さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

2011.4.9の文章

2017年09月13日 | 現代短歌
☆ 以下は、2011年の「一太郎」ファイルの復刻である。これは某誌が休刊してしまったために陽の目を見なかった。

歌集・歌書プロムナード 
     
 電気はいつでも使えるもの、電車はいつでも乗ることができるものと思って疑わなかった生活が、根底からくずれたのが、今度の地震だった。都市の住民は、知らず知らずのうちに自分の生活のリスクを地方に押し付けて暮らしていたのである。原発の危険は、実はみんなが知っていた。科学技術は万能ではないということもわかっていた。安全神話ではなくて、自己暗示に近かった。「だまされていた」のではない。自分で自分の耳と目をふさいで、危険と隣り合わせの現実を見ないようにしていたのだ。むろん十分な安全対策を怠っていた国と会社の責任は問われてよい。けれども、やはり徹底的に油断していた。自然を甘く見ていた。
 地震のあと一週間ほど、新聞は見るけれども短歌関係の本や雑誌にさわる気がまるで起きなかった。ただ気持ちがさわがしく、手先を動かす仕事や、身のまわりの片付けだけを続けていた。その時にたまたま取り出して、たちまち心が立ち直るというか、ものを読むというところまで気持ちを引き戻してくれたのが、少し前のものだが次の歌集である。

〇水沢遙子歌集『空の渚』(不識書院)

 一集が言語の結晶体として凛然として屹立している気韻に打たれた。硬質で磨き抜かれた文体の弾みに、こちらのだらだらした気分が正されて起き直ったような具合である。作品世界に明滅する光と影に、生きて年月を重ねることのかなしさが、端然として明晰に、くもりなく表現されていることに驚く。

  やうやくに追ひて入りたる夢のなか手をあげてひとは星辰を撫づ

  透明の水のつばさといふ喩へうかべつつ聴くさびしき詠唱 (ルビ、アリア)

  三人目のひとの明るさ夜の夢のふたり角(ルビ、かど)だつ場に入りきて

 死者の視線にたえられる作品、というようなことを思ってしまって、しばらく文字が読めない日が続いていた。今見ている作品は、大量死の死者のまなざしにたえる作品であるのか、というような事であったのだが、そんな重荷をやすやすと担い得る詩歌があるとは、思われなかった。でも、自らの内側に死というものを抱え込んでいる言葉は、死者の目からみたら安らぎともなるのではないかと思った。そういう詩ならあるだろうと思われた。それが、水沢遙子の歌に私の心が寄った理由である。次に示すのは、阪神の大地震のことをうたったものである。

  大地震の十数秒の轟音を今に喩ふるものを知らざる

  その冬の花は凍てゐき一月の山茶花地震の記憶をひらく

  身に重く病負へども母はわがうつつにありき大地震の冬

このあとは、以前から書き溜めてあった原稿となる。

〇玉城徹著『左岸だより』(短歌新聞社)

 手にした時にうれしさが込み上げて来る本だった。限られた読者にだけ届けられていた著者晩年の通信の文章と短歌作品が、すべて一冊にまとめられている。二段組で一二八一ページという大冊だが、見やすいし、めくりやすいので、どこからでも入っていける。玉城徹の個人的な経験が、自ずから思想史や詩歌史として読めるように感じられるのが、本書のおもしろいところである。玉城徹は、強烈に自分の物の見方を打ち出しながら、同時に常に自分を冷徹に突き放している。断章を引いてみたい。

「〇わたしも、何も世間離れをするつもりはない。人並みに、欲も見栄ももつ。執着もある。
 〇それでも、歌というものが、余りにも、世俗の競争ばかりでは、味気ない。人の心を清くするところが少しもない歌は、どうも心もちが善くない。 
 〇自分がその中の一員だからというので、近代や現代を偉いもののように思うのは、歴史の捏造である。」

 しばしば諦観、傍観の言葉をもらししつつも、同時に痛烈で激しい。最後まで心の情熱を持ち続けた人の語録である。そうでなければ、七年間でこれだけの分量のものが書けるわけがない。

〇古島哲朗著『短歌寸描』(六花書林)

 この本は、一人見開き二ページで一〇七人の有名無名の歌人を取り上げた作品の鑑賞本である。その中には片山貞美や高嶋健一など玄人好みの歌人の名前がみえる。佐賀の草市潤の名がある。私は「牙」の山部悦子と、一時二宮冬鳥の「高嶺」にいた西田嵐翠の歌を、この本ではじめて知った。冬鳥門下三人衆の一人という江島彦四郎の名も教えられた。短歌の世界は奥深く、地方歌人には、埋もれたいい歌人がたくさんいるのだ。

 筆者は福岡生まれ、のち愛知に移住。そのため九州をはじめとした地方在住の歌人を丁寧に見る目を持っている。全体の記述には人知れず秀歌を残して来た人々への敬意と哀惜の念が、自ずからにじむ。取り上げる作品の選出にあたって、歌風にはこだわらないが、市中にあって脱俗の気を養っていた歌人への嗜好をにじませている。また、後記を見ると、これが最後の本だという。この機会に著者の『現代短歌を〔立見席〕で読む』をさがしてみようと思った次第である。

〇久津晃歌集『宇宙銀鼠』(角川書店)

 若い頃に結核を病み、「重篤の時期、私には短歌以外何物もなかった。それによって、私は一命をとりとめたと今でも思っている。」と歌集の後記に記している。作者は、戦後早くに「アララギ」の先進だった金石敦彦に親しみ、「未来」を通じて多くの知友を得た。そうして妻の山埜井喜美枝とともに、福岡で長年九州歌壇を担って来た。本集では、傘寿をこえて自在な歌境に達した作者の生死の境を見つめた歌群に心をうたれる。

  人形が涙を流す場面にて地上遥かに太鼓鳴りつぐ

  腰落し尿(ルビ、「尿」ゆまり)する犬紐ゆるめじつと見てゐる老いも屈みて

  じやんけんをしてゐるやうな心地にていのちと向ふ年末年始

さはさはと風が過ぎゆく葉月尽緑の蛇が木をのぼりゆく

  老いるとは死ぬより辛きことながら老いねばならぬ生きてゐるゆゑ

〇楠見朋彦歌集『神庭の瀧』(ながらみ書房) 

 作者は、塚本邦雄の評伝を書いて、昨年前川佐美雄賞を受賞した。古典和歌をもとにした沓冠(ルビ、くつかぶり)の十首をもって一連を構成したもので全二十連のうち半分近くを創作している。塚本門下らしい修辞へのこだわりを見せた一冊だ。冒頭の一連は、
「大空をかよふまぼろし夢にだに見えこぬ魂(ルビ、たま)の行(ルビ、ゆ)く方(ルビ、へ)たづねよ」

という「源氏物語」からの引歌を「まぼろしとゆめのあひ 何ど終ることはなく」と十音二句に変換したものだが、むろんこれは師の塚本邦雄への挽歌なのだ。

  野宮をもとほるわれとすり硝子ごしの世界を見切りしあなた

 右の歌は、塚本の「五月来る硝子のかなた森閑と嬰児みなころされたるみどり」を連想させる。

  鳥髪に来てわれはわが夢の客もはや何者も醒めざるしじま

  ラジウムとひかりおぼめく螢かご提げてをり幽明のさかひに

 二首とも山中知恵子の歌を踏まえているだろう。現代の本歌取りと言えないことはない。これだけ豊かな語彙を使いまわせる作者は、若手の中ではそう数はいないだろう。もう少し引くと、

  氷室より運べるごとき言葉かな盛夏の君にシュガー・クラッシュ

  父親となるには一年(ルビ、ひととせ)も要らず吾妻線の溪ぞきらめく

 私には、右の二首程度に肩の力を抜いてもらった方が読みやすい。歌はこれでいいではないかとも思うのだが、そこを敢えて挑戦的な試みを続けてゆこうとするのは、「玲瓏」の血筋というものだろうか。

〇宮崎信義歌集『いのち』(短歌研究社)

 二〇〇九年一月二日に九十六歳と十ケ月で亡くなった口語自由律の歌人宮崎信義の最後の歌集である。没後の刊行だが、タイトルは生前の著者から娘に手渡されたノートの表紙に書いてあったもの。「山」という連から。

  私ののぞみは山が沈んでいく時に一緒に沈んでいくことだ

 「いのち」という連から。

  私のいのち見えるだろうか空を飛ぶ一羽の鳥のいのちが見える

  私のいのちがあなたに移る不滅のものこそいのちなのだ

 二〇〇七年の肺炎で入院した時の歌。

  ここしばらくいのちが居坐っている天気予報に似ているな

  絶筆から。

  今度こそはほんとの一人旅棺には杖や菅笠入れといて

 いずれも解説を要しない歌である。九十歳をこえた人の「いのち」への思念が、やわらかい澄明なつぶやきとして、偶然にゆだねられた「いのち」そのものの本質と対話する姿を通して、読者の前に差し出されている。

〇東直子著『耳うらの星』(幻戯書房)、『十階 短歌日記2007』(ふらんす堂)

 私は東直子のエッセイを読むのが好きだ。以前読んだ『今日のビタミン』はとてもおもしろかった。今度の本も、大人の好奇心と童心がうまく溶け合った、少しくすぐったくて、とぼけた文章の味わいは変わらない。ふらんす堂のホームページにのせた短歌の方は、私も近年は好みが気難しくなっているので、全部にうんと言うことはできないのだが、至って平易なその詠みぶりには、修辞の高度さと、ポピュラリティーとのバランスをうまくはかろうとしていることが感じられる。

  文字のある紙をさかさに読んでいるように見るものすべて不可解

いつかふいに会えたりしてね炎天に一度蒸発したはずだけど

 一首めは風邪をひいたという内容の記事に、二首めは猛暑の日の日記が詞書的に添えられている。私は『耳うらの星』を強く推薦したいが、この人のエッセイは、学校の教科書の教材に使えるとずっと前から思っているのである。著者は、自分の心にうまれた興味や関心の動きを、上手にすくい取って文章にする技に長けているのだ。

〇木畑紀子著『曙光の歌びと―「桑原正紀」を読む』(短歌研究社)

 筆者は、桑原正紀が妻を介護するなかで詠んだ歌を、〈愛〉についての思想を表現したものとして読み取ろうとする。第一部は、歌人論と作品論であり、第二部は個々の作品鑑賞に当てられている。これだけすぐれた文章の書き手に選ばれた桑原は、幸せである。

 「桑原の妻の歌の数々を、介護詠という狭い範疇にくくるのはまちがっている、と私は思う。個の体験をとおして、現代に喪失された愛の本質を桑原は問うているのではないだろうか。」と言うのである。学園紛争を経験した世代のうちでも最も良質な人々が失わずに抱き続けている、魂の純粋な核のようなものの美しさを、木畑の文章に感じ取ることができる。

〇渡辺良著『バビンスキーと竹串』(かまくら春秋社)

 メディカルエッセイ集と副題がつけられているが、この本も木畑と同様に、自己の良心に忠実に従いながら職務を遂行してきた一人の医師の魂の記録である。書かれてある思想は具体的で、しかも病者に接する痛みを語る言葉に深みがある。作者の内省的な歌を知る者には、たまらなく魅力的な文集であるが、筆者は決して声高に語ろうとしない。ロンドンの地下鉄の車内でロシアの詩人マンデリシュタームの短詩に出会うエッセイなどは、二、三ページだけれども強烈な印象を残す。

〇菊地孝彦歌集『声霜』(六花書林)

 一九六二年生まれの著者の第一歌集である。仙台の人だ。高瀬一誌を師と思いながら歌を作ってきて、没後十年近く経って編んだものだという。高瀬を知る人には、あとがきに書かれている著者の心の動き方が、よくわかるだろう。

  盗人のごとく我が家に入り来ぬ寝息の傍をゆらめきながら

  堆き過去と現在に挟まれてセルロイド製下敷きのごとき現在

  感情といふはさびしき川にしてゆふぐれどきをこゑさかのぼる

  モノクロームのごとき日常などといふギャグみたいなことは言うてくれるな

 どれもうまい歌であり、これだけの作者がわざわざ進んで世の中に出ようとしないというのが、渡辺良も含めて、詩歌人というものの不思議な生態ではある。
    
〇染野太朗歌集『あの日の海』(本阿弥書店)

 島田修三の帯文には、「歌集の底を冷えびえとした水のように流れる静かないらだちと鋭利な批評」があると書かれている。デスペレートな気分をユーモアにまぎらわして自己戯画化する手つきが島田修三ばりで、おもしろく読める第一歌集である。
 
自らに溺れたときのあの寒さ原爆ドームの真上の空は

  教師にも入校証が配布され二学期 たしかに戦後を知らず

  馬跳びの馬になる夢見ていたと職員室で打ち明けられた

  「鬱王子」とぼくを呼びたる生徒らとセンター試験を解く夕まぐれ

 軽快な文体。「鬱王子」を救うのが無邪気な生徒達だというのは、わかる気がする。