意識の重量を感じさせる文体は、口をきけない主人公の少女の文字以前の想念の世界を肉体を濾過しながら語るようなところがあって、高踏的かつ観念的に自己疎外を追求してゆくだけの浪漫主義に堕することから免れている。
ここでひとつ引用をしてみたい。「声は、声を言葉に仕立てる出来事を待っている。」(G・ドゥルーズ『意味の論理学 下巻』河出文庫)
こんなに創作意欲をかきたてられる言葉もないものだと思うのだが、いかがなものであろうか。「犬猛る」に私が何故興奮したのかということが、この言葉を引いてみた時に、少しだけわかったような気がした。失語の少女が言葉をとりもどす、または獲得する時に「物語」の「出来事」が展開する、という小説のストーリは、実に示唆的であり、かつまた、まったく当然のことであるような気がするのだ。
海辺で主人公が兎声と「象」を見る場面がある。一篇の白眉とも言えるこの場面は、限りなく性的である。いちいち絵解きをするようなことは書かないが、この文章の仕上がりがすばらしい。
「浜で寝そべって字を書いているといきなり海が吹いて、わたしは飛びおきた。太く白い水柱が空に向かって立ち、波間にぬっと丸い頭がでて度肝をぬかれる。でかい。大きさのせいか笑っちゃうようなおかしさがあるけれどそれがぬるりとした質感の赤だったのでヤバイ、と反射的に思った。海の上に黒雲がどんどんあつまって生ぐさくぬるい風が沖から吹いて肌があわだった。吹く風にあわせ大きなまっかなぼうず頭が、ぐらーり、ぐらーり、ゆれる。酔ったみたいに心地が悪くなって胃に手をあてると痛かった。「兎声」
兎声は目をうすくひらき眉をあげいぶかしげにひとみをこらし、
「おっ」
と言う。
「あれなに?」
「象です」
象ってなに。おれは知らない。でもこいつが普通の海のいきものじゃないことは肌の感触でわかる。胴体の大きさが納屋くらいあってひげがピンピン生えていて硬くて長い歯がのぞく。なみだぐんだような小さな赤い目がぎょろっとこっちをみた。
「兎声も、逃げたほうが、ええよー」
わたしはすでに逃げていて遠くから叫ぶ。
(略)
まもなく兎声が歓待の準備をはじめ、ちょっとわけがわからなくなる。こんなまがまがしいまっかなお客はすぐに帰ってもらうにかぎるのに。わたしはさっきから骨のなかが氷のようで頭も内側からガンガンと叩かれているみたいに痛い。象のせいやなと思う。」
変なことまで言ってしまうと、<破瓜>の経験というものも、こういう言語の獲得と相似的な何かであろうと私は思うのである。そのような重ね合わせを用いながら、作者のよく知っている主人公の<破瓜>が、世界大に拡大した経験となる時、物語の世界は一回り大きくなるはずなのだ。私が何を言いたいのかと言うと、作者は主人公を山東出兵や、満州事変、そののちの世界戦争の局面まで引っ張っていく試みをしてみてもよいのではないかということである。その際にどういう複数の少女がふるまうのか、ということは、私は女性ではないからわからない。けれども、そういう生理感覚に根差したおもしろさのようなものを感じさせてくれる小説は、絶対に官能的で楽しいと思うし、これからも読みたいと思う。
早助よう子の小説は、まず文章が、こちらの意表を突いて来る。思わぬ方向から言葉が飛んできて、何だかよくわからないままに次に引っ張られる。
口をきかない主人公の少女と交流する「兎声」(うさぎこえ)という人物は、いつも浜にいる。その人物を最初に紹介する文章は、次のようなものだ。
「不安の道にあえて踏み込みからだをなげだし、まきこまればらばらに流されてずうっといくと線が途切れた先に小屋を見つけることがある。小屋のなかにはたまに誰かがいる。でかい頭陀袋をひいていたりぼろきれを体にまいていたり痩せて裸足だったり口をもぐもぐさせていたり垢だらけだったりする。兎声はその小屋の中にいるひとに似ている。出口と入り口がある一直線の時を生きていないひと特有の、としの読めない風貌。子どものような背丈をし子どものような顔をして頭ばかり大きい。夏のひどく暑いときと真冬の雪がふぶくようなときをのぞけば年がら年中浜にいる。」
こうやって詩を書くように小説の文章を書くことが許されるなんて、うらやましい。小説は、米騒動から関東大震災にかけての時代を背後の設定として置きながら、怪力の女仲仕の母親が、一人で暴発して米商人の主人を銃で撃つというような活劇も含みながら、荷役犬にまたがる少女の姿のイメージが、すでに幻想小説の趣を持つものだ。かと言ってまるで荒唐無稽でもなく、登場人物は、皆そういう人間がかつていたという現実感を保持している。読んでいる時の印象は、多和田葉子や中上健次の小説を読んでいる時の感じに近いが、土俗的シュールリアリズムとでも言ったらいいか、裏日本の関西弁がなかなかきいていて、場面の転換も早く、しかも語られる風俗が、見たことのない物珍しさを持っている。綺想に近いものが、大切に取り出されている。その手つきがいいと思う。
途中語り手がポリフォニーの効果をねらってか複数化する描写があるのだが、全部がうまくいっているようには見えなかった。でも、なぜかとても心をひかれるのである。たとえば次のような描写。
「わたしは布団を頭から被り自分がただひとりであることを恥じる。おれは一体なぜひとりなのか。おれがおれの群れのなかにいて例えば八人も九人もおれがいればいいのに。もしおれがひとり欠けてもここにおれの代わりのおれがいますと叫んで母の恐怖をやわらげることができたらいいのに。おれはなぜ群れじゃないのか。わたしは次の瞬間、布団をはねのけて立っていた。」
言葉が運動していって、それが作者の内臓感覚のようなものと密接に照応し合いながら、次のプロットをつむぎあげてゆく。無意識の重量を感じさせる文体は、口をきけない主人公の少女の文字以前の想念の世界を肉体を濾過しながら語るようなところがあって、高踏的かつ観念的に自己疎外を追求してゆくだけの浪漫主義に堕することから免れている。
ここでひとつ引用をしてみたい。「声は、声を言葉に仕立てる出来事を待っている。」(G・ドゥルーズ『意味の論理学 下巻』河出文庫)
こんなに創作意欲をかきたてられる言葉もないものだと思うのだが、いかがなものであろうか。「犬猛る」に私が何故興奮したのかということが、この言葉を引いてみた時に、少しだけわかったような気がした。失語の少女が言葉をとりもどす、または獲得する時に「物語」の「出来事」が展開する、という小説のストーリは、実に示唆的であり、かつまた、まったく当然のことであるような気がするのだ。
海辺で主人公が兎声と「象」を見る場面がある。一篇の白眉とも言えるこの場面は、限りなく性的である。いちいち絵解きをするようなことは書かないが、この文章の仕上がりがすばらしい。
「浜で寝そべって字を書いているといきなり海が吹いて、わたしは飛びおきた。太く白い水柱が空に向かって立ち、波間にぬっと丸い頭がでて度肝をぬかれる。でかい。大きさのせいか笑っちゃうようなおかしさがあるけれどそれがぬるりとした質感の赤だったのでヤバイ、と反射的に思った。海の上に黒雲がどんどんあつまって生ぐさくぬるい風が沖から吹いて肌があわだった。吹く風にあわせ大きなまっかなぼうず頭が、ぐらーり、ぐらーり、ゆれる。酔ったみたいに心地が悪くなって胃に手をあてると痛かった。「兎声」
兎声は目をうすくひらき眉をあげいぶかしげにひとみをこらし、
「おっ」
と言う。
「あれなに?」
「象です」
象ってなに。おれは知らない。でもこいつが普通の海のいきものじゃないことは肌の感触でわかる。胴体の大きさが納屋くらいあってひげがピンピン生えていて硬くて長い歯がのぞく。なみだぐんだような小さな赤い目がぎょろっとこっちをみた。
「兎声も、逃げたほうが、ええよー」
わたしはすでに逃げていて遠くから叫ぶ。
(略)
まもなく兎声が歓待の準備をはじめ、ちょっとわけがわからなくなる。こんなまがまがしいまっかなお客はすぐに帰ってもらうにかぎるのに。わたしはさっきから骨のなかが氷のようで頭も内側からガンガンと叩かれているみたいに痛い。象のせいやなと思う。」
変なことまで言ってしまうと、<破瓜>の経験というものも、こういう言語の獲得と相似的な何かであろうと私は思うのである。そのような重ね合わせを用いながら、作者のよく知っている主人公の<破瓜>が、世界大に拡大した経験となる時、物語の世界は一回り大きくなるはずなのだ。私が何を言いたいのかと言うと、作者は主人公を山東出兵や、満州事変、そののちの世界戦争の局面まで引っ張っていく試みをしてみてもよいのではないかということである。その際にどういう複数の少女がふるまうのか、ということは、私は女性ではないからわからない。けれども、そういう生理感覚に根差したおもしろさのようなものを感じさせてくれる小説は、絶対に官能的で楽しいと思うし、これからも読みたいと思う。