さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

入沢康夫の詩「お伽芝居」を読む

2020年05月27日 | 現代詩
入沢康夫の詩「お伽芝居」を読む

この詩は、『「月」そのほかの詩』という1977年4月思潮社刊の詩集に入っているものだ。一行目の「槐樹」には、「ゑんぢゆ」と旧仮名遣いの振り仮名が付せられていることを先にことわっておく。

「お伽芝居」     入沢康夫
     1
槐樹の枝々に鈴なりになつてゐた
あの赤い天使たちは
どこへ飛び去つてしまつたのか?
父母の墓といつしよに
菫いろの帆布の中を漂ふ百あまりの
真新しい刈株
それから いきなり闇が落ちかかつて
最後の荷馬車が
打穀機の音を立ててあわただしく出発した時
頬のこけた少年は
ブリキの楽器の底から
旧い都市の見取図を発見する それから
ボール紙製の星と
縞蛇の抜け殻とを

〇解説
「槐樹の枝々に鈴なりになつてゐた」「あの赤い天使たち」を、七十年前後の日本の学生運動そのほかの高揚した思潮と重ねて読む。それから、現代の読者は、これを社会変革のために身命を賭して散っていった過去の「星」と重ねて読んでもおもしろいかもしれない。さらに現代社会にある別のものの比喩として重ねて読むのは、読者の自由だ。
今は、その「星」は「ボール紙製」のものとなっていて、荒廃した農村らしい場所に「縞蛇の抜け殻」と一緒に捨て去られている。一連のなかでは、「父母の墓といつしよに」「菫いろの帆布の中を漂ふ百あまりの真新しい刈株」だけが、みずみずしい。ただし、すでに「刈株」だ。すぐに「いきなり闇が落ちかかつて」きて荷馬車は出発してしまう。これがわれわれの世界なのだ。

     2
槐樹の枝々に鈴なりになつてゐた
あの天使たちは
どこへ飛び去つたか? どこへ?
ボール紙の星は 少年の夢の二重の鎖で宙に吊られ
そのま下の ごつごつした大地を
巨大な龍が這ひまはり
地平のあたりで
旧い都市の塔が 伸びちぢみを繰りかへしてゐた
やがて
菫いろの帆布の焼きはらはれる臭気の中を
少年も また 出発した
金属製の埃
その上に点々とつづく足あとは
半透明の龍の舌が舐めて
一つ一つ消してしまつた

〇解説
「少年」はアルチュール・ランボーを連想させる。「菫いろの帆布の焼きはらはれる臭気の中を」「少年も また 出発した」「金属製の埃」という詩句は、パリ・コンミューンの中に出かけて行った少年詩人ランボーと『地獄の季節』や『イリュミナシオン』の詩の文句を連想させる。そしてこれはランボーだけではなく、夢見るちからを持った無数の少年たちのことを思わせる。
「真新しい刈株」は、希望の色を帯びた「菫いろの帆布」とともに焼き払われてしまうのだが、これは社会的な圧力とか政治的な弾圧のようなものを示唆しているだろう。「旧い都市の塔が 伸びちぢみを繰りかへしてゐた」というのは、いかにも空想のように思えるかもしれないが、待てよ、現実に世界中にそういうビルがあったではないか。テロで消えたのもあるし、中にはおっちょこちょいにも自壊したやつまである。詩人の陰惨な「お伽芝居」語りの世界は、現実の世界に実現しているのだ。
そうして、「ボール紙の星は 少年の夢の二重の鎖で宙に吊られ」、「そのま下の ごつごつした大地を」「巨大な龍が這ひまは」っている光景は、実際に世界のどこかに存在しているのではないか。

    3
見取図はまさしく使ひ物にならなかつた
星はボール紙でしかなかつた 抜け殻も……
所詮抜け殻 (あの赤い天使は?)
今日 一人の中年男が
なまぬるい沈黙 こはれやすい孤独の中で
一人の少年の心臓をきざんで
薬草(心臓病の)といつしよに煮て食べてゐた
床にちらばつた柘榴の種の上にあぐらをかいて

〇解説
これは最終的な局面だ。「あの赤い天使」たちは飛び去ったまま、「少年の夢の星」も神通力を持たず、ニセモノの抜け殻と等しいものだったことがわかってしまった。「一人の中年男」は、「なまぬるい沈黙 こはれやすい孤独の中で」、自分自身の養生のために、「少年の心臓」を食ってしまう。「床にちらばつた柘榴の種」も赤い色をしていて血を暗示する。その「中年男」は、血の色の飛び散った上に「あぐらをかいて」、少年の心臓を食っているのだ!
この中年男には、多少作者の自己が投影されている気がしないでもないが、なんて感傷的な、ふてぶてしい野郎ではないか。こういう中年男の姿とともに、自分の内側に住むそうした安直な負け犬根性の精神を作者は斬っているのだ。それにしても、「あの赤い天使」はどこに飛び去ってしまったのだろう。いぶかしいことだ。

     4
金色の星が
低い丘の端に輝いてゐる
その上の上の空に
壮麗な都市が漂つてゐる
――けれども老人には それが見えない
一頭の龍が 老人の背後にゐて
優しく息を吐きかけて
老人の手足の冷えるのを
ふせいでやつてゐる(何のために?)
けれども老人には それが見えない
老人ばかりでなく
他の人々にもそれは見えない
よろよろ歩く老人の格好を
龍はいたづらつぽく真似たりする
(誰にも それは見えない!)

〇解説
幻影の都市は、壮麗なうつくしさで頭の真上の空にかかっている。これは、夕空の詩的な表現のようでもあり、まるで天国のようにも見えるが、やはりユートピア的なものを暗示しているだろう。そうして、「龍」は悪役ではなかった。先に登場したときに、龍の舌は、少年の足跡を舐めて「一つ一つ消して」くれていたのだった。今度は龍の親切は老人に向けられている。でもその龍の親切は、「老人」にも、人々にも見えない。おどけたユーモアの感覚まであるドラゴン!しかし、みすみす少年を死なせてしまった人々は、夢見る能力を失っている。だから、「見えない」。ヴィジョンはここでは失われている。

     5
(誰にも それは見えない!)
槐樹の枝々に
いつのまにか戻つて鈴なりになつてゐる
あの赤い天使たち以外には
それを見たものも 聞いたものもゐない

〇解説
椋鳥たちが夕べの枝に戻ってくるように、「槐樹の枝々に」「いつのまにか戻つて鈴なりになつてゐる」「赤い天使たち」には、それらの光景が全部見えている。龍にからかわれている老人や人々に見えないものも、見える。この天使たちは、いったい何者だろうか。
新しいものは古く、古いものは新しい。私はこの詩のアクチュアルな新しさに触れこの現在に生きる欝をいささか散ずるのみである。

秋山佐和子『豊旗雲』

2020年05月27日 | 現代短歌
  病棟の廊下の我の靴音を聴き分くるとふ夫へ急ぎぬ   

 歌集をめくって読み始めてから、だんだん本の残りのページが減っていくのがつらかった。あとがきは最後に読んだが、ステージⅣのがんを宣告されて最後まで仕事に生きようとした医師である夫の潔い生き方も、この歌集から伝わってくる。何よりも夫婦の愛情と思いやりに満ちたやりとりが、美化されるわけでもなくいたって自然に表現されている点に心をひかれた。

 集中には病人の食事にまつわる歌が多い。それがみんなおいしそうで、作者が夫とすごすこの幸せな時間が、少しでも長くつづいてほしいと思ったのだった。

  味噌味の鍋はしんからあたたまると卓を離れて二度もいふ夫

黒土に触るるばかりに育ちたるさやいんげん摘む午後のベランダ

コーヒーを淹れてくれたり点滴の管を抜かれて身を清めし夫

ここには引かないが、野菜ジュースの歌、スープの歌、おにぎりの歌など、平凡な厨歌が、いきいきとした表情と生の意味を語ってやまない。闘病する夫との生活という重たい内容を遅滞なく読み進めることができるのは、一つ一つの事象を抒情の羽根でくるむことができる作者の感性と、それを支えるすぐれた詩語の運用があるからだ。

 茜雲たなびく明日香の石舞台 成瀬有らの哄笑聞こゆ
 
バリケード築ける階に救ひくれし師の手の甲に滲む血忘れず
   ※師の岡野弘彦についての短文が付されている

 あとがきは短くすべし 編集者鷲尾賢也のますぐなる声
   ※作者自注 ――歌人小高賢は名編集者鷲尾賢也でもあった

 『三ケ島葭子全創作文集』編みしのち「少女号」なる資料に遇ひき

 亡き姉のこゑも交じれり青葉影さざめく路上の石蹴り遊び

 法隆寺展のみ仏に涙にじみしとふ友の文読みそのこころ思ふ

 鳴きいでてようしとをさむるつくつくを生のをはりのこゑと歌ひき
  ※「悼 藤井常世」と一連おわりの歌に下注のある一連から

うたえばおおかたが挽歌となるというのも、生きることに伴うかなしみの一つである。とは言いながら、成瀬有も小高賢も藤井常世もくっきりとしたその姿が記しとどめられているではないか。