いづこにも貧しき路がよこたはり神の遊びのごとく白梅 玉城 徹
これは、現代の詩歌に通じている人にはよく知られた歌集巻頭の歌であるが、「いづこにも貧しき路がよこたはり」という句のあとには、散文だと「その道を私が歩いてゆくと、目に入ってくるのは…」にあたる言葉が省略されている。つづく「神の遊びのごとく白梅」という句は、上句の情景描写を補うものであるけれども、読んだ印象は、いきなり二物衝撃に近い形で、ぬっと「白梅」というモノが突き出されたような驚きをもって感受される。歩行する作者とともに、読者も白梅に急迫されるのである。
この接合の仕方は、俳諧における連句の技法を用いたものである。むろん一首の眼目は、「神の遊びのごとく白梅」という大胆秀抜な直喩にある。「白梅」そのものが、神の遊ぶ姿のように見えるよ、と言って白梅の美しさをたたえているとしたら、木の精などが登場する能の世界への連想をかすかに牽いている作品と言えるだろうか。また別解では、神が遊びとして「白梅」の花をこの地上の随所に咲かせているよ、という大きな見立ての歌のようにも読むことができる。そうすると、これは伝統的な和歌の世界の発想の仕方に近づくことになる。
しかし、「左岸の会」の研究誌に示された新資料によって、これらの直喩を用いて作られた歌の多くが、「世界」と名付けられた一連の中にあったことが明らかになった。おそらくは、ハイデガーの実存哲学への濃厚な親炙のなかでこれらの作品は構想されていたのである。ハイデガーは、詩的な修辞を介して、言葉によって「世界」そのものと出会おうとするのが詩人の仕事だと言っている。作者は、自らを言葉の祭司と化して、この世界の真実で真正な生の時間の生ずる瞬間に出会わせるべく、一種の儀式として、短歌という定型詩の音楽的なリズムをもて扱っているのである。
そこでは生活や世俗の出来事の諸事断片は、いったん「生」の事象の総体を構成する緒要素としてばらばらにされ、一定の美学の統率する織物として意識的に編集し直されるのである。歌集『馬の首』は、そのような徹頭徹尾観念的な<美>への没入のありようを、自ら解析しつつ、現実の世界の断片の中から歌(詩)が言葉によって生成する無垢なる空間を幻視しようとする試みであったと言えるかもしれない。日本語の「短歌型式」によってそれが可能だと信じたところに、玉城徹の大野心があったとも言えようか。
※「左岸の会」の研究誌に掲載した文章を大幅に改稿して示した。