つづけてジャック・ロンドンの短編集をかりてきた。『ジャック・ロンドン幻想短篇傑作集』(2008年彩流社)で、最初の「夜の精」という作品を今日読んだが、語り手の年配の男に対する描写が、なかなか手厳しい。
「我々は彼の白髪まじりの口髭、頭の禿げた部分、目の下の膨らんだたるみ、だらしなく垂れた頰、かさばった喉肉を見た。そして全体に漂う倦怠感と生気のなさと肥満。こういったものはすべて、かつては強壮な身体の持ち主だったものの、すっかり衰えてだいなしになってしまった男の特徴だった。あまりに安楽な恵まれた生活をしてきたのである。」
ロンドンの生きた時代の四十七歳であるから、日本なら人生五十年と言った時代の年齢と言ってよいだろう。今日の日本なら、五十代後半から六十歳台というところだろうか。ロンドン自身は過度な飲酒もたたって1916年に四十歳で亡くなっている。『ジョン・バーリコーン』という現代教養文庫に入っていた豪快な酒飲み失敗談も読んだことがある。バーりコーン、というのはトウモロコシの酒の神様で、ようするにバーボンをがぶ飲みしたのだな。江戸っ子のように水で薄めて飲まされる環境なら死なないですんだのかもしれない。何となくロック・シンガーのような雰囲気を持っている作家である。
この小説にはソローの名前が出て来て、主人公が辺境で出会ったという、インディアンの間で孤高の女酋長をつとめている美しい白人女は、ソローの著書の一節を小さく折り畳んだ紙片を大切に持っていて、語り手にそれを示し、「この人と結婚したいの」と言うのである。その女性に、あなたを見込んだので、私とどう?と言われるのだが、語り手の男はその申し出を断ってしまった。ああ、あの時に断らなかったなら。今のくすんだ人生は無かったものを!
というような小説を書いた男は、四十歳で短い人生を駆け抜けた後姿が、いまも燦然と輝いている。
その昔、河島英五の「三十になったら、わたし死にまっすうー」という歌が南こうせつのかたる深夜のラジオ番組で流れてきた時代があった。私は夭折願望というようなものが一部の文学青年や芸術青年や過激な政治青年たちの間で流行した時代を直接には知らない。たとえば三島由紀夫の死は、何よりもそういうメンタリティーに対して強烈に訴えるものがあったと思う。
いまの私には、三十になってもまるで大人になりきれなかった自分の無残なほどの青臭さを思い出すとともに、自分より年上の世代の人たちとの大きなズレを感じてしまう。私は「新人類」などと呼ばれた世代の一人であるが、何か未熟なままで酔生夢死ではないが、うかうかと年月をすごして来てしまったような気がしてならない。さらに言うと、大学卒業の年齢にあたる同じ二十二、三歳なら、いまの若者たちの方が、よほど老成しているように感ずることが多い。強いて長所を言うなら、八十年代に青年期を過ごした者はどこかのほほんとした人の良さのようなものがあると、私なりに感ずるところがある。しかし、三十代なんてヒヨッコみたいなもので、その歳できれいにカッコよく死にたいなんて、とても言えた義理ではなかったし、またそんな勇気、蛮勇、それを後から押して来るような時代の力も無かった。
私らの世代は、とあえて言うが、自己伝説化、自己劇化が似合わない世代である。お気楽に、ラクチンに生きてきてしまっているために(前後の世代とくらべて相対的に、という意味においてである。むろん、言い知れぬ苦労を積んだ人が大勢いるということも知っているのだが)、その上で、やっぱり大きく言うと、苦労話が似合わないのである。戦争体験世代が、生きて帰って来てから、どうしてもこれは書いておかなくては、と思って書いたような切迫した動機というものに乏しいのだ。これは時代というものだから、仕方がない。だから、回想することがいけないと言うのではなく、回想を語るには、ロンドンの小説の主人公のような後悔が、さらには酒の席でなければ語れないかもしれないような恥じらいが少しは必要なのではないかと時に思うことがあって、そこで自分の今の年齢を思い合せると、何だか暗いなあ、くらい。それに比べて、ロンドンの書き物には、すっきりとしたユーモアと威勢の良さがあって、端的に言うなら、みごとに吹っ切れているのだ。
世の中には、こういう方面のユーモアや気概のニュアンスのわからない人がけっこうたくさんいて、私は常々そういう人たちを見たり、またはそういう人の書いたものを読んだりするにつけ、犬の糞みたいなやつ!と思うのだけれども、そういうのに限っていつまでも私怨を忘れず、いじましく立ちまわって、陰でこそこそやっていたりする。中には新聞のコラムに書いてしまったりするすごい人もいて、おいおい、公器で私憤を晴らそうとするなんて、小学生以下だぞ、と思ったりしたことがあるが、どうも私の世代以降が、そういうことに緩(ユル)いうえに、下の世代に悪い影響を及ぼして来たのではないかと思うのである。基本的に、そういうメンタリティーは、よほど暇(ヒマ)でないと培われないものなのだから、簡単にいうと、ろくに仕事もしないで文句ばっかり言っているような奴には気をつけろ、または、そんなやつ相手にするな、ということを、年長者たちはそれを人生訓として有望な後輩には常々語っていたと思うので、おしまいに思い起こして書いておく。
何でこんなことを書きはじめたのかなあ、と考えてみると、そう言えば昨日もう一冊読んだのが、高橋順子の『夫・車谷長吉』だった。私は車谷の小説は一時期、文芸誌初出で追いかけていた時期がある。作者自体は、アクの強い、風変わりな、困った人だったと思うけれども、どうしても憎めないのである。インテリの上昇志向と下降志向を同時に体のなかに抱え込んだまま自爆したようなところがあって、なかなか壮烈な生き方を徹底した。鏡として三島由紀夫を置いてみるとわかるような気がするのだが、車谷長吉は、劣等感を三島のように格好良く打ち返すことができなかった。できないが故に、独自に醸成した被害者意識と恥辱感を梃子にして育て上げた倫理観を空中楼閣のように打ち建てて、その砦から間欠泉的に躍り出て、底に秘めた激情を居合抜きの気合いで「日本的世間」に向けて発出してみせていた。そういう意味ではとことん日本人的でもあった。短気短慮の暴発型である。これは比喩的に言うのだが、全共闘的な精神のいい所も悪い所も戯画に近い所まで煮詰めたら車谷長吉になるような気がする。そういう意味では、どこかで戦後の一時期の時代精神を体現していた。そうして身をもって贖(あがな)っていたところがある。だから、生傷に塩を塗り込むような書き物でなければ書けない、というところに、彼の考えるブンガクの理想があった。そういう意味では、平野謙の言葉をかりると「血を流して」書いていたのである。
「我々は彼の白髪まじりの口髭、頭の禿げた部分、目の下の膨らんだたるみ、だらしなく垂れた頰、かさばった喉肉を見た。そして全体に漂う倦怠感と生気のなさと肥満。こういったものはすべて、かつては強壮な身体の持ち主だったものの、すっかり衰えてだいなしになってしまった男の特徴だった。あまりに安楽な恵まれた生活をしてきたのである。」
ロンドンの生きた時代の四十七歳であるから、日本なら人生五十年と言った時代の年齢と言ってよいだろう。今日の日本なら、五十代後半から六十歳台というところだろうか。ロンドン自身は過度な飲酒もたたって1916年に四十歳で亡くなっている。『ジョン・バーリコーン』という現代教養文庫に入っていた豪快な酒飲み失敗談も読んだことがある。バーりコーン、というのはトウモロコシの酒の神様で、ようするにバーボンをがぶ飲みしたのだな。江戸っ子のように水で薄めて飲まされる環境なら死なないですんだのかもしれない。何となくロック・シンガーのような雰囲気を持っている作家である。
この小説にはソローの名前が出て来て、主人公が辺境で出会ったという、インディアンの間で孤高の女酋長をつとめている美しい白人女は、ソローの著書の一節を小さく折り畳んだ紙片を大切に持っていて、語り手にそれを示し、「この人と結婚したいの」と言うのである。その女性に、あなたを見込んだので、私とどう?と言われるのだが、語り手の男はその申し出を断ってしまった。ああ、あの時に断らなかったなら。今のくすんだ人生は無かったものを!
というような小説を書いた男は、四十歳で短い人生を駆け抜けた後姿が、いまも燦然と輝いている。
その昔、河島英五の「三十になったら、わたし死にまっすうー」という歌が南こうせつのかたる深夜のラジオ番組で流れてきた時代があった。私は夭折願望というようなものが一部の文学青年や芸術青年や過激な政治青年たちの間で流行した時代を直接には知らない。たとえば三島由紀夫の死は、何よりもそういうメンタリティーに対して強烈に訴えるものがあったと思う。
いまの私には、三十になってもまるで大人になりきれなかった自分の無残なほどの青臭さを思い出すとともに、自分より年上の世代の人たちとの大きなズレを感じてしまう。私は「新人類」などと呼ばれた世代の一人であるが、何か未熟なままで酔生夢死ではないが、うかうかと年月をすごして来てしまったような気がしてならない。さらに言うと、大学卒業の年齢にあたる同じ二十二、三歳なら、いまの若者たちの方が、よほど老成しているように感ずることが多い。強いて長所を言うなら、八十年代に青年期を過ごした者はどこかのほほんとした人の良さのようなものがあると、私なりに感ずるところがある。しかし、三十代なんてヒヨッコみたいなもので、その歳できれいにカッコよく死にたいなんて、とても言えた義理ではなかったし、またそんな勇気、蛮勇、それを後から押して来るような時代の力も無かった。
私らの世代は、とあえて言うが、自己伝説化、自己劇化が似合わない世代である。お気楽に、ラクチンに生きてきてしまっているために(前後の世代とくらべて相対的に、という意味においてである。むろん、言い知れぬ苦労を積んだ人が大勢いるということも知っているのだが)、その上で、やっぱり大きく言うと、苦労話が似合わないのである。戦争体験世代が、生きて帰って来てから、どうしてもこれは書いておかなくては、と思って書いたような切迫した動機というものに乏しいのだ。これは時代というものだから、仕方がない。だから、回想することがいけないと言うのではなく、回想を語るには、ロンドンの小説の主人公のような後悔が、さらには酒の席でなければ語れないかもしれないような恥じらいが少しは必要なのではないかと時に思うことがあって、そこで自分の今の年齢を思い合せると、何だか暗いなあ、くらい。それに比べて、ロンドンの書き物には、すっきりとしたユーモアと威勢の良さがあって、端的に言うなら、みごとに吹っ切れているのだ。
世の中には、こういう方面のユーモアや気概のニュアンスのわからない人がけっこうたくさんいて、私は常々そういう人たちを見たり、またはそういう人の書いたものを読んだりするにつけ、犬の糞みたいなやつ!と思うのだけれども、そういうのに限っていつまでも私怨を忘れず、いじましく立ちまわって、陰でこそこそやっていたりする。中には新聞のコラムに書いてしまったりするすごい人もいて、おいおい、公器で私憤を晴らそうとするなんて、小学生以下だぞ、と思ったりしたことがあるが、どうも私の世代以降が、そういうことに緩(ユル)いうえに、下の世代に悪い影響を及ぼして来たのではないかと思うのである。基本的に、そういうメンタリティーは、よほど暇(ヒマ)でないと培われないものなのだから、簡単にいうと、ろくに仕事もしないで文句ばっかり言っているような奴には気をつけろ、または、そんなやつ相手にするな、ということを、年長者たちはそれを人生訓として有望な後輩には常々語っていたと思うので、おしまいに思い起こして書いておく。
何でこんなことを書きはじめたのかなあ、と考えてみると、そう言えば昨日もう一冊読んだのが、高橋順子の『夫・車谷長吉』だった。私は車谷の小説は一時期、文芸誌初出で追いかけていた時期がある。作者自体は、アクの強い、風変わりな、困った人だったと思うけれども、どうしても憎めないのである。インテリの上昇志向と下降志向を同時に体のなかに抱え込んだまま自爆したようなところがあって、なかなか壮烈な生き方を徹底した。鏡として三島由紀夫を置いてみるとわかるような気がするのだが、車谷長吉は、劣等感を三島のように格好良く打ち返すことができなかった。できないが故に、独自に醸成した被害者意識と恥辱感を梃子にして育て上げた倫理観を空中楼閣のように打ち建てて、その砦から間欠泉的に躍り出て、底に秘めた激情を居合抜きの気合いで「日本的世間」に向けて発出してみせていた。そういう意味ではとことん日本人的でもあった。短気短慮の暴発型である。これは比喩的に言うのだが、全共闘的な精神のいい所も悪い所も戯画に近い所まで煮詰めたら車谷長吉になるような気がする。そういう意味では、どこかで戦後の一時期の時代精神を体現していた。そうして身をもって贖(あがな)っていたところがある。だから、生傷に塩を塗り込むような書き物でなければ書けない、というところに、彼の考えるブンガクの理想があった。そういう意味では、平野謙の言葉をかりると「血を流して」書いていたのである。