このところ、岡井隆の近刊『森鷗外の『沙羅の木』を読む日』を毎日少しずつ読んでいる。何しろ明治時代の古い詩についての話だから、引用されている詩の内容が少しでも頭に入って来ないような時は、そこで読むのをやめて翌日にまわすことにしている。せっかくの岡井さんの本だから、急いで読むなんてもったいない。帰宅後の体をごろりと畳の上に横たえて、部屋の隅に積んである蒲団に頭をあずけながら、じわじわと読む。
鷗外の詩だけではなく、同時代の詩人の詩が引いて比較される。翻訳詩とは、新たな創作詩(のようなもの)である、というのが著者の一貫した主張である。いい、わるいを見分けながら、叙述は進む。それに歩調を合わせて、読者の方も自分の感性を調律してゆくのである。だから、すぐれた詩人の文章は、楽譜のようなものである。読む方がいい音を聴こうとしなければ、見ようによっては古色蒼然とした詩句は、砂を噛むようなものであろう。
批評の対象となっているのは、どれもが強い刺激のある詩ばかりではない。けれども、文語が苦手な読者にも十分に気をつかった、著者の丁寧で親切な叙述を通して伝えられるのは、ひとつひとつの言葉の響きに耳を傾け、比喩の効果や、言葉の矢が向かっている先を特定しながら読んでいくことの、愉楽である。読むことの純粋なよろこびである。
鷗外の詩だけではなく、同時代の詩人の詩が引いて比較される。翻訳詩とは、新たな創作詩(のようなもの)である、というのが著者の一貫した主張である。いい、わるいを見分けながら、叙述は進む。それに歩調を合わせて、読者の方も自分の感性を調律してゆくのである。だから、すぐれた詩人の文章は、楽譜のようなものである。読む方がいい音を聴こうとしなければ、見ようによっては古色蒼然とした詩句は、砂を噛むようなものであろう。
批評の対象となっているのは、どれもが強い刺激のある詩ばかりではない。けれども、文語が苦手な読者にも十分に気をつかった、著者の丁寧で親切な叙述を通して伝えられるのは、ひとつひとつの言葉の響きに耳を傾け、比喩の効果や、言葉の矢が向かっている先を特定しながら読んでいくことの、愉楽である。読むことの純粋なよろこびである。