さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

高橋睦郎歌集『待たな終末』

2016年07月03日 | 現代詩 短歌
 跋文のおわりに著者自らも言うように、終末感の濃い作品集である。日常についての詩が、そのまま「形而上」詩であるような詩をこころざした、と同じ文章にある。洋の東西の神話に出てくる語彙をふんだんに呼び込みながら、のびのびと平明にうたっている。その円熟した豊かな詩想の湧出には、畏敬の念を覚えるほどだ。 

 冒頭の一連には、早く父に死に別れ、母も家を出てしまって親族の家を転々とした幼年期が語られる。言葉を友として育ち、そこから詩人となる下地を作っていった著者のさびしい生い立ちを起点として、一巻は必然的に作者がこれまでに経めぐった読書と、思索と、旅の記憶を辿り直すものとなるのである。同時にそれと重ね合わせるように、宇宙全体、人類と生き物の総体を思う壮大な詩の屏風絵を、作者は我々の前に展開してみせる。

旅のむたうたひ捨てこし詩くさのさもあらばあれ旅は続けり  85  ※振り仮名。詩(うた)、「うたくさ」は名詞。引用にあたり、「詩」が脱字になっていました。訂正してお詫び申しあげます。

フロオラやファウナやいづれ慕はしき蔭細やけきフロオラをわれは 106  ※細(こま) 
あな世界終んぬとこそ立ちつくす身はすでにして鹽の柱か  138
世の終り見ゆる時代に盛年生きむ若き君らをわがいかにせむ  176 ※時代(ときよ)、盛年(さだ)

 これは誰も容易には真似できない独特の擬古的文体である。生あるものを愛してやまない詩人の晩年の思念を占めるものは暗い。けれども、その詩想を根底から支えている数々の神話や、ギリシアの詩、それから「聖書」の物語などの諸々のテキスト自体が、無限の明るさを持っていて、それらの光源に照らされるとき、詩は人智の持つあかるさに輝きながら、残されたこの一時を燃え続けようとするのである。

 詩の言葉が光を発することにより、漆黒の闇のなかに浮き上がる扉がある。著者自装とおぼしい一巻の装丁自体に、その思い・願いがこめられている。書物のかたちをとった詩碑が、『待たな終末』であるのだ。

井上法子歌集『永遠でないほうの火』 2

2016年07月03日 | 現代短歌
 承前。同じ一連を読んでゆく。

紺青のせかいの夢を翔けぬけるかわせみがゆめよりも青くて
翠雨ぬけてきみのほうから飛び立ってきたのだというこころに ここに
もう一度 のぞきこむこのまなうらに真っ青な羽ばかりうつるよ

 「かわせみ」は、恋人の暗喩として読む。また、瞬間に成立するするどい詩美というものの代名詞でもあろうか。同系色の絵の具を塗り重ねたような一首め。「紺青のせかいの夢」なのだから、<「世界」は「紺青」である>という「夢」を見ているのである。そこを翔けぬける「かわせみがゆめよりも青くて」なのだから、「夢」で見ていたよりも、さらに「かわせみ」は青かった、というのである。修辞のなかにある論理が強い歌だ。意味は、「かわせみ」の「恋人」と出会ったみたら、言い換えると「世界」の世界性にまともに立ち会ったみたら、私は強い感動にさらされたのだということだろう。

 三首めも修辞のうえでの論理性は、かなりきつくて、「新古今和歌集」の恋歌並みに理詰めである。「もう一度 のぞきこむ」の「のぞきこむ」と、「このまなうらに真っ青な羽ばかりうつるよ」の「このまなうら」は、「このまなうら」に両方から言葉が掛かっている。<青い色のかわせみを見ている私>の目の奥を、「もう一度 のぞきこむ」わけだから、何というか、自分で自分の目の奥をのぞいているような不思議な感じを受ける。こういう歌の骨法は、山中智恵子などから得たものだろうか。このあとも架空の相聞の相手との対話は続くのであるが、「真っ青な羽ばかり」目に見えるということのなかには、至高にして不毛である、という一つの詩美のあり方の含む問題がある。そこは、次の歌で上手に転調する。それに青の同系色の抒情歌というのは、読んでいる方も飽きるから。

ぼくたちのひたくれないの心臓をはべらせ薫風がやってくる
あかねさす瑞花を、春を見送って乗り遅れても拾える風だ
(ぼくは運命を信じない)たましいの約束だからきっと歌える

「瑞花」に「ずいか」と振り仮名がある。ここで読む方が少し眠くなっているのを起こすように「ぼくたちの」と持って来るあたり、「あかね」を出して転調してみせるあたりには、配列の妙を感じる。ただ、上の一首めの「ひたくれないの心臓」も「薫風がやってくる」も既成の詩語の通貨だから、「心臓をはべらせ」というように「はべらせ」でつなぐところがやや短歌的で、うまくまとまって見えるだけに、私はあまりほめたくないのだ。三首めの結句、「きっと歌える」で、これもうまくまとまっているのだが、もう少し刺激がほしいと、私などは思ってしまう。