さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

阿木津英『黄鳥』

2020年09月19日 | 現代短歌
阿木津英歌集『黄鳥』 (砂子屋書房刊・二〇一四年九月刊)

☆ 以下は角川「短歌」の書評で2014年11月に書いたもの。

 構築された言葉   

 詩歌は言葉によって作られるものだが、言葉によって生み出されたイメージが、或る質感を持って手渡されたとき、それは絵画や彫刻のような面的に構成され、または立体的に構築された表現となるのだということを、私は今度の阿木津の作品集によって改めて知らされた気がする。後記によれば、一巻にまとめられた作品のもととなったのは、先に刊行された『宇宙舞踏』と『巌のちから』の間の一九九二年~九九年までの歌群であり、それを「十年ばかり寝かせて澱を沈め、この数年の間に精製した」のが今回の歌集なのだという。

 ・否み、否み、否む炎にわがうたを突き入れては打ちにまた打つ

 この歌の鍛冶屋の炎という比喩は、壮絶ですらあり、そういう覚悟をのべるほどに作者の一人の追究への思いは熾烈である。

 ・吹き消すと炎ふくとき蠟燭の炎にちからありて波だつ 

 五・七調をベースとしながら、初句から二句目への掛かり方が力強く、さらに三句・四句を続けたあとの「炎にちから」という小休止で息を吸い込んでから結句に及んでゆく声調は、本物の短歌を読む喜びを与えてくれる。

 ・鉄骨をさしあげて組む天蓋はガラスに雨のしづくをつたふ 

 ・造り作す空間ふかき底ひにはひとらうごめく寒ざむとして
   ※「作」に「な」る振り仮名


 ・建築群そのうへに照る黄金の日を口をすぼめて吸ひ込みにけり
   ※「黄金」に「きん」と振り仮名


 都市の風景である。昨今の新しい駅の設計で目立つのは、天蓋が高く引き上げられた大きなドームのような空間である。右の一、二首目では、そこに居る人の姿を描きながら、そういう光景に向き合う人びとの心情も「寒ざむと」したものとして己を投影しつつ定着してみせた。三首めも見慣れた光景のようでありながら、重厚な擬人法の描写によってビル群と日輪が、奇跡のような物質性を獲得しながら一回性をもって現前している。

 ・空窄くそばだつ壁に水けぶり吹きなびきつつ滝の水落つ  
※「窄」に「せま」と振り仮名

・伐り口に楚の枝の噴き出でて垂りてぞ揺らぐ錺のごとく  
※「楚」「すはゑ」、「錺」に「かざり」と振り仮名

こうした言語美の粋のような作品に接するとき、一首の彫琢に賭ける作者の意志を感じる。そこに自由で活動的な批評する精神があるのだということが、読むうちに自ずと了解される。

雑記 「ぶあいそうな手紙」そのほか

2020年09月19日 | 映画
 八月から九月のはじめにかけての猛暑の日々に、仕事から帰るとひと風呂浴びてから缶ビールをあけると、手元の本を読んでいるうちにそのまま寝てしまい、二時間ほどして起き直ると布団を敷いてまた寝てしまうというようなことの繰り返しで、空いた時間は依頼原稿をまとめるだけで精一杯という感じだったから、ブログの更新が滞ったのは、ひとえに猛暑日のせいである。というのでもなく、ここしばらく急に涼しくなってからも同じようなことをやっているので、何とか態勢を立て直さなければいけないのだけれども、書こうと思う本はたまる一方で、手がつかないままである。

 そういう日々のなかで一度だけ、映画を見に行った。邦題「ぶあいそうな手紙」というブラジル映画で、原題は「エルネストの目には」というタイトルの孤独な老人が主人公の映画である。銀座でやっていたのが本厚木に来ているというから、友人に会いがてら見に行った。

声を出して手紙を読む、ということを通して話のすじが展開してゆくのだが、その中で手紙の書き出しをどういう表現にするかが、その後のドラマの展開にとって決定的な影響力を及ぼしてゆくところがおもしろかった。手紙の言葉が、人の運命を変えてゆくのである。その手紙の返事の書き出しの表現を変えることを提案する女の子は、おしまいに老人の運命を動かしてしまう。

ウルグアイと接するブラジルの南端の街に住むウルグアイ出身の主人公は、スペイン語で手紙を読み書きする。ブラジルの公用語はポルトガル語だから、目の悪い主人公を助ける女の子はポルトガル語のネイティブである。でも、ふたつの言語は類縁性があるので、だいたいのところは通じ合うらしい。関西弁と東北弁の違いぐらいというようなところだろうか。身振りと表情が入ればだいたいのところは通じるわけである。主人公はブラジル暮らしが長いから、普通にポルトガル語はできる。けれども、結局母語の国はウルグアイなのだろう。加えて、私はあまりくわしくないから何とも言えないが、映画のなかに流れる有名な音楽家による楽曲にも、私には読み取りきれなかった深い含意があるようである。

人間は、最後は母語の国に戻りたいと願う。そういった老年の終着する場所についての問いかけのようなものを含んだ映画であった。作品のラストシーンは、たとえて言うなら放蕩息子の帰還の抱擁の図なのである。死が、そのようなものとしてある、というキリスト教文化圏の人の抱く原型的な願望の図像というものは、あれなのだと思った。

翻って日本の場合はどういう図柄だろうか。やはり、阿弥陀如来来迎図なのではないだろうか。

 ついでに書いておくと、老いの果てに、「死は前を向いていてほしい」と願う歌を残した岡井隆の最期に見えていたのは、愛妻の顔だったという。ここには引かないが、「未来」の選歌後評に、さいとうなおこさんが書いた訪問記を読んで、なんとなく救われた気がしたのだった。

☆これもついでに。当方は、この三ケ月間、本阿弥書店刊の「歌壇」という短歌の雑誌の9、10、11月号に4ページの「作品月評」を掲載したので、当方のブログからさらに何か読んでみたいと思われた方は、そちらをご購入ください。何年間はこのブログに掲載したりしませんし、なかなか特集にいいものが多いので、短歌専門でない方にもおすすめできます。