ここで引くのは、沼野充義の『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』という本についての山崎正和の書評文である。
「演劇には舞台というものがあって、物語はその上で直接に見える場面と、舞台裏で起こってせりふで伝えられる伝聞に分けられる。じつはチェーホフは恐るべきメロドラマ作家であって、どの戯曲にも熱愛、失恋、不倫、挫折、破産、自殺、決闘を装った自殺などが目白押しに現れる。だがそれらはすべて舞台裏で発生し、舞台上は機知と倦怠の漂う優雅なせりふが満たしている。「すだれ越しのメロドラマ」と呼びたくなる構造だが、これがチェーホフ劇の真骨頂なのである。
こういうものの見方をする人には照れ性が多いが、沼野氏が発見するチェーホフ像はそのことを裏付づけている。」
こういうことを最初に教わっていたら、私のこれまで何十年の失敗はなかったろうと思うのであるが、もう遅い。戯曲『世阿弥』が受賞したことがきっかけになって論壇に出たという人だけあって、この短いチェーホフについてのコメントの平易かつ深長な的確さには頭が下がる。
「演劇には舞台というものがあって、物語はその上で直接に見える場面と、舞台裏で起こってせりふで伝えられる伝聞に分けられる。じつはチェーホフは恐るべきメロドラマ作家であって、どの戯曲にも熱愛、失恋、不倫、挫折、破産、自殺、決闘を装った自殺などが目白押しに現れる。だがそれらはすべて舞台裏で発生し、舞台上は機知と倦怠の漂う優雅なせりふが満たしている。「すだれ越しのメロドラマ」と呼びたくなる構造だが、これがチェーホフ劇の真骨頂なのである。
こういうものの見方をする人には照れ性が多いが、沼野氏が発見するチェーホフ像はそのことを裏付づけている。」
こういうことを最初に教わっていたら、私のこれまで何十年の失敗はなかったろうと思うのであるが、もう遅い。戯曲『世阿弥』が受賞したことがきっかけになって論壇に出たという人だけあって、この短いチェーホフについてのコメントの平易かつ深長な的確さには頭が下がる。